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大そうじへの備え
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公のメディアで発言する以上、私の主張に対して批判があるのは当然である。しかし、根拠のない言いがかりには反論しなければならない。 このところ、政府が研究者に交付する科学研究費について、杉田水脈、櫻井よしこ両氏など、安倍政権を支える政治家や言論人が、「反日学者に科研費を与えるな」というキャンペーンを張っている。私は反日の頭目とされ、過去十数年、継続して科研費を受けて研究をしてきたので、批判の標的になっている。 櫻井氏は科研費の闇という言葉を使っているが、闇などない。研究費の採択は、同じ分野の経験豊富な学者が申請書を審査して決定される。交付された補助金は大学の事務局が管理して、各種会計規則に従って、国際会議の開催、世論調査、ポスドクといわれる若手研究者雇用などに使われる。今から十年ほど前には、COEと呼ばれる大型研究費が主要な大学に交付されたので、文系でも億単位の研究費を使う共同研究は珍しくなか
安保法制に関する反対意見 山口二郎 1 戦後70年の中に安保法制を位置づける 今年は戦後70年の節目の年であり、日本の来し方行く末を考える重要な機会なので、まず安保法制を戦後日本の歩みの中に位置づけ、その意味を考えてみたい。 戦後日本の国の形が大きく変化した契機は、1960年のいわゆる安保騒動、あるいは闘争であった。当時の岸信介首相は憲法、特に9条を改正して国軍を持つことを宿願としていた。そのための第1歩として、安保条約の改定を図った。これに対して、空前の規模の抗議活動が起こり、数十万の市民が国会や首相官邸を取り巻いた。当時の人々が新安保条約を理解していたかどうかはともかく、人々は岸首相が体現する戦前回帰、戦後民主主義の否定という価値観に反発して未曽有の運動が起きた。安保条約自体は衆議院の可決により承認されたが、岸首相は退陣を余儀なくされた。 自民党はこの騒動から重要な教訓を学び取った。憲
安保法制のずさんさが露わになり、政府与党も焦っているようだ。憲法学者の意見発言に腹を立てたのか、高村自民党副総裁が、憲法学者は憲法の字面に拘泥するとか、学者の言うとおりにしたら平和は保てるのかと、八つ当たりを言っている。学者に喧嘩を売るなら、喜んで買ってやる。 憲法学者が憲法の言葉にこだわるのは、数学者が「1+1=2」という論理にこだわるのと同じくらい当たり前の話である。高村氏は、権力者の意向で1+1が3にでも4にでもなる独裁国家を作りたいのか。 私は、学者の言う通りにすればみんな幸せになるなどと、驕ったことは言わない。しかし、戦後日本でも、学者が法理に照らして為政者に批判を加えてきたからこそ、為政者は自分たちのやり方を考え直した。憲法9条の下で専守防衛、集団的自衛権不行使などの平和国家路線は、そのようにして生まれたのである。学者が権力への批判をしなかったら、日本はまったく別の国になってい
昨日、シアターキノで、映画『ハンナ・アーレント』の試写を見た。 深く考えさせらえる秀作である。 この映画は、彼女の『イェルサレムのアイヒマン』をめぐる葛藤を描いている。 今年の講義や最近出した教科書でも、アイヒマン問題は結構力を入れて話したので、余計感銘を受けた。 そして、最近『東洋経済』に書いた時評でも、この問題に言及している。 ちなみに、きのう一緒に試写を見た吉田徹氏によれば、鈴木寛さんが熟議に最もなじもうとしない困った人間類型として、「アイヒマン的中間管理職」という言葉を使っているそう。東洋経済の読者にはどれくらい伝わったのだろうか。10月31日記 10月15日からようやく臨時国会が始まる。福島第一原発をめぐる様々な難問の処理、消費税率引き上げに伴う社会保障と経済対策、TPPをめぐる対応など、政策面では日本の命運を左右する重要課題が山積している。野党の奮起で議論を深めてほしいというの
