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今年の「#文学」
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「父島ノ皆サン、サヨウナラ」 というのは硫黄島の一通信手が最後に送った電文だが、それではその「父島ノ皆サン」は何をしていたかというと、これが米軍捕虜を殺害してその肉を喰ってたんだな。所謂父島人肉食事件。勿論喰ったのは極々限られた一部であったが、其の中に旅団長や根拠地隊司令官が含まれていたから、事件は極めて特異性を持つこととなった。 父島には第109師団隷下の第1混成旅団がいた。旅団長立花芳夫は愛媛出身の陸士25期。陸大は出ていない。広島聯隊区司令官から現職に就いた。一方父島で輸送業務にあたっていた堀江参謀には、栗林中将より、作戦指導に関する権限が与えられていた。硫黄島が玉砕すると、混成第1旅団は第109師団に改編され、立花少将は中将に進級と同時に師団長に補された。このとき堀江参謀は大本営に「事情あり、適任の師団長を派遣せられたし」と電報を打った。更に返電が無いと見ると、「参謀長でもよいから
半藤一利 秦郁彦 保阪正康 井上亮『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞社 半藤、秦、保阪という代表的な現代史の書き手に、富田メモをスクープした日経新聞の井上編集員を加えた4人で、BC級戦犯裁判を語るという本書。取り上げられている事案は次の通り。 泰緬鉄道F軍団事件--イギリス軍シンガポール裁判85号 サンダカン死の行進--オーストラリア軍ラブアン裁判14号 ランソン事件--フランス軍サイゴン裁判39号 カーコニコバル島住民虐殺事件--イギリス軍シンガポール裁判12号 シンガポール華僑粛清事件--イギリス軍シンガポール裁判118号 スマラン慰安所事件---オランダ軍バタビア裁判69号 花岡事件--アメリカ軍横浜裁判230号 武士道裁判--アメリカ軍横浜我利23号 ガスマタ豪軍飛行士介錯事件--オーストラリア軍香港裁判13号 百人斬り競争--中華民国南京裁判21号 海軍生体解剖事件--アメリカ
阪谷芳直・鈴木正編『中江丑吉の人間像 兆民を継ぐもの』風媒社 何処で読んだか忘れたが、中江兆民は息子が車引きになってもいいように丑吉という名前をつけたと記憶している。しかし姉は千美といい、弟の娘には猿吉(えんきち)と名付けているところから、ただの珍名マニアだった可能性もある。千美は学校の成績が良かったが、終業式で「右総代中江チビ」と呼ばれるのが嫌でたまらなかった。中江家ではネグロという黒猫を飼っていた。朝になると皆が自分の掛け布団の裾を少しあけて、ネグロを呼び、誰の所へ来るかは猫に任せて、人の所へ行っても文句は言わないという規則があった。しかしネグロは丑吉の寝床へは絶対やってこなかった。丑吉に体中をしつこくいじくりまわされるのが嫌だったからだ。丑吉は時々癪にさわり、規則を破ってネグロを捕まえて自分の床へ持ってくるのだった。父はいけないと言い、姉は怒り、母だけが丑吉を弁護した。千美が丑吉を幼
中島欣也『銀河の道 ”社会主義中尉”松下芳男の生涯』恒文社 芳男の父は下士官上がりの将校であった。新発田の彼の家の側には、第15歩兵旅団副官だった大杉東大尉の家もあった。日露戦争で鬼少佐と謳われる人物であった。大杉が宮城に詰めていた時、何かの際に馬から振り落とされてお濠に落ちた。明治天皇が泥まみれであがってきた大杉をごらんになって、『猿じゃ猿じゃ』と笑い興ぜられたそうである。芳男はその家の次男と仲が良かったが、長男とはその当時はあまり接点がなかった。「栄さん」何かの折に芳男が声をかけると、「おお松下」栄は振り返って無愛想に応えるだけだった。 芳男は仙台の地方幼年学校に進学した。そこには終生の友人となる田中新一もいた。晩年、芳男は仙幼の校史の編纂を手がけている。中央幼年学校を卒業後、田中と二人確実に一緒に行けるところということで、志望者の少ない弘前の歩兵第52聯隊を志望した。二人は志望通り弘
