サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
2024年ランキング
www.at-akada.org
* 哲学入門 理論構築をベースにした哲学入門ってないかな。 ここで「理論構築」ということで考えているのは比較的テクニカルなものからもう少しゆるいものまで幅広い対象を念頭に置いている。 今適当に思いつくままに書くと、指示の因果説、二次元意味論、超付値による解決、四次元主義。「理論をつくって解決しよう」というのは、分析哲学のわりと重要な部分であるような気がするのだけど、それを平易に説明して、何なら「きみもつくってみよう」というくらいの本は無いだろうか。 哲学における「理論」というものがもっている独特の役割を知りたいと思ってもいる。 * 哲学に対するよくある誤解 哲学に対するよくある誤解のうち、大きなものの1つは「哲学者の仕事は新しい魅力的な世界観を提示することだ」というものではないだろうか。 しかし、大半の哲学者は(分析哲学者はといった方がよいかもしれないが)、それが自分の仕事だと考えてはいな
読書会のレジメをおきます。 元論文はドラフトがWebで公開されてます。 http://www.acsu.buffalo.edu/~jbeebe2/Constraints%20on%20Skeptical%20Hypotheses.pdf Beebe "Constraints on Skeptical Hypotheses" The Philosophical Quarterly Vol.60 No.240 *懐疑論に関する関心の移り変わり 伝統的な懐疑論の問題設定 -知識の基礎付け -カント的問題(認識はなぜリアリティと接触を持てるのか) 最近の懐疑論の問題設定 -知識のパズル --いくつかの常識的な仮定から、馬鹿げた結論が出てきてしまうという意味での哲学的パズル --知識に関する理解が問題 *問題意識 -過小決定underdeterminationの問題 過小決定: 経験だけからは1つの
■ 生活 卒業しました(この支配から)。 あと約2年つづけた仕事も今日で最終日でした。 特に言うことはないのだが、まあ書いておくとよいかなと思ったので書いておく。実に3月ですね。 ■ 学習 素人目にも相性がよさそうだなあと思っていたが、やはり確率論と論理学の意味論、とくに可能世界意味論はそっくりだなあ。 読み換え表をつくっておくとわたしが確率の勉強をしやすいので読み換え表をつくっておこう。 おれ用。 確率論 - Wikipedia 標本空間Ω => 論理空間(可能世界全体の集合W) 標本空間の元ω => 可能世界w 事象event => 命題 / 事態 根源事象 => 原始命題 事象すべての集合F => 命題すべての集合? Fが加算加法族、という条件は、論理式の再帰性、つまり「P, Qが論理式であれば『PまたはQ』も論理式である」に相当するものだな。 確率測度 => 付値関数(まあ、ここは
つづくかどうかわからないが読書メモをとることにした。 最近の関心 - 自己知識 - 他人の心 / 独我論 - 懐疑論 * Lewis, David, 'Attitudes De Dicto and De Se' -http://philpapers.org/rec/LEWADD 読んでいなかったので読んだ。 命題的態度について、(1)命題をつかってうまくいく場合は、性質でもうまくいく。(2)命題でうまくいかないのに性質でうまくいく場合がある、ということで、性質をつかった態度の理論を推す。 途中の2人の神の思考実験がすばらしい。世界に2人の神がおり、2人の神の内、ひとりは最も高い山の上でマナを投げつづけている。もうひとりは最も寒い山の上で稲妻を投げつづけている。ふたりとも全知なので、この世界で成り立つすべての命題を知っている。しかしなお彼らには、まだ知らないことがある。彼らは、自分が2人の内
- Duncan Pritchard, "What is this thing called Knowledge?" この本は学部生向けの認識論の教科書です。日本語で(分析的)認識論を解説した本があまりないので、この本を読んでいました。認識論についていいかげんなことを書いてしまいがちなのでちょっとは勉強しようという試みです。 なお、これは笠木さんのブログで紹介されていた本です。ちなみに、ゲティアケースについても笠木さんがもっとちゃんとした記事を書いているので、まじめに関心のある人はそっちを読んだ方がよいですよ。 この本は非常にうすくて内容もやさしいのですが、「知識の定義」や「合理性」「懐疑論」といった認識論の主要な問題はもちろん、「知識の価値」「徳認識論」や、めずらしいところでは「道徳的知識」など、比較的新しい(らしい)テーマも含んでいます。 そんなわけで非常によい本なんですが、読んでいた
