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大そうじへの備え
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実はしかし、法華狼氏が自己評価を(さらに)こじらせたかなあと思う点が一つあり、それは氏自身が(今回の)私に対する言及の前提として参照している別のエントリにある。 まず私自身の主観的証言を述べる(読めばわかるように「見ていない」という趣旨なので証拠により裏付けることはできない)。本年8月中旬に法華狼氏は複数回私のtweetを踏まえてエントリを書き、ある意味非常に誠実だと認めるところであるが、はてなIDコールを通じてmentionを飛ばしてこられた。まあしかし正直に言うとその内容とかレベルはごく低いもので、以前にblogでやりとりした際の印象からもまともな対話にはならないと思ったのでごくダメな点のみを適当に指摘し、途中からは見るのも止めてしまった。なので上掲8月18日付のエントリも読んでおらず、昨日初めて目を通した。 というわけで「馬鹿らしいから相手しなかった」が私の本音であるところ、あるいは
忙しいんだけどなあと思いつつ、こういう「核心的誤読犯」をこれ以上放置してつけあがらせるのもなあと思うので多少書く。また法華狼氏からの言及だが、まずこちらから。北星学園大学の件について私が以下のように述べた点について、さらに下のように評している。 まあしかし前にも書きましたが大学人ではないわけでコストは誰が払うねんという話にはなるでしょうし、脅迫に屈しないというのは言論で闘うことが前提ですがご本人がそういう対応もしていないようなので、堪忍袋にも限度があるかとは。 RT @zetuboutouin: 正直、五十歩百歩です。 — Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2014, 11月 1 というか先方がコスト問題を正面に出してくれたのだから元記者としての立場に連帯したいじゃーなりすとの方々が浄罪を拠出してお支えになればいいんじゃないですかねえ。「カリキュラム変更で担当コマ
新著『自由か、さもなくば幸福か?』(筑摩選書)が刊行されましたので、稲葉振一郎先生にお付き合いいただいて宣伝のためのイベントを開催することにいたしました(というか筑摩書房が計画してくださいました。ありがとうございます)。新年度早々の忙しい時期とは思いますが、皆さまお誘い合わせのうえご来場いただければ幸いです。 2014年4月5日(土) 14時30分開場、15時スタート! 明治学院大学 白金校舎 1401教室(本館4階) 新世紀の社会像とは? 大屋雄裕(法哲学者)×稲葉振一郎(社会倫理学者) この社会はこれから、どうなっていくのか? 一体いかなる社会が、望ましいのか? 考えられる未来の社会像として、次の三つがある。 一つ、安全の保障などを国家に求めたりせず、各人の自力救済が前面化する「新しい中世」。 一つ、一人ひとりが好き勝手に振る舞っても、社会全体の幸福が自動的に実現するような社会。 一つ
というわけでやっとのこと新著の刊行にこぎつけました(もちろん私がまとまった原稿を書けなかったせいですが)。内容紹介のつもりで以下に目次を掲げておきます。書店での発売は3月12日とのこと。選書なので置いてある本屋さんが多くないかもしれませんが、よろしくお願いいたします。 大屋雄裕 『自由か、さもなくば幸福か?:21世紀の〈あり得べき社会〉を問う』 筑摩選書、筑摩書房、2014/3。 はじめに 第1章 自由と幸福の19世紀システム 1 近代リベラリズムと自己決定の幸福 2 契約自由の近代性 3 参政権:自己決定への自由 4 権利としての戦争 5 19世紀システムの完成:自己決定する「個人」 第2章 見張られる私:21世紀の監視と権力 1 監視の浸透 2 情報化・グローバル化と国家のコントロール 3 「新しい中世」 第3章 20世紀と自己決定する個人 1 19世紀から遠く離れて:戦争と革命の20
というわけで出張でロンドンに着いたところなのであるが時差を調整しきれずにこんな時間(現地時間午前4時)に目が覚めたらこういう話を見たので簡単に書く。 言葉をテーマに・7。いま偶然英国滞在中の大屋雄裕教授@takehiroohya に、いつか時間あれば聞いてみたい(ってメンション、今飛ばしてるけど) / "英国国歌「May she defend our laws」をどう訳す? -..." http://t.co/xyod97d4qy — gryphonjapan (@gryphonjapan) February 11, 2014 つまり(事実上の)イギリス国歌「God Save the Queen」の第3節にある「May she defend our laws/And ever give us cause/To sing with heart and voice」をどう理解するか、という話。
