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GHQ焚書リストの中で支那大陸に住んで長い間活動をしていた人物の著作を探していたら、たまたま須藤理助の著書『満蒙は併合せよ: 附・南支問題の真相』という本が見つかった。 須藤理助は日露戦争の時に陸軍軍医中尉として支那に渡り、終戦後も何度も支那に渡って士官学校の教官役となったり、軍の参謀長として作戦行動を補佐したり軍医中将の待遇で支那から招かれたこともあり、晩年には南京の日本人居留民のまとめ役など異色な経歴の持ち主である。通算三十年以上支那で生活し、この本の大部分は支那及び支那人の分析なのだが、この本がなかなか面白いので一部を紹介させていただくこととしたい。 群雄割拠の支那 須藤理助は支那は統一国家ではなかったことを明快に述べている。松岡洋右の国連演説に於いても同様の主張がなされていたが、戦前の日本人は多くの知識人が語っていた支那の実態を、戦後の日本人のほとんどが知らされておらず、わが国が支
GHQ焚書の中から「資源」をキーワードにして本を探すと、様々な国の様々な資源について個別具体的に詳述している本が多いのだが、少年少女向けに書かれた『軍需資源読本』という本は非常にわかりやすく読みやすいので少し紹介させていただく。 軍需産業読本 『軍需資源読本』の著者・秋月俊一郎という人物については、この本の奥書の著者名の下に「国際親善協会理事・現在」と書かれているだけで、他に手掛かりになる記述は見当たらず、Wikipediaなどのネット情報は皆無である。 また「国立国会図書館デジタルコレクション」で著者名に「秋月俊一郎」と入力して本を探すと、他には1949年に出版された『よみもの天皇記』という本があるだけだ。この著作を少し読めばわかるのだが、天皇家についてこんなことを書けば、戦前戦中ならば不敬罪に問われてもおかしくない内容なのである。 松原宏遠 『科学の四季』より 果たして、『よみもの天皇
張学良はなぜ山海関事件を起こしたか 前回の「歴史ノート」で、一九三二年十一月二十一日から開催された満州問題に関する国際連盟理事会において日本全権松岡洋右との論戦に勝てず、英仏が日本を支持する側に廻ったことを不満とした支那が、国際連盟に参加していないアメリカやロシアに接近して日本を牽制しようと動き出し、アメリカから飛行機五百機を購入し、担保として支那の東海岸一帯を米国海軍根拠地に提供したと新聞に報じられていることを書いた。 「神戸大学新聞記事文庫」外交120-215 また十二月二十二日の大阪時事新報は、張学良が国際連盟にみきりをつけて、自ら戦闘準備に入ったことを報じている。 そして翌一九三三年の正月早々に、万里の長城の東端の山海関さんかいかんにある日本憲兵分遣所等に何者かが手榴弾を投じ、さらに小銃射撃を行った事件(山海関事件)が起きた。さらに翌二日には日本軍守備隊が南門で中国軍から突如射撃さ
日本精糖業の父・鈴木藤三郎の伝記『銃眼のある工場』 GHQ焚書のリストから「鉱(業)」あるいは「工(業)」に関する本を探していると『銃眼のある工場』という本が引っかかった。題名が気になったので少し読んでみると、「日本精糖業の父」と言われる鈴木藤三郎の伝記小説である。 鈴木藤三郎 Wikipediaより 鈴木藤三郎は安政二年(1855年)に古着商・太田文四郎の子として遠江国周智郡森町村(現・静岡県周智郡森町)に生まれ、五歳の時に菓子商・鈴木伊三郎の養子となり、十三歳から菓子の行商を手伝い、十九歳で鈴木家を継いだという。明治十六年(1883年)に純白な氷砂糖の製法を見出し、明治二十三年に真っ白な精製糖製造に成功し、翌年に砂糖製造機を発明している。当時わが国では精製されていない黒砂糖が作られていただけで、支那から輸入されていた氷砂糖は茶色のものであり、少し高級な氷砂糖や白砂糖は海外から輸入するし