今回の選挙のテーマは、野田佳彦首相が解散を行ったのだから、一義的には過去3年余りの民主党政権の成果を問うということになる。しかし、野田首相自身が解散に至る手順の中で選挙の争点、対決構図を設定することに失敗し、ほとんどのメディアもピント外れの報道を繰り広げることによって選挙の意義をわかりにくくした。今更の感はあるが、この点は記録にとどめておきたい。 11月14日の党首討論で野田首相が16日の解散を明言したのは、確かにハプニングであり、安倍晋三総裁がたじろいだのも事実である。しかし、翌日の朝刊の一面で、「一発で倒す」とか「虚をつく」といった見出しが躍り、野田首相のパフォーマンスをたたえる記事が並んだことは、私にとって理解不能だった。日頃は現役記者のふがいなさを批判する口うるさいOBたちが出している「メディアウォッチ100」というメールマガジンでも、野田の役者ぶりに拍手を送っていた。だから、この
マニフェストをめぐってまたしても民主党内で対立が起こっている。岡田幹事長がマニフェストの不備を野党に詫びた。この光景を見て、私は情けないやら腹が立つやらで、政治家たる者もっと誇りを持って欲しいと思った。マニフェストが間違っていたなら、2年前の政権交代も間違っていたと言うことになる。 もちろん、マニフェストは金科玉条ではない。中には高速道路の無料化のように、無理筋の政策もある。しかし、民主党は最後までマニフェストの基本精神は間違っていないと主張し続けなければならない。目指すべき日本社会の姿を明らかにした上で、政策の優先順位をつけ、必要な財源の確保について国民と相談するという姿勢を取るべきである。 野党は子ども手当と高校無償化を目の敵にしているが、それは野党が政権を取ってから実現すればよい。民主党は子育てや教育に対して社会全体で責任を持つという原則を堅持しなければならない。 自民党のバラマキ批
大賛成です。いつとは知れない原発の収束に向けて 懸命にやっている中で、東電の権益を守り続ける作業が着々と進行しているように見えるこのごろです。 東電は会社更生法の倒産だと思います。いま倒産して原発の収束をやらないでは困りますが。 儲かる時は私企業、補償できなければ税金では虫がよすぎます。現在や以前の会社経営陣の責任を追及して責任が徹底的に問われるということにならないと、他の電力会社も安全策を徹底的に行うことにならないでしょう。 ”もともと原発はその危険性と捨てられない廃棄物の処理(捨てられない、どこにも持っていけないことはこの事故で周知のこととなりましたが)まで考えた時、発電コストははるかに高く、経済性がないものだ”と常々考えてきました。 コスト計算が間違っていたのです。 こんにちは >発電コストははるかに高く、経済性がないものだ”と常々考えてきました。 原発が結果的にコスト高だということ
原発事故は、学問と学者の責任を問うている。多くの学者は電力会社と一緒になって、今回の地震、津波は想定外だったと言い訳している。しかし、それは嘘である。故高木仁三郎氏を始めとして、原発の危険性について学問的に指摘した学者もある程度存在した。にもかかわらず、主流派の学者はそうした議論を無視し、危機を想定しようとしなかっただけである。 特定の業界の権益を擁護する政治家を族議員と言うが、学者にも族学者が存在する。原子力の世界はその典型である。彼らは真理の探究という学者の責任を捨て、特定業界の利益追求にお墨付きを与えてきた。近年の大学では、研究費をくれるスポンサーに尻尾を振るという幇間体質が一層強まっている。 事故の教訓は明確である。原発事故を契機に、政官業学の鉄の四角形を解体すること。そのために、特定分野の政策を検討する審議会には、必ず異なった立場の専門家を入れて、実質的な議論をすることが不可欠で
