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CES 2025
higeta.hatenablog.com
Last Emperor of China / tonynetone 満州事変では、日本は独立運動を支援するという体で、溥儀を傀儡国家の執政(のち皇帝)として担ぎ出すわけですが、では大臣などその下の役職はどうなっていたのでしょうか。日本人が全部担当したわけではありません。それらのポストを担当する者を担ぎ出す必要があったわけです。やり方としては、二通りが考えられます。 地位の低い者を格上げして強引に高い役職につける もともと地位の高い者をそのまま高い役職につける もちろん、2のやり方のほうがいいわけでして、日本が実際にめざしたのも2です。 ここでは、省長のポストについて簡単にみてみましょう。「満洲国」の範囲に該当するのは、遼寧省、吉林省、黒龍江省、熱河省です。独立という体裁を整えるのに一番いいのは、それぞれの省長*1に独立を言わせて、そのままそのポストにつかせることです。日本はこのやり方を進
1933年3月23日、ドイツの国会で可決された全権委任法(政府に立法権を委ねた法律)は、ナチス独裁確立の一つの画期となるものであるが、南利明「NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-2-」*1を参考にすると、法案が成立したポイントとして次の5つを挙げられる。 すでに授権法の前例があり、また31、32年には大統領による緊急命令が議会の立法を上回るなか、政府への広範な授権に対して人々の心理的抵抗は強くはなかったこと 与党であるナチス党(議席数288)・国家人民党(52)以外の議員が議決に参加しなくても法案の成立が可能となる条件が整えられていたこと 共産党議員(81)と一部の社民党議員*2が逮捕されていたこと 中央党(74)は、法案に反対してもすでに2月28日の大統領令*3がある限り、ナチスの暴力支配を止めることは不可能と考えたこと 上院に当たる連邦参議院議員は州政府の
満洲国軍日系軍官四期生会『大陸の光芒―満洲国軍日系軍官四期生誌』(1983年)下巻に、下記のような回想が出てくる。H生「白系露人部隊」と題してある。満洲国軍では、多くの日本軍人が部隊長や教官となって現地人兵士を率いていたが、著者は対ソ工作を目的として1937年に設置された白系ロシア人部隊「浅野部隊」に関係していた。同部隊には、松花江隊(約250名)、ハイラル隊(150名)、オウドウカシ隊(約50名)があった(ガルキン・セルゲイ「エポフ家と日本(1)」『望郷』26、2008年4月)。著者は松花江隊のようだ。 今一つ全世界の軍隊でも例を見ない設備は性の処理施設を造ったことである、兵の外出は兵営と隣接将校舎用の地内に限定したため、外食料亭が一軒も無い地であり、娯楽設備に極めて乏しい故でもあるが、部隊の一角の建物を妓楼とし中国人娼婦数名を常駐、夜間に限り希望者を申告せしめ、外泊許可証に依り許可した
三江省鶴岡炭鉱ニ於テハ十一月以降二回ニ亘リ苦力募集ノタメ職員ヲ洮南県城ニ派遣シ募集ヲ開始シタルモ目的ヲ達セサリシ為満警ノ協力ヲ得強制募集ノ結果■定人員二百名中百四十名ヲ得■■内十五名ハ同行ヲ拒ミ迯走 (吉林省檔案館, 廣西師範大學出版社編『日本関東憲兵隊報告集(第一輯)』6、廣西師範大學出版社、2005年、398頁) 1940年12月分の通化憲兵隊の報告である。苦力(単純労働者)の強制募集について、こんなに簡単に出てくるのかと、報告集のページをめくっていて正直おどろいた。 戦争遂行のため資源増産は日本の至上命題であった。植民地への要求も苛烈となる。炭礦労働者が集まらないから、警察と協力して強制募集したのだという。憲兵隊もそこに一枚噛んでいるということか。報告しているということは、そういうことなのだろう。強制募集の具体的な内容はわからないが、労働力になりそうな者を力で無理矢理捕まえて連れてい
満洲も暮しよいです 満人なんか内地人にはびく\/して居ます そこをつけ込んで私達なんかも満人を屁とも思つて居りません嫌な奴と思つたら頭から怒鳴つてやります とても面白いです 買物などでも無茶苦茶に値切つて買つて来ます 値切れば幾らでも値切れるよ (吉林省檔案館, 廣西師範大學出版社編『日本関東憲兵隊報告集(第一輯)』8、廣西師範大學出版社、2005年、456頁) ふつうの一庶民の書いた、差別意識ばりばりの手紙の内容が、名前と住所とともに史料として残ってしまっている。1942年10月15日の手紙である。通信を検閲していた関東憲兵隊隷下の東寧憲兵隊がこの手紙を没収し、記録していた。本人は何気なく書いたつもりでも、70年後の今日まで残り、出版された史料集に収録されて、みんなが見れるようになってしまった。 日本の敗戦により、地中に埋められたはずの関東憲兵隊の報告書類が発見・掘りおこされ、出版される