前回の「歴史ノート」で、一九三一年のアメリカの対支輸出額が、それまで首位であった我が国を抜いて一位になったことを書いた。このことは支那で行われた日貨排斥運動がなければなし得なかったのだが、その運動に裏で英米が関与していた可能性がかなり高いことは、当時多くの新聞や書籍が指摘しているので、その内のいくつかを確認していただければ理解していただけると思う。 在支の日本企業が受けた排日貨による影響 このような排日貨運動により、在支の日本企業が甚大な影響を受けたことは言うまでもない。 「神戸大学新聞記事文庫」外交109-34 昭和七年四月三十日から連載された中外商業新報の記事に、排日貨の影響について詳しく解説されている。 最近でこそやや緩和された地方もあるが、長期間にわたるこの運動の影響は甚大なるものであった。各地とも経済原則を無視し、かつ組織的に行われるため各方面の受けた直接間接の影響はけだし量り知
萬徳寺 前回の記事で紹介させていただいた若狭彦神社から東に800m程度のところに真言宗の萬徳寺(小浜市金谷74-23)がある。この寺はこの地に以前からあった極楽寺を南北朝時代に再興して正照院に改称し、戦国時代に若狭国を治めた若狭武田氏が当寺を祈願所として国中の真言宗本寺とし、慶長七年(1602年)に空性法親王より萬徳寺の額面を賜り寺号を萬徳寺に改めたと伝わっている。 萬徳寺 本堂 前身の極楽寺については記録が残っていないようだが、萬徳寺ご本尊の阿弥陀如来坐像は平安時代後期に造られた檜ひのきの一木造りで国の重要文化財に指定されている。おそらく極楽寺の歴史はこの仏像と同様に古いものだと思われる。この貴重な仏像を立派な本堂の中でじっくり鑑賞することが出来る。 この寺には他にも国指定重要文化財の絹本著色不動明王三童子けくぽんちゃくしょくふどうみょうおうさんどうじ像(平安時代末期)、絹本着色弥勒菩薩
北洋漁業のこと 『北洋物語:漁業日本』 農業・漁業に関するGHQ焚書を調べているたときに、大正中期から戦中期にかけて漁業でソ連と深刻な問題が発生していたことに気が付いたので、今回は『北洋物語:漁業日本』という本の一部を紹介したい。著者の竹村浩吉は、同書の略歴によると明治四十二年に東京外国語学校ロシア語科を卒業後、ロシア領の沿岸で漁業に従事し、四十五年には軍艦浪速艦の通訳を務めている。大正三年から十三年まで高田商会漁業主任として勤務の後、蟹工船や鮭工船を経営したり北洋警備艦の通訳を拝命されたりし、その後最後はロシア領水産組合の嘱託として働いた人物である。 わが国は日露戦争に勝利し、その後締結したポーツマス講和条約によりロシア領の漁業権を獲得した。ロシアのベーリング海・オホーツク海沿岸は世界の三大漁場の一つで、特に鮭やタラバガニが豊富に獲れる漁場である。世界の三大漁場というのはロシアのほかに北
国際経済戦の中で行われた支那排日 前回の「歴史ノート」で、昭和七年一月に第一次上海事変が起きるまでの支那の排日運動の状況について書いたが、この事変が起きたことで再び排日運動が活発化することになる。 戦後の歴史叙述では支那排日が英米の動きと並行して論じられることは皆無に近いが、戦前の新聞や書籍には英米の支那市場戦略の中で支那排日が論じられていることが少なくない。 「神戸大学新聞記事文庫」中国12-98 昭和七年二月六日~七日付の東京日日新聞は、「砲火の蔭にうごく国際経済戦」という見出しで連載記事を載せている。記事では、かつて対支貿易額で圧倒的首位であったイギリスは第一次世界大戦中にわが国にその地位を奪われてしまっていた。満州事変以降に再び支那の執拗な日貨排斥運動が始まったのだが、その背景について記事にはこう書かれている。 彼等はこれを以て一面には日本の対支外交を牽制して他面には国産愛用を以て
