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今年の「#文学」
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昨日「シンゴジラ」を見てきた。シネマ会員カードでちょっと安い日だったしついったのTLでみょーに評判で、RTとか連弾でされてきてうざいなあという感じだったので、「見ずにうざいっていってるのもなんだし」「まあこれも縁起物」ということで。 シン・ゴジラ - Wikipedia このウィキペディア、ついったに流れてきたtwからすると「ネタバレを過分に含む」ということでページ上部にも「このページは荒らしや編集合戦などのため、方針に基づき編集保護されています。現在の記述内容が正しいとは限りません」「現在、削除の方針に従って、この項目の一部の版または全体を削除することが審議されています」な但し書きな異様感があるのだけど、そんなにネタバレかあ?これって感じがするし、だいたいあの映画ってそんなにネタがバレて興ざめするようなものだったのかな?とかおもったり。 ここでのネタというのがどの部分を指すのかわからない
わたしからすべてが離れていったのは、たぶん、お前だけを愛させるためなのだ。 J.L.ボルヘス 房に入る前に読んで、なんとなく心がザワついたというか琴線に触れたとかなんとかなって日記したかったのでいまさら 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 - 帯の著者インタビューにもあったけどこの小説自体はもともとそれほど大したものに仕上げるつもりでもなく「世間的には凡庸で平均的な男がいる」というモティーフがまずあり、その絵をふくらませていったものだったのだろう。 その男が自殺を考えていて、その理由を肉付けしていった。 なので元々は短編として仕上げられるべくものであり、短編で仕上がっていたとしたら1章と最後の章ぐらいで仕上がっていたかもしれない。あとはわずかな肉付け。 現在の村上春樹の筆力を試すための習作的な性格があったのでは? 帯に「良いニュースと悪いニュースがある。」の部分が抜き出されていること
ひょんなことから逮捕されて4日ほど拘束、3泊留置所にいた。 逮捕の経緯は特定されても面倒なことになるので割愛するけど、「うわぁ。。これでこんなになっちゃうんだあ。。」、てぐらいシャレにならなさが押し寄せてきて、、いま考えてもうわぁって感じだし二度と経験したくない。 なので「二度と同様の事にならないように」な反省をしてるんだけど、それとは別に「めったにできない経験だったなあ」みたいなのもある。「良い経験だったなあ」というのとも違うんだけど、盆休みで世界旅行とか行くよりもいろいろと気づきや今後のつながりがあるような。 まずはじめに、留置所と刑務所の違いについて自分的に曖昧だったんだけど、刑事罰がある犯罪をしてしまって逮捕された場合、検察 → 裁判所の過程を逃げないようにするためために警察署付属の施設に拘束→留置するのが留置所ということらしい。刑務所は裁判で最終的に実刑が確定した場合、その刑を務
ほんとは「明るい部屋」読みたかったんだけど図書館になかったので「まあ仕方ないかあ」と借りてみたら予想外に良かった。写真家とか人文なおっさんたちのマロンあふれる衒学文体かと思ってたんだけど。 よく「写真は真実を写してるとおもう人へ、写真というのは現像の段階から構成されているのです」みたいなのがあるし技術的にはそういうことではあるんだけどバルトはそこで「写真が真実を写していると思わせることが大事なのだ」と逆説する。 <写真は過去の存在を存在の意味を媒介することなく直接われわれに経験させる> ここで言う「意味」は現象学的な事象を認識するためのいくつかのフレームのこと。もともと「客観的」「他人により」付されている意味-物語-ものの見方によってわれわれは事象を認識できる。反対に言うとふだんはその意味のフレームによっていくらかの偏向がかかっている。 たとえばりんごの見え方にしても人と昆虫では異なる。そ
-- ダイアモンドでは「農業ができるようになって貯蓄ができるようになり」うんたら「農業→家畜→疫病が発生で」うんたらあったけど農耕と牧畜な歴史は一直線ではなく双方のおしくらまんじゅう的せめぎあいだった。 リドレーでは「交換-商業によって文明は進んでいった」とあったけど交換以前に略奪があった。ピラミッド型の指令(コマンド)組織が中心となり商取引も其のもとに統制されていた(cf.教会、神社や寺ぐらいしか独立経済圏を持てない)。 ちなみにマクニールがここで使う「指令(コマンド)組織」というのは組織における意志決定の統一性、中央集権はもとよりフランス語のコマンドうんたらに含意される「整った」みたいな意味合いがある。全体的にきちんと組織だてられ指令が行き届く組織。イメージとしてはハイエクのタクシスであり伽藍とバザールの伽藍。 取引は安全と信用が保証されてなければ成立しない。 取引はそれほど行われるも
ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていたが、時期を同じくして出てくる有害な精霊や魔女から身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていたhttp://bit.ly/s7Mvpf ついったに上の文言が流れてきて「ケルトが魔女を有害化するってどういうこと?」ってたどってみたらウィキペディアの記述で出典は鷲津名都江著『英国への招待 マザー・グースをたずねて』(筑摩書房、1996年)ってことだった。 そんで「いい加減な記述でもともとのサウィンとかインボルクとか触れてねえんじゃねえの?」ッて思って確認したら意外とサウィンについては触れていた。 んでも他の時期については触れてないし、やはり「魔女」について気になったのでうんたらうんたらしたり、、ハロウィン時期だったりまどか☆マギカ劇場版記念だったり「純潔のマリア」完結したねってことでついでだからちょっ
昨日ようやく読了。ついったでもちょこちょこ感想をつぶやいてきたけど、やはりきちんとしたエントリとして留めるのもいいかと思ったので。 そう思ったのはやはり弁当ヲチャーとしてこの10年ぐらいの自分の思い出も含まれてるというか、、「ああ、あのときこんなこと思ってたのねえ。。そして自分はこんなだったなあ」って気持ちが出てきて、それをとどめたかったからかもしれない。要するに「自分語り的なことがしたくなったから」ってことかと思うけど、、まあそんなにベタベタにならない程度に。 一読した印象で思ったのは「ああ、プロのライターとして読みやすさ考えてはるなあ」とかそういうの。内容や構成としても特に日記やブログを読んでなくてもとっつけるように。まあそれらはあとがき的対談からも伺えるわけだけど、 何のために学ぶのか、何のために考えるのか? | SYNODOS -シノドス- http://synodos.jp/ne
▽土地(戦争)から貨幣(商業)・金融へ こないだからちょっとモニョモニョしてて、それは近代初頭がなんとも捉えにくく、自分的になんか引っかかってるからなんだと思うんだけど。いちおちょっと前までで近世の終わりまでの自分なりの見方はメモっといた (自分的に)古代から近世終わりまでの見所復習: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/264513531.html ここまでは「国」(あるいは皇帝、王、諸侯)、「軍隊」、「土地」という関係が中心でそれらを覆うようにキリスト教的大義があるというだけでけっこう分かりやすい。 「王や諸侯のもとにある領域国家的なものは他国に対して戦争しかけて勝って土地や報奨金を貰うのが一番の政策」みたいな流れ。この時代はお金や金融というのは軍事-戦争の周辺の「手段」である感じだった。 金が出てくるのも「王が教
たまには久々にお習字的に 休んでる間も相変わらず世界史には興味持ってて流れで歴史小説とかハプスブルクとか100年戦争あたり見てたんだけど、流れで歴史物に興味持ってるので「?あれ?そもそもどういう関心だったっけ?」と思い、新しい鉱脈読み進める前にいちおブックマーク的にまとめとこう。 (現在はどうか分かんないけど)学校の世界史の授業、重大事件とか重要人物、年号の羅列と暗記的なものだと分かりにくいような、「ナニがドウなってこういう結果になった」って歴史的事柄の意味、関係性を物語ってくれるようなもの。最近の関心はそういうものだったのだなぁ、ってあらためて。 その中でも代表的なものとして、<なぜ、科学や資本主義を基本とした市場経済で西ヨーロッパは覇権をとっていったのか?>、というのがある。 ヨーロッパなんかは世界史的に見れば弱小なところで、古代でもローマが興隆するまでは東方騎馬民族や北方のゲルマン、
本書の問題意識というのは「エピステーメー」の説明リンク先にあるような単純な進化論的視点、知の単線的進化論的視点への相対主義も含み、同時にエピステーメーとしての「科学」がいかに偶然的に時代を代表する知の体系となっていったか、ということを改めて素描しなおしているところにある。 大事なのでもう一度言うけど「進化ではなくて適応」であり「必然ではなくて偶然」なのだ、現在我々の居る科学文明とは。 科学とは科学的なエピステーメー(理論)と、その樹形図的知識を掘り下げていく技術的な知の実践といえる。前者は数学(抽象言語)や自然言語によって論証過程を経た後「科学理論」として体系づけられ、後者は実験やそれぞれの専門職でしかるべき過程を経た後に実証されていく。後者の「しかるべき」過程が複雑なため専門的な知識、すなわち技術的な知識が必要となる。 一部の理系は「科学=実験的実証」としての認識しかないため後者の過程ぐ