はじめに 二〇〇九年九月の政権交代が日本の政治史の中で画期的な意味を持つことは、どれだけ強調しても、誇張にはならないであろう。政権交代によって始めて可能になった情報公開、政策転換もいくつか達成された。社会福祉政策の拡充、事業仕分けによる官僚の既得権への切り込みなどは、自民党政権では思いつかれもしなかったろう。これらの政策や改革の意義はきわめて大きいことを、ここで改めて確認しておきたい。鳩山政権がどんなに落ち目になっても、政権交代は日本政治にとって画期的な意味を持っていた。 もちろん、鳩山政権のリーダーシップの弱さ、政治家たちの脆さ、政権運営をめぐる戦略の欠如などによって、千載一遇の好機を逃したという悔いは大きい。しかし、今必要なことは、政権の欠陥やリーダーの質の悪さをいたずらに嘆くことではない。この政権交代が何を目指すべきであったのかをもう一度確認したうえで、本来の目的を達成できなかった理
菅政権に対して、自民党や右派メディアは「左派政権」という非難を浴びせている。私などは、当節の勉強不足の政治家や評論家は左派とは何かを知らない、こんな政権はまだ左派性が足りないと思うのだが、菅直人がいかなる意味の左派かを考えることは、この政権の特徴を捉えるための重要な切り口である。 菅はその出自からして、確かに左派的イメージを持った政治家である。権威主義を排して対等な個人同士が自由意思で結合する市民社会を志向するという点、市場経済の行きすぎを政府の力で是正し人間の尊厳を確保しようとするという点の二つにおいて、菅の主張は左派的である。こうした思想は現在の日本にとってきわめて必要なものであり、左派と言われても何ら恥じることはない。しかし、日本では左派というと現実を見ない夢想主義、政治の複雑さに耐えられない単純思考という響きもある。最近では、こうした特徴は連立離脱の際の社民党にも発揮された。 ヨー
平沼・与謝野新党の結成で、自民党の解体は一層加速された観がある。他方、五月末とされる普天間基地移設問題の決着期限が迫るにつれ、鳩山政権の混迷も深まっている。昨年の総選挙では二大政党時代の到来とも言われたが、むしろ二大政党を含めた政党政治の融解現象が進んでいるのかもしれない。 自民党はまさにアイデンティティ・クライシスにのたうち回っている。自民党は冷戦構造の中で、日本を西側につなぎ止めるために権力を保持してきた。辻井喬氏が最近上梓した大平正芳の伝記小説『茜色の空』(文藝春秋)を読めば、今から三〇年ほど前には冷戦構造の動揺や資本主義の爛熟の中で保守政治を再定義しようとした政治家もいたことが分かる。しかし、八〇年代以降の革新勢力の衰退の中で、保守政治家からはそのような問題意識が消えていった。この二〇年ほどは、自民党は長年権力の座にあったが故の、ひときわ鋭い政治的動物としての本能によって、どうにか
内閣支持率の大幅な低下、地方選挙の敗北など、民主党への逆風が強まっている。政権が危機を迎えると、人気を取ろうとする悪あがきが始まる。しかし、その様な人気取りの魂胆は見え透いたものであり、かえって政府与党に対する不信感を強める。 たとえば、高校授業料無料化について、中井拉致問題担当大臣が、朝鮮人学校を除外すべきと発言したと伝えられている。北朝鮮に対する強硬姿勢をアピールして、ナショナリズムという安易な手段に訴えようという浅はかな目論見である。この記事を読んで、私は怒るというより、悲しくなった。政府が率先して差別を推進しようというのか。拉致問題の追及とさえ言えば、罪のない生徒たちを迫害してもよいと考えているならば、まさに人間失格である。このような不見識な政治家を抑えられないならば、鳩山首相も政治家失格である。 私は先日、映画「インヴィクタス」を見た。南アフリカでアパルトヘイトが廃止されたのち、
