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motidukisigeru.hatenablog.com
東氏の9/9の日記より。 まあ、予想どおりというかなんというか、攻撃サイトも現れてきたみたいだし、日記の更新もそろそろ潮時かも。「東浩紀が嫌いな日記」(id:azumagakirai)とか作られて喜ぶほど、僕も能天気じゃないし、あまりそういうノリには付き合ってられないんで。そして、それがまた、ニュースサイトで紹介されたせいで、このサイトのログにもazumagakiraiがずらずら並ぶ始末。書き込みページを開くたびにウンザリ。 確かに、idそのものを個人攻撃に使うというのは新しい荒らしの方法として評価?できるのかもしれないけど、これはさすがにやり口として幼稚すぎますよ。 IDに関しては、わかりやすさと自己主張を込めたわけですが、不快感を与えたことについては、あやまります。はてなダイアリーのシステムに対する理解も足りてませんでした。 すいませんでした。 というわけで、IDを変えさせていただきま
orzさんとの話し合いの中で、コンテンツとアーキテクチャ双方の分析が重要である、という話が出てきた。全くその通りであると思う。 というわけで、最近、思っていた、やる夫スレの個人的分析。 原則 大きく売れた/話題になった作品は、なんらかの形で、ぬきんでたものがある、というのが私の考えだ。まぁ、常識的な話であると思う。 誰しも、自分の作品が評判になってほしいと思っている一方、作品を鑑賞する人間の時間は有限であることから、話題作、と言えるものは、無限に増えることはできない。 よって、そこに競争原理が働く。 その競争原理の中から抜け出てきた作品には、抜け出たなりの理由があるだろう、ということだ。 消費者と、その消費者にあったアーキテクチャと、そのアーキテクチャを生かすコンテンツの3つがそろった時、それは抜け出る。 やる夫スレの場合 やる夫スレというのは、AAを使った、短篇/長編シリーズの総称である
さて、これまでの批評では、なるべくトリビアルなツッコミは避けようと努力したつもりである。 細かい揚げ足を取ることは、必ずしも全体の論の批評には結びつかないからだ。事実関係の問題を指摘した際は、なるべくそれが、全体の論の中で、どのような位置を占めているかを確認し、なぜそれが問題なのかを書いたつもりである。 そのへんが一段落したので、今回は、単純な事実関係の問題について調べてみたい。最初に書いておくが、私の指摘通り、事実関係が間違いだったとして、それは必ずしも東浩紀氏(id:hazuma)の姿勢や論全体を否定するものではない。単に事実関係の問題として受け取ってほしい。 今回問題にしたいのは、「デ・ジ・キャラット」通称「でじこ」である。 「動物化するポストモダン」p63で、東は以下のように書いている。 このキャラクターはもともと、アニメ・ゲーム系関連商品を取り扱う販売業者のイメージ・キャラクター
要約 「セカイ系」の定義の中に、「社会描写が欠損」していることが入っている場合がある。 通常の物語から、何かを欠損させたのであれば、欠損させたことによって何を得たかの分析が必要であり、欠損だけで批評することは作品批評としては的外れである。 パソコンとハードディスクドライブ さてここに、パソコンのモデルがあるとする。 一般に、ケース、CPUがあり、マザボ、メモリ、グラボ、ハードディスクドライブ(HDD)、光学ドライブといったパーツで形成されている。 この時、「HDDがないモデル」というのを考えて見よう。 「HDDがないモデル」の台頭を分析し、それらを買うユーザー心理と、その背景となる社会状況に思いを馳せる。 この分析に、意味はあるだろうか? HDDがない意味 普通の人だったら、そんな分析をする前に、「なんでHDDがないの?」と聞くだろう。 例えば、自作モデルなので、HDDは自分で別に選んで取
http://d.hatena.ne.jp/syusei-sakagami/20091209/1260385560 プロ文芸批評氏による「エロゲーの未来について真剣に考える」と題されたエントリ。あんまり、ひどかったので、発作的に書く。 好意的に読むなら、「昔は、面白いエロゲがあった。セカイ系とかループとか好き。流行った結果、沢山でて食傷したけど、また、ああいうエロゲで面白いやつがでないかな」という感想文。 なんというか、これだけで、この人の考える「エロゲ」というのが、狭い範囲であることが分かる。別に、趣味が狭いのは構わない。感想としてはありだろう。 ただ、その狭さのまま、プロ批評家が、ジャンルを批評して断罪するのは、犯罪的怠慢である。 最悪なのは、この人が無能ということではなく(無能なのだが)、無知と偏見を広めること、それ自体で金を取ってる、ということだ。 ぶっちゃけ今のエロゲ業界はライタ