外国人徴兵を外交交渉を通じて実現させようとする米政府は、連合国に相互的徴兵協約の草案を打診した。日本には9/26に届いている。草案は、在留民の徴兵のための本国帰還か在留国での徴兵を相互に協約するものであった。外務省から意見を求められた陸軍省は、在留者の本国帰還のための取締り強化は認めても、日本国民の外国での徴兵、外国人の日本での徴兵は賛成しなかった。日本国民は、徴兵されない米国在留者をどうみていたのだろうか。日本に帰ってこないのなら、アメリカで徴兵されてしまえとは考えないのだろうか。ノルウェイでは、在米ノルウェイ人は徴兵を忌避しているとみて、米国での徴兵を支持する声が強いようだ。 「第三九一号」佐藤大使より本野外相宛 1917.9.29 JACAR:B07090170600 「二十六日国務省ヨリ協約草案ヲ送越シ当方ノ意見承知シ度旨申越セリ右草案ハ十一ヶ条ヨリ成リ其要旨ハ締約国ノ一方ハ他ノ一
当時延安で発行されていた陝甘寧辺区政府機関紙『新中華報』についてはこれまで、第443期(1938.6.30)の「日本侵略者一年来の暴行」という記事が南京事件に関する最初の言及とみられてきたが、第420期(1938.2.25)に、事件を報じる記事が掲載されているのを発見した。 (以下、適宜改行は引用者。■は判読不能文字。記事は第421期に続く。) 新中華報 420 1938.2.25 屍山血海的南京 敵在南京之空然暴行 據由南京逃出之某人談及敵軍在京暴行及南京現状、與敵軍屠殺焚焼、奸淫掠據、禁絶糧食、偽組織醜状、敵軍政治軍事布置以及市■各情形如下‥上年十二月十三日深夜中火光沖天、殺聲振地、我軍於砲聲降降之下、悲憤撤退、全城即陥入極端恐怖緊張之中。留城市民、幸早已安全移入難民区内、惟未能及時撤退之一部兵士、前進既難、後退亦無路、軍人愛国殺敵心切、於是在十三日晨、城内各處槍聲大作、敵我巷戦遂開始
■岡本公一「比較植民地主義試論」『歴史学研究』867、2010.6 アジアに現れた植民地帝国として、日本とアメリカは共通点を有する。日本は1895年に台湾を、アメリカは1898年にフィリピンを版図に組み入れた。それぞれ日清戦争後、米西戦争後、条約により戦勝国として現地住民の意思に関係なく、割譲したため、住民は独立を宣言して(「台湾民主国」「フィリピン共和国」)、抵抗した。そのため、軍事力の行使を余儀なくされ、軍政を布いた。 植民地帝国側の視点からすれば、「暴徒」の「反乱」に対する「鎮圧」であるが、歴史学では「植民地征服戦争」として捉え返す。台湾の植民地征服戦争については、以前、述べた。岡本論文によると、アメリカでも「反乱」「暴徒」と記されることが多かったが、近年になって変ってきたようである。アメリカ議会図書館は1999年に件名見出しを「フィリピン反乱」(The Philippine Ins
今回の史料 川村参軍より達相成此旨相達 本営より 明10.9.5 ref:C09082101000 ポイント1 別紙 本文に続いて、別紙を添付するというのは、よくあるパターンです。 「別」の字が特徴的なので識別しやすいと思います。 ポイント2 合字 今回出てくるのは 「より」と読みます。 ほかにおぼえておきたいものとして、「こと」「トモ」「トキ」などがあります。 合字については、↓を参照してください。 http://gtrk.hp.infoseek.co.jp/yakumono.html ポイント3 相聞 これまでも出てきたように、「相〜」というかたちです。 「聞」の字が特徴的なので識別しやすいと思います。 ポイント4 事 これも特徴的ですね。 末尾につくのでわかりやすいと思います。 読んでみましょう 判読文の表示は↓をドラッグ、文字色を反転させてください。 別紙之通リ川村参軍ヨリ達相成候