ただまあ、こういう陰謀論者をほっておいても構わないだろうと思う理由もあり、つまりリアリズムと陰謀論の違いについて述べた箇所で繰り返し説明したが陰謀論者の世界には本当の意味での他者がいないので、観点や価値観や考え方の違う相手を説得したり納得させたりするための議論というのをこの人たちが生み出すことはできない。あらかじめ結論を共有し・モノの感じ方において「共鳴」してしまっている人たちが寄り集まってくるということは考えられるのだが、閉じたクラスタを作って内部で反響しているだけなので基本的に無害である(アメリカの民兵集団みたいにそこに武器を足すと危険が生じると思うが、この人たち多分、そういう指向も能力も持ってない)。 なんか反響が耳障りだなあと思ったときに音の届かないあたりまで蹴飛ばしておくというのが個人的に必要なことのすべてであり、なんか若い人がうっかり共鳴してしまってクラスタから出てこれなくなっ
さてところでそのような陰謀論の見本がこちらになります。法華狼氏の「[ネット][身辺雑記]もはや人間の言葉が通じない」(12/9)。同氏(12月7日)の「[ネット][陰謀論者]陰謀論を認めさせたい人たち」で紹介されている私のtweetが、強行採決による野党の抵抗増大や支持率低下という代償にもかかわらず政府与党が法案可決を急いでいるのは何故かという問題に対して当事者が合理的に意思決定していると想定するならばこのような可能性があると述べたものであるのに対し、後者エントリのコメント欄で法華狼氏が述べていることはまさに示唆的である......「政党が常に合理性がある行動をとるという前提が間違いですよ」。 まあ要するに《自己と同等だが異なる他者》の存在を想定することのできない陰謀論者の観点からすると自分の信じる結論を共有しない人間は敵なのであり、敵は愚かであるか悪辣な陰謀の駒なのだと推論が展開し、その
読むと言ったので読みましたよ。北野幸伯『日本自立のためのプーチン最強講義』(集英社インターナショナル、2013)。「突如、政界引退のプーチンが「隠居場所」に選んだのは日本だった!/相談を持ち込む「矢部首相」らに彼が与えた秘策とは?」(オビ)という趣向の巧拙については私のよく評価するところではないけれど、全体としてはまあその、こういうのも読むといいのではないだろうか。 つまり全体として外交・エネルギー・食料安全保障・経済などの問題について国際関係論におけるリアリズム的な立場からの説明を展開したものと整理することができ、第一にこれらの問題が相互に関係しあっているという(高校などの教科の枠組からは意識しづらい)点を大きく捉えることができるだろうという意味で悪くない。第二に、他国との友好関係でも国家としての自尊心でもいいが政治外交に関する義務論的な見方(○○は正しい、故に○○しなくてはならない(そ
さて前エントリで触れなかったのが、議会多数派による意思決定がいかなる個人も基本的人権を奪われてはならないとする(1)リベラリズムに反していた場合にはどうするか、という問題である。まず確認すべきなのは、この点に関する最終的な判断は憲法98条1項および81条によって裁判所に委ねられており、ということは実際に損害が発生したことを前提に提起される訴訟においてしか確定されないということである。だがもちろんそれは立法が実現したあとの・事後的段階であり、そこにおける判断を踏まえて投票の場面における意思決定を行なうことは端的に不可能である。我々は、事後に裁判所がどのように判断するかを予期し、その予期に対して賭けざるを得ないということになるだろう。 だがもちろん我々としてはできるだけ分のいい賭けを挑みたいだろう。そこで私としては、内閣法制局が行なう法令審査を信頼することが一つの相当安全な手段になると考えてお
多少長くなりそうなので、久しぶりにブログで書く。まず特定秘密保護法案とその採決過程に関してtwitterで書いたところ、法華狼氏(はてなID:hokke-ookami)がHatena Diaryで「[ネット][トンデモ]「少数派の意見や権利を守る」「少数派に意見表明の機会を与えたら淡々と採決すればいい」どっちだよ」という文章を書かれたので、twitter上で以下のように言及した。 特定秘密保護法案は内閣提出法案である(=法制局審査を通っている)という程度の違いにも気付かないレベル、ということで。 RT @hatenaidcall @takehiroohya id:hokke-ookamiさんから言及がありました http://t.co/mB2BvQq4kC — Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2013, 11月 28 もうちょっと丁寧に言うと、整合性や強制可能性
