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今年の「#文学」
jun-jun1965.hatenablog.com
井上隆史『大江健三郎論 怪物作家の『本当ノ事』(光文社新書)を読んだ。井上は1963年生まれで、神奈川県の公立共学高校から一浪して東大へ入り、日本近代文学を専攻して三島由紀夫の研究者となり、今は平穏に白百合女子大学教授をしている。前の著書『暴流の人 三島由紀夫』で読売文学賞とやまなし文学賞をとったが、私は『川端康成と女たち』(幻冬舎新書)でこの著作の一部を罵倒したことがある。というのは、井上は、川端ではなくて三島がノーベル賞をとるべきだと思っており、当時サイデンステッカーがノーベル賞財団に提出した三島についての文章が、ほぼ三島を推薦していないのでがっかりしたといったことを書いていたからで、私は、あんな右翼的活動をしている男がノーベル賞をもらうわけがないではないか、バカか、と罵倒したのである。それには、サイデンステッカーは、反共主義者で、右翼的と見られているが、天皇制には批判的だったため、平
遠い、遠い昔の2002年、今はなき『週刊朝日』の「週刊図書館」という、私もずいぶん(書く方で)お世話になった書評欄に、月一回、「まっとうな本」という、物騒な連載があった。「虫」という匿名で書かれており、一頁分で、今では文壇の大御所になっているような、ないしは当時大御所であった作家の作品をぶった斬っていた書評であり、11月に大江健三郎を酷評したところ、大江の怒りに遭って打ち切りになったと噂されている。ウィキペディアではこの噂は『週刊文春』12月15日号に書いてあることになっているが12月5日の間違いである。(「週刊朝日」の項) 当時『週刊朝日』は毎週送られてきていたから、私も楽しく読んだものだが、今なお「虫」の正体は不明で、このまま埋もれるのは惜しいので、題目だけでも一覧を掲げておく。なお第一回の題名から、斎藤美奈子が執筆者ではないかと言われたが、当時斎藤は否定し、私なら実名で書くと言った。
もう20年以上前、福田和也が保守の論客として華々しく活躍していたころに、誰かから、「奇妙な廃墟」だけはいい本だと言われた。私は、いい本なんだろうなと思いつつ、本を買いまでしつつ、今日まで読まずに来たが、とうとう読んで、これを30歳そこそこで書くというのはすごいことだと思い、しかし22歳から29歳まで7年かかって書いたというのを読んで、まあ7年かければできるかなと思った。だがこれだけのものを書いても、ナチス協力作家が対象では、フランス文学者として大学でのキャリアは得られないのか、と思った。 この本は徹頭徹尾、客観的なアカデミズムの文章で書かれていて、文藝評論家的な跳躍はないし、日本の文学者を例として持ち出すことすらしていない。どちらかというとちくま学芸文庫の柄谷行人の解説のほうが、悪く文藝評論的に書かれている。だが、どこまでがフランスその他海外での研究では明らかにされているのかは、卒読しただ
ガヤトリ・スピヴァクの「ある学問の死:地球志向の比較文学へ」が翻訳されたのは2004年のことだ。ここで「死」を宣告されているのはもちろん比較文学で、旧来型の比較文学はもうやることがなくなって死んでいるから、今後は「社会正義」のために文学研究はあるべきだと述べている。当時、山形浩生がこれにアマゾンレビューで一点をつけて、比較文学なんてとっくに死んでいる、と罵倒していたのは、そのような方向性に反対だからで、のちにプラックローズらの『社会正義は常に正しい』を訳して、社会正義のために人文学を用いることを批判した山形らしい。 学問というのは、自然科学がそうであるように、客観的な事実を提示するものであって、政治的に正しい議論を導くものではない。だが、文学研究というのは、基本的な作業が終って、もうあまりやることは残っていない。それに対して、今後の文学研究は社会正義のためにあるべきだと言う人たちが、ポスト