2005年自民党新憲法草案策定過程における「国防の義務」の議論に関して、新聞記事で追ってみた*1。 2003.12.17 16日、自民党憲法調査会は、総選挙後初の総会を開いた。05年に憲法草案策定を公約に掲げていたことを受けて、プロジェクトチームが要綱をまとめ、翌年夏の参院選*2後に本格的な議論に入ることを決定した。 2004.4.15 プロジェクトチームによる議論の整理(案)には、国民の義務に関しては、次のようにあった。 http://www.kenpoukaigi.gr.jp/seitoutou/040415kenpoutyousakaiPT.pdf (4)義務 1.国防の義務、奉仕活動の義務、裁判員となる義務は必要。(森岡正宏衆議院議員) 2.緊急時に国を守っていく、あるいは緊急時における協力をしていくといった義務は国の基本。(野田毅衆議院議員) 3.養育の義務、扶養の義務、保護の義
今回の史料 人夫使用願の件 明27.8.5 ref:C06031003000 第1、2画像を開いて下さい。 ポイント1 高級副官 文書の発信元ととして陸軍大臣や次官とともによくでてきます。陸軍省副官は大臣官房に属し、大臣・次官の命を承けて公文書の浄写や注記、接受、発送の事務などに当たります。高級副官は、副官部の事務を監督します。 明26陸達第98号「陸軍省処務細則」第3条には次のようにあります(ref:C06081809400)。 尋常定例ノ省務ニ就キ陸軍全部若クハ一部又ハ他向ニ対スル通牒ハ次官ノ名ヲ以テシ其軽易ノ事件ハ高級副官ノ名ヲ以テスルコトヲ得 ポイント2 同じ綴りの文書がヒントに 読めない場合、ひとつの文書だけで勝負しないことです。例えばある機関からの照会へ回答をしている文書であったら、近いページにその元となる照会の史料が綴られているはずですから、それを見てみるとヒントが得られます
はじめに アジア歴史資料センターの史料を各自参照することを前提としています。 (アジ歴の使い方については、以前書いたもの参照) 今回の史料 米国駐在海軍大尉秋山真之同國北大西洋艦隊乗組ニ関シ諸般ノ便宜ヲ受ケタル謝辞其筋ヘ伝達之件 明32.9 ref:B07090197000 第3画像を開いて下さい。 ポイント1 旧字体 「國」は問題ないでしょう。ほかには「與」が出てきています。これは「与」の旧字体です。旧字体と新字体の対応関係がすぐ思い浮かぶようにしましょう。 今回は出てきませんが、ぜひおぼえておきたいものとして、 舊→旧 體→体 團→団 などがあります。 ポイント2 「候」のくずし字 公文書や手紙などで用いられた丁寧語です。「候」は何度も繰り返し出てくるので、くずし字をおぼえてしまいましょう。 今回は、な感じ。ほかには、、あるいは単にと書かれることもあります。 ポイント3 決まり文句・言
前回のエントリでは、明27.6以降の準備正貨減少についてみた。正貨減少は、財務当局に危機意識を生じさせた。 明27.11.15、日銀総裁は蔵相宛て、外征の進展に伴う戦線の拡大は、多くの正貨支出を伴うとして、正貨の節減を図るため、「軍事手形」の使用を蔵相に提議した(ref:A01200777300)。 外征事件ハ皇軍ノ連捷ニ従ヒ益々其区域ヲ拡メ軍資ノ需要日ニ多キヲ加フルト共ニ正貨ノ支出モ亦次第ニ多額ニ上ルハ自然ノ勢ニ有之 皇軍次第ニ敵地ニ深入スルニ従ヒ正貨ノ需要其額益々増加シテ準備正貨ニ著シキ減少ヲ来シ為メニ兌換制度ノ基礎ヲシテ或ハ薄弱ナラシムルガ如キコト無カルベキ歟ト痛心苦慮仕候就テハ此危害ヲ未然ニ予防スルニハ内ニ向テハ為シ得ラルヽ丈ケ正貨ノ使用ヲ節約シ外ニ向テハ大ニ力ヲ貿易上ニ用ヰテ銀貨回収ノ策ヲ講スベキコト最モ緊要ナリト思考仕候 占領地ニ対シテ使行スル貨幣ニハ一種ノ軍事手形ナルモノヲ発
関連:http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100122/p1 アメリカでは日本人がゴボウを食べる習慣があることは知られていなかったのかという問題。 米軍はキスカ島において、撤退した日本の守備隊が残していった糧食を見つけたが、そのなかにはゴボウも含まれていた。 http://marshall.csu.edu.au/Marshalls/html/Wake_WWII/Wake_WWII-Text.html 出典には、 Verbeck, W.J., 1943 (?), The enemy on Kiska. U.S. Naval Intelligence, Section G-2 とあり、米海軍の情報部が情報として上げていたものと思われる。 日本兵が何を食べているのかということは、米国による日本軍研究の重要な一項目であっただろう。 列挙されている糧食の品目は以下のとおりで