メモ 広島原爆の死者増を肯定する人は阪神大震災の死者増も考えるべきかも - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt) コメント欄での議論が、かなり長くなったので、こちらにバックアップ。 議論そのものは、引き続き、向こうで行っています。 コメント欄 id:motidukisigeru 2009/06/06 09:58 >たとえば、当時の原爆による放射線リスクで現在ガンになって死んだ、というケースを否定するのは難しいけど、リスクに関して言えば別の要因でガンになる可能性のほうが高いと思う。 原爆による放射線を浴びた人は、健康を回復したあとでも、通常よりもガンになる可能性が高いことが分かっています。 → http://www.rerf.or.jp/general/qa/index.html >原爆投下後数年はともかく、数十年というのはどうなんだろうな。
というわけで、「涼宮ハルヒの憂鬱」の小説とアニメの分析。 http://d.hatena.ne.jp/tatsu2/20090523/1243087165 こちら読んで面白かったので触発されて。 あと、こちらも(トラックバックありがとうございます)。 東浩紀終了のお知らせ - 一切余計 まぁ大変に今さら感があると思うが、年単位で更新が滞る日記なので気にしない。 色々周回遅れ、時代遅れな意見だったり、勉強不足による大勘違いなどがあるかもしれないが、そういう部分はフォローをいただけるとありがたい。 長門は俺の嫁 さてさて、よく言われるのは「長門は俺の嫁」であって、「ハルヒは俺の嫁」は少ない。 まぁネタコピペをもって長門ファンがハルヒファンより多いと断言できるわけではないが、「涼宮ハルヒの憂鬱」の中で、ハルヒは、嫌われやすい不利なポジションにいる。 「涼宮ハルヒの憂鬱」の典型的なストーリーは、ハ
科学的な立証とは 定説が定説である所以は、先に書いたとおり、無数の批判・検証にさらされて、無数の論拠を持つことによる。 それらを、たった一個でチャラにするような銀の弾丸がある、とは、通常、考えにくい。 もしも、「この事実αさえ立証すれば、定説Aは崩れ去る」みたいなものがあれば、その事実αは既に何重にも検証、検討されているはずである。 トンデモと科学を分けるもの - 東浩紀の文章を批評する日記 先日のエントリーで、このように書いた。 科学というのは、自己批判によって成り立っている。科学において、説を立証したり強化したりする、ということは、それを様々な角度から批判することと同じである。 なので、科学者は新しい説を立証しようと思ったら、自分で自説を思い切り批判するところから始める。 想定されるあらゆる角度から「この説が正しかったら、ここはこうなるはずだけど、実際どうよ?」というのを自分で積み上げ
足利事件 今回の冤罪事件、容疑者の苦しみは想像を絶するもので、早急に補償が行われるのは当然だとして、他方、そんな大きな事件の犯人が放置されていることもたいへん深刻な事態です。早いところ、足利女児連続殺人事件(とあえて言いますが)の真犯人が捕まって欲しいものです。 足利事件 - 東浩紀の渦状言論 はてな避難版 この記事だけであれば内容は同感。 だがしかし。 文字情報の相対性や弱さに単純に無自覚なように見えてならない。「リアルのゆくえ」でぼくがいったのは、そんなふうに文字情報ばかりで構成された世界観など、文字情報によってすぐひっくりかえるのだから、少しはみな自重したほうがいいのではないか、ということです。 hirokiazuma.com 東浩紀氏の、この言動を引用するのであれば、上記のニュースも文字情報であり、相対的で弱いもので、すぐひっくりかえりうるものだ。 一方に慰安婦はいたと怒っている人
たとえばブラック企業の話とか みんな好きだよね。俺も好きです。好きというと言葉が悪いかもしれない。 様々な意味で現場がぶっ壊れていて、現実が見えなくなった理不尽な指示が飛んで、それを現場が裁量で埋めることになり、結果、やることがどんどん犯罪に近づき、時には犯罪そのものになり、その過程で人が傷ついてゆく。 そういう状況の中にいると、「それが当然」という錯覚に陥ることもある。 ストレスで死にかけることもある一方で、またそのストレスで誰かを傷つける側に回ることもある。 必ずしも悪人らしい悪人がいるわけではなくて(いる時もあるけど)、様々な原因が絡み合って、色々な悪循環を生み出してゆく集団。 そういう状況は、人間が生きてる限り、どこの国でも、どういう集団でもあったと思う。 そういうブラック企業にあっても、カッコイイことを言って、ぴしっとスジを通す先輩とかがいたりして、それに憧れる時もある。自分もそ
