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今年の「#文学」
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今世紀にはいってからの科学の進歩には、まことに目ざましいものがあった。とくにこの十年以来、その進歩は、一大飛躍をなし、原子力の開放、人工衛星の打ち揚げなど、人類の歴史の上に、金字塔として残る幾多の事業を為しとげた。 こういう華々しい科学の成果に幻惑された人々の中には、あたかも科学を万能のものとする考え方が、次第に一つの風潮となりつつある。そして科学がさらに数段の進歩をすれば、人間のいろいろな問題が、全部科学によって解決される日が来るかの如き錯覚に陥っている人もあるようである。宇宙時代というような言葉が流行し、それが何か人間を変えることのように思われているのも、その一つの現われである。月や火星の景色を見たり、其処にある資源が利用できる日が来ても、それは百年前に、北極や南極へ行ける日を夢見ていたのと、同じことである。今日では、北極へも南極へも、飛行機ならば、文明圏から、十数時間で行ける。しかし
公開中の作品 AU MAGASIN DE NOUVEAUTES (新字旧仮名、作品ID:53717) BOITEUX ・ BOITEUSE (新字新仮名、作品ID:53691) LE URINE (新字旧仮名、作品ID:53692) ▽ノ遊戯―― △ハ俺ノ AMOUREUSE デアル(新字旧仮名、作品ID:53693) 朝 (新字旧仮名、作品ID:53782) 異常ナ可逆反応 (新字旧仮名、作品ID:53694) 運動 (新字旧仮名、作品ID:53695) 街衢ノ寒サ ――一九三三 二月十七日ノ室内ノコト――(新字旧仮名、作品ID:53783) 悔恨ノ章 (新字新仮名、作品ID:53794) 顔 (新字旧仮名、作品ID:53696) 狂女の告白 (新字旧仮名、作品ID:53698) 距離 (女去りし場合)(新字旧仮名、作品ID:53784) 空腹―― (新字旧仮名、作品ID:53700)
この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫)
1 小穴隆一(をあなりゆういち)君(特に「君」の字をつけるのも可笑(をか)しい位である)は僕よりも年少である。が、小穴君の仕事は凡庸(ぼんよう)ではない。若し僕の名も残るとすれば、僕の作品の作者としてよりも小穴君の装幀(さうてい)した本の作者として残るであらう。これは小穴君に媚(こ)びるのではない。世間にへり下(くだ)つて見せるのではなほ更ない。造形美術と文芸との相違を勘定(かんぢやう)に入れて言ふのである。(文芸などと云ふものは、――殊に小説などと云ふものは三百年ばかりたつた後(のち)は滅多(めつた)に通用するものではない。)しかし大地震か大火事かの為に小穴君の画も焼けてしまへば、今度は或は小穴君の名も僕との腐(くさ)れ縁(えん)の為に残るであらう。 小穴君は神経質に徹してゐる。時々勇敢なことをしたり、或は又言つたりするものの、決して豪放(がうはう)な性格の持ち主ではない。が、諧謔(かい
門野(かどの)、御存知(ごぞんじ)でいらっしゃいましょう。十年以前になくなった先(せん)の夫なのでございます。こんなに月日がたちますと、門野と口に出していって見ましても、一向(いっこう)他人様(ひとさま)の様(よう)で、あの出来事にしましても、何だかこう、夢ではなかったかしら、なんて思われるほどでございます。門野家へ私がお嫁入りをしましたのは、どうした御縁からでございましたかしら、申すまでもなく、お嫁入り前に、お互(たがい)に好き合っていたなんて、そんなみだらなのではなく、仲人(なこうど)が母を説(と)きつけて、母が又私に申し聞かせて、それを、おぼこ娘の私は、どう否(いな)やが申せましょう。おきまりでございますわ。畳にのの字を書きながら、ついうなずいてしまったのでございます。 でも、あの人が私の夫になる方かと思いますと、狭い町のことで、それに先方も相当の家柄なものですから、顔位は見知ってい