関連 http://d.hatena.ne.jp/higeta/20090921/p1 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090918/p2 軍学校の受験に関して調べていると、主に中学生を対象としていたと思われる『学生』という受験雑誌に、陸軍大将・浅田信興が、西南戦争の回想を寄稿しているのをみつけた。 ■浅田信興「暁霧を冒して敵陣の中に駆け入り縦横無尽に清光の名刀を揮つて敵兵を斬捲つた想出」『学生』7-7、1916.7 西南戦争時、浅田は中尉であり、第4旅団、大沼大隊の副官として従軍した。 回想する浅田のテンションは高い。 忘れも為ぬ明治十年の八月十五日、彼の西南戦役に際し、日向の無鹿河畔で、軍刀を揮つて敵陣に躍り入り、腕の続く限り、斬つて\/斬りまくつた話をしよう。 元来我輩が西南の役に従軍したのは、専念実戦の経験を得んが為めであつたから、職は大村(ママ)大隊
田中宏の論文を読んで、植民地台湾について持っていた、特に朝鮮と対比しての漠然としたイメージが崩れた。 田中によると、朝鮮における参政権要求運動では、基本的に本国議会への参加を求めたのに対し、台湾の運動においては、台湾議会の設置を要求しつづけたという。 1921年の第44議会から34年の第65議会まで15回にわたって、帝国議会への請願が繰り替えされている。 (田中宏「日本の植民地支配下における国籍関係の経緯」『愛知県立大学外国語学部紀要』9、1974.12) 独立運動が起った朝鮮ばかりでなく、台湾においても自治意識が強く、日本に対する要求も先鋭的であった。 拓務省管理局『拓務省所管各地域ニ於ケル思想運動概観』(昭6.3)は、以下のように述べる。 台湾ニ於ケル民族主義運動ハ大正九年欧洲大戦後ニ於ケル澎湃タル各種自由思想ノ潮流ニ会ヒ台湾人ノ胸奥深ク潜在セル民族意識ノ躍動トナリ「台湾ハ台湾人ノ台湾
国際政治学者の奥村房夫*1は、代表的な戦史家の戦争の定義に関して、以下のものを挙げている。 (奥村房夫『「戦争」の論理』学陽書房、1986、16-17頁) (1) クラウゼヴィッツ(『戦争について』) 「戦争とは一種の強力行為であり、その旨とするところは相手にわが方の意志を強要するにある。」 「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない。」 (2) Q・ライト(『国際関係における安定と前進』) 「法的意味においては、戦争とは、二つあるいはそれ以上の政治集団が軍事力により対立を解決するようにひとしく権利を与えられた状況、と考えられる。」 「社会学的な意味においては、戦争とは、かなりの規模の軍事力によって行われる政治集団間の対立、をいう。」 (3) G・J・シャミス(『国際関係における戦争とテロリズム』) 「戦争とは、二つあるいはそれ以上の政治体間の軍事力による継続す
dj19さん引用のあわせて読みたいと あわせて読みたい。 ■松田京子「戦争報道の中の台湾―台湾領有戦争の語りと記憶をめぐって―」『南山大学日本文化学科論集』6、2006.3 領土の「合法的」割譲と、その地で徹底した暴力が行使されたこととは矛盾するものではない。台湾や朝鮮の植民地化が条約によって「合法的」に行われた点をことさら強調する語りは、植民地支配が暴力の行使を伴ったことを「忘却」しようとする欲望と結びついているといえるだろう。 台湾の植民地支配、それは植民地領有戦争というむき出しの暴力の行使を伴って開始された。 (31頁) この時期(引用者注―1895.5〜96.3)の戦闘は日清戦争として一括して扱われることが多く、そのことも関連して、台湾が「戦場」となったということ自体が、現在の日本の歴史意識の中で「顕在化」しにくい状況を生み出しているといえる。 (32頁) 最後に、宗主国内部におい
多くの研究者は、当時呼ばれていた「支那事変」ではなく、「日中戦争」と呼称する*1。「支那」に替わり「中国」という呼び名が一般的になったことが一つの原因であるが、では「事変」ではなく「戦争」と呼ぶのはなぜだろうか。 1960年代の代表的な研究である、日本国際政治学会・太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』(朝日新聞社、1962-63、全8巻)は、第3・4巻を「日中戦争」上・下としているが、第4巻、23頁に次のようにある*2。 「事変」という名の全面戦争 戦争が華北から上海へ波及するにおよんでは、もはや「事変」を短期の局地紛争として収拾する可能性は失われていた。それにもかかわらず、満州事変以来なしくずし的な武力行動の積重ねの間に鈍磨した感覚は、伝統的な中国への軽侮感情とも結びついて、政府・軍部が事態の本質をみぬいたうえで、適切な政策指導を打ちだすのを妨げたのであった。 数十万の大軍を送った