定説と根拠 歴史学を含む科学においては、様々な定説が存在する。 通常、定説は、色々な角度から検証されている。 単純化していうなら、「定説A」を支える根拠は、「a1,a2,a3,a4」と一杯ある。 定説に対する反論 科学の基盤の一つは、自分自身を疑うことである。様々な基盤を相互批判し、それによって、より安定な基盤を作り上げる。 だから定説だから批判されないということはなく、むしろ、数々の批判に耐えて残ったのが定説である、と、言える。 なので定説を批判することは全くタブーではないが、そのためには手続きがある。 「定説Aだけど、根拠のa1の、このへんが怪しくない?」という問題提起と研究は大切であるし、常に行われている。 ただ、問題提起した時点では、a1が本当に間違いかはわからない。 問題提起し、それが他の科学者によって様々に検証されることで、「あ、a1は確かに微妙かもね」となったり「a1のそのへ
南京事件を否定してしまうのは入門知識すら身につけてない証 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか こちらのコメント欄で、たいがい長い議論をしてしまったので、移動。 いまさらながら・・・ - Apes! Not Monkeys! はてな別館 こちらのコメント欄も参照しつつ さて、id:shivashantiさんは「南京事件の定義」を求めています。 「どの事実が否定されたら南京事件が否定されるのか」に答えることができなければ、どれだけ「あった理由」を並べても南京事件とは何かを語ったことにはならない。 真の南京事件否定論者 - 売り切れました 肯定派、否定派が存在することに対して、南京事件の内容が定義されなければ、肯定/否定はできないわけだから、対等な議論をするには「何が南京事件であるか」の定義が必要である、という話です。 また、その定義の一貫として、「大量の犠牲者」が含まれるのか否かというのを何度も
崎山氏の東浩紀擁護 http://blog.sakichan.org/ja/2008/12/14/on_attacks_against_hiroki_azuma ・「絶対的真実」は存在しない ・言論の自由は大切 ・南京大虐殺否定論でも、存在する意味はある。 ・それらを認めないと、弾圧が起きうる。 どれも賛成ですし、否定したこともありません。 問題は、バランスなのです。 東氏は何と言ったか? 東氏が「明らかに間違った歴史修整主義であっても、完全に排除するのはよくない」と言ってるのであれば、誰も反論しないでしょう。 問題は、東氏が、「明らかに間違った歴史修整主義」とは言っていない点にあります。 当たり前ですけど、政治的判断は一般に伝聞情報によって下される。ある事件について、本当に何が起こったかを自分の力で確かめられる人間は常に少数です。それなのに、膨大な情報だけはネットで簡単に手に入る。そのな
大勢って、どれくらい大勢? http://blog.sakichan.org/ja/2008/12/15/not_issues_on_the_interpretation_of_hist#comments Apeman氏が「スルーせずに批判すること」を繰り返しても、社会の中で影響される人はいるかもしれないが、俯瞰してみれば、大勢に影響はない。島宇宙的な共存関係を壊すようなものではない。 (中略) 島宇宙化した人々の関心をかつてのように特定少数のものに集まるように取り戻す、というのもないではないが、それはおそらく不可能に近いぐらい困難なことだろうし、現在東氏を批判している面々がそういう方向をめざしているようにもみえない。 人々の関心が島宇宙化して、関心、興味が分散している、という話がある。 さて、島宇宙化というのは、まぁ、様々な方面において、様々な度合いで定義できるだろう。 みんな、それなり
原爆は落ちてない 例えば、どっかの国で、「原爆なんかホントは落ちてない」「落ちたけど、すげー人が死んだってのは日本人のでっちあげ」という話が出てきた、としよう。 日本人として、あるいは個人として、そういうことを言う人に対しては、控えめにいって、かなり不愉快な気持になる。 また、それに対して「絶対の真実などないから、原爆否定論にも耳を傾けよう」という人がいたら、理屈ではわかるにせよ、不愉快な気持にはなってしまう。それが重要な論点で、どうしても言う必要があるのなら分かるけど、さしたる必要もないなら持ち出してほしくはない。 「俺は、ちゃんと原爆の現場見て来たんだぜ。広島の原爆ドーム見たら実感あったけど、長崎原爆資料館は、あんまり実感なかったね。ひょっとしたら長崎の原爆は落ちて無かったって転向するかも。それが俺の「真実」」と書いていたら。 俺は殺意が湧く。 南京虐殺否定論について、安易に議論の例に