GHQ焚書リストの中から商業・貿易に関する著作を抽出してみた。平和な時代であればこのジャンルの書物は実務的な記述が中心にならざるを得ないが、国際情勢が悪化して戦争が近づいてきたり、わが国も戦争に巻き込まれるとなると、商業や貿易も自由な活動が困難となる。当然のこととして軍需が優先することになるのだが、国民の生活は守らなければならず、政府は武力戦だけでなく、経済戦、貿易戦でも戦わねばならなくなる。戦前戦中にはそのような趣旨で記された本がいくつか出版されている。 小倉一郎著『決戦貿易の潮流』 最初に、小倉一郎著『決戦貿易の潮流』の冒頭の文章を紹介したい。 今日の戦争が武力的戦闘以外に貿易戦、思想戦の如き戦闘形態が重要な要素をなすに於いては、敵国の国民経済層を撹乱し、自国にとって戦時に必要な物資を確保出来るか否かは死活的な意義をもってくる。この場合最も理想的なことは自国に於いてすべての物資の自給が
前回の「歴史ノート」で、昭和六年に柳条湖事件が起きてわが国は満州事変に巻き込まれて行くのだが、支那の排日貨運動再び激しくなりより徹底化される一方、支那はソ連や英米に接近して日本を孤立化させ消耗させようと動き、その背後には英米が動いていて、彼らは排日貨運動が進行する中で、わが国が支那で拡大して来た商圏を奪取しようと動いてきたことを書いた。前回は柳条湖事件が起きた昭和六年における支那の排日貨運動や英米の動きを書いたが、今回は昭和七年の動きを追うことにしたい。 排日の影響でイギリス製綿製品の対支輸出が激増した 昭和七年(1932年)一月十四日の大阪朝日新聞で、排日の影響でイギリスの綿製品の対支輸出が激増したことが報じられている。 「神戸大学新聞記事文庫」綿糸紡績業17-153 現在の満洲事変からイギリスが如何なる利益を受くるとしてもランカシア棉業としては事態を正視しなければならぬ。最近対支輸出が
「産業戦士」の少女の作文 GHQ焚書リストの中から「産業」という言葉をタイトルに含む本を抽出してみると、「産業戦士」や「産業少女」という言葉を含む書籍が何点か引っかかったのが気になった。 私の親の世代は学生時代に学徒動員で工場や農村で働いた経験をしたのだが、戦後になってから普通の日本人が学徒動員で苦労した体験談を聴く機会はほとんどなかったと思う。その主な理由は、マスコミがそのような史実を伝えようとしなかったことと、自虐史観の教育を受けて来た戦後世代は戦争の苦労話を聞こうともしなかったところにあるのだと思う。 私は四十代になって自虐史観の洗脳がようやく解くことができたのだが、戦争時の貴重な体験談を聞きたいと思った頃には、その多くはこの世を去ってしまっており、そのようなチャンスはほとんどなかったし、学徒動員の経験について書かれた出版物があったかもしれないが、読んだことはなかった。 ようやく「国
一面抵抗、一面交渉 前回の歴史ノートで満州事件のきっかけとなった柳条湖事件が起きるまでの支那の排日運動がいかなるものであったかについて述べて来たのだが、満州事変以降は支那の排日運動が大きく変化することになる。 長野朗は支那の民族運動を三期に分けており、第一期は五四運動が起きた一九一九年から一九三一年に満州事変が起きるまで、第二期は満州事変以降から一九三五年の年末まで、第三期は一九三五年末から一九三七年の支那事変の勃発迄としている。『民族問題概説』で長野は第二期について以下のように述べている。 昭和六年の満州事変から昭和十年末の北支問題が起きるまでの期間は第二期で、この期間には一面抵抗、一面交渉と称し、未だ武力で抵抗できないので、ここに時間の余裕を得る必要があり、そのために案出されたのが一面抵抗、一面交渉である。この期間に於いては、一方では依然として徹底したボイコットをやり、その期間は数年間
矢田坐久志玉比古やたにいますくしたまひこ神社 宿をチェックアウトして奈良盆地の北西に位置する矢田やた丘陵に向かう。法隆寺は矢田丘陵の南山麓に位置しているのだが、この丘陵にはほかにも古い神社や寺がいくつかあり、以前から法隆寺方面に行くときに拝観しようと思っていた。最初に向かったのは丘陵の東山麓に位置する矢田坐久志玉比古やたにいますくしたまひこ神社(大和郡山市矢田町965)である。 矢田坐久志玉比古神社 鳥居 この神社は、延喜式神名帳に記載されている大和国添下郡十座の筆頭社で式内大社である。神社の掲示板によると、「当地方最大の古社として創建より六世紀前半までは畿内随一の名社として栄えた」「仏法興隆とともに物部もののべ氏は四散し社運は衰退したと伝えられています」と記されている。 神社の創建については、神武天皇が長髄彦ながすねひこと戦った時に、天皇側が生駒山上から射た二番目の矢が落ちた場所であると