最近、姉が浮気されて離婚するとかいうのでぼんやりと「結婚とかパートナーシップにおける根拠」のようなものについて考えてる 「男はけっきょく『飲む、打つ、買う』っていうでしょ?あそこから抜けられないのよ」と母は言って、自分としてはそういうのとも違う人も知っているので「そうでもないよ」って答えた 「大部分の男はそういうところはあるかもだけどそれは子どもっぽいからで、そういうものよりもなにか大きな、単純な目標持ってる人というのはそんなところでは躓かないよ」と言いつつ それは自分が尊敬してる人たちに重ねた「こうありたい」という姿なのだろうけど そういうのは理性的規範といえる 「キスとか体に触るのはいいけど挿れるのはダメなの。おくさんに悪いから」というのは西荻夫婦だったか このマンガだけでもなくちょこちょこ聞くような話だけど 実際にそういった状況になったときそこで引き返せるのは至難の業で。それができる
「思想が教条的で生活から離れたものではなく、生活に根付いたものであるためにはどうしたら良いのか?」 「その際、一旦『知』が生活に寄り添ったとしても、なんらかの慣性のようなものが生まれ『知識のための知識』のようなゲーム的現象が生じる。これに対するにはどうしたら良いのか?」 こういった問題は古代ギリシアからの連綿とした課題のようで 実践 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E8%B7%B5 おーざっぱに「実践(プラクシス)」と「観想(テオリア)」、「ポイエーシス」の問題とされる。 ここでのポイエーシスはアリストテレス的には「実用的な制作」とされるそうな。 いまだったらアーツ・アンド・クラフツや民芸的なそれに当たるだろうか(あるいは田中泯さんの舞踏とか) 『以上のテオリア、プラクシス、ポイエーシスの三区分は、後の西洋思想の大きな枠
地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黒暗淵(やみわだ)の面にあり 神の靈水の面を覆ひたりき ――創世記 黒暗(やみ)の潮 今滿ちて 晦冥の夜(よる)ともなれば 假構の萬象そが閡性を失し 解體の喜びに醉い癡れて 心をのゝき 渾沌の母の胸へと歸入する。 窓外の膚白き一樹は 扉漏(とぼそ)る赤き燈(とぼし)に照らされて いかつく張つた大枝も、金屬性の葉末もろ共 母胎の汚物まだ拭われぬ 孩兒(みどりご)の四肢の相(すがた)を示現する。 かゝる和毛(にこげ)の如き夜(よる)は コスモスといふ白日の虚妄を破り、 日光の重壓に 化石の痛苦 味ひつゝある若者らにも 母親の乳房まさぐる幼年の 至純なる淫猥の皮膚感覺をとり戻し 劫初なる淵(わだ)の面(おも)より汲み取れる ほの黒き祈り心をしたゝらす…… おんみ天鵞絨の黒衣せる夜(よる)、 香油(にほひあぶら)にうるほへるおんみ聖なる夜、 涙するわが雙の
書き終わって自分でも読むのちょっとめんどうだなっていうぐらいなのでいちお全体の考察を通じたあとでのまとめ的な所感を最初に貼っとこう ・いちおまとめると、social mediaの使用動態はジャーナリスティックな情報共有的なものが期待されるというよりは、現状では情報消費(感情共有)的な毛づくろいなところが多いように思う。 ・しかし、それもマスメディアなどを介して直列につなげば恊働の可能性を見い出せるし、情報の蕩尽的消費もそれはそれ自体で可能性があるようにも個人的には思う(→複雑系の思考) で、以下が考察内容 -- 今回の震災で「マスメディアの時代は終わった。というかソーシャルメディア時代への決定的な基点となった」というような言説が一部で見えて、 冷静な人は 「そんなこといってもやっぱマスメディアが信頼性の担保してるところはあるし、話題の出発点もマスメディア(というかテレビ)だったりするしなぁ
まどかマギカ関連で、ついったで「ワルギルプスってなんやろ?ワルキューレ → ニーベルングの指輪かと思ってたけど」とかいってたら「それはヴァルプルギスでは?」みたいなこといわれてぐぐったらこんなの載ってて ヴァルプルギスの夜 - Wikipedia http://bit.ly/eny1gc 歴史的なヴァルプルギスの夜は、異教の春の風習にちなんでいる。ノース人の風習では、ヴァルプルギスの夜は『死者を囲い込むもの』とされていた。北欧神話の主神オーディンがルーン文字の知識を得るために死んだことを記念するもので、その夜は死者と生者との境が弱くなる時間だといわれる。かがり火は、生者の間を歩き回るといわれる死者と無秩序な魂を追い払うためにたかれ、光と太陽が戻るメーデー(5月1日)を祝うことにつながる。 まどかマギカ的な意味としてはたぶん「ファウスト」に出てきた「ヴァルプルギスの夜」であり単純にサバト的な
