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広島市が6日の平和記念式典で実施する平和記念公園(中区)の入場規制拡大で、市職員と元職員の有志5人でつくる会が1日、規制に反対する申し入れ書と署名を市民活動推進課に提出した。 申し入れ書では、式典会場を原爆ドームを含む公園全体に広げた上で、手荷物検査を実施して拡声器などの持ち込みを禁止する点を問題視。憲法に定める表現の自由や、「正当な理由がない限り公の施設の利用を拒んではならない」とする地方自治法に違反しているなどと主張している。 署名はインターネットで募った282人筆分。市役所を訪れた会のメンバーで元職員の福井利明さん(66)は「式典に利用しないドーム周辺を無理やり式典会場に組み込むのは市民の自由な利用を妨げる」と訴えた。 (2024年8月2日朝刊掲載)
広島と長崎に米軍が投下した原爆を開発した「マンハッタン計画」の主導者となった物理学者の半生を描く映画「オッペンハイマー」。米アカデミー賞では作品賞、クリストファー・ノーラン氏の監督賞など7部門を受賞し、広島でも試写会が開かれるなど29日の公開を前に注目は高まっている。一方、米国では昨年夏の封切り以降、実に多様な意見が飛び交ってきた。作品は原爆被害の実態に米国民が目を向ける契機となるか。核兵器廃絶の訴えは強まるか―。原爆投下国で映画館に足を運び、鑑賞した広島ゆかりの人たちに感想を聞いた。(金崎由美、小林可奈) 米シカゴ生まれ。核関連の科学技術史が専門で、2005年から広島を拠点に研究生活を送る歴史学者。約20カ国を訪ね、核実験、核兵器や核燃料の生産で被害を受けた「グローバル・ヒバクシャ」への聞き取りを重ねる。 新たな視点を見る者に与えているようで、実際には従来の米国人の原爆観からの転換はない
連合国軍総司令部(GHQ)が日本の占領直後に敷いたプレスコードで、検閲された中国新聞の記事は少なくとも7万4126本あり、掲載記事の76・2%を占めていたことが本紙調査で分かった。うち原爆関連は45・1%が検閲を受けていた。「違反」とされた記事は全体で94本あった。プレスコードが発令されて19日で78年。地方紙にも及んだ厳しい言論統制の実態が浮かび上がった。(客員特別編集委員・籔井和夫) 日本での検閲資料が多数保存されている米メリーランド大プランゲ文庫にある中国新聞紙面と、GHQの関連資料を調査。プランゲ文庫の新聞・雑誌情報などをまとめたNPO法人インテリジェンス研究所(東京)の「20世紀メディア情報データベース」とも突き合わせ、検閲状況を分析した。 プランゲ文庫には1946年3月24日~49年10月13日の中国新聞紙面が保存されていた。欠落もあり、47年は約1カ月分しかなかった。確認でき
元教員や日本会議の会員たちでつくる市民団体「広島の原爆被害を考える会」は16日、漫画「はだしのゲン」を広島市立学校の平和教育の教材から削除する市教委の方針について、評価する文書を提出した。 文書は、削除を支持した上で、市教委に「明瞭な削除理由の開示と毅然(きぜん)とした態度表明」を求め、学校図書室での閲覧にも反対する内容。井上宝護代表(79)=佐伯区=たち15人が市教委を訪れ、中谷智子指導担当部長に渡した。井上代表は報道各社の取材に「子どもに読ませたくない。教育現場で使用されないように監視する」と述べた。 これに対し、中谷担当部長は取材に「ゲンが平和教育にふさわしくないと否定しているわけではない」と説明した。 (2023年3月17日朝刊掲載)