石川知裕代議士が逮捕された翌日、鳩山由紀夫首相が小沢一郎幹事長に「戦ってください」と述べた。もし、小沢に何のやましいこともないならば、民主政治を守るために戦うことこそ必要である。しかし、この戦いの意味づけを誤れば、最初から勝ち目のない戦いに突入し、玉砕するという悲惨な結末が見えている。小沢が転べば民主党政権が倒れ、民主党政権が瓦解すれば日本の民主政治が再び混迷に陥る。小沢および民主党の首脳には、十分な戦略を練った上で戦いに臨んでほしい。 小沢が検察と裁判闘争を戦うと考えているとすれば、それは最悪の錯誤である。仮に最終的に無罪を勝ち取ることができるとしても、それまでの長い戦いの中で民心は民主党を離れ、政党政治はあてどのない漂流をつづけるに違いない。それは、政権交代に希望を託した国民にとって、迷惑千万な話である。 今回の戦いは、あくまで政治闘争である。裁判闘争では、挙証責任は検察が負う。検察が
石川知裕代議士が国会開幕直前に逮捕された事件には、私も仰天した。政治資金収支報告書の不備くらいで国会議員を逮捕するなど、非常識な話である。検察のねらいは、ゼネコンからの裏金の流れを裏付ける自白を取ることなのだろう。これまでマスメディアが伝えてきた疑惑が本物かどうか、私にはまだ判断ができない。 ただ、小沢一郎幹事長の対応には不満がある。幹事長を一時休職し、裁判闘争に専念するとのことだが、そこで言う検察との闘いとは何なのだろう。ことは法律問題ではなく、政治闘争である。法律闘争ならば検察が立証責任を果たさない限り自分は潔白だと主張すればよいのだが、政治闘争においてそんな呑気なこと言っていては負けてしまう。 この政治闘争は、国民が小沢と検察のどちらを信用するかという闘いである。この闘いに勝つためには国民の信頼を勝ち取ることが不可欠である。そのためには、小沢は土地購入に関する資金の流れにやましい点は
○公述人(山口二郎君) 山口でございます。 今日は、こういう機会を与えていただきまして、まずお礼を申し上げます。 私は、行政学、日本の官僚機構について勉強してまいりましたので、全般的な政策決定の在り方について意見を申し上げたいと思います。あとはお手元のレジュメ、資料に沿いましてお話をいたします。 二月の中旬にちょっとアメリカに行ってまいりました。ちょうどオバマ政権の最初の課題であります経済対策法案の議会審議をしている真っ最中でありました。そこでの議論を聞いておりまして、日本人として誠に情けないというか、ある意味では興味深い議論を目撃いたしました。 そこにありますように、オバマ大統領は日本の経済対策はツーリトル・ツーレートであったゆえに我々はその轍を踏まないと言って、日本円にして数十兆円単位の大規模な財政出動を行うということを主張いたしました。これに対して野党共和党の方は、一九九〇年代の日本
・モデルチェンジできなかった自民 山口 自民党新総裁に麻生さんが選ばれましたが、安倍さん福田さんと続けて一年足らずで政権を投げ出してしまうというのは尋常ならざる事態で、自民党の統治能力は危機的状況にあると評価せざるをえません。なぜこんなことになったのか? やはり小泉―竹中路線の遂行によって、自民党は本丸から壊されたのだと思います。 竹中さんが司令塔になって、郵政民営化に象徴される構造改革を断行した。当然それは支持基盤の再編成を伴うもので、何よりも政治家の頭の中を入れ替える作業が必要でした。その方向に党全体がモデルチェンジできていれば、それはそれで生きる道だったはずです。ところが、簡単には変われなかった。多くの自民党議員は「人気にあやかろう」という程度の認識だったのに、小泉さんが予想外に力を持って本気で規制緩和をやり出した結果、自らの地盤がどんどん掘り崩されていくわけです。そのことに対する危
社会学者の山田昌弘氏が希望格差社会という本を出したのは4年前のことである。この本を最初に読んだときには、ネーミングのうまさに感心したが、事態はそんな悠長な感想を述べる段階ではなくなった。 希望格差を放置するとどんな社会が出現するのか、最近の若者による無差別殺人事件が教えている。犯罪を正当化するつもりは毛頭ないが、自分には希望があるからと希望を失った他人を放置すれば、自分にも累が及ぶかもしれない。本当の社会秩序は、みんなが希望を持つことによって確立される。 7月23日のNHKニュースは、約10%の高校生が授業料免除を受けており、首都圏の高校では新入生の半分が学費を払えないために退学するところもあると報じていた。この事実は、2つの意味で衝撃的である。中等、高等教育は自己実現のために不可欠の前提である。高校中退では低賃金の仕事にしかつけない。また、学校こそ若者が人間関係を築く最良の場である。学校