このエントリの最後のほうで無縁社会に触れたのでついでに 網野善彦・鶴見俊輔、1994、「歴史の話」: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/186739555.html 「無縁社会」の話はけっこうめんどいわりに自分的には得るもの少なそうなのでエントリの形できちんとまとめるのはやめとこうと思ってたんだけど「無縁」とか「社会」の語用変化、そこに含まれる物を考えるのにはいいかと思ったので。 先のエントリでも言ったように「無縁」自体はもともと悪い意味でもなく、網野さんの本とかそれを受けた隆慶一郎の「吉原御免状」読んだことある人なんかは違和感のある話。 もともとは「(新しい縁を組むために)無縁(まっさら)にしたもの」程度のことだと思う。なので意味的には「フリーソフト」の文脈でストールマンが言っていた「Free」の意味に近いように思
オラが読んだのは旧版の単行本、1994発行の3刷だったけどリンク先のは網野さんが亡くなって選書で再版したもので鶴見さんのあたらしいあとがきが付いている、と。 全体的に、アクセントがあったように思ったところ、印象に残ったところというと「『正義』とか『正しい歴史』とかなにかを決めてしまわないこと、決めてしまうことで漏れていくものに対する感覚を持ち続けることが大切」みたいな話。あとは創作ノート的な裏話とか、天皇制が意外と出てきた。 論文とか単行本になる以前の「こういうつもりで仕事していった(でもあのときは失敗した)」みたいな話がちょこちょこあっておもろかった。 ▽日本の資本主義の源流は江戸時代どころか14世紀ごろまで遡れる(43)※数字は該当ページ 「江戸の後期までは米作を中心とした自給自足社会」というのが既存の教科書認識であるが、物々交換ではなく為替の形での取引は14世紀まで遡れる。いわゆる「
tumblrで印象づけ的にquoteしてはてブでいちおストックしといたんだけどあとで見にくいのでこっちに移しとく程度のメモ。 これ関連で 濱口桂一郎、2009、「新しい労働社会」: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html 結論から言えば全体の議論の前提としての「新しい労働社会」の内容とか、そこからの議論の流れに短くまとまってる。雇用流動性高めて新卒だけではなく中途採用も非正規も差別なく、ってのがそのまた前提。 要約すれば、「ジョブ型正社員のギロンは専門職以外では正社員全体で検討しにくい。なのでターゲットとされているのは現在結果的にジョブ型とされている非正規雇用社員の正社員化 + その社会(企業)保障 + 雇用の間口の拡大のためのジョブ型正社員枠の検討」、など 非専門職、ジェネラル型の正社員(中
善いことと悪いことがある。 善いことをすることもある、でも善いことをした人が「善い人」ではない、「善いことをした」というだけなんです。次の瞬間には悪いことをする、それが人間だと思わないと、あらゆる判断を間違える、自分自身についても。 宮崎駿 /出発点 http://morutan.tumblr.com/post/1040646663 ぶくま経由でこういうのをみて 「肉屋、鞄屋の人とは結婚して欲しくない」 http://anond.hatelabo.jp/20100904050444 「肉屋とか皮革業は被差別民の仕事だから…」ってアレで。 ある年代以上の関西以西の人たちはふつーに差別しててそれは特に他意がないわけだけど、こういうのは一般的な「正しさ」と親密圏の「正しさ」でモニョるなぁ、とか思った。オレもバイトでやり方わからずにトロトロしてたら「○△☓か?」ってよくわかんないけど差別語みたいな
この辺を見ながらぼけーっと、わりと前から思ってたことがおぼろげにまた見えたのでメモ程度なつもりで記しとこう。 ・「武力 → 経済力 → 情報力」的なとらえ方の話 東さんの言ってることはシステムが成熟してくると内部の過程がルーチン化して固定し、経験・流れがデータベースとして蓄積されるって話。そんで、そのデータベースには誰でもアクセス可能なので流動性と互換性、新規参入が高まる、と。 モジュール化とオープンアーキテクチャをイメージすれば判りやすいと思う。 データベースとかオープンアーキテクチャがサブシステム的なものかどうかは留保が必要だろうけど。 そんでこの流れで思ったのは 『物理的力(武)の次に経済的な力(金)が来ていまは消費を介して経済と文が接合され、それが内部的には統治のシステムとして受け容れられてるように思うわけだけど、自分のオツム的にはこの辺のメカニズムの説明がしにくい。東さんだと出来