原爆投下から10年後の1955年に刊行された句集「広島」約500冊が、広島市中区の民家で見つかった。「流星や死ねぬうめきが拡(ひろ)がる」―。あの日の惨状を詠んだ作品群を収めた同書は、現在は入手困難な貴重な本となっている。先月譲り受けた俳壇関係者が活用策を探っている。(山田祐) 句集はB6判、210ページ。当時、広島県内の俳句結社が集まって刊行会を結成し、公募作など1521句を一冊にまとめた。今回の500冊は、編集委員の一人だった中区の故結城一雄さん宅で長女の広藤暁子さん(75)=佐伯区=が見つけた。いずれもビニール製のカバーが付き、保存状態は良い。 掲載句の多くは広島での被爆体験を記す。「氷水 のませば死ぬる 呑(の)ませけり」は、瀕死(ひんし)の母に水を求められた詠み手の葛藤を伝える。10歳の女の子が弟を思って詠んだ「蟬(せみ)鳴くな 正信ちゃんを 思い出す」。句に添えられた注釈で、こ
【きのこ雲の下でおきたこと】 午前8時15分 1945年8月6日、月曜日の広島の朝は快晴でした。深夜零時過ぎに空襲警報が出 たが、何ごともなく、午前2時10分に解除。しかし、午前7時9分にまた警戒警報 が出ました。これも7時31分に解除されました。ほっとした人々は戦時下の朝食を 済ませ、それぞれの1日を始めていました。その時、午前8時15分、上空にセン光 が走ったのです。 7時過ぎの警戒警報の時、実は原爆投下のために気象観測をするB29が1機、広 島に飛来していたのです。しかし、人々はそれを知らないまま、真夏の街で行動を 始めていました。 学校の生徒は主に中学1・2年生の男女合わせて約8,400人が建物疎開を手 伝うことになっていました。近郊の町や村の義勇隊約1万人も広島に入り、現場に 到着しつつありました。軍需工場に動員された生徒も、学校で勉強しようとしてい た生徒もいます。 後に被爆教
「私は生き残ってしまいました」。新井俊一郎さん(87)は子どもたちに被爆体験を証言する時、必ずこの言葉で始めます。広島高等師範(しはん)学校(現広島大)付属中の同級生や、被爆の4カ月前まで国民学校で机を並(なら)べていた大勢の友だちが犠牲(ぎせい)になりました。友だちの母親から「私の子どもは死んだのに…」と言われ、生き残った負い目に苦しんできたのです。 1年生で13歳だった新井さんは1945年7月下旬、同級生約80人と賀茂郡(現東広島市)へ疎開(そかい)しました。食糧増産のための「農村動員」で、寺と神社に暮らしながら、田んぼの草取りを手伝っていました。 8月6日朝、新井さんと同級生4人は自宅への一時帰宅を認められ、広島市内へ向かいました。山陽線の八本松駅(現東広島市)のホームで列車を待っていた時です。突然(とつぜん)、空が白く光り、棒(ぼう)で殴(なぐ)られたような衝撃(しょうげき)を感じ
第3期本因坊戦第1局は1945(昭和20)年7月24日から3日間、広島市中島本町(現中区中島町)にあった日本棋院広島支部長、藤井順一の別宅で打たれた。第2局が囲碁史に残る原爆下での対局である。それは8月4日から3日間、同所で行われることになっていたが、この時は既に中国地方総監府から横やりが入っていた。第一部長の青木重臣から「広島市内は危険だから打ってはならぬ。もし対局を続けるなら、警察権力で中止させる」との忠告を受けていたのだった。 これに強く反発したのがこの本因坊戦の面倒を見ている藤井だった。その時の模様を立会人の瀬越憲作は著作「囲碁一路」(産業経済新聞)の中で「私がこれを引き受けた以上、私のところで打ってもらいたい。広島が焼けたら、それはその時でよいではないか」と藤井が言ったと記している。困ったのが瀬越と対局者の橋本宇太郎本因坊、挑戦者の岩本薫。第1局後、3人で相談した結果、「空襲があ