秦郁彦『現代史の対決』文藝春秋 お盆の古本祭りで購入。1998年から2002年に主に『諸君』に掲載された文章を纏めたもの。この頃は、”自虐史観”に対する”自由主義史観”が台頭して来ていたが、まだ”自虐”側もそれなりに頑張っており、そして何より田母神や在特会といったモンスターが現出していなかった。そういう時代の空気を反映して、先生も随所に筆が滑っている(要するに足元を気にせず心置きなく自虐側をおちょくれた時代ということだ)。例えば件の女性国際戦犯法廷でインドの判事が欠席したことについて東京裁判で唯一人、少数意見を書いた有名なパル判事の”亡霊”に叱られたせいかもしれない。 なんてのは全く書かずもがなだし、天皇訪英時の元イギリス人の要求について、”『戦場にかける橋』のアレックス・ギネスが聞いたら何というだろうか”などと言うのは全く意味不明だ。シドニー五輪に際してのオーストラリア政府がなんとかアボ
古本祭りの戦利品より 本のデパート大盛堂書店社長で、『血風ペリリュー島』や『サクラサクラ』などの戦記著者で知られる舩坂弘氏ですが、これは氏自身の体験を綴ったものです。 歩兵第59聯隊第1大隊(大隊長後藤丑雄少佐)の擲弾筒分隊長舩坂弘軍曹は、ペリリュー島の南西にあるアンガウル島で、負傷昏倒し俘虜となった。文章で書くとたった一行だが、そこに到るまでの舩坂軍曹の奮戦はすさまじい。ロッキーといえば私にとっては”4”なんだが、この島での軍曹はむしろ”ランボー怒りのアフガン”といった方がよさそうだ。詳細は本書に譲るが、これが最後とばかりに、前哨基地を突破して、敵司令部の天幕群に6個の手榴弾を持って突入したときの軍曹は、すでに左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、右肩捻挫、左腹部盲貫銃創を負っていた。突入してきたこの異様な風体の日本人兵士に、発見した米兵もしばし呆然として声もでなかったという
林えいだい『重爆特攻さくら弾機 大刀洗飛行場の放火事件』東方出版 NHK 戦争証言プロジェクト「重爆撃機 攻撃ハ特攻トス」の底本である。番組では完璧なまでにスルーされた新海希典のことも、この本ではちゃんと出てくる。新情報としては、倉澤参謀に対し「重爆を戦闘隊の隷下に入れたのは、指揮権の乱用じゃないか」と興奮してすごい剣幕でいたそうだ。 また機に放火をしたとして逮捕された朝鮮人山本伍長の最後についても載っている。憲兵隊は、取り調べもせず、戦隊の名簿を見て、朝鮮人であるというだけで山本伍長を逮捕していた。本人も含めて誰一人、逮捕前に事情聴取をされた者はいなかった。そのため戦隊の間でも、犯人は山本伍長ではないのではないかと考えるものが多かった。憲兵隊を訪ねた倉澤少佐は、伍長に明らかに拷問された跡があるのを認めた。伍長がその後どうなったかについて、倉澤は著者に「日本国内から出国することを条件に」戦
南方攻略の三軍(25A、14A、16A)を見ていると、人間関係の悪さと戦争犯罪や不祥事は比例関係にあるということが分る。 オランダは今村と岡崎に死刑を求刑したが、結局二人とも無罪となった。第2師団長だった丸山政男も無罪、東海林俊成も死刑を求刑されていたが最後は減刑され、無事復員した。これらはひとえに、大本営から何を言われようが「占領地統治要綱の通りにやっている」の一言で撥ね付けた今村と、其の意をよく汲んだ部下の賜物だろう。 第14軍は、バターンのデスマーチで本間と野戦輸送司令官の2人が処刑された。これに関しては、マニラかバターンかという戦略的な問題がまずあり、責任の殆どは大本営にあるが、そこで独断、バターンへ逃げる米軍を急追できなかった本間及びその幕僚の弱さも指摘できる。今村と本間は同期の親友で、あまり軍人軍人していないところもよく似ているが、こういう局面での強さに差があるように思う。また
更新しました。 http://ameblo.jp/rock-x3/entry-11586026007.html
『父親たちの星条旗』公開に寄せて 第109師団は昭和19年5月に父島要塞守備隊を基幹に編成された師団で、2個旅団から成り、それぞれの旅団は6個の独立歩兵大隊から成っていた。歩兵大隊の大隊長は60前後のロートルが多かったらしい。小笠原兵団とはこの第109師団に、歩兵第145聯隊や戦車第26聯隊などの諸部隊がくっついたものをいう。ちなみに支那事変初期に存在した第109師団とは別物である。 師団長栗林忠道は長野県出身で長野中学から陸士に進んだ。陸士は26期、兵科は騎兵、卒業席次は125番と平凡であったが、その後陸大に進み(35期)、これを次席で卒業して恩賜の軍刀を賜った。ちなみに首席は陸軍開闢以来の秀才といわれた藤室良輔。その後米国、カナダに勤務して所謂知米派となる。海外駐在時代はしきりに子供たちに絵手紙を送っていた。第23軍参謀長として、大東亜戦争の緒戦において香港を攻略。その後近衛の留守師団
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