最大の問題だと思うのは、天皇の国事行為に関する規定である。案5条が「天皇は、この憲法に定める国事に関する行為を行い、」として現4条1項の「国事に関する行為のみを」から「のみ」を削っているのは、案6条5項の新設と合わせ、いわゆる公的行為が認められることを明らかにしようとした趣旨であって、そう問題はない。現状を明文で承認した程度のことである(いや怒っている人たちはいるが)。 これに対し、国事行為に対して「内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」としている現3条と、やはり天皇が「内閣の助言と承認により」行なう国事行為を列挙した現7条本文の当該部分を削り、案6条4項において「内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う」としている点には注意が必要だろう。 同様に案54条1項として「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。」という条文が新設されており、これ自体は現行憲法上も通説判例により
残りは細かい話。 案75条は国務大臣の不訴追特権について定めたものであるが、現75条但書の「これがため、訴追の権利は、害されない。」という(確かに多少わかりにくい)部分を「国務大臣でなくなった後に、公訴を提起することを妨げない。」と改めているところ、これは意味が不明確になっている。つまり現行条文は不訴追特権によって訴追権が不利益を受けてはいけないので、在任期間中は公訴時効が停止すると解されている。被疑者の国外逃亡の場合などと同じ扱い。 ところが改正案ではこの趣旨が明確でない。公訴提起を「妨げない」だけであるから、在任中も公訴時効が進行し、退任時にまだ公訴権が残っていれば(不訴追特権が消滅したので当然に)訴追可能だが、消滅していれば訴追できないとも読める。改正案でわざわざバグの種をこしらえた可能性が高い。 * * * 案65条で、行政権について「この憲法に特別の定めのある場合を除き」という文
というわけでここまで、自民党の憲法改正案に対して加えられている批判が大概ダメであるという点を確認してきたのだが、では同案がいいものだと私が思っているかといえば、最初に書いた通りまったくそうではない。以下では、それは何故かという点を説明する。 まず第一に、これは趣味の問題ではあるが私は悪趣味だと思うのは、案19条の2(個人情報の不当取得の禁止)、案21条の2(国政上の行為に関する説明の責務)、案25条の2(環境保全の責務)、案25条の4(犯罪被害者等への配慮)、案29条2項付記(「知的財産権については、国民の知的想像力の向上に資するように配慮しなければならない」)という形で人権のカタログ(あるいは対応する政府の責務)をずらずらと拡張した部分である。 おそらく意図としては、改憲案が人権軽視ではない(むしろ「新しい人権」を取り込むことでは護憲派・人権派より「先進的」である)と主張することだと思う
第三はこれまでよりはマシな話で、現97条の定める基本的人権の不可侵性が消えているとか、現99条の憲法尊重擁護義務の名宛人に国民が加わっていることから立憲主義の理念が損なわれているとするもの。 この点について私自身はアンヴィヴァレントであり、つまり一方で「立憲主義」を知らないというのはいかがなものかともちろん思うのだが、他方別段それは万古不易の理念でもないので、それだけを捉えて批判しても意味がないと思い、しかしひっくり返すとそんな意味のないところで騒動の種を蒔くなよとも思うわけである。 どういうことか。第一にそのような批判でいう「立憲主義」とは国家権力に対する制限を定めることによって国民の権利を保障するための手段として憲法を捉える見方である。別の言い方をすれば、そこに含まれる命令の主体は国民・名宛人は国家であり、国家の義務を憲法が定めるのは当然だが国民の義務が含まれるのはおかしいということに