2006年1月に刊行されてけっこう話題になった本だが、今回初めて読んだ。私は四方田という人に対して複雑な感情を抱いていて、大学院に入ったころ、面識のない先輩としてそのエッセイ集『ストレンジャー・ザン・ニューヨーク』を読んだ時だけ、素直に面白い本として読めたのだが、その後読んだ『貴種と転生』という中上健次論や、『月島物語』といういかにもおじさん受けしそうで実際に受けた本を読んだ時はさして感心しなかったし、『先生とわたし』という、私も英語を教わったことのある由良君美先生について書かれた本の時は、いくつか小さな事実誤認を見つけ、それなりにちゃんと書いておいたのだが、文庫化に際してそれらは訂正されていなかった。その頃には、著者の人格に対する疑念も持っていたし、嫉妬心も抱いていた。 四方田は大阪箕面という、私が阪大時代に住んでいた背後の土地で育ち、両親が離婚して母方の四方田を名乗るようになったという
私は24年前、「セックスワーカーを差別するな」と呼号する澁谷知美に、そういうことを言うなら自分がアルバイトでもソープ嬢とかやってみるべきだろう、と言ったのだが、こないだふと、なんであんなこと言ったのかなと思ったのだが、あの当時は私は売春撲滅論者だったが、その後転向して売春必要悪論になり、売春防止法は改廃すべきだと思うようになったから、ともいえるのだが、あれは当時の澁谷が、松沢呉一のアジテーションに載せられて浅野千恵とかをやたら攻撃したり、売春婦がなぜ蔑視されるかについて珍妙な説を唱えたりしていたせいもある。 しかし今でも、日常的な差別、たとえば隣に住んでいる人が元売春婦だと知ったら、普通の人づきあいは無理だろうというくらいには思っていて、これは現状では避けられない。コロナの時の給付金とかの話になると、まず合法化が先だろうという話になる。 それに私は近世から昭和初年までの人身売買による売春を
文学関係の有力出版社の編集者だった人が、引退とかして本を書くと、お世話になった作家たちが選考委員をする文学賞を貰えるという現象があるのはよく知られている。人物別に一覧にしてみた。 半藤一利(1930-2021)文藝春秋「漱石先生ぞな、もし」新田次郎賞(1993)「ノモンハンの夏」山本七平賞(98)、「昭和史」毎日出版文化賞(2006)菊池寛賞(2015) 高田宏(1932-2015)(エッソスタンダード「エナジー対話」)「言葉の海へ」大佛次郎賞(1978)「木に会う」読売文学賞(90) 宮脇俊三(1926-2003)中央公論社「殺意の風景」泉鏡花賞(1985)菊池寛賞(99) 石和鷹(1933-97)(「すばる」編集長)「野分酒場」泉鏡花賞(89)「クルー」芸術選奨(95)「地獄は一定すみかぞかし」伊藤整文学賞(97)、 大久保房男(1921-2014)「群像」編集長「海のまつりごと」芸術
私は1995年8月に東大病院で処方を受けてマイナートランキライザーを呑むようになり、それまでのパニック障害や不安障害が緩和されていったのだが、それより前に群ようこのエッセイで、群が若いころ精神状態が悪くなりマイナートランキライザーを処方されて呑んだら効き目はすばらしかったが、こんなものに頼っていてはいけないと考えて捨ててしまった、というのを読んでいたため、いつまでも呑んでいてはいけないという考えがあり、翌年春に実家へ帰った時に薬を断ったのだが、そのためひどい禁断症状に陥って一か月くらい七転八倒の苦しみであった。四月になって大阪へ帰って再度薬を用いるようになって収まっていったのだが、薬は少しずつやめていくのが正しいので、いきなりやめると大変なことになる。しかし世の中には反薬派の医師というのがいて、薬はすぐ全部やめろなどと無茶なことを書いた本を出していて、決して本気にしてはいけない。