中国の非政府組織(NGO)「中国人民平和軍縮協会」(北京市)のメンバー4人が26日、平和記念公園(広島市中区)を訪れた。平和首長会議(会長・松井一実市長)の中国での加盟都市拡大に向け、市と連携する考えを示した。 協会の安月军(アン・ユエジュン)秘書長ら4人が広島国際会議場で松井市長と面会した。安氏が「大虐殺の地、南京市と都市間交流を深めては」と提案すると、松井市長は南京市の首長会議加盟への協力を要請。安氏は「南京市側に連絡する」と応じた。 続いて協会メンバーは原爆慰霊碑に献花し、原爆資料館を見学した。協会と首長会議事務局の広島平和文化センターは1988年から交流のための相互訪問を続けている。協会側の広島訪問は2015年以来3年ぶり。(水川恭輔) (2018年11月27日朝刊掲載)
戦争を早期終結させた救世主として原爆を捉え、放射能の影響を過小評価するなどして、広島・長崎への投下を正当化する米国の「原爆神話」。広島市立大の井上泰浩教授の著書「アメリカの原爆神話と情報操作」は、その形成に深く関わったキーパーソン2人に着目し、知られざる情報操作の実態に迫っている。 2人は、ニューヨーク・タイムズ紙記者だったウィリアム・L・ローレンスと、ハーバード大学長だったジェイムス・B・コナント。前者は、極秘だった原爆開発の全貌を見届けることを許可された「見返り」に、客観報道を装って政府の世論操作に加担する。後者は、第2次大戦中の陸軍長官で国民的信望のあったヘンリー・スティムソンに原爆投下の正当化論を書かせ、「正典」として定着させた陰の主役という。 原爆投下を支持・肯定する意見が今も過半数を保つとされる米国。本書は「神話」の手ごわさとともに、神話で覆わなければ、米国民にとっても倫理的に
放射線を少量浴びると人の体にどのような影響があるのか。そんな問いを胸に3年前、本紙連載「グレーゾーン 低線量被曝(ひばく)の影響」の取材で原発事故後の福島を歩いた。 「問い」といっても、一応の答えは示されている。100ミリシーベルト以下の低線量被曝の影響は「科学的に十分に解明されていない」と言われる。つまり、はっきりしない。 一般に放射線を浴びた量が増えるとがんになる確率が上昇することは、広島・長崎の被爆者の追跡調査で明らかになっている。 ところが、100ミリシーベルト以下では発がんのリスクが増すかどうかは研究者で見解が分かれる。現実としても生活習慣や喫煙といった他の発がん要因と混ざってしまい、現代の科学では見極められない。だから「十分に解明されていない」と言うよりほかはない。 福島で取材した際も、多くの被災者が低線量被曝の問題で悩みを抱えていた。自宅の周りの除染は十分か、知り合いの家で出
≪無言の証人・復興の願い≫一大ブームを巻き起こしたアニメ映画「この世界の片隅に」。広島・呉を舞台に、戦争の時代を生き抜く「すず」と家族を描いた。こうの史代さんの漫画を原作に、片渕須直監督が全力を注いだ名作のエンディング近くに、熱心なファンが口コミで話題にするシーンがある。 原爆で壊滅した広島の街で、すずが夫の周作と再会する。廃墟に立つ旗に「復興」という2文字が…。実は原爆資料館の収蔵資料がモデルになった。当時の暮らしや風景を再現する考証作業で緻密を極めた監督が取り入れたと聞く。 収蔵庫にある実物の旗を見た。縦73㌢、横43㌢の布の2文字が今なお力強い。資料館によれば爆心地から900㍍、現在の広島市中区榎町で被爆した小原友次郎さん(当時61歳)が焼け跡の炭で、残ったシャツの布地にしたためたという。原爆投下翌日、自宅跡に旗は立つ。 小原さんは被爆後1週間ほどで寝込むようになり、9月1日に亡くな