第二に、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」になっているとかいう話でもない。この点について、「公共の福祉」とは人権同士が衝突する場合には法令により相互に調整するという趣旨だが(いわゆる内在的制約)、「公益及び公の秩序」は国家や政権政党が設定した利益・秩序を意味するからけしからんとか怒っている人もいるようだが、本来の意味におけるアナクロニズムであって端的に誤り。 以前に書いたこともあるが、要するに「公共の福祉」といっても何を意味しているのかはよくわからなかったのであって、日本国憲法制定後しばらくは論争があった。それこそ芦部信喜『憲法』(高橋和之補訂・第4版・2007)96頁以下に説明されているが、当初の通説は(国民それぞれの利益の総和とは異なる)国家独自の利益としての「公益」とか「公共の安寧秩序」という・人権の外にある一般的原理だと捉える一元的外在的制約説(美濃部達吉)であり、経済的自由権・
自民党が新たに発表した憲法改正案に目を通してみました。最初に簡単に評価すると、つまりこれは退化したな。 というのは別に保守的がどうこうという話ではなく、まあそういって怒っている方々もそちこちで見かけるのだが第一に元々生活保守であると自認している私が保守的な内容だといって怒りはじめるわけはなく、第二に自民党は保守的な政治勢力なのであるからその憲法改正案が保守的な内容なのは5月1日になると共産党が行進をしはじめるとか(そういえば昨年は案内がこなかったな)煙が高いところにのぼるとかいうのと同じことであって怒る方がどうかしており、第三に「保守的だ」というのが批判になるというのは革新的であることが正しいことを当然の前提としている点で「自虐的だ」というのが正当な批判たり得ると思いこんでいる人たちと同じくらいアタマワルイ。問題はだからそういう右か左かの話ではなく頭の良し悪しの次元で退化しているという点に
あるいは東島氏は人々が負担している資源とは何かと反問されるかもしれない。そう思うのは、氏が秋葉原の駅頭に掲げられた「ここは公共の交通広場です。一般歩行者の通行を除き、使用することを固く禁じます。」という掲示について、以下のように述べているからである。 もしこれが当局の「お上の論理」を振りかざすためのものであったとするなら、ただ「一般歩行者の通行を除き使用することを固く禁じます」と言うだけでよかろう。ところがこのスペースは、かつてはストリート・ミュージシャンにとっては格好のパブリックな場所であり、人々はそこに立ち止まり、あるいは座り込んで彼らの芸に耳目をそばだてていた。(......)そこで登場するのが、「ここは公共の交通広場です」という奇妙な論理である。枝葉を落としてもっとシンプルに行こう。「ここは広場です。使用することを禁じます」というのがこの立看板の主文なのだ。私が思わず噴出しそうにな
ところでさらに付け加えて細かい話を2点。いやこちらは本編の価値には一向に関わりのないことではあるのだが...... 一つめは「蕨の粉」という話。中世に「武」の勢力が伸びていくことによって女性や老人のような弱者が圧倒されていったという、本郷氏のそれ自体はその通りだろうと思う指摘の文脈でこういう記述がある。 寡婦二人が蕨の粉を盗んだ。蕨の粉がどういうものかは分からないが、少なくともさほどうまいものとも、貴重なものとも思えない。働き手である夫を亡くした彼女たちは、小さな子どもを抱えてひもじさに堪えかねたのだろう。だが若者たちはこのことを知るや、寡婦の家に急行し、数人の子どももろとも、彼女らを撲殺してしまう。[1,136、強調引用者] いやもちろん私は素人なので自信があるわけではないが、一般的に「蕨の粉」と言えばすぐに想起されるのはワラビの根を潰して水にさらして取ったデンプン、わらび粉のことではあ
議論は次の論点、すなわち「無縁」の評価に映る。ここでの直接的な対象はまず本郷氏ではなく、2巻の筆者・東島氏ということになろう。同書の表題にもある通り「自由にしてケシカラン人々」の存在を高く評価する東島氏は、彼らの存在を支える都市の自由が、当の都市民たちの自治によって失われていく過程を告発する。 すなわち、「「かけ落ち」する者にとって、あるいは飢饉の「流民」にとって、都市とは〈生きやすい〉場所のはずであった。だがそれも、戦国時代が進み、京都のように都市民たちが「町」を単位に自治を獲得し始めると、俄然〈生きにくい〉場所へと変貌していく」[2,117]。本来「都市とは、こうした身分的隷属関係を一時的ながらも解除し、関係を組み替え、言い換えれば〈人生をやり直しうるかもしれない〉空間となりえていた」[2,115]ものが、「「町」や「町々」が権力の末端機構化して」[2,117]ことによって失われていく