9月13日の昼過ぎ、今日都内のホテルで、大江健三郎のお別れの会が開かれたというニュースをX上で見た時、あっ私は呼ばれなかったんだという悲哀が突き上げてきた。衝撃を受けつつあちこち調べてみると、大江についての本を書いた榎本正樹は呼ばれたが行かなかった、高原到も呼ばれたが仕事があっていけなかったとかポストしており、かなり幅広く呼ばれたらしく、もしや蓮實重彦も呼ばれなかったのではと思ったが呼ばれていたようだし、私がパージされたのは明白で、私は衝撃のため二日ほど仕事が手につかなかった。 そこで私は「眠れる森の美女」の舞踏会に呼ばれなかった魔女のごとくタタリ神となって以後は語るが、近年、大江健三郎は中産階級向け、お茶の間向け、テレビ向けに微温化され、デオドラント化されている。スピーチしたのは黒柳徹子、山内久明、朝吹真理子というあたりがすでに微温的ではないか。 そもそも私が中学3年の時『万延元年のフッ
1850年 曾祖父・八三郎生まれる。 1855年(安政2)内ノ子騒動 1866年(慶應2)奥福騒動 1894年(明治27)父・好太郎生まれる。祖母はフデ。 1902年(明治35)母・小石生まれる。 1914年(大正3)20歳の父と12歳の母が結婚。 1919年(大正8)祖父この頃死ぬ。数え五十歳。 1923年( 12) 姉・一生まれる。 1924年4月24日、好太郎、明智新六らと大瀬革進会を結成、総選挙で窪田文三を応援と決定する。(史料愛媛労働運動史4巻、124p、愛媛新報) 1929年(昭和4)長兄・昭太郎生まれる。 ? 次兄・清信生まれる。 1933年、姉・重子が生まれる。 5月15日、伊丹十三(池内義弘)生まれる。 1935年1月31日 愛媛県喜多郡大瀬村に生まれる。父は大江好太郎、母は小石。長兄・昭太郎(燃料商、歌人)、次兄・清信。姉二人、弟・征四郎、妹一人。父は製紙原料商で、ミツ
「彼はまだ上がり框に腰かけてい、」といった「い」の使い方は、私は中学生の時に山本周五郎の小説を読んで知ったのだが、初期の大江健三郎にもそういう「い、」はあり、柄谷行人によるとそれは中野重治譲りだという。 熊野大学公式サイト|高澤秀次「追悼:大江健三郎と中上健次」 中野重治は1902年生まれ、山本周五郎は1903年生まれで、1930年代から活躍した作家なので、この「い、」はどちらが先か調べるのはかなり厄介だろうが、私は柄谷は山本周五郎は読んでないだろうと思い、中野重治は読んでいたように思うので、山本が先のような気がする。 (小谷野敦)
www.youtube.com YouTubeにこんなものがあったので聴いてみたら、伊集院光という人が大江健三郎と普通に難しい話をしているので驚いた。伊丹十三の映画「マルタイの女」に出たことで大江と知り合ったらしいが、「光」という名前も大江の長男と同じだ。 大江が「臈たしアナベル・リイ」を出した当時だから、2007年の放送だろう。大江は大学受験のあと、伊丹十三が芦屋に住んでいたその家に立ち寄った話をするのに、「伊丹の、いや熱海の、伊丹の、熱海の、いや芦屋の」と言っている。しかし、僕は本が売れなくても気にしないけど、伊丹はなんであんなに客の入りを気にしたんだろう、と言っているのは、客が入らないと映画会社にも迷惑をかけるし、次の映画が作れないからだろうと思うんだが、妙にそこはボケたことを言っているなと思った。
倉本さおりとの芥川賞対談(「週刊読書人」)で、今の芥川賞選考委員の間には、古市憲寿、千葉雅也、乗代雄介、鈴木涼美など、他の分野で活躍していたり、派手な感じの人に授賞したくないという雰囲気があると指摘したが、やはりこれは、又吉直樹に無理をして授与した心理的傷があるからであろう。又吉作品は一般的には受賞してもおかしくない水準だが、三島賞で落とされたものに芥川賞が授与されるのは初めてという点で、やはり無理をしていた。島田雅彦などは古市を落とす時に、わざわざ、なぜ又吉はいいか言い訳をするほどに「傷ついて」いた。島田が落とされていた時期も、地味な中年女性の受賞が続いていたが、今はそれに次ぐ、地味受賞期に当たるだろう。