広島原爆のほぼさく裂直下で被爆して奇跡的に助かった、野村英三さん(1898~1982年)が自分史を書き残していた。爆心地一帯の惨状を伝える新たな記録でもある。三男英夫さん(80)=広島市中区=が保管し、平和記念公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は収集に乗り出す。(「伝えるヒロシマ」取材班) 1945年8月6日、県燃料配給統制組合職員だった野村さんは、爆心地の西南約170メートルとなる燃料会館(現平和記念公園レストハウス)の地下室にいた。出勤者は37人で、うち8人がコンクリート造りの館内から脱出したが、唯一の生存者となった。 「わが想い出の記」は、「原子爆弾の投下」と題した被爆状況をはじめ400字詰め原稿用紙約800枚に半生をつづる。72歳から数年かけて執筆していた。 脱出直後の元安川では、「一瞬川向かいのドームの方で赤ん坊の泣(き)声がしたように思った」と記し、近くの防空壕(ごう
原爆投下で広島中央放送局(現NHK広島放送局)も壊滅的な打撃を受けた。技手だった森川寛さん(1974年、63歳で死去)の被爆直後からの日記を、長男高明さん(74)=広島市西区=が公開した。「兎糞(とふん)録 昭和廿(にじゅう)年」。1945年8月6日からの記述を抜粋して読み解く。(編集委員・西本雅実) 八月六日 出勤して演奏所(上流川町=現中区幟町=にあった広島中央放送局)の玄関に入り、二階に上る階段の踏(み)場に立つた時バツと下から爆風が来て倒れた/あたりは何も見えぬ。その時二階より自分にぶつかり来た者がある/『間島だ。やられた』/初めて敵の空襲と解(わか)つた。時正に午前八時十分過きなり(間島輝夫放送部副部長は直後に死去) (放送局前の)道を右往左往するものは此(こ)の世のものとも思へぬ血だるまの形相が叫びながら親を呼び、子を呼ぶ/重傷の田中(保男)現業課長と相談して職員に原放送所に待
広島を27日に訪れたオバマ米大統領は平和記念公園(広島市中区)での演説後、被爆者であり、被爆死した米兵捕虜の供養と遺族の掘り起こしを続けてきた森重昭さん(79)=西区=と抱擁を交わした。その写真は瞬時に世界を駆け巡った。感動を呼ぶ場面には違いないが、米大統領と被爆者の全面的「和解」とのイメージが広まっているなら違和感もある。なぜか―。(金崎由美) 5月上旬、米国出張の際に試みた取材が、期せずして森さんとオバマ政権を結ぶ端緒となった。 広島訪問の正式発表前。情報収集のため日米の政府関係筋と接触した。米側の一人には、オバマ氏が被爆地に抱く思いなどを質問した。意外だったのは、「原爆犠牲者には米兵捕虜もいる」と続けた時。相手の態度が変わり、「知らなかった」とメモを取り始めた。 悲しみ日米同じ こちらが「原爆投下を肯定的に語る際、自国民の犠牲者がいるのは都合が悪い。だから人々は目を背けるし、遺族も声
広島市立大広島平和研究所(安佐南区)が昨年来、安全保障の研究者らを防衛省など国から教授陣に招く一方、被爆者に関わりの深い研究に取り組んできた講師2人に相次いで契約の打ち切りを通告した。被爆地の研究機関としての役割をどう果たしていくのか、懸念する声が上がっている。(道面雅量、金崎由美) 2人は3年の任期付き講師で、再任しないと告げられた。昨年9月末で退職した講師(46)は、原爆被害に関する連合国軍総司令部(GHQ)による情報統制や世界の核被害者などについて研究。2008年には業績が評価され、日本平和学会の平和研究奨励賞を受賞している。原爆資料館(中区)の資料調査研究会の会員などを歴任、昨年夏に広島市内で開かれた同学会の研究大会では、受け入れ役を担った。 人事委が判断 3月末で任期が切れる講師(35)は、被爆者への聞き取りを基に広島・長崎の復興史などを研究。昨夏、平和研など主催の被爆70年の国