前回は世界遺産の法隆寺・法起寺および中宮寺、法輪寺のことを書いたが、斑鳩町にはほかにも由緒ある著名な神社や寺、古墳が存在し、貴重な文化財が数多く残されている。 藤ノ木古墳 法隆寺西側の集落を抜けたところに藤ノ木古墳(国史跡、斑鳩町法隆寺西2-1)がある。六世紀の後半に築造されたと推定されている古墳で、未盗掘の横穴式石室には石棺に成人二名が合葬されていて、金銅の馬具や装身具や刀剣などが多数出土した。 被葬者については、Wikipediaによると、「前園実知雄(奈良芸術短期大学教授)や白石太一郎(奈良大学教授)は、2人の被葬者が『日本書紀』が記す587年6月の暗殺時期と一致することなどから、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子あなほべのみこと、宣化せんか天皇の皇子ともされる宅部皇子やかべのみこの可能性が高い」と書かれている。法隆寺に近いので、聖徳太子の叔父というとそうかもしれないと納
以前何度か奈良を訪ねたことがあるのだが、教科書に出てくるような有名な寺社しか訪問できていなかったので、斑鳩いかるが町にある法隆寺とその近辺の寺社を巡ることにした。下の地図は「なら旅ネット」のサイトからダウンロードができる。 「斑鳩の里 三塔周辺マップ」斑鳩町観光協会 法隆寺 法隆寺には飛鳥時代に建築された金堂や五重塔など、世界最古の木造建築が甍を並べるとともに、世界に誇るべき美術品を多数伝えていることで広く知られており、法隆寺地域の仏教建造物は「世界文化遺産」に登録されている。「法隆寺地域」というのは、古い建物を残している法隆寺と法起寺を指している。 法隆寺創建の由来については、用明天皇が自らの御病気の平癒を祈って寺を作ることを誓願されたのだが実現しないまま崩御されたので、推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで六〇七年に本尊薬師如来を造られて法隆寺を創建されたと伝えられている。 法隆
「経済」とは、社会に於いて財・サービスの生産・流通・消費活動を調整するシステムを言い、その調整は貨幣を通じて行われるものである。戦後平和な時代が長く続いたわが国では、「経済」や「財政」・「金融」に関する本が数多く出版されてベストセラーになるようなことは滅多にないのだが、昭和12年頃から経済関係の書籍が多数出版されるようになり、その多くがGHQによって焚書処分されている。 そのことはわが国が戦争に巻き込まれて行ったことと無関係ではないだろう。平和を唱えていて平和が訪れるわけではなく、戦争に巻き込まれないためには相応の軍備が不可欠であるのだが、国を守るために必要な軍事力を整えるためにはかなりの資金の捻出が必要となる。特に第一次大戦以降は、戦争準備に必要な支出が大幅に増大している。しかしながら、国全体の生産力や支払い能力には限りがあり、国民の生活を犠牲にすることにも限度がある。生産に必要な資源を
伊和都比売神社ときらきら坂 赤穂旅行の二日目の早朝に旅館のすぐ近くの伊和都比売いわつひめ神社(赤穂市御崎1)を訪ねる。 伊和都比売神社 拝殿 この神社は平安時代の延喜式神名帳で赤穂郡三座の筆頭に記されている古社で、御祭神は伊和都比売大神である。長らく海上の岩礁である畳岩の上にあったとされ、赤穂藩初代藩主・浅野長直が現境内地に社殿の建設に着手し、三代藩主浅野内匠頭長矩たくみのかみながのりの治世である天和三年(1683年)に完成し、御遷座されたという。 伊和都比売神社拝殿の彫刻 拝殿の彫刻はかなり美術的に価値のあるものだと思うのだが、製作者の名前などはネットではわからなかった。赤穂の神社の柱には格調高い装飾彫刻が施されていることが多く、このことは赤穂が塩の製造で栄えたことと無関係ではないのだろう。 伊和都比売神社拝殿から瀬戸内海の眺望 明治になって日露戦争開戦前に東郷平八郎元帥がこの神社に勝利