これと関連して、科挙はやらなかったのか、できなかったのかという問題もある。本郷氏は、「文が権力の安定に寄与する」という表題のもとで、こう書く。 東アジア社会では、その[「文」を鍛え直すことによって「武」の侵食を防ぐ]方法として、科挙が導入された。国家的な試験を行い、新しい才能を登用することにより、官僚組織の制度疲労を食い止めたのである。ところが、日本は遣隋使・遣唐使を派遣して科挙を知っていながら、取り入れることをしなかった。[1,137、補足引用者] たしか一旦導入はしたんだけどすぐに廃れたんですよねというような話はご存知の上で簡単のためにこう書かれているのであろうから、措く。問題はつまりやる気があったらそのまま続けられたのかという点で、個人的には完全に無理だと思うわけですよ。だって字が読み書きできる人数が少なすぎるでしょう。 科挙というものが四書五経だのを通じて儒学の知識とリテラシーを測
またぞろ学内の肩書きが増えることが昨年末あたりにはすでに決まっていたのだが正式に発令もされないうちに準備作業で忙殺されており、先日など教授会に出ているあいだだけで3回本部から携帯電話に呼び出しがかかるという状況になっていた。ちなみに会議室から急いで出ながら私がもしょもしょと応答しているのを聞いて「先生もしかして出先でしたか?」と聞かれたりしたがその日その時間に法学部が教授会をやっているのは予定されたスケジュールであってですな。まあそういう情報も学部間・学部本部間で共有されないのが国立大学という組織ではあるわけです。 ところでその教授会から業績のリストと一式を出せと言われたのでどれこの際と思って研究棟のコピー機に付いているスキャナ機能(きれい)を使って過去に書いたものからひと通りデジタル化してみたり、新聞記事とかウェブ媒体とか広報記事とかいっぱいあって面倒なのでざっくり削ったリストを編集した
前回・前々回に述べたような仕儀で本郷和人先生の武力理解について私の意見を弁明すべき状況に立ち至ったので、ずっと前に書きかけてほおってあったエントリを発掘する。以下の二冊に対して言及したもの。 本郷和人『武力による政治の誕生(選書日本中世史1)』選書メチエ、講談社、2010。 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀(選書日本中世史2)』選書メチエ、講談社、2010。(いただきもの。ありがとうございます。) 「本郷派」と私が冗談で言っている(というのは3人が東大本郷勤務でお二人が本郷姓だからだが)方々によるシリーズの、冒頭2冊を読んだ時点での意見である。思い起こせばこのシリーズの前触れとなった特集が組まれたRATIOには私も(当然ながら別の特集だが)まぎれこんでいたのであった。ちょっと自慢。 まあそれは措いて、上掲2冊を読んで私が抱いた疑問を大きくまとめると、以下の2点になる。すなわち、 暴力
さて本郷和人先生と武力の話。まず初手から恐縮だが、その後考え直したところ同書の内容について「やはり武力がわからないのか」というのは書きすぎであったかなと思う。説明の便宜や本の性格から簡単に書いてしまっているが多少省略しすぎではないか、という程度の言い方が良かったろうか。 つまり同書の焦点は対立、特に武力対立であるところ、対立する両者の勝利条件というのは必ずしも綺麗に表裏になるわけではない。両者とも勝利条件を満たすとか、逆に両者とも失敗する事例も想定できるので、当事者Xが勝利条件を満たせなかった→反対当事者Yの勝利とは言えないでしょうと、そういうこと。これが「前者」とした「「対立」から中世史を読み解くという視覚から種々の戦争についても論じているが、攻めた側の戦略目標が実現されれば勝ち、そうでなければ負けと単純化している部分があり。攻めさせるということもあれば双方とも戦略目標実現に失敗というケ
先の選挙中のこと、駅前でビール箱に乗ってぽつんと演説している菅直人前首相の写真というのが中国のネットなどでも話題になっていたようであり、なるほどこれが民主主義かという感想も見られた。その趣旨というのはおそらく、より明確な形で言っていた人もいたようだが、なんでこいつ刺されないのというものだろう。どこのどこまでが誰の責任であるか、特に客観的な評価についてはまだまだこれからの問題であろうと思うが、鳩山政権では八ッ場ダム建設中止問題や普天間基地移設問題、菅政権では東日本大震災後の対応や福島原発事故など、少なくとも政府に対する被害者意識を溜め込んだ人というのを大量に生み出したのが民主党政権3年だったわけだが、まあ発展途上国の感覚ならそういった感情はテロリズムに結び付くだろうし、それを避けるために政治家に対する警備にも厳重なものがある。 何も彼らの世界だけの問題ではなく、日本でも戦前には原敬、星亨、濱