小説家・翻訳家・評論家。1903(明治36)年、東京牛込に生まれる。一高理科に入学し、堀辰雄を知って文学への関心が高まり、東京外国語露語科に転学。卒業後、北大図書館に勤めながら創作を志し、ソ連通商部を経たあと文筆生活に入る。ロシア語はもとよりフランス語にも長け、プーシキン、ツルゲーネフ、ガルシン、チェーホフ、ゴーリキー~バルザック、ジード、シャルドンヌらの諸作品を翻訳する。とくにチェーホフ作品は、その彫琢された文章によって名訳の誉れが高い。これらの業績から翻訳家として有名になったが、小説も寡作ながら「垂水」「灰色の眼の女」「少年」など、高踏的な凝った文体で書いた。応仁の乱を題材にした「雪の宿り」は自らの戦争体験を重ね合わせた歴史小説の逸品。博学で和洋の文学に造詣深く、「散文の運命」「チェーホフ試論」などの評論がある。1957(昭和32)年、舌癌により鎌倉で死去。享年53。 「神西清」
見かけだけは肥って居るので、他人からは非常に頑健に思われながら、その癖(くせ)内臓と云う内臓が人並以下に脆弱(ぜいじゃく)であることは、自分自身が一番よく知って居た。 ちょっとした坂を上っても、息切れがした。階段を上っても息切れがした。新聞記者をして居たとき、諸官署(しょかんしょ)などの大きい建物の階段を駈け上ると、目ざす人の部屋へ通されても、息がはずんで、急には話を切り出すことが、出来ないことなどもあった。 肺の方も余り強くはなかった。深呼吸をする積りで、息を吸いかけても、ある程度迄吸うと、すぐ胸苦しくなって来て、それ以上はどうしても吸えなかった。 心臓と肺とが弱い上に、去年あたりから胃腸を害してしまった。内臓では、強いものは一つもなかった。その癖身体だけは、肥って居る。素人(しろうと)眼にはいつも頑健そうに見える。自分では内臓の弱いことを、万々承知して居ても、他人から、「丈夫そうだ/\
2018年12月8日、尾道市立大学日本文学科・尾道市立大学日本文学会共催第10回おのみち文学三昧内で行われた「尾道を読む、尾道を書く。」と題された特別講演の際、円城塔、澤西祐典、福永信の三名が競作した原稿。完成版が『すばる』誌に「競作 尾道を書く」として掲載された。(円城塔)
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。 「夏目漱石」
底本には、以下の諸篇がおさめられています。 「01 訳者のことば」(新字新仮名) 神吉三郎 「02 森の生活――ウォールデン――」(新字新仮名) ヘンリー・デイビッド・ソロー なお、「02 森の生活――ウォールデン――」には底本どおり「01 訳者のことば」を納めています。 ※公開に至っていない場合は、リンクが機能しません。
「純真」なんて概念は、ひょっとしたら、アメリカ生活あたりにそのお手本があったのかも知れない。たとえば、何々学院の何々女史とでもいったような者が「子供の純真性は尊い」などと甚だあいまい模糊(もこ)たる事を憂い顔で言って歎息(たんそく)して、それを女史のお弟子の婦人がそのまま信奉して自分の亭主に訴える。亭主はあまく、いいとしをして口髭(くちひげ)なんかを生やしていながら「うむ、子供の純真性は大事だ」などと騒ぐ。親馬鹿というものに酷似している。いい図ではない。 日本には「誠」という倫理はあっても、「純真」なんて概念は無かった。人が「純真」と銘打っているものの姿を見ると、たいてい演技だ。演技でなければ、阿呆である。家の娘は四歳であるが、ことしの八月に生れた赤子の頭をコツンと殴ったりしている。こんな「純真」のどこが尊いのか。感覚だけの人間は、悪鬼に似ている。どうしても倫理の訓練は必要である。 子供か
ただいま朗読利用や朗読配信についてのお問い合わせを数多く受けておりますが、青空文庫は限られたボランティアで運営しているため、現状なかなかひとつひとつに丁寧なお返事を差し上げることができません。 そこで、恐縮ながらこのページのお知らせをもって回答に代えさせていただきます。 Q:青空文庫にある作品を朗読したいのですが…… A:「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」(https://www.aozora.gr.jp/guide/kijyunn.html)に従って、どうぞご活用ください。 「青空文庫FAQ」(https://www.aozora.gr.jp/guide/aozora_bunko_faq.html#midashi1060)より 青空文庫に収録されている著作権保護期間満了した作品については、事前の許諾なく、有償無償を問わずご利用いただけます。著作権保護期間中の作品であっても、広く自由利