兵庫県赤穂市は三十年ほど前に友人の家族と一緒に旅行して赤穂城跡を訪ねたこと以外はあまり覚えていないのだが、赤穂周辺で行きたい場所がいくつかあったので、旅程を組んで行ってきた。 赤穂城跡と大石神社 最初に赤穂城跡(赤穂市上仮屋1424-1)に向かう。歴史博物館をあとで廻る予定なので、東駐車場を選択した。他に西駐車場、大石神社駐車場があるがいずれも無料である。 赤穂城跡三之丸大手門と大手隅櫓 赤穂城の主な建物は明治時代に廃棄され、三之丸大手門や大手隅櫓は昭和三十年になって再建されたものである。 大石家長屋門(国史跡) 大手門をくぐり道なりに進むと、赤穂城の設計を担当した近藤正純の子の源八屋敷とその向かいに大石家長屋門(国史跡)がある。いずれも場内に残された数少ない江戸時代の建築物である。 上の画像は大石家長屋門で、浅野家筆頭家老大石内蔵助くらのすけの一家三代が居住した屋敷の門である。元禄十四年
前回の「歴史ノート」で支那の排日運動が始まったのは大正八年(1919年)で、当時北京の支那人の家に下宿した長野朗の『支那三十年』(GHQ焚書)によると、初期における支那の排日運動の背後には英米が動いていたことなどを紹介させていただいた。 次第に過激化していった排日運動 もっとも、初期の排日運動はそれほど過激なものではなく支那人もわが国に対して遠慮気味のところがあったようだ。しかしながら排日教育が全国各地に広がっていくにしたがって次第に運動が過激化していったという。 排日もだんだん生長して行った。第一回が大正八年、第二回が大正九年、それから毎年のように何か口実を設けてはやった。全く一つの慢性病化したのである。初めの時は期間も短かかった上に、既に契約済みのものは取引を許したので、気の利いた者は排日前に二、三ヶ月分契約して置き、それを打って終わった頃は、もうやめようじゃないかと止めたものである。
総会決議前後の張学良の動き 前回の記事で一九三三年二月二十四日に国際連盟総会において松岡洋右が最後の演説を行い、そのあとで満州問題に関する報告書草案の採決が行われ、賛成四十二票、反対一票で可決されたことを書いた。草案には、国際連盟は満州の主権が支那にあることを認め、満州国は承認せず、満州鉄道付属地外の日本軍の撤収を求めることなどが書かれていて、この草案の可決により後日国際連盟はわが国に対して「勧告書」を出すことになるのだが、この勧告書には法的拘束力はないとはいえ、国際連盟規約第十六条第一項には、もしわが国から支那に戦争を起こした場合は「他の総ての同盟国に対し戦争行為を為したるものと看做す」と定められており、その場合はわが国が経済制裁などを受ける可能性があったのである。 そのことは支那にとってみると、「勧告書」が出た後に日本軍が鉄道付属地以外の地域に進軍すれば、日本が侵略戦争を起こしたと主張
前回に引き続き、一九三三年二月二十四日に開かれた国際連盟特別総会に於ける、報告書草案採決直前の松岡の最後の演説の紹介を続けることしたい。 国際連盟の満州認識について 松岡はリットン報告書における満州理解の誤りについて以下のように述べている。 永年にわたって「支那人」なる人種的称呼は、日本人をも含めて、特に外国人の間において、支那帝国の大部分の人民に適用されて来た。しかしながらこの曖昧な表現は満洲人と蒙古人、あるいは支那本土の住民をもこれに含めて、全部が単一の人種であることを意味するものと解釈してはならないのである。 満洲国民の大部分は支那国民とは明確に相違している。北部支那の人民即ち近年において数百万人も山東、河北両省から満洲に移住した人民すら、他の支那諸省の人民とは著しく異なり、揚子江沿岸の人民とも異なり、南方支那の人民とは尚更なおさら相違し、西部支那の人民とは殊に全然相違している。それ