* 美的価値と倫理的価値 twitterで芸術作品の美的価値と倫理的価値の話をしていたのですが、意外と反響があったので、参照点とすることを目的に、少しだけ整理を残しておきます。最初にしていた話はtogetterにまとめてくれた人がいたので以下を参照してください(直接は関係ないのですが)。 http://togetter.com/li/139909 問題になっているのは「倫理的に良い部分が作品を美的によいものにすることがあるか」「倫理的に悪い部分が作品の美的に悪いものにすることがあるか」という美学上の論争です。 以下は、 Aesthetics and the Philosophy of Art: An Introduction (Elements of Philosophy) の12章に従ってまとめます。 Steckerはこの議論にかかわる陣営を3つに分けています。 :自律主義(autono
ひさびさにログインしたら、ずいぶん長いこと放置してたみたいでごめんなさい。 このあいだ「ゆるふわ形而上学特別編」ということで、小規模な研究会を行ないました。 そこで「害の哲学」というテーマで発表させてもらったので、その原稿を共有します。 https://docs.google.com/document/d/1nK8Igise5qUF3vOMadpXTiqBziMFw3C8UfIbxsj3Zy0/edit?hl=en 災害とか、事故みたいな「害」についての哲学的議論を扱ってます。 個人的には、害の哲学は、価値、道徳、様相、出来事の存在論、行為などが絡みあうおもしろい分野だと思うのですが、日本で研究してる人はまだあまり見かけないので、ぜひそのおもしろさだけでも知ってもらえればこれにまさるよろこびはありません。
オースティン 『知覚の言語―センスとセンシビリア』 J.L.オースティン(著), 丹治信春(訳), 守屋唱進(訳) ■あらすじ エイヤーの『経験的知識の基礎』などを批判することで、認知主義にケチをつけようと思う。 「物質的なものを知覚する」という言い方はおかしい。 知覚されるものが物質だけだって誰が決めた? われわれが知覚するものには、「人間、人間の声、川、山、炎、虹、影、映画のスクリーンの上の像、本の中や壁の上の絵、湯気、ガス」などがあるわけだが、これらのうちのどれが物質でどれが物質でないのかちゃんと考えたことがあるのか。 「物質を直接的に知覚することはできない」というのは嘘だ。 「間接的に知覚する」ってどういう意味よ? 「間接的に知覚する」というのは「望遠鏡で見る」「色眼鏡で見る」「カーテンに映った影を見る」「鏡に映った像をみる」などといった場合に使われる表現だが、あいにくこれらのケー
私はバベルの図書館を実現する方法を思いついた。 思いついたきっかけは正岡子規 ( だったと思う ) の言葉である。 これは確か柄谷行人の『日本近代文学の起源』で読んだので、孫引きの上、本が見つからないのでうろおぼえで引用する。 正岡子規は「短歌や俳句は文字の組合せが有限なので明治のうちにすべてのパターンが書かれ尽くされるだろう」といった主旨のことを言っていたのだ。この発言はもちろんおかしい。より文字数が少ない俳句 ( 17 字 ) にしても単純計算で、46 の 17 乗* という相当な数の組み合わせが存在する。今計算したところ存在しうる俳句は、18487710785295216663082172416 首もあるらしい。この大部分は無意味な文字列であり、とても俳句とは呼べないわけだが。少なくとも明治のうちに短歌や俳句が尽き果てるようなことはなかった。 * 濁音、半濁音、小さな文字は除いて 4
* 前置き 架空の裁判状況を考えましょう。 裁判官がわたしに質問します。「5月12日の午後7時頃、確かにその男を東京で見たのか」と。 「見た」とわたしは答えますが、裁判官はさらに疑いの念を向けてきます。 「本当は夢で見たのではありませんか? そのとき自分が見ていたものが夢でないと確認することができますか?」と。わたしは何と答ええるべきかわからなくなって沈黙します。 現実の裁判で裁判官が夢の可能性について疑いはじめることがどれだけあるのかわかりませんが、『インセプション』のなかでなら、「これは夢かもしれない」という疑いはありふれたものです。日常的な状況で「それは夢だったかもしれない」と言うことは哲学的なジョーク以上のものではないかもしれませんが、『インセプション』のような状況に置かれれば、われわれはまったく自然に「これは夢かもしれない」と疑います。哲学的疑問「これは夢かもしれない」と『インセ