転換期という言葉はいつの時代にも使われてきた。昔の雑誌を読んでいると、今から思えば高度経済成長の黄金時代であった一九六〇年代半ばでも、「転型期」という言葉が盛んに使われていた。現状に満足する人は不確かな未来への不安ゆえに、現状に不満を持つ人はよりよい将来への希望ゆえに、それぞれ変化や転換という言葉で同時代を捉えるのであろう。 とはいえ、今は日本の政治にとってかつてない本当の転換期だと私は考えている。それを一言で表せば、自民党という政党が日本を支配することが当たり前であった時代が終わろうとしているということである。福田政権の支持率は二〇%前後を低迷しているが、より重要なのは政党支持率である。今までも一時的に野党の支持率が上昇することはあったが、選挙のない平常時に与野党の支持率が拮抗することはなかった。昨年の参議院選挙以来一年間、自民党と民主党の支持率が一貫して拮抗し、時によっては民主党支持が
先週に引き続き、最近の裁判について考えたい。先週は、光市母子殺害事件について死刑判決が出たので、メディアの関心はそちらに集中した。しかし、もう1つ重大な判決が出た。この事件の弁護を務めた安田好弘弁護士が強制執行妨害で起訴された事件について、二審の東京高裁が一審の無罪判決を覆し、罰金刑を言い渡した。この判決も、裁判の独立を疑わせるように思える。 この事件については、魚住昭氏が詳細に調査し、検察がいかに恣意的な起訴を行ったか、明らかにしている。そして、一審判決は、検察の主張を全面的に退けた。これに対して、東京高裁の判決は、有罪によって検察の主張を入れつつ、罰金刑を取ることによって安田弁護士に実害が及ばないようになっている。安田氏の弁護士資格は保たれ、勾留日数を換算することで罰金も払わなくてもよい。まさに政治的判決である。 一体裁判官は何を考えて判決を出しているのだろう。特に、先日のイラク派兵に
はじめに 2007年夏の参議院選挙の直後には、政権を賭けた総選挙決戦に向けて自民党と民主党の論争が激しくなると予想されていた。しかし、昨年秋から始まった臨時国会は、期間だけは長くなったものの、テロ対策新法をめぐる与野党の駆け引きばかりがクローズアップされ、緊張感のある論戦は見られなかった。 政治の展開に対する国民の期待を裏切ったのは、民主党における政権戦略、政権構想の欠如である。いまだにくすぶり続ける大連立の話も、その現われのひとつである。政府与党を解散に追い込む政治戦略はここで論じるテーマではない。政権交代を追求する上で、権力闘争よりも重要な政権構想、どのような社会を作るかというビジョンについて、ここで考えてみたい。 ねじれ国会の本質は、国会に2005年の民意と2007年の民意というまったく異なる二つの民意が並存している点にある。2005年の民意は小さな政府を支持し衆議院の絶対多数という
七月の参院選の直後、小泉純一郎元首相が「自民党は敗北に耐え切れるか、民主党は勝利に耐え切れるか」と語ったという記事を新聞で読んだ記憶がある。うまいことを言うものだと感心していたが、実際に、安倍晋三前首相は敗北に耐えきれず退陣し、また、小沢一郎代表も勝利に耐えきれず大連立の誘いに乗りかかり、それを党内から拒絶され、一度は党首辞任を表明した。敗北に耐えきれずやめるのは分かりやすいが、勝利に耐えきれずつぶれることは分りにくい話である。なぜ小沢が勝利に耐え切れなかったのか、また民主党が政権を目指すうえで、どうすれば勝利に耐えていけるのか、考えてみたい。 単なる野党が政府の政策に反対することは、無力であるが容易である。しかし、参議院で多数を占める野党が反対することは、実際に政策を葬ることを意味する。そうなると、政府の政策を葬ることへの責任を問われることとなる。覚悟や決意がなければ安易な反対はできない