「東洋」「アジア」「(大)東亜」の違い 「東洋」は「西洋」の対概念であるが、指し示す地域は本によって異なり、トルコから東のアジア全域を含むケースもあれば中東を除くケースなど様々であるが、一般的には東アジア、東南アジア、南アジアの地域を指す言葉として用いられることが多いようだ。 「アジア」についても同様で、中近東や中央アジア、南アジアを含めるケースもあれば含まないケースもあり様々である。 Wikipediaより Wikipediaによると「アジア」は、現在では「ユーラシア大陸のヨーロッパ以外の地域」とあり、アジアとヨーロッパとの地理的境界は、「ウラル山脈–ウラル川–カスピ海–コーカサス山脈–黒海–ボスポラス海峡–マルマラ海–ダーダネルス海峡とすることが多い」と書かれていて、その場合はロシアの大部分を含むことになるのだが、戦前戦中に於いてはさすがにその解釈で「アジア」を捉えている本はないだろう
運命の国連総会の日が決まる 前回の「歴史ノート」で、昭和八年の正月以降の支那やアメリカ、国連事務局等の動きを書いたが、アメリカが圧力をかけたことで国際連盟の委員会の流れが一気に変わり、満州国を承認しない方向に傾いていったことを書いた。 「神戸大学新聞記事文庫」外交123-74 上の画像は昭和八年二月十三日付の大阪時事新報の記事だが、十九ヶ国委員会の勧告案が完成し連盟総会に於ける報告書がすべて整ったことを報じている。見出しには「緒論から結論まで三文の価値もない無知無能の暴露」と酷評しているのだが、報告書の内容はいかなるものであったのか。 連盟総会報告書の全文は『内外調査資料第五年(3)』に収録されているが、国際連盟総会は満州における主権は支那にあることを認め、満州国の維持及び承認を排除すること、及び満鉄付属地外における日本軍の撤収、ならびに総会は支那の主権の下に置かれ、支那の行政的保全と両立
山海関事件 「神戸大学新聞記事文庫」外交122-3 前回の「歴史ノート」で、一九三二年十二月八日の国際連盟総会における松岡洋右の演説とその直後の支那の動きを書いたのだが、一九三三年の正月早々に万里の長城の東端の山海関さんかいかんにある日本憲兵分遣所等に何者かが手榴弾を投じさらに小銃射撃を行った事件が起きた。さらに翌二日には日本軍守備隊が南門で中国軍から突如射撃されたために児玉中尉が戦死し、数人の負傷者が出ている。支那駐屯軍司令官の中村中尉は、同日に張学良に対し警告文を手交し、陸軍は三日にこの事件を国内に発表したのだが、四日の大阪朝日新聞はこの事件の背景について陸軍が次のように発表したことを伝えている。 目下張学良が盛んに兵を熱河ねっか省及び山海関附近に進め反満抗日の行動に出でつつあるの状況にかんがみ、支那側官憲が日本の国際的地位を不良ならしめんがため行った計画的挑戦であることが明瞭である。
「大東亜共栄圏」の範囲は定まっていなかった 昭和六年(1931年)の満州事変以降英米との関係が悪化して、「南進」がその後の国策の有力な選択肢の一つとなり、「大東亜共栄圏」という言葉が良く用いられるようになっていく。「南進」とは、わが国が重要物資について英米にいつまでも依存することは国防観点から問題があり、わが国は東アジアや東南アジアとの関係を強化し「東亜共栄圏」の盟主となるべきとの構想である。 当初は武力行使を前提としていたわけではなかったのだが、一九三九年に第二次世界大戦が勃発し、東南アジアに植民地を持つオランダ、フランスがドイツに降伏し、イギリスも危機に瀕していたことから、「武力南進」派が次第に優勢になっていった。 昭和十五年(1940年)七月二十二日に第二次近衛内閣が成立し、二十六日に「大東亜新秩序建設」を国是として、国防国家の完成を目指す「基本国策要綱」が閣議決定され、日本・満洲国