解説が最高 宗教的意識内容(心理的動機)は、例えば資本主義の発展に対して巨大な影響を与えた。 最後の人間、同時代への驚愕から生まれた研究 資本主義はどこから来たのか?資本主義とは何ものか?資本主義はどこへ行くのか? 社会学とは何ぞや 両方ともあとで感想書くかもだけど面倒だから書かないかもなのでいちお読んだ人の感想っぽいの貼って概略の手抜き。 阿部謹也の中世の窓から part 2 http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/german/abe2.htm 叡智の禁書図書館<情報と書評>: 「中世の窓から」阿部 謹也 朝日新聞社 http://library666.seesaa.net/article/14329622.html 中世ヨーロッパ、11~16世紀の北ドイツの生活とか変化、雰囲気を伝える本。近代以前のああいうじめっとした雰囲気がけっこう好きなのでよん
いちお感想も書いたので muse-A-muse 2nd: 村上春樹、2009、「1Q84」 http://muse-a-muse.seesaa.net/article/127980291.html?1252876425 答え合わせというか攻略サイト参考みたいな感じで皆さんの感想やら批評やら見て回ってみた。そんで感心したり共感したり言い足りなかったりでなんかウズウズしたので目に付いた範囲での1Q84感想+批評集+αみたいな感じでまとめとく。おもしろかったし ちなみに「感想」と「批評」の使い分けについて。批評というのは当該作品の構造やメッセージをその作品にいたる文脈も含めてきちんと読み取った上でなんらかの自分なりの視角(おもしろい読み方)を加えるものだと思ってる。それ以外のものは個人の印象的な「感想」。 同様に単なる「小説」的作品と「文学」的作品の違いがあるように思う。小説を生み出す発端と
けっきょく竹田さんの「現象学入門」って、「フッサールの現象学が独我論といわれるのは<主観/客観>の枠組みの中での既存の客観重視な文脈に対抗するためだった」、ってメッセージ以外はピンと来なかったなぁ。。 独我論がワガママな偏向にならないためには純粋意識(あるいはクオリア的なアレ)の基準がなにになるのかというところがポイントだと思うんだけどいつもどおりの竹田節で「\ エロス!/」っていうだけだしなぁ。。いや、それもあるかと思うんだけどもそっと価値依存的じゃない感じの。。 自分的な感覚としては現象学ってなんか体系的な技というか独自の考えの枝があるわけではなくて思考の際の最初の構えのようなものなのかなと理解した。似てるのは意拳とかああいう中国拳法系の脱力みたいなの。 この辺で甲野さんなんかも言ってたんだけど muse-A-muse 2nd: 「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話 http://
馬車馬さんのところのエントリ見て、勢いでちょっと長いコメントをしつつ少し尻切れトンボだったかなぁ、と思ったんだけどこれ以上ヒトサマのコメント欄に長ったらしくなんか書くのもなんだし、blogのネタってのもあるのでこちらにうpしてTBしておきます。 まず、こちらのエントリ 和魂と洋才と「会社」の仕組み: マーケットの馬車馬 主題としては、「日本人が働き過ぎるのはなぜか」 「なぜ日本ではどいつもこいつも長々と残業しているのか? なぜ日本の会社は中途採用に対してこれほど消極的なのか? 成果給はなぜいつまで経っても根付かないのか? 日本の労働組合はなぜ企業と戦おうとしないのか?」、ということ。 それに対しての推論としては、「日本の村八分型評判メカニズムが問題なのでは?」、というもの。端的に言うと、<「日本型の評判システムがジェノア型の明確な契約に基づく上下関係の採用を阻んだのではないか?」、という話