緑の蛙(かえる)と黄色の蛙(かえる)が、はたけのまんなかでばったりゆきあいました。 「やあ、きみは黄色だね。きたない色だ。」 と緑の蛙(かえる)がいいました。 「きみは緑だね。きみはじぶんを美しいと思っているのかね。」 と黄色の蛙(かえる)がいいました。 こんなふうに話しあっていると、よいことは起(お)こりません。二ひきの蛙(かえる)はとうとうけんかをはじめました。 緑の蛙(かえる)は黄色の蛙(かえる)の上にとびかかっていきました。この蛙(かえる)はとびかかるのが得意(とくい)でありました。 黄色の蛙(かえる)はあとあしで砂(すな)をけとばしましたので、あいてはたびたび目玉から砂(すな)をはらわねばなりませんでした。 するとそのとき、寒い風がふいてきました。 二ひきの蛙(かえる)は、もうすぐ冬のやってくることをおもいだしました。蛙(かえる)たちは土の中にもぐって寒い冬をこさねばならないので
化学調味料は近来非常に宣伝されているが、わたしは化学調味料の味は気に入らない。料理人の傍らに置けば、不精からどうしても過度に用いるということになってしまうので、その味に災いされる。わたしなどは化学調味料をぜんぜん調理場に置かぬことにしている。化学調味料も使い方でお惣菜的料理に適する場合もあるのだろうが、そういうことは純粋な味を求める料理の場合には問題にならない。今のところ、純粋な味を求める料理のためには、なるだけ化学調味料は使わないのがよいと思う。上等の料理、最高の料理には、わたしの経験上化学調味料は味を低め、かつ味を一定していけないようだ。こぶなりかつおぶしなりのだしで自分流に調味するのがいちばんいい。 たとえ化学調味料がいいとしても、物にはそれぞれ千差万別の持ち味があるのだから、こればかりは人間の力ではどうすることもできないものだといえよう。それを化学調味料という一つの味で、日本料理・
第一章 歴史の概念「哲學年誌」岩波書店、1931(昭和6)年12月 第二章 存在の歴史性「思想 第一一五号」岩波書店、1931(昭和6)年12月 第三章 歴史的發展〜第六章 歴史的認識「歴史哲學」續哲學叢書、岩波書店、1932(昭和7)年4月
世界はそれぞれの時代にそれぞれの課題を有し、その解決を求めて、時代から時代へと動いて行く。ヨウロッパで云えば、十八世紀は個人的自覚の時代、所謂個人主義自由主義の時代であった。十八世紀に於ては、未だ一つの歴史的世界に於ての国家と国家との対立と云うまでに至らなかったのである。大まかに云えば、イギリスが海を支配し、フランスが陸を支配したとも云い得るであろう。然るに十九世紀に入っては、ヨーロッパという一つの歴史的世界に於てドイツとフランスとが対立したが、更に進んで窮極する所、全世界的空間に於て、ドイツとイギリスとの二大勢力が対立するに至った。これが第一次世界大戦の原因である。十九世紀は国家的自覚の時代、所謂帝国主義の時代であった。各国家が何処までも他を従えることによって、自己自身を強大にすることが歴史的使命と考えた。そこには未だ国家の世界史的使命の自覚というものに至らなかった。国家に世界史的使命の
下ビルマのモールメンにいた頃、私は大勢の人たちから憎まれていた――生涯でただ一度、憎悪に足るだけの要職に就くことになったわけだ。町の分署の警官だった私に、無目的で狭量な反欧州的感情はひどく辛かった。彼らに暴動を起こすまでの根性はなかったが、ヨーロッパ人女性が一人でバザールを通りがかろうものなら、たぶんドレスに蒟醤(*1)を噛んだ唾を吐きかけられることになっただろう。警官たる私は明白なターゲットで、やっても大丈夫そうな場合はいつでも苛められていた。はしっこいビルマ人がサッカー場で私を蹴躓かせ、審判(これもまたビルマ人)があらぬ方を見ていた時、群衆は胸糞悪い哄笑でこれを歓迎した。それが一度きりではなかったのだ。私の後を難の及ばぬ距離だけ離れて侮蔑のヤジが付きまとい、そこいら中にいる若者連の黄色い嘲り顔がいたく神経に障るようになった。中でも最悪だったのが仏教の若い僧たちだ。町にはそんなのが何千人
「改造 新年号 第十八巻第一号」1936(昭和11)年1月1日 「改造 七月特大号 第十八巻第七号」1936(昭和11)年7月1日