前提 文字情報ばかりといえば、はてなブログでは、ぼくが公認してもいない速記の断片的引用ばかりがコピーされ「東浩紀、許さん!」とか言われているらしいのだけど、上記のように、ぼくからすればそれは授業の内容についても僕の立場についても明らかに誤解している。そもそも、そんなに真実が大事だと思うのならば、そのかたがたは実際にぼくの授業に来て質問したらいいのではないでしょうか。 http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html と、いう記事があった。 さて、大学というのは、結構、学生以外や関係ない授業も入れてもらえるものだけど、全然知らない人のとこに勝手におしかけるのは、よろしくない。 行くのも授業を聴講するのが前提であって、授業と関係ない話をしにゆくとなったら、これは問題だ。 授業の流れとかがわからない中で、「そーいえば、ブログの話ですけど」という質問を
あらゆる説には耳を傾ける価値がある http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html 東浩紀氏の、南京大虐殺に対する話、再び。 講義の速記や対談、雑誌記事などは、どうしても本人以外の編集が入るので、東氏自身がどう思ってるかは気になっていたのだが。 結論は、「これはひどい」だった。 この記事の、前半は理解できる。 A.いまの日本社会に、南京大虐殺があったと断言するひとと、なかったと断言するひとがそれぞれかなりのボリュームでいるのは事実である(この場合の南京大虐殺は例)。 B.ポストモダニズム系リベラルの理論家は、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と随所で主張している。 C.だとすれば。ポストモダニズム系リベラルは、たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声
全ては解釈ゲーム……か? http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081114#p1 南京大虐殺について僕はあると思っている しかしあるという奴とないという奴がいてこれを調整するのは不可能 いくらでも理論武装することは可能 この世界で公共性を考えるなら、まずあるいう奴とないという奴がいるんだ、ということからはじめないといけない デリダを通ってしまうと、歴史的真実とか言えなくなる 言うということはデリダを裏切る 左翼とかポストモダニストが言っていたことはそういうこと これは非常に難しい問題 従軍慰安婦は、軍の命令なんかはなかったんじゃないか 南京大虐殺は、あっただろうけど規模は小さかったんじゃないか 全ては解釈ゲーム 東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第6回 (nitar氏が書かれた講義記録より抜粋) ・いくらでも理論武装することは可能 ・全ては解釈ゲーム ・歴
ちょっと東浩紀から飛んで、違う話題を。 http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20081113/1226560216 Google Adsenseに、クラスター水の広告が載ったことをきっかけに始まった、疑似科学批判と疑似科学批判批判のあたりを読んで気になったことがいくつかあった。 http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081115/1226722771 このあたりから始まった議論で、よく見かけた意見が、「専門家には疑似科学かどうか判断できるのかもしれないが、素人には判断する知識も手間暇もない。とすると、科学/疑似科学の区別は、結局は宗教と同じく、信じるかどうかということにならないか?」という話だ。 説得力のある意見だが、ここには抜けている考え方がある。 それは「専門知識が必要かどうかは程度問題」という話だ。 人はビルから落ちない 例えば、「人はビル