いぶし銀の8服/策謀の胎動が見え隠れする へうげもの8服、緊張感のたかまる金と黒 重い、しかし笑える 見つめて、、削いで、、最後に残ったものこそ 刻々と近づく利休の死、脈々と継がれる明智の遺産― 概要としては織田→豊臣時代の茶の湯な数奇な話。焼き物の「織部」で有名な古田織部が主人公だったりする。 織部流 - Wikipedia 物語としては織部が千利休に師事しつつ茶の湯(あるいは数奇)の体得と武功をあげての成功の二兎を追おうとするも…的な話。軸としては織部自身よりも利休と秀吉の対立への新解釈がポイントっぽい。 この時代の「数奇」というのは茶の湯関連の逸品を蒐集癖ってことなんだろうけど、ファッションとかアートとかいった意味合いも含むみたい。かぶき者まではいかないけどそれに近いような。 そんで、この数奇(あるいは数奇の前衛であり筆頭芸術としての茶の湯)を通じて利休が暗躍し、秀吉をもおびやかすほ
この辺関連で 本気でお金がなくなってきた - phaのニート日記 はてなブックマーク - 本気でお金がなくなってきた - phaのニート日記 ぶくまで xevra ついにお金が無くなったのか。おめでとう。しかしこれで病院へも行けなくなった。若くて健康で居続けないと成り立たない暮らしは辛いね。/この世で一番楽しいことは仕事。仕事の楽しさが分からないのは不幸だよなぁ ってのがあって。それ見てch1248とかが憤ってたりしたんだけど ch1248 id:xebra ネパールではアパートの家主になって毎日ごろごろと暮らすのが理想とされる。幸せなんぞ人それぞれ。/あと、実際に会ってもいないのに、人の友人を病気扱いすんのは止めろ そういえば仕事してないと病になるんじゃないかなぁとかなんとか。 鈴木敏夫さんのpodcastを聞いていたら「うつ病の起源は家庭に洗濯機やオーブンなど機械が導入されて主婦の仕事
けれどもこれら新世代沖積世の 巨大に明るい時間の集積のなかで 正しくうつされた筈のこれらのことばが わづかその一點にも均しい明暗のうちに (あるひは修羅の十億年) すでにはやくもその組立や質を變じ しかもわたくしも印刷者も それを変らないとして感ずることは 傾向としてはあり得ます けだしわれわれがわれわれの感官や 風景や人物をかんずるやうに そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに 記録や歴史、あるひは地史といふものも それのいろいろの論料といっしょに (因果の時空的制約のもとに) われわれがかんじてゐるのに過ぎません おそらくこれから二千年もたったころは それ相當のちがった地質學が流用され 相當した證據もまた次次過去から現出し みんなは二千年ぐらゐ前には 青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ 新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層 きらびやかな氷窒素のあたりから すてきな化石を發堀した
歴史は苦手でも 自動車がなかったころの日本の田舎の暮らし 忘れられつつある『忘れられた日本人』 恵那の河原で夜が明けた… 聞き書きしなければ、知られることもなかった人々の物語 まだ日本の識字率が低い時代の老人たちの語り、それをフィールドワークで採集したものってことだけど地味に面白かった。その辺の語りは歴史に刻まれなかった人々の生活史であり生の歴史って感じなんだけどそれ以外にも社会構造的に「西日本の社会構造と東日本の社会構造は違う」って話が面白かった。社会構造っていうか組織論か。 以下、網野善彦によるあとがきから (327-328) 「対馬にて」をはじめ「村の寄りあい」「名倉談義」などで、宮本氏は西日本の村の特質をさまざまな面から語っている。帳箱を大切に伝え、「講堂」や「辻」のような寄り合いの場を持ち、年齢階梯制によって組織される西日本の村の特質が、これらの文章を通じて、きわめて具体的に浮き
少し前に「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー、2004(1999)、岩波書店)の上巻を読み終えて、記憶に残しておきたいのでメモ。 全体としては「日本人はアメリカから下された敗北と支配を抱きしめることで戦後復興していった」という話。印象に残ったのは戦争に負けた日本人たちがプライドを捨てて支配を受け入れていく様子。そのくやしさやたくましさ。 「敗北を抱きしめて」という表現について。実際にアメリカ軍は日本という国を女性的なものとみたて、女性の身体を抱くように支配していくという感覚があったみたい。「自分の思うような女に変えていく」というような感覚。たとえば、日本人は意思決定能力がない従属的な国民性なのでこちらから命令をだしてやらなければダメだ」みたいな表現にそれが伺えた。 というか、そういった表現をするときに具体的に頭に描かれていた「日本」のイメージというのはいわゆる「パンパン」と呼ばれていた女性
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