広島、長崎への原爆投下から70年。記憶の風化にあらがうように、戦後世代の表現者たちが、ヒロシマや戦争を題材にした創作に挑んでいる。先人から何を受け継ぎ、次世代にどう伝えようとしているのか。節目を迎えた夏、2組の表現者に語り合ってもらった。 初回は、第2次世界大戦末期の広島、呉を舞台にしたアニメ映画「この世界の片隅に」(2016年秋公開予定)の原作者で、広島市西区出身の漫画家こうの史代さん(46)と、映画を手掛ける片渕須直監督(54)。(文・石井雄一、写真・高橋洋史) ●表現活動に当たって、影響を受けた人。原爆や戦争を題材にするきっかけ こうの 描き始めた中学生の頃は、手塚治虫さんですね。せりふがすごく洗練されていて、文学的。キャラクターの表情も、生きた人間と接しているような感動があった。漫画っていろいろできるんだなって思いましたね。 片渕 祖父が映画館を経営していて、幼い頃に見たのが「わん
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跡形なしは考えられず 原爆資料館(広島市中区)には、影のように一部が黒くなった石が展示されている。爆心地から東へ約260メートルの旧住友銀行広島支店(三井住友銀行広島支店、中区紙屋町)入り口にあった石段。「人影の石」と呼ばれる。 ■地表面3000-4000度 「原爆が落とされたときその場にいた人の影だけが残った」「爆心地で直接閃光(せんこう)を浴びた人は、一瞬で蒸発して消えてしまった」―。原爆資料館で展示物の説明をするヒロシマピースボランティアの大林芳典さん(80)によると、時々、修学旅行などで広島を訪れた子どもから、そう信じているという声を聞くそうだ。 「広島・長崎の原爆災害」(1979年)によると爆発直後、約30万度の火の玉ができた。この玉から放射された熱線は爆発から0・2―3秒後まで降り注ぎ、爆心地の地表面の温度は3000度から4000度に達したと推定される。こんな状況だと、人間が蒸
広島で被爆した親を持つ被爆2世のうち、原爆投下から1年以降、15年以内に生まれて白血病を発症したケースでは、父親の被爆と、出生までの年月の長短が発症に影響していることが、広島大の鎌田七男名誉教授(血液内科)や同大原爆放射線医科学研究所の大滝慈教授(計量生物学)たちの研究で分かった。1日、長崎市であった原子爆弾後障害研究会で発表した。(馬場洋太) 鎌田名誉教授は「これまでないとされてきた、被爆2世への遺伝的影響がある可能性が強まったと言える」と分析している。 広島県と広島市が1973、74年に実施した調査で判明した被爆2世と、県内の病院で白血病と診断された患者のデータを照合。①親の両方または一方が被爆者②本人ときょうだいが1946年7月以降に生まれ、本人だけが白血病を発症―の条件を満たす54人を抽出し、発症リスクをきょうだいと比較した。 その結果、父親または両親が爆心2キロ以内で被爆したか、
24年11月29日 ニュース 広島市西区の作家北村俊明さん(77)が、核兵器廃絶を願う小説「ヒロシマからのメッセージ」を完成させた。核が脅しに使われるなど緊迫する国際情勢をきっかけに、病気に苦しむ中で奮起して筆を執った。「ヒロシマの本音を代弁したい」とし、書籍化に向けて出版社を探している。 広島在住の高齢男性が被爆2世の旧友との再会や平和学習に訪れた孫との対話を通じ、平和への思いなどを深めていくストーリー。孫と語り合... 24年11月29日 ニュース 戦前の市街地 戦後の旧佐伯郡 古地図 新たに復刻 あき書房 広島市一帯の古地図を復刻販売している南区の古書店「あき書房」が、新たに戦前の広島市街地、戦後の旧佐伯郡エリアの計2枚を復刻した。 「最新大広島市街図」... 24年11月29日 ニュース 放影研移転 入札が不落 建設工事 年内契約は困難か 放射線影響研究所(放影研、広島市南区)の広
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