少し前に、『現代思想』(青土社)が「ポストモダン」を擁護的に特集した際、謳い文句に「アカデミズムの外で詭弁に使われ」とあるのを見て私は「中で」の間違いじゃないかと思った。しかし日本のポモ思想は、何やら現代版禅仏教みたいになり、おとなしい草食動物みたいだと、本書を読むと感じる。本書の著者二人は、「第二のソーカル事件」とされる、ピーター・ボゴシアンの盟友で、ニ十本のポモ風インチキ論文を査読雑誌に投稿してうち七本が掲載されるという事件を起こし(なおこの論文のうち二本は本書の帯で紹介されているが、詳細な内容は本書内にはない)、そのためボゴシアンは勤務先の大学を辞職させられたが、その後、クイア理論をへたポモの「社会正義理論」の影響もあり、キャンセルカルチャーやマイクロアグレッション(些細な過去の発言をとりあげて叩くこと)、つまり「ポリコレ」と言われるアメリカでの知識人の内部抗争が激化したり、BLM運
(時事通信配信) 大江健三郎氏が亡くなられた。かつて谷崎潤一郎が死んだ時、三島由紀夫は、「谷崎朝時代」が終わったと評したが、私には、その少し前から始まっていた「大江朝時代」が今終わったと言いたいところである。大江氏は、東大五月祭賞を受賞し、「東京大学新聞」に発表された「奇妙な仕事」を、文芸評論家の平野謙が文芸時評で取り上げることによって、一躍有望な新人としてデビューし、ほどなく「飼育」で芥川賞を受賞したが、私には「奇妙な仕事」こそが初期大江において最も斬新な作品だと感じられる。当時、東大仏文科に在学中で、卒業とともにいきなり多忙な人気作家生活に入った大江氏には、苦しい時期が断続的に襲ってきた。高校時代からの年長の親友だった伊丹十三の妹と結婚し、精神的な安定をみたのもつかの間、浅沼稲次郎暗殺を題材にした「政治少年死す」を発表して右翼の脅迫に遭い、さらに脳に障碍のある男児・光が生まれ、彼ととも
児童文化評論家の赤木かん子に手紙を書いたのは、大学一年の時だったような気がする。それは赤木の「ヤングアダルト」というジャンルをもっと広げるべきだという論旨の文章に反対したもので、私は、高校生くらいになったら、別に大人が読むものを普通に読めばいいので、ヤングアダルトなどという細かい年齢による読書の区分けをしなくてもいいだろうと主張したのである。多分掲載誌の出版社宛てに出したのだろうが、返事は来なかった。当人が読んだかどうかも知らない。 その後の歴史は、現実には私の敗北で、公共図書館や大きな書店にはしばしば「ヤングアダルトコーナー」が設けられている。これはある意味で出版戦略の勝利であったかもしれない。だが私の、高校生になったら大人向けのものでも何でも読めばいいという考えは変わっていない。 私は図書館で、時々絵本を借りるが、そうすると図書館員から「お子さんがいらっしゃるんですか」などと訊かれたこ
コロナが三年目の暮れに入ってまた感染者が増えつつあった十二月八日、つまり真珠湾攻撃の日に、その「飛び加藤」からのメールが突然やってきた。前にツイッターにいて、何か言葉を交わした、私の著作のファンらしい、五十がらみの男性だった。彼は、私と誰かの対談シリーズを企画していて、それを動画に撮り、ユーチューブみたいなところにアップしたいと言うのである。私には三万円くれ、対談相手には一、二万くれると言う。 私はコロナになってから、人と会うのは極力避けていて、年に二回ある芥川賞についての由良本まおりさんとの対談もズームでやっていたから、実際に会うことを前提としての企画には二の足を踏んだが、三万円は収入の乏しい私には魅力だったし、話をしてみたい相手も数人いた。「飛び加藤」は、自分が作ったという動画をサンプルとしてURLを送ってきたが、エロスの何とかいうもので、あまり上品なものとは思われなかったし、訊いたら