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090608/p1#cに関連して、補足&メモ。 ■木下好太郎『ヒットラーと獨逸ファシズム運動』内外社、1932 現代ドイツに於ける急激なる国家社会主義の擡頭に就いては、資本主義世界の示顕する現代の未曾有の不況と、その一環をなすドイツ資本主義国家の特殊性、換言すれば、ドイツの政治的、経済的、社会的諸態様に依つて導かれるものであると説明する事も可能であらう。然しながら、此の一面、吾々は今日のドイツ、ファスシズムの興隆の最も重要なる原因の一つとして、党を実質的に指導する彼、ヒツトラーの役割を忘るる事は出来ない。 (16頁、原文ママ) ここでは、「国家社会主義の擡頭」と「ファスシズムの興隆」が同義で用いられている。 著者は、弁護士。 同一人物だろうか、1936年、松永材や赤松克麿らで結成され、自由主義政治形態・政党政治排撃、日本的議会制
Apemanさんのところの最近の経緯、南京事件を否定してしまうのは入門知識すら身につけてない証 - 模型とキャラ弁の日記や過去に見聞した議論に基づくが、多分に推測を加味し、整合したものも含まれる。否定論者のなかでは、明確に意識されておらず、複数の論理が未分化になっているものも多いと思われるが、細かく区分してみた。 1.歴史学不能論 歴史学では結論が出ていないので、読まなくていい。 2.サヨク論 歴史学者はサヨクなので、読まなくていい。 3.インチキ論 歴史学者による通説は、インチキだとどこかで聞いたことがあるから、読まなくていい。 4.偏向論 入門書や研究書は偏向しているから、読まなくていい。 5.不良歴史学者論 まともな歴史学者は、南京事件なんて研究しないので、読まなくていい。 6.愛国論 愛国のためには、読まなくていい。 7.予防論 読むと説得されてしまいそうなので、読まない。 8.ガ
観察眼 (角川oneテーマ21) 作者: 遠藤保仁,今野泰幸出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)発売日: 2012/01/10メディア: 新書購入: 1人 クリック: 12回この商品を含むブログ (6件) を見る 本書は三部構成となっています。第一部は今野の観察眼、第二部は今野と遠藤の対談+代表戦の分析、第三部は遠藤の観察眼です。第一部は、今野がこれまでどうサッカー人生を歩んできたかという今野の個人史、第二部は同じ試合を今野と遠藤、それぞれの視点から回想している箇所、第三部は、遠藤の日本代表観が興味深いです。 こないだのウルグアイ戦で、豊田が交代出場した際、ロングボール入れてパワープレイという感じになりませんでしたが、本書を読んで納得。遠藤はパワープレイに否定的なのですね。 Last Emperor of China / tonynetone 満州事変では、日本は独立
荒川章二氏は、1995年の時点で次のように述べていた。 今からちょうど一〇〇年前、一八九五(明治二八)年四月十七日の下関講和条約調印で、日清戦争は公式に終結した。そして現代の我々日本人は、それをもって、以後日露戦争まで、日本軍の対外的武力行使が中断されたものと思いがちである。しかし、条約の結果日本に割譲されることになった台湾では、割譲に反対して台湾民主国建国が宣言され、日本軍の占領に対し激しい武力的抵抗が展開された。…狭義の日清戦争に引き続いて、講和条約を起点として「別の新戦争」が始まっていたのである。 (荒川章二「台湾の植民地化と郷土兵」『沼津市史研究』4、1995、91頁) すなわち、下関講和条約直後の台湾については、 いわば、歴史認識のエアポケットになっていた。 実際、通史の叙述をみても、講和条約調印で次の話題に移っているものも少なくない。 その点、原田敬一『日清・日露戦争』(岩波新
檜山幸夫氏は日清戦争および植民地期台湾を専門としているが、 その著書『日清戦争 秘蔵写真が明かす真実』(講談社、1997)では、 第六章「台湾統治と台湾戦線」の第三節を「日台戦争」と題している。 同節251頁では、次のように述べる。 清軍兵士と異なり、彼ら(引用者注―台湾の抗日軍)が頑強に抵抗した背景には、台湾に福建省や広東省から移住し、そこに住んでいた原住民を討伐し、苦労して荒れ地を開墾して獲得した土地を守るという意識があったからにほかならない。その意味では、台湾での戦闘は、正しく日本と台湾との戦争(日台戦争)であり、最初の植民地戦争であったということになろう。 檜山氏は、日台戦争の終末を、 第二師団が凱旋した明29.5月末とみているようである。 自分たちが苦労して獲得した土地、郷土を守ろうとする者が 頑強に抵抗するのは、道理であろう。 現地に入った樺山台湾総督は、明28.6.10、伊藤