「xxxすることがどれだけのoooを傷つけるか考えろ」というような論調について考える。 ■ 前置き まずちょっと遠まわりになるが以下のような法則について考える。 [L] eをすることがAに害を為すと知っていて、かつ意図的にeをした場合、eをすることによって意図的にAに害を為したかのような雰囲気になる という法則があるのではないかと思う。 たとえば靴紐アレルギーのAさんという人がいて、目の前で靴紐を結ばれると全身に紫色の斑点を生じ地獄のような痛みを感じるとする。わたしはAさんが靴紐アレルギーであることを知っていてかつ意図的に靴紐を結んだ。別にAさんに害をなしたかったわけではないが、靴紐がほどけているのが気になって仕方なかったので、Aさんがどうなろうと知ったことかと思って靴紐を結びなおした。 当然のごとくAさんは全身に斑点を生じさせ地獄のような痛みを感じる。このときわたしはただ靴紐を結びなおし
昨日の記事を書いていてちょっと思いついたこと。 -[1]Kennedy, Chris "Vagueness and Grammar" http://semantics.uchicago.edu/kennedy/docs/vaguenessandgrammar.html この文献で、著者は不正確性と曖昧性を区別している。 あまり定義ははっきり述べていないが、「不正確だが曖昧でない」語もあるということ。 例としてあげられているのは(絶対的段階的形容詞と呼ばれているのだが)、dry, transparent, bent, straightなど。 これらは比較の形でも使えるが、肯定形でふつうに使うときは曖昧でない。 >> 1. この棒はbentだ << >> 2. この棒はstraightだ << 一番素朴な読みを採用すると、棒がちょっとでも曲ってたら1は真になるし、2は偽になる。 あるいは、 >
先日「抽象的な話をする会(抽象会)」というものを開きました(3回目です)。抽象的なテーマについて議論し、最終的には多数決で結論を出すという趣旨の会です。 そのときのテーマのひとつに「絶対的に大きなものはあるか」という問題をあげました。これについては、わりと議論も用意していたのですが、当日あまり説明しきれませんでした。説明しきれなかった悔いと、考えていたことのログを残したいという思いと、まとめておけば誰かコメントをくれるかもしれないという思いをこめ、まとまった記事として残すことにしました。 なお、抽象会のログは以下で見ることができます。 http://youkoseki.com/diary/2010/05/05#p5 (書いてたら、やたらと時間がかかった上に長くなってしまいました。かくも細かく、切迫性もほとんど無いテーマに興味をもつ人がどれだけいるのかわかりませんが、公開はしておこうと思いま
■ 熱 熱は少し下がったが、まだ38.1度。 ■ 発見 「ネット」っていう人はふつうのネットが好きな人。 「Web」とか「WWW」っていう人はビジネスの人。だからきっと「Web 2.0」はお金のにおいがする単語なんだよ(ちがうかも)。 ■ 今日知ったショートカット Alt(アルトキー)押しながら Drag&Drop でショートカット作成 変換後 Ctrl+Back space で再変換 Ctrl + Home で文書冒頭、Ctrl + End で文書末尾。 Ctrl + Shift + Home で冒頭まですべて選択、Ctrl + Shift + End で末尾まですべて選択。 ■ 読書 『地球の長い午後 (ハヤカワ文庫 SF 224)』 ブライアン W.オールディス(著), 伊藤典夫(訳) ハヤカワSF(早川書房)、1977 シャブ漬けで書いたナウシカって感じ。 すごくおもしろかった。発
Peter Lamarque, "The Death of the Author: An Analytical Autopsy," British Journal Of Aesthetics, 40:4(1990), pp. 319-31. Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology, ed. Peter Lamarque, Stein Haugom Olsen(Blackwell, 2003), pp. 433-41. Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies) ラマルク「作者の死 - 分析的検死」という論文を