参院選の選挙戦が本格的に始まるにつれて、争点は年金問題もさることながら、政権のあり方、首相の適格性に移っている。それも当然の話である。安倍政権はあくまで自民党の中で選ばれたに過ぎず、国政選挙の洗礼を今回初めて浴びる。安倍自民党が好むと好まざるとにかかわらず、この参院選は、国民がこの政権に対して最初の評価を下す場となる。また、選挙戦の劣勢を覆すためには、自民党もこの選挙の争点を安倍対小沢の党首対決に持ち込もうとしている観がある。民主党も、この選挙を政権交代への足がかりにしたい以上、党首対決を避けることはできない。 しかし、民主党が世評どおり選挙で勝利を収めても、政権交代への道は簡単には開けない。1989年以来、92年と01年を除いて、自民党は参院選で敗北してきた。特に、89年の社会党(当時)、95年の新進党(当時)、98年の民主党は衝撃的な勝利を収めた。しかし、自民党は首相退陣につながる敗北
今回の参議院選挙の最大の争点は、年金問題ではなく、安倍政権の存在であるべきだ。年金問題は1つの政策テーマでしかない。安倍政権が統治能力を持っているならば、具体論はどうあれ、年金問題の解決の道筋をつけることはできるであろう。しかし、この政権が統治能力を持っていないならば、政策をいくら議論してもそれを実行できないのであるから、議論は無意味である。 政権の統治能力を測るためには、指導者の思想や理念が最も重要な尺度となる。安倍首相は憲法改正を軸とする「戦後レジームからの脱却」を自らの最大公約として打ち出している。したがって、安倍の言う「戦後レジーム」の意味を吟味することこそ、この選挙の最重要争点ということになる。 折しも、久間章生防衛大臣が、「原爆投下正当化」発言の責任を取って辞職するという事件が起こった。これは単なる大臣の失言ではなく、戦後レジームをめぐって安倍自民党が陥っている深い分裂を物語る
まず、あえて挑発的に言えば「たしかな野党」という共産党の自己規定が間違っていると思います。未来永劫、与党になるつもりはないのかと訊きたい。常に野党で、チェックとブレーキばかりではつまらないでしょう。 あなた方は日本の政治を変える力を持っているんだよ、と言いたいのです。憲法・平和の問題、経済格差の是正の問題、経済界の言いなりになっている自民党政治に対する批判――具体的な政策では私もかなり一致するわけです。新自由主義と対米従属の政治を転換していくうえで共産党も重要な役割を果たすべきだと思っています。 腹が立ったのは(今年2月、民主など推薦の新人が与党推薦の現職に僅差で敗れた)愛知県知事選ですね。共産党が勝てる見込みのない候補をわざわざ立てて非自民の票を散らしたわけで、私は当時、「政府・与党にはたしかな野党共産党が必要です」と皮肉ったんです。あくまで独自路線にこだわって与党を利するのか、野党とし
安倍政治は祖父で元首相の岸信介を抜きには語れない。岸は戦争指導者でありA級戦犯であり、改憲に執念を燃やしたリーダーだ。「戦前型レジーム」に復帰させようとして、60年安保という国民的な大騒動が起きた。これは、敗戦を受け入れ新憲法を肯定する革新勢力と、敗戦を屈辱と考え自主憲法制定を主張する右派勢力の激突だった。結果は、安保は国会を通ったものの、岸は国民的な反対にあって退陣を余儀なくされた。 安倍首相は、岸の無念さや怨念を抱えて政治を語っているように私には見える。そうした問題設定自体が的はずれな感じがする。 60年安保が純粋戦後派と戦前復帰派の痛み分けで終わったあと、いま我々が戦後保守政治と呼んでいる体制が確立する。池田首相以降の経済成長優先プラス日本型平和国家路線だ。安保条約と自衛隊はあるものの軍事的には突出しない。これが保守本流として固まっていった。 戦後の日本は自民党がつくったものだし、自