畏友Y兄から、いつか面白い言葉をきいたことがある。それは「日本人はどうも抗議(プロテスト)する義務を知らないから困る」というのである。 これはなかなか味のある言葉で、何か不正なことがあった場合に、それに抗議を申し込むのは、権利ではなくて義務だというのである。 例えば、電車に乗る場合に、乗客が長い列を作って待っている。やっと電車が来て、乗客が順々に乗り込む。その時脇からうまくその列に割り込んで、電車に乗ってしまう人がよくある。そういう時に、特に婦人の場合などには、自分の前に脇から一人くらい割り込んで来ても、一寸いやな顔をするくらいで、そのまま黙ってその人について乗ってしまうことがよくある。 この場合、その人はもちろん「横から割り込んではいけません」と抗議を言うべきなのである。それを、ずるずるに黙許してしまうことは、一つの道徳的な罪悪であることを、よく承知すべきである。一人くらいのことに、無闇
海岸の小さな町の駅に下りて、彼は、しばらくはものめずらしげにあたりを眺めていた。駅前の風景はすっかり変っていた。アーケードのついた明るいマーケットふうの通りができ、その道路も、固く鋪装(ほそう)されてしまっている。はだしのまま、砂利(じゃり)の多いこの道を駈(か)けて通学させられた小学生の頃(ころ)の自分を、急になまなましく彼は思い出した。あれは、戦争の末期だった。彼はいわゆる疎開児童として、この町にまる三カ月ほど住んでいたのだった。――あれ以来、おれは一度もこの町をたずねたことがない。その自分が、いまは大学を出、就職をし、一人前の出張がえりのサラリーマンの一人として、この町に来ている……。 東京には、明日までに帰ればよかった。二、三時間は充分にぶらぶらできる時間がある。彼は駅の売店で煙草(たばこ)を買い、それに火を点(つ)けると、ゆっくりと歩きだした。 夏の真昼だった。小さな町の家並みは
コレラの伝染様式について ON THE MODE OF COMMUNICATION OF CHOLERA (1854) ジョン・スノウ John Snow 水上茂樹訳 この本の第1版は1849年の8月に出版されたものであるが、薄いパンフレットに過ぎないものであった。その時から後で、私はこの主題について種々の論文を書き医学会で話したり医学雑誌に刊行した。この版はこれらのすべての論文の内容だけでなく新事実を含んでおり、これらの大部分は私の最近の調査の結果である。 この調査のために戸籍本署長官がいろいろと便宜をはかってくださったことにたいして、私はこの機会にあたり感謝を捧げる。 今回の研究にたいしても、コレラの原因を確かめるために私が行った過去の努力に与えてくださったのと同じような親切な配慮を、医学界の皆様が私に与えてくださるであろうことを確信している。 アジア型コレラの存在は1769年以前には
愈(いよいよ)東京を発つと云う日に、長野草風氏が話しに来た。聞けば長野氏も半月程後には、支那旅行に出かける心算(つもり)だそうである。その時長野氏は深切にも船酔いの妙薬を教えてくれた。が、門司から船に乗れば、二昼夜経つか経たない内に、すぐもう上海(シャンハイ)へ着いてしまう。高が二昼夜ばかりの航海に、船酔いの薬なぞを携帯するようじゃ、長野氏の臆病も知るべしである。――こう思った私は、三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯に登る時にも、雨風に浪立った港内を見ながら、再びわが長野草風画伯の海に怯(きょう)なる事を気の毒に思った。 処が故人を軽蔑した罰には、船が玄海にかかると同時に、見る見る海が荒れ初めた。同じ船室に当った馬杉(ますぎ)君と、上甲板の籐椅子に腰をかけていると、舷側にぶつかる浪の水沫(しぶき)が、時々頭の上へも降りかかって来る。海は勿論まっ白になって、底が轟々(ごうごう)煮え返っている。
社会思想研究会出版部のすすめによって、私の随筆の中から、探偵小説のトリックを解説したものを集めてみた。トリックについては、私は別に「類別トリック集成」(早川書房版『続幻影城』に収む)というものを書いているが、これは探偵小説に慣れた人々のための項目書きのようなもので、一般の読み物としては不適当なので、本書にはその目次のみを参考として巻末に加え、内容全部はのせなかった。のちに、その「トリック集成」の部分部分を、もっとわかりやすい書き方にした随筆が幾つかあるので、ここにはそれらを集め、ほかに類縁の「魔術と探偵小説」「スリルの説」などを加え、さらに本書のために新らしく「密室トリック」三十五枚を書き下して、首尾をととのえた。 「類別トリック集成」は八百余の各種トリックを九つの大項目にわけて解説したものだが、それらの項目と本書の随筆との関係を左にしるして御参考に供する。これには巻末の「類別トリック集成
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