2002年の12月に、東大比較文学出身者による「恋愛」シンポジウムが行われた。その時、「ドン・ジュアン」の比較文学などは成立しないと、プリンストン大学に提出した博士論文で主張していたヨコタ村上孝之は、その話をして、「じゃあドン・ガバチョの比較文学ってのもできるんですか」と言った。ポモ的詭弁であって、単に「女たらし」をドン・ジュアンで代表させたことを利用した言葉遊びに過ぎない。 だが出席していた大澤吉博教授は、そういう正面からの反論はせず、「ドン・ガバチョの比較文学、いいんじゃないですか」などと言っていた。これは午前中の部で、私は客席にいたから何も言えなかった。午後の部では私とヨコタの言い争いになった。 後日、比較研究室で、東アジアから来た留学生女子が、ヨコタのことを「頭がいい」と言うのを聞いて、ああいうペテンに引っかかる学生や若者がいるからポモが跋扈したんだなと思ったことであった。 (小谷
私が津原泰水という作家を知り、いきなり電話で話して面倒なことになったのは、ちょうど十年前、2012年9月のことだった。二歳年下の津原は、当時川上未映子とトラブルの関係にあった。これは2010年に川上が新潮新人賞の選考委員に抜擢された時、津原が異を唱え(芥川賞受賞から三年で、早すぎるというのだろうが、これは私にも異論はない。新潮新人賞は又吉直樹の時も同じことをした)。そのあと津原の掲示板や2chに津原への誹謗中傷が書き込まれるようになった、というのが発端らしい。津原は川上とは面識があり、「尾崎翠とか読んだら」と助言したが、川上は尾崎翠を知らなかったとかいうのだが、川上の出世作「わたくし率 イン 歯ー、または世界」(2007)が、津原の「黄昏抜歯」(2044)の盗作だというのは、津原が言ったのではなく、どこかから出てきた噂だったが、津原が自身への誹謗中傷の書き込みを川上、または川上の指示を受け
西村賢太には、冷たくされた。芥川賞をとったころ、あちらの著作が送られてきたので、お礼のハガキを書いたが、返事はなかった。それからこちらの著作も新宿の住所に送るようになったが、ある時期から宛所不明で戻ってくるようになった。王子に住んでいると噂されたがその住所は知らされなかった。数年後に私の著作が出るのと芥川賞の発表に応じて公開対談を申し込んだが断られた。担当編集者がそのことを私に隠したまま別の対談相手と交渉してしまったため、私が怒って(隠していたことを)対談自体なしになった。急死直前の新庄耕との対談でも新庄が私の名前を出したが、敬っているのかねえ、というあしらいだった。没後、敬して遠ざけていたと人から聞いたが、まあ中卒を気にしている賢太としては私に会うのは何か面倒な感じがしたのだろう。坪内祐三や阿部公彦だといいのはなぜかとも思うが、私のいけないのは本心を隠せないところで、本当のことを言えば暴
新聞記事から、作家の長者番付の変遷を調べてみたが、2005年以降、発表されなくなったので、今どうなっているか分からないのは不便だ。死んだら除かれるから西村京太郎ではないだろうが、今は一位は誰なんだろう。〇は初登場。 1965 1,山岡荘八、2,松本清張、3,源氏鶏太、4,石坂洋次郎、5,山田風太郎、6,柴田錬三郎、7,川口松太郎、8,水上勉、9,井上靖、10、石原慎太郎、11、司馬遼太郎 1966 1,山岡、2,源氏、3,松本、4,谷崎潤一郎、5,川口松太郎、6,柴田、7,司馬 1967 1,松本、2,源氏、3,石坂、4,山岡、5,柴田、6,井上、7,〇黒岩重吾、8,石原慎太郎、9,司馬、10、大久保康雄 1968 1,松本 2,司馬 3,源氏 4,石坂、5,〇梶山季之 6,谷崎松子、7,柴田錬三郎、8,井上靖、9,黒岩、10,山岡 1969 1,司馬、2,松本、3,梶山、4,〇佐賀潜、5