11/23国際連盟理事会における松岡演説 前回、前々回の歴史ノートで昭和七年(1932年)十一月二十一日の国際連盟理事会における松岡洋右の演説のポイントを纏めてみたが、その日に中国代表の顧維鈞こいきんも演説を行っている。そして十一月二十三日に松岡は理事会で、二十一日に行われた顧維鈞演説の反論を行っている。 「神戸大学新聞記事文庫」外交121-57 この演説も前回記事で紹介させていただいた『松岡全権大演説集』(GHQ焚書)に出ているが、大阪朝日新聞にその要約が出ている。松岡は顧維鈞の不戦条約の解釈の誤りを指摘したほか、顧維鈞が日本軍侵略の根拠とした「田中上奏文」なるものは存在せず、内容は明らかな捏造であることを述べている。「田中上奏文」は昭和二年に田中義一内閣総理大臣が昭和天皇に、支那の征服には満州・蒙古の征服が不可欠で、また世界征服には支那の征服が不可欠であると上奏した文書と中国が世界に宣
第二次世界大戦時の日本領 教科書などにはほとんど書かれていないのだが、わが国は第二次世界大戦に参戦後、わずか半年でアメリカ、イギリス、フランス、オランダの植民地であった東南アジアや太平洋の多くの島々を占領した。この地域でわが国がいかなる統治を行ったかについて戦後の日本人にはほとんど知らされていないのだが、戦前・戦中にはこれらの地域に関して多くの書物が刊行されていて、GHQはその多くを焚書処分している。 読んでいただければわかると思うのだが、日本の統治は多くの地域で現地人から評価されていた。それまでは欧米による酷い統治をされていた彼等だが、終戦後日本兵が引き上げた後に、彼等は祖国を再び欧米諸国の植民地にされたくないと起ちあがったのである。日本兵の中には、終戦後もその地に残って独立のために現地人と共に白人と戦った者もいたのだ。 上の画像で点線で囲まれたところが第二次世界大戦時にわが国が統治して
前回の「歴史ノート」で国際連盟理事会でわが国の全権松岡洋右が昭和七年十一月二一日に演説をした内容の前半部分のポイント部分を紹介させていただいたが、今回はその後半部分について書くこととしたい。 満州事変は不戦条約違反ではない リットン報告書では満州事変のきっかけとなった昭和六年(1931年)九月十八日の柳条湖事件について、満州鉄道の爆破の規模は小規模であったにもかかわらず、その後日本軍が北大営を占拠し、翌日までに長春、奉天等を占拠した軍事行動は自衛のためのものとは認められないとしていた。それに対し松岡は、支那兵による鉄道の襲撃や破壊行為はこれまで何度も起きており、犠牲者も多数出ていたことから現場の兵士に強い緊張状態が長らく続いていた。同日の鉄道爆破事件はきっかけにすぎないとし、さらに以下のように述べている。 満鉄沿線に散在する日本守備兵の機敏な行動が、司令部からの命令が到着せぬ以前に於いて早
枢軸国は全部で八か国 第二次世界大戦でわが国はドイツ、イタリアとともにイギリス、アメリカ、中華民国などの連合国と戦ったのだが、前回の記事で連合国に関するGHQ焚書についてまとめたので、今回は枢軸国に関するGHQ焚書をまとめておこう。 1936年にドイツと日本が「日独防共協定」を結び、翌1937年にはイタリアを加えた「三国防共協定」が締結され、さらに1940年には「日独伊三国同盟」が締結された。その後、この三国側に加わって連合国と交戦した国々を「枢軸国」と呼ぶ。国名を調べるとと日本、ドイツ、イタリアのほかに、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイの五ヶ国が枢軸国となっている。 タイが枢軸国となった経緯 タイが枢軸国であったことは知らなかったので、少し調べてみた。 「神戸大学新聞記事文庫」外交155-120 Wikipediaによると、「第二次世界大戦ではフランスがドイツに降伏
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