皆様、愛していますか。 つい気持ち悪い挨拶をしてしまいましたが、今日はバレンタインデーなので(24時すぎましたけど)、以前より関心のあった 愛の哲学について少しだけまとめてみます。 日本には、愛を哲学的に研究している人はあまりいません。哲学史家の人が、プラトンの愛の概念について述べていたり、バタイユのエロティシズムについて述べていたりなどの事例が少しあるくらいのものです。 しかし英語圏の分析哲学の世界では、愛の研究というのはそれなりにさかんです。主として倫理学的関心から論じられることが多いようですが、哲学史研究ではなく、愛そのものの哲学的研究がかなりの数存在します。 スタンフォード哲学事典の「love」の項目を中心にいくつかの論文を読んだので、それを中心にまとめます。 http://plato.stanford.edu/entries/love/index.html 「愛」のようなきわめて
■ 感想 ふだんのゆるふわ形而上学読書会メンバーと数名で開催。 本の性格を考えると、文学系の人が来てくれたのは大変よかったですね。わたしも文学理論や文学の哲学の話は元々の関心ではあるんだけど、ふだんあまりその話をする機会がないので、そういう話がいっぱいできて満足。 なお、3月には著者さまを呼んで開催する公式検討会もある予定だよ! ■ 『フィクションの哲学』について 前半「作者と語り手の分離」という定式化は二つに分裂してないか? 1つは、物語的な語りの特徴として捉えられた「視点の分離」(あまりうまく表現できない) もう1つは、単純に「わたし」が誰を意味するか。および真偽の追求先が誰にあるか ノンフィクションは前者は満すけど、後者は満さないよね。 この本は、重要な主張が変なところにさらっと出てくる。 しかもかなり大胆な主張してるよね。 この本の特徴付けだと、私小説って扱いがたくない? ウォルト
あしたの検討会のためのレジメです。 検討会で人に見せたら変更したくなると思うけど取りあえずアップしておきます。 書き方がえらそうでごめんなさい。 ■ 本書の目的 「フィクションの概念分析」 ■ フィクションの概念分析とは何か 「フィクション」という概念に関する諸原理を明らかにする。 ただし、 「フィクション」は多義的である。 たとえばフィクションには以下のような相異なる意味がある。 (1)虚偽 (2)実在と対応しないもの (3)文学作品 本書は、 (3)の意味を基本としつつ、 より包括的で より見通しのよい フィクション概念を提案する。 より包括的であるとはどういうことか? 絵画、彫刻、演劇、映画などの非言語的作品も包括する。 より見通しのよいとはどういうことか? 問題領域についてよりよい理解が得られる 一貫したシンプルな原理によってフィクション概念の本質を捉える フィクションにかかわる諸
形而上学レッスン―存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド (現代哲学への招待Basics) Riddles of Existence: A Guided Tour of Metaphysics 論争ばかりしているのもどうかと思ったので本の紹介でも(いや、論争は論争でたのしいし有益ですよ)。 ついに、日本語で(比較的)平易に読める「(分析哲学的)形而上学の入門書」がでました。すばらしい! 売れてほしいので紹介しておきます。 これはこの分野に関心があれば(なくても関心のあるトピックがあれば)、必読ではないですかね。 以下のようなトピックについて、主流の説いくつかとそれを批判する論点が紹介されています。 日本語の最近の入門書などは、どの分野でも文献紹介がきちんとしてないものも多く非常に遺憾ですが、この本は文献紹介も各章ごとについています。興味のあるトピックがあれば、その章だけ読むこともできますし、各
少し間が空きましたが、こみやさんへの返事をまとめます。前のエントリーのコメント欄は長くなりすぎたのでこちらで。 http://www.at-akada.org/blog/2009/12/post-293.html 以下構成としては、(1)補足的な論点、(2)両者の立場の定式化、(3)わたしの立場を擁護する議論という順に進めます。 ■ 「行為・理由・原因」 こみやさんの念頭にあったのはもともとデイヴィドソンの「行為・理由・原因」という論文の議論だったと思うのですが、わたしはずいぶん前に読んだまま内容を忘れていたので改めて読み返しました(翻訳ですが)。 もちろんデイヴィドソン解釈について議論していたわけではないのですが、こみやさんはこちらの議論を頭に置いていたと思うので、わたしがこちらを参照しないことで無駄に論点が複雑になってしまったきらいもあるかと思われます。ですからまずこちらについて触れて