「NAM」再びみたいな感じ 星1つ、2022・4・7 前半部分は分かりやすく、気候変動の危機(とその原因が資本主義であること)について語っている。中ごろへ来ると、マルクスの晩年の思考の考察になってくるが、著者の専門は哲学であって経済学ではないので、マルクスが偉いということを語りすぎていて、いや、私らにとってはマルクスが偉いか偉くないかより、今どうしたらいいかが重要なんですが、と感じる(このマルクス上げは最後まで続く)。あと「古代の奴隷は・・・大事にされた」(253p)とか、資本主義を呪うあまりの前近代美化がひどくて、英国が支配する前のインドのカースト制について、英国が悪化させたというならそれを説明してほしいし、前近代の身分制について何も言っていないし現代の身分制である君主制についても何も言っていない。あと、水と石炭について希少性があるから資本主義は石炭を、というところ(240-42pp)、
つらつら考えると、私の大学二、三年時分の生活というのは、実に情けない空虚なものだった。つきあっている女はいないし、大学の授業は面白くないし、歌舞伎を中心に演劇を観に行ったり、テレビで録画した映画を観たりはしていたがそれも孤独で、小説が書けなかったのも無理がないと思う。実際、若くして小説を書く人というのは、無頼でももっと充実した生活をしているものだ。 当時松田聖子や中森明菜がはやっていたが、私の音楽の趣味はクラシックで、デヴィッド・ボウイとかにもさしたる興味はなく、同世代の人間からも浮いていて、最近同年代のおじさんはロックが、とか言われても、自分は違うなあと寂しく思うばかりである。 そんな大学時代、戸川純だけは、ちょっとした機縁から割と欠かさず聴いていたのだが、いま考えるとこの戸川純好きは、唐十郎が好きだったのと同じアングラ趣味だったらしい。 最近新装増補版が出た『戸川純全歌詞解説集』(pヴ
吉永小百合主演の映画「私、違っているかしら」(1966)をアマプラで観た。これは森村桂のエッセイが原作で、ほぼ森村の実体験、学習院大学を出て就職に苦労する話である。ただし森村はエッセイストとして破格の成功を収めたが、生きづらい人だったようで、最後は自殺しているから、暗い気分にもなる。 その中で、大学の就職課ではきはきと話しながら、「私、精神的貴族だもん」と言うので、はっとした。 前年の1965年、「伊豆の踊子」の撮影に訪れた川端康成は小百合に夢中で、「あなたのことは精神の貴族だと考えております」といった手紙を送っていた。私はさぞ気持ち悪いおじいさんだと思っていたのだろうと思っていたが、もしかしたら当時そういう言い方がはやっていたのかもしれない。そういえば西部邁が子供たちを公立学校へ行かせていて、精神的貴族になってほしいと言っていたが・・・
前に出た大塚ひかりには『男は美人の嘘が好き :ひかりと影の平家物語』(一九九九)という著作がある。大塚は、『源氏物語』や『古事記』については鋭い議論を繰り出すが、この『平家』論はあまり鋭くない。女性論を中心としており、文庫化(二〇一二)された際には『女嫌いの平家物語』と改題された。『平家』にはあまり女の活躍がない。木曽義仲の愛妾とされる巴は、出てはくるがちらりとだけで、冒頭の祇王・祇女、仏御前のほかに、印象に残るのは小宰相くらいで、清盛の孫の通盛に恋われてその妻となり、湊川で通盛が戦死したと聞いて泣き伏し、一ノ谷で身投げして死んでしまう。 そもそも通盛の妻となる経緯が、通盛が口説いてもなびかないので、主人の上西門院が脅すようにして通盛のほうへ追いやったという経緯があり、あまり逸話として好きではない。 大塚の著は、今ひとつ私には理解の行き届かないところがあり、友人なんだから訊けばいいのだが、