このところ政局の動きが急である。5月中ごろには、安倍政権支持率が上昇に転じ、野党には手詰まり感さえ漂っていた。しかし、ずさんな年金管理に対する世論の沸騰と、松岡利勝農水相の自殺という2つの大きな衝撃によって政権の先行きには暗雲が垂れ込めてきた。選挙自体は面白くなったのだが、日本政治の諸課題とリーダーシップのあり方について考えるとき、最近の政治的事件を面白がってばかりはいられない。 一連の出来事からうかがえる最大の問題は、日本政治におけるリーダーシップの危機である。もちろん、安倍晋三首相の個人的な要因もある。しかし、自民党という政党の組織的な要因もある。リーダーシップの空白は、目先の参議院選挙の勝敗を越えて、日本政治の将来を脅かすことになりかねない。 安倍首相は、重要な政策案件について自分の責任で決めるというせりふが気に入っているようである。しかし、彼はリーダーシップについて致命的な勘違いを
参議院選挙に向けて国会も終盤を迎え、「政界は、一寸先は闇」という言葉を思い出すこの頃である。五月の中頃までは、政権支持率も下げ止まって、野党の側に手詰まり感さえただよっていた。しかし、消えた年金をめぐる世論の沸騰や、松岡利勝農水省の自殺など、政権のイメージを損なう事件が続出して、五月末から六月初頭にかけて、各社の世論調査では支持率は最低を更新する結果となった。参議院選挙の行方は混沌とし、面白くなったとは言えるであろう。 もちろん、年金制度の信頼性が大きな争点となることは不可避であるし、必要であろう。ただし、私は年金騒動を見て、またかという既視感をぬぐえない。三年前の参議院選挙でも年金制度改革の当否をめぐって与党は国民の厳しい批判を浴びて敗北した。しかし、その後、非正規雇用の増加と若年層の年金不信の高まりによって、国民年金の空洞化は進むままである。選挙の時に大騒ぎしても、それが有効な制度改革
国民投票法が成立し、安倍首相は憲法改正を参議院選挙の争点にすると、妙に力んでいる。自民党内からも憲法の争点化に対する慎重論が聞こえてくるが、安倍首相は自分にとっての年来のテーマである憲法にこだわることが国民の支持を集める秘訣であるとでも思っているのだろう。何をとち狂ったのかといいたくなる。安倍の憲法論の浅薄さを野党がきちんと批判し、明確な対立構図を作ることができれば、国民も安倍流改憲について行くほど愚かではないであろう。 改憲に熱心な読売新聞社は毎年春に国民の憲法意識に関する調査を行っている。今年三月の調査では、憲法改正についての全般的な態度として、改正に賛成する者が46%、反対する者が39%であった。改憲派が多数のように見えるが、昨年の同じ調査に比べると改憲派が9ポイント減り、護憲派が7ポイント増えている。特に9条に限ってみれば、国民は依然として圧倒的に9条を支持していることが分る。9条
5月7日に札幌で開催された参議院憲法調査特別委員会地方公聴会における、私の発言です。今回成立したいわゆる国民投票法は、教員と公務員に対して国民投票運動に関しきわめて過大な規制をかけている点で、憲法違反であると私は考えます。その論理は下の会議録に述べてある通りです。 憲法学説には「二重の基準」という理論が定着しています。即ち、人権に対する規制の中でも、特に民主政治や法制度を形成する上で不可欠な自由権(思想の自由、表現の自由など)は、経済的自由と比べて、特段の保護が必要であり、その規制は最小限にすべきという理論です。憲法制定権力は、まさに国民の主権そのものであり、あらゆる人権の土台です。憲法改正国民投票における表現や思想の自由は、あらゆる国民=主権者に最大限保障されなければなりません。法によって禁止される教員や公務員による国民投票運動がどのようなものか、提案者から何らまともな答弁が行われていな
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