最終更新から二年も経ち、様々に読者も入れ代わってると思うので、昔のエントリから落ち穂拾い。 → http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20030921#1063904298 作画はマズくて動きも平板でいい さて、東浩紀氏は、アニメ批評が低調な理由として、読者の質が悪く、ちょっとしたミスを鬼の首でも取ったように非難し、それを見識と勘違いしているような人が多すぎるからだと言った。 では、具体的な、東浩紀のアニメ観を見てみよう。 (望月注:最近の「萌え革命以降のアニメファン」にとっては) したがって、作画がマズかろうが、動きが平板だろうが、そんなものはアニメを見るうえでまったく障害にならない。彼らは、アニメを見ているようで、実はアニメそのものは見ていない。漫画にしろアニメにしろゲームにしろ、彼らにとっては、脳内に萌の対象を作り出すために必要な情報を引き出す一種
何事もなかったかのように更新。 http://yaplog.jp/sennheiser/archive/17 http://yaplog.jp/sennheiser/archive/18 こちら経由で(面白かったです。このエントリの内容も触発されたところが大きいです)、 http://www.hirokiazuma.com/archives/000460.html こちらを読む。 古い読者なら知ってると思いますが、実際にはぼくはそのあと、さまざまなところから「東はアニメがわかってない」と叩かれ、某ライター氏からは、面と向かって「あなたの存在自体迷惑だから、今後オタク関係について語るな」と罵倒されたりすることになります。というわけで、やべえ、この業界まじで怖いわ、と思って、アニメ業界からは微妙に距離をとることにしてきた(そしてその結果、美少女ゲームとかライトノベルについて多く語るようになった
現状、いわゆる美少女ゲームのほとんどは、ノベルゲームからなっている。RPG形式のゲームや、アクションパートのあるゲームもないわけではないが、(少なくとも)割合的に少ない。 ノベルゲーム自体のシステム面の進化は、様々に考えられるが、それほど追求されていない。 これをもってして、「美少女ゲーム界&ユーザーは志が低い」という話があるが、ちょっと待ってほしい。 ゲームというのは、本来、買う人の嗜好に求めて差別化されるものだ。美少女ゲームにプレイヤーが求めるのは、基本的に「かわいい女の子」と「えっちなこと」をすることだ。*1よって、メーカーも、そこに全力を傾注する。 「かわいい女の子」と「えっちなこと」を体験するには、良い絵とその枚数。そしてキャラ付けとテキストが一番重要となる。開発において絵師とライターに比重を置くのは当然だろう。 「かわいい女の子」との「えっちなこと」において需要があればシステム
howさんの議論から一旦整理。 まず前提としてオタクの定義というのは沢山あり、一つに決める必要はありません。以下は、望月による個人的なオタクの定義、理想です。賛成、反対意見があればいただけると嬉しいです。 オタクは、面白い作品に価値を見いだす。 1より、面白い作品を作ることはオタクにとって望ましいことである。 面白い作品を作るには労力が必要なので、それに敬意を払うのが望ましいことである。 敬意を払わず、面白い作品が増える機会、人物を潰すことは、望ましくないことである。 面白い作品を楽しむと同時に、そういう作品が出続ける環境を維持したい。そのために、例えば作り手にきちんと金が落ちてほしい、と考える。それは、今の時代オタクが自分を律する基準の一つであると思います。 2'.作品の中から新たな面白さを見いだすことはオタクにとって望ましいことである。 3'.2’には労力が必要なので、それに敬意を払う
howさんとのコメント欄で、思うことがあったので、少しだけ。 オタクとは何かという話だが。この日記では主に、「実際にオタクと呼ばれてる人、自分で呼んでる人」の意味で「オタク」を使っている。 「おたくはどう考えるか?」という話があった場合、非常に単純化して言うなら、「秋葉原で、とらのあなから出てきた人100人にアンケートを取ったら、どんな答えが出るか?」という話に置きかえて考えている。 その一方で、「オタクとはかくあるべきだ」というような理念、運動としての「オタク像」というのもあるだろう。 筆者の場合も、そういうオタク像はある。かつての日記から引用しよう。 http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20040918#p1 オタクの中で偉くなる、というのは、オタクとして楽しい体験を、より多くの人に与えることだ。 一番、わかりやすいのは、例えば、良い作品を生み出す