天皇の軍隊 軍隊の国民的基盤 男性史 社会学 植民地台湾 幕末〜明治初期 戊辰戦争 徴兵制導入 西南戦争 日清戦争 義和団事変 日露戦争 第一次大戦 シベリア戦争 〈未完〉 ※追記 09/4/28 各項目ごとにエントリを分けました。
さきにみたように、NRC報告書は、野外における黄燐煙の濃度に関して、 米国環境保護庁 (EPA)のデータを紹介していた。 今回は、そのEPAの資料にあたってみた。 タイトルは、 Summary Review of Health Effects Associated with Elemental and Inorganic Phosphorus Compounds July 1990 オンライン上からもみることができる。 http://tinyurl.com/c2fqce 当該箇所は、Page (27 of 80)。 Only limited information was found in the published literature on the actual ambient levels of elemental phosphorus. However, estimates of
「黄燐に限らずどんな煙も吸いすぎたら危険に決まっているのだから、黄燐だけを問題にするのはおかしい」というのは、いささか乱暴な議論であろう。 物質の性質の違いによって、人体に与える影響も当然違ってくるのではないだろうか。 そこで黄燐による影響は、相対的にどのようなものなのかが問題となる。 以下では、米国学術研究会議(National Research Council)による 発煙剤の毒性に関する報告書についてみていこう。 Toxicity of Military Smokes and Obscurants, Volume 1 (1997) Toxicity of Military Smokes and Obscurants, Volume 2(1999) http://books.nap.edu/openbook.php?record_id=5582&page=R1 http://books
黄燐の毒性は、古くから知られており、 黄燐による害について記した文献は、枚挙に暇がない。 その害は、以下の六つに分類できる。 摂取による害 酷い火傷 火傷に止まらない毒性 短期間の吸入による害 長期間の吸入による害 環境への害 以下では、戦前日本の文献を中心にみていこう。 (1)摂取による害 鴨居武『無機化学講義』1911年、151頁 非常なる毒物にして稍多量に摂取するときは数時間にて死去す少量にても痙攣其他の病状を惹起す故に日常此者を取扱ふ職工の如きは顎骨に中毒を受け労働を為し得ざる如くなること少なからず。 著者は、工学博士。ここでは、長期間の吸入による害についても言及されている。 近藤耕蔵編『新制化学教科書』1925年、74頁 黄燐は恐るべき毒物にして其0.15瓦は人を殺すに足る。殺鼠剤として用ひらる。 著者は、東京女子高等師範学校教授。 (2)酷い火傷 および (3)火傷に止まらない
タコつぼに隠れている兵士に対して、榴弾と黄燐を用いる “シェイクアンドベイク”作戦については、すでにみたところである。 しかし、榴弾と黄燐が用いられるのは、、タコつぼの兵士に対してだけでなかった。 米陸軍野外教範 FM 23-91 MORTAR GUNNERY(1991) http://www.kmike.com/Mortars/FM%2023-91.pdf Table 2-3. Targets and methods of attack. から どの目標に対して、榴弾と黄燐の組み合わせが用いられるのかがわかる。 基本的には、次のように述べられる。 Projectile WP should be combined with HE when the target contains flammable material and when the smoke will not obscure a
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