主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works) 上の本を読んで取っていたメモ。 ■ ヤマアラシ 日本語の「ヤマアラシ」という語には、「ハリモグラ」や「ハリネズミ」は含まれない。 Wikipediaによれば、 ハリネズミはハリモグラやヤマアラシと混同されやすいが、ハリモグラは単孔目(カモノハシ目)、ヤマアラシは齧歯目(ネズミ目)であり、いずれも系統分類的にはハリネズミとは無関係である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ハリネズミ さて今、わたしがそのことを知らず、ヤマアラシを前にして、「ハリネズミがいる」とつぶやく。 わたしは「ヤマアラシ」と「ハリネズミ」の区別を知らず、ハリのある哺乳類は皆「ハリネズミ」と呼ばれるのだと思っている。つまりわたしは、この言葉は、「ハリのある哺乳類」というくらいの意味だと思っている。 私は、「ハリネズミがいる」と思
某所でこみやさんと議論になったのでそれについて書きます。 多くの人にとっては、「こみやさん」との議論も読めませんし、「こみやさん」も知りませんし、意味がわかりにくいでしょうが、主としてこみやさんへの返答を意図しています。 テーマは、「心的なもの(あるいは命題的態度)は原因になりえるか」です。 わたしは「心だって物事の原因になる派」。こみやさんは「心は物事の原因にならない派」です。 正確に言えば、こみやさんの結論は、「行為の説明は因果関係による説明になっていなければ説明として完結していないというデイヴィドソンの主張はおかしい」という部分にあるようです。 これについては、わたしはまだ主張の要点がよくわかっておりませんので判断は保留します。 ただ、その結論を述べる過程で、こみやさんは、「心は原因にならない」という立場をとっておられるようです。また「彼は怒ったので急に立ち上がった」のような日常的な
■ 現代(の)美学を大いに盛り上げる人たちの団3回目:「グッドマンの美学」 グッドマンの美学 - スタンフォード哲学百科事典 http://plato.stanford.edu/entries/goodman-aesthetics/ 最近参加している勉強会。レジュメをここにもあげておくので興味ある人はどぞ。 (長いので、「つづきを読む」のところにあげておく)。 ちなみに内容は、ほとんどただの箇条書きによる要約。 以下、勉強会後に気づいたことをメモ。自分用。 「例示exemplification」はしばしば「象徴symbol」と呼ばれる記号概念に似ている。 例示とは 「性質の所有」プラス「指示」である。例: 布見本。見本は、ある性質を持つと同時に、その性質のラベルを指示する。見本にとっては、一部の性質のみが関与的relevant。例えば布見本の場合、例示されているのは、「色」と「質感」だけで
■ 前置き id:kugyoさんと論争をしています。 http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20090509/1241807293 論争の一部は、シノハラユウキさんと夏目陽さんの「Twitter本」に掲載されたのですが、わたしとkugyoさんは、ページ数の都合により、この論争はまだ決着を見てないと考えています。そこで「Twitter本」にも書いた通り、Webで論争のつづきをはじめたいと思います。 http://twitter.g.hatena.ne.jp/sakstyle/20090429/1240992769 Twitter本を読んでない方には何が何だかわからないかと思われますが、なるべく周辺事情を丁寧に説明しつつ、論争をつづけるようにしましょう。 ■ 何の論争か この論争は、「@shoukou5」という非存在のTwitterアカウントが「可能的対象」なのか、「虚構的対