1967年7月12日、東京都江戸川区生 母は西村家三女。生家は祖父の代からの運送業。三つ上の姉がいた。 1977年4月2日 老人ホームで母方の祖母が死去 1978年9月 小学五年、父が強姦罪で七年の実刑、離婚した母と船橋に住む。 町田に転居。 1981年12月28日、横溝正史死去、ショックを受ける。 1982年 中学三年、二学期から不登校を始める。 1983年、中学卒業。素行不良。 鴬谷で一人暮らし。 1986年 板橋に住む。 1987年 伊勢佐木町に住む。 20歳 この年、姉が結婚か。 1988年5月 初めて田中英光全集を買う。 21歳 1991年「佳穂」と交際す。 24歳 1992年 姉が離婚か。暴力行為で現行犯逮捕される。 25歳 1993年秋 宇留野元一に手紙を書く。 26
1987年に大学院に入った当時、自分があまりに本を読んでいないという強迫観念から頭がおかしくなって狂ったように読んだことは書いたことがあるが、改めて古典的作品とか有名作品をいつ読んだか調べてみた。題名は一般的なものとし、英語で読んだものも日本語で記した。初期には作家をまとめて読んでいたので作家名になっている。 1975(12歳) 老人と海、南総里見八犬伝始まり、山椒太夫・高瀬舟、水滸伝(抄)坊っちゃん、平将門(海音寺) 1976(13歳) 花神,藤十郎の恋・忠直興行状記 1978(15歳) 万延元年のフットボール、人形の家、羅生門、小僧の神様・城の崎にて、蒲団、破戒、太宰治、白痴(ドスト) 1979(16歳)二葉亭四迷、野間宏、金色夜叉、島崎藤村、ラーマーヤナ(抄)、雪国、眠れる美女、ブッダのことば、北回帰線、赤毛のアン、 1980(17歳)伊豆の踊子、掌の小説、十二夜、シェイクスピア、オ
一九四五年、大東亜戦争と日本では呼ばれていた戦争に日本が負けた時、ブラジルに二十万人ほどいた日本人移民の間で、日本が勝ったというデマが広まった。のちに「勝ち組」「負け組」の争いと呼ばれるようになるもので、日本が買ったと信じる者は「信念派」、負けたという真実をつかんでいた者たちは「認識派」と呼ばれたが、「勝ち組」からは「敗希派」と呼ばれ、ついには勝ち組によるテロ殺人も起こり、長く続いた。今の日本で誤用されている「勝ち組」「負け組」はこれが本来の用法で ある。 『灼熱』は、この「勝ち負け抗争」の小説化で、沖縄で生まれた移民として「勝ち組」の若い者となる比嘉勇と、ブラジルで生まれサンパウロに住んで都会的な知識を持ち、勇の親友だったのが「負け組」になるトキオを中心に物語が描かれていく。 この戦争で日本は、米英オランダに宣戦布告しているが、最後になってソ連が参戦、中国もポツダム宣言に参加することで対
マルグリット・デュラスの『愛人(ラマン)』がゴンクール賞をとり、日本でもベストセラーになったのは1985年のことで、ほどなく映画化もされヒットした。デュラスは私小説作家ではないが、自分が14歳のころインドシナでシナ人富豪にカネで買われていた経験を描いたものである。 のちに私はマーゴ・フラゴソの『少女の私を愛したあなた』という告発文を読んで、これだとペドファイルで非難になるのに『ラマン』が文芸作品扱いされるのはどういうわけか、と書いたが、どうやら最近ではデュラスは自分を対象とする小児性愛を肯定したと批判されるようになったらしい。 これというのも昨年、フランスの作家マツネフというのが、少女をセックスの対象にしていたのを批判されてからで、(「同意」 ヴァネッサ・スプリンゴラ 著, 内山奈緒美 訳. 中央公論新社, 2020.11)、当時フランスの知識人らが、少女との性愛はOKだという署名をしたと
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