そうだねえ次は旭日旗かもしれないね(挨拶)。何かというと前のエントリに対して「あの人たちずっと同じ旗振ってますが」という反応をいくつかいただいたことについてだが、まずさらに悲観的シナリオも考えられるなという話。まあしかし私自身は振る旗の変わる可能性は本来あると思っており、だって1938年とか41年に一生懸命日の丸振ってた連中の大半が45年には星条旗とか赤旗とか振ってたわけだろ? そんなもんですよ。 もちろんコアの人たちというのはおそらくおり、変わらないままに時代の趨勢に応じて前に出てきたり後に逼塞したりするのだろうが、多分そういう人は多くない。保守主義でも日本主義でもいいが、バークなり蓑田胸喜なり徳富蘇峰なり読んで共感している人なんてえものがどれだけいるかと言えばおおいに疑問だろう。要するに彼らの本体は「ふま〜んふま〜ん」という感覚的なものであり、それを同一化する対象として「日本」という程
大阪市立桜宮高校の男子生徒が自殺した事件以来、体罰をめぐる議論がかまびすしいようである。「義家政務官「体罰ではなく暴力だ」 自殺の事実解明指示」(asahi.com)などという報道もあり、これに対して「体罰は暴力に決まっているだろう」と反発している人々も見受けられ、一方では前者が必然的に有形力の行使を伴う以上その通りなのだが、「死刑によって殺人は減る」と主張している人に対して(いやその当否はともかくな)「死刑は国家による殺人にほかならない」と言うようなもんやな、とも思う。法による統制を受けていることによって死刑が単なる殺人とは区別されている(ことになっている)のと同様に、体罰も統制されていない暴力とは違うよねという立場もあるだろう(再び、その当否はともかくとしてだ)。要するに出だしの定義問題から混乱しているので、互いにわら人形を叩いている部分がある。 管見の限りではあるが、よほど極端な人を
というわけで総選挙が終わり、自公連立で衆院の安定多数確保という状況に相成った。民主党としては参院の比較第一党であることを生かして活動していく方針らしいが、まあ率直に言って一本釣りされる議員の値段を上げるだけ、という気もする。 投票前日、土曜日の夕方にたまたま秋葉原の駅頭を通りがかった(定宿が浅草橋にあるのである)。えらいこと騒がしいので何かと思えば自民党候補の選挙演説であり、安倍総裁や麻生元総理も来るというので写真のような大混雑、そこここで日章旗がはためくという状況になっていた。 でまあ、やはりこの状況を見た人の中にはこの世の終わりだというか、あんな保守反動政党が熱狂的な支持を集めている状況が恐ろしいと言っている人がいるようなのだが、自民党の政策自体に対する評価はさておき、そうひどいことになるまいとも思う。あの人たち、数年後には別の旗振ってるよ。 というのは別にその人たちや自民党を馬鹿にし
「だまれ俺は芦部信喜教授の孫弟子の同期だぞ」ってのはどうか(挨拶)。憲法問題だから「ノモス主権論尾高朝雄教授四世の孫弟子」の方がいいかな。しかしその、尾高宮澤論争以来の敵対派閥(笑)だからというのではないが、天賦人権説というのもそうスジのいい議論ではないので切り札的にそれは天賦人権説否定ですねドヤアみたいなのもどうかと思ってちょっと書く。 というのは自民党の憲法改正案にまつわる問題で、それを進めている人々がtwitterでうかつなことを言っているのに対して怒っている人々がいるという話であり、いや個人的にも先般提案された改正案はろくでもないものになっていると思っているわけではあるがおそらく私が問題にしている箇所は人々が怒っているのとは違うし、いま問題にされているような論じ方が利口だとも思えない。というので少し書いて放っておいたら政治のほうが動き出したりしてどうしたものかと思っているわけだが、
出ました。大屋雄裕「何のために選ぶか:選挙の制度と思想(特集:選挙制度を考える)」『Voters』no. 11、(財)明るい選挙推進協会、2012/12、pp. 4-5. 選挙のために刊行スケジュールが早まって校正締切が前倒しになるという事態に自分が巻き込まれるとは思わなかったなあ。 その選挙の話。選挙公報程度は見ているのですが一番楽しかったのは日本共産党の候補者のもので、「政党が離合集散のなか1世紀近い歴史に試された党」とか自慢しているのだが伝統を誇る革新政党ってなんだ。科学的社会主義(理性的・科学的にぼくたちの言っていることは正しいんだよ)なんだからバーク流の時効理論(人間理性には限界があるので歴史の試練に耐えて生き残ったものを正しいと思うしかないよ)とか掲げてちゃダメだろう。 まあ革新陣営の伝統芸能化というか、守旧を掲げる「革新」と変革を呼号する「保守」という日本政治のねじれ現象を体
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