Contemporary Debates in Metaphysics (Contemporary Debates in Philosophy) Theodore Sider (編集), John Hawthorne (編集), Dean W. Zimmerman (編集) Blackwell Pub、2007 ゆるふわMetaphysicians勉強会で読んだ論文2つ目。 ずいぶん時間がかかってしまった。 1つ目の論文に関する記事は以下。 http://www.at-akada.org/blog/2008/12/chris-swoyer.html 一応、論文の要約くらいは毎回載せようかと思っているので感想やまとめなど。 (ずいぶん遅れてしまったので、実はもうこの次の論文も読み終わっている)。 本書は、様々なテーマについて対立する立場に立つ2人の著者が文章を寄せた論集。 1章のテーマは、「
InterOntology09 - Interdiciplinary Ontology Forum in Japan 学際オントロジー09、2日目の一部だけですが、参加してきました。 いろいろ考えさせられるおもしろい会でした。感想はいずれ。 (最近まとまった記事を書こうとして時間がなくてなかなかアップできないことが多いので荒書きでもとりあえずアップすることにしようかと思って)。 ちょっとだけ感想追加。 哲学の人や工学の人や医療の人がより集ってオントロジーを論じあうカオティックな国際シンポジウムだった。 個人的にはSimonsやB.Smithなどといった存在論界のビッグスター(何)を間近に見れてミーハー的に感激。 一応わたしもエンジニアなので、工学系の発表も興味深く聞いたが、哲学者との志向の違いをわりとまざまざと見せられ、考えさせられるところは多かった。 たまたま見たのがそうだったのかもしれ
価値判断の相対主義についてのメモ。 Twitterで「生得説が本質主義だとかよくわからんことを言うやつがいるが、むしろ相対主義じゃね?」とつぶやいていたら意外に感じる人が多いようであったし、つぶやいていたらちょっと考えがまとまったのでメモしておく。 主なテーマは「価値判断に関する諸々の立場の整理」および「価値判断の相対主義はいつ深刻なのか」。 この手の議論に詳しいわけではないので的をはずしているかもしれないが、あくまで自分用メモ。 本当はもっと軽い感じでまとめられればよかったが、書いている内にこむずかしい内容になってしまった。 ここで「価値判断」と呼ぶのは、道徳的判断、美的判断などをひっくるめて、「何かを他のものより良いとする」判断のこと。 実際には、「道徳的判断は普遍的だが、美的判断は普遍的じゃない」とか、それぞれの判断について異なる見解が導かれるかもしれないが、とりあえずどんな立場があ
タイトルは再びホッテントリメーカーから。 だいぶ間が空きましたが、先日の記事について、はてなブックマークのコメント欄でやりとりがあったので稿を改めてここに書きます。間に引越しを挟んだのでずいぶん時間が経ってしまった。 まずid:contractioさんから「暮らしの中で解釈が必要となるのはかなり特殊な場面だけではないか」という質問がありました。 (またこれに関連し、Twitter上でいくつかやりとりがありました。以下の記事はこの辺りのやりとりを踏まえたものです)。 それに対し、私は以下のように答えました。 「日常的に意識的な解釈の必要がないのは、すでに言語理解が完了しているからだ」という理屈になるのではないかと。>id:contractio http://b.hatena.ne.jp/at_akada/20090130#bookmark-11885983 これに対し、以下のようなお返事があ
さて、科学の多くは「見えるもの」を観察し、「見えないもの」について明らかにしようとするものである。 デイヴィドソンが「根源的解釈」という状況設定を通じて提案した「デイヴィドソンのプログラム」にも見えるものと見えないものが仮定されている。 わたしの書いた図は上半分と下半分に分かれるが、上半分に置かれた「信念」「欲求」および「言語の意味」が見えないもの、下半分に置かれた「文」と、人と文の関係である「真と見なす」「選好する」が見えるものである。 さしあたって人の頭の中、つまり「信念(事実として受け入れていること)」「欲求(価値付け)」はわからないものと仮定されている。その人が話す言葉もわからないものとして仮定されている。そういう風に状況を設定したのだから当り前だ。 一方、人が「どの文を真と見なしているか」「どの文を良いもの/悪いものと見なしているか」はわかるものと仮定されている。それは言葉の意味
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『http://www.at-akada.org/』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く