「ゲームの外側」の遊びへの注目 http://amanoudume.s41.xrea.com/2006/09/cedec.html こちらからリンクをいただいていたので、少し。 さて、東浩紀氏は、作品とファンの関係について、長い間語ってきた。 美少女ゲームにおいては作品内のゲーム性は失われたと発言した。また作品自体の価値が失われ、データベース化されてゆくのがポストモダンの現代である、と、主張した。 それが正しいとすれば、作品発信者は、積極的にファンコミュニティを育てるべきであるが、一方で、Type Moonがファンを大切にしてることに私怨めいたことを書いたりする。いったい、どっちなんだ、おまえは、と、言いたくなるが、まぁ。 東氏の言ってることを汲むと以下のようになるだろう。 ポストモダンの現代、普通のストーリーは不可能となった。 多くの作品は、データベース化された中で、ユーザーとコミュニテ
http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20060903#p1 こちらの続き。 http://www.hirokiazuma.com/archives/000245.html 東浩紀氏の考察について。果たして、情報財の価値がゼロの社会では、ディベロッパーが幅を利かせるのだろうのか? 未来のことを予測するのは難しい。ので、今、起きていることに注目してみよう。 今現在、「コピー可能な情報財」で「情報財の価値がゼロ、あるいは極めて低い」ものはあるだろうか? ある。テレビ番組だ。 今、現在、視聴者は、テレビ番組自体には、直接、金を払っていない。ではあるが、テレビ番組には予算がついているし、破綻もしていない。また、それらは録画することができる。ビデオテープにHDレコーダー。その一方で、テレビアニメDVDがまったく売れない、ということもない。アニメDVDを買うような人
http://www.hirokiazuma.com/archives/000245.html さて、東浩紀氏は、上記でアテンション・エコノミーについて書いていた。 少し調べてみた。そもそものアテンション・エコノミーの記述は、Michael H. Goldhaberの以下の講演(だと思う)。 これは1997年のものであるから、現在から見ると時代遅れの部分もある。 http://www.firstmonday.org/issues/issue2_4/goldhaber/index.html ついでに彼の最近の講演のスライド。pdfファイル。 http://www.well.com/user/mgoldh/MMIG.pdf どうもウェブ界隈の議論を見ていると「アテンションエコノミー」は、「ユーザーの目先の時間をぶんどること」という話になってるみたいだが、元々はそうじゃないようだ*1。 アテンシ
font-da.hatenablog.jp 作品抹消の正当化 二重三重に酷い記事である。 まず、重要な点として、一人の新人作家が、作品を発表後に、撤回させられているという大きな事実がある。新人作家が、大作家に遠慮した編集部によって、電子版から作品を削除され、名前も作品名もないまま、奇妙な「お詫び」が載っている。それをするに値する行動を、この新人作家はしたのだろうか? 「パロディ」=批判? 私が問題にしているのは第二の掲載媒体である。少女漫画のパロディを、少女漫画雑誌に掲載するということは、その読者に対しての批判になる。 ブックマーク等で、何度も指摘されているが、漫画における、いわゆるパロディと批判は異なる。 漫画とかでパロディといえば、必ずしもジャンルの偏見を鋭く批評するようなものではなく、「あぁそういうの、あるよねー。あるある」といった共感を呼ぶようなものがメインだ。 逆に言うと、そのジ
さて「ゲーム性」という単語が、往々にしてゲームの性質そのものを語るためではなく、「難易度信仰」と「選民思想」を正当化するために持ち出されラベルである、と、昨日書いた。 「難しいゲームを理解できる俺、エライ!」というわけだ。 「文学性」とか「作家性」とかも似たような言葉だ。 ブンガクとは何か、オリジナリティとは何か、というのではなくて、要するに「難しい作品を理解できる俺、エライ!」と言いたいがために使われる言葉である。 これらは言い換えれば「自慢しやすさ」≒「語りやすさ」である、と、言えよう。 ゲームでもラノベでもなんでもいいが、「語りやすさ」というのは、その作品の価値の一つである。が、その価値の全てではない。 当たり前だが、これを忘れる人が多い。 例えば、ここに一冊のマンガがある。一人の読者が、このマンガを本屋で買ってから読み終わるまでについて考えてみよう。 まずは、本屋のどこに並ぶか、だ
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