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今年の「#文学」
hayabusa.jaxa.jp
2010年9月3日 「はやぶさ」の運用が残したもの スーパーバイザ 森 治 大学から異動したばかりの私の最初の仕事は、当時打ち上がって間もない「はやぶさ」のスーパーバイザ(SV)でした。 プロジェクトの経験がほとんどない自分が船長に相当するSVを本当に務められるのか?という心配よりも、史上初めて小惑星に行って「かけら」を持ち帰ってくるという壮大な冒険に参加できるという期待の方がずっと大きかったと思います。 最初に驚いたのは用語が全く分からないことでした。略語集を作って、地道に実験計画書を調べていくうちに少しずつ「はやぶさ」のシステムや運用について、理解できるようになってきました。そして、知れば知るほどよく考えられて作られた探査機だなぁ、と実感しました。 運用では、得られるデータに限りがあるため、どこまで想像力を働かせられるかにかかっています。これは、特に不具合発生時に顕著になります。不具合
2010年8月5日 「はやぶさ」前史 元宇宙開発委員長・元宇宙科学研究所長 松尾 弘毅 「はやぶさ」が、無事かどうかは別にして、帰ってきました。打上げの運びになるまでの私から見た経緯を、些か恣意的に述べてみましょう。 まずは、糸川先生がまだ東大にご在籍のころ、LD-2というロケットの構想があって(当時直径1.4mを目指していたM ロケットに対して、大直径2.0mの意)、私が火星、金星への可搬能力を計算したことがあります。これが我が国における惑星間飛行の最初の匂いでしょう。 1974年に私が最初に渡米した時にも、最も力の入った訪問先はJPLでした。もちろん手元には簡単な計算プログラムしかなく、このような簡略化したモデルを用いて可能だと判断された計画が、厳密な検討によって否定されることがあるのかどうか、ということが気になっていたようです。大丈夫そうな話ですが、未経験というのは何かと気になるもの
2010年8月2日 「挑戦力」の灯を受け継ぎたい スーパーバイザ 津田 雄一 私が「はやぶさ」の計画を初めて聞いたのは、大学生のときでした。宇宙工学をかじりはじめたばかりの私にとって、この「はやぶさ」のやろうとしているサンプルリターン計画は、壮大を通り越して、無謀に思えました。日本にこんな計画が立てられるとは!そして思ったものです。こんなすごい計画を真剣に計画している日本人とは、どんな人たちなのだろうか、と。 もっと小さい頃、似た感覚を持ったことがあります。それは、76年に一度地球に接近するハレーすい星がやってくる1985年、日本が「さきがけ」「すいせい」を打ち上げたときです。この自分のいる日本が、あのハレーすい星に、しかも2機も探査機を打ち上げたのです。小学生ながらに、その凄さに興奮しました。特に日本という国に特別な気分をもつ年頃でもないはずですが、日本はすごい、捨てたものではないぞと思
2010年7月28日 「はやぶさ」テレメ、ロックオン! 地上系データ伝送システム担当 山下 美和子(富士通エフ・アイ・ピー・システムズ株式会社) 私が一番緊張する瞬間。 7年前の5月、M-Vロケットで打ち上げられた「はやぶさ君」が最初に日本上空を通過する時、「はやぶさ君」がデータを下ろしてきます。私達が作成したデータ伝送システムは内之浦、臼田のアンテナで受信した「はやぶさ君」のデータを相模原の管制室に伝送し、共通QL(QL:クイックルック 「はやぶさ君」の各機器の温度や状態を表示するシステム)で「はやぶさ君」の状態を表示します。これを関係者が固唾を呑んで見つめています。この時が、私が一番ドキドキする瞬間です。動作しなかったらどうしよう、「はやぶさ君」の状態を皆に見せれるだろうか?? その時、受信局から「はやぶさテレメ、ロックオン」の声が聞こえ、共通QLに「はやぶさ君」の状態が表示されました
2010年7月26日 最後の願い“カプセル分離” 点火系・カプセルタイマ担当 中部 博雄 2010年6月13日午後10時、ライブ中継は無言の管制室を映していました。 管制室内の動きで、「はやぶさ」の状況を把握しようと画面に集中、短くも長い時間が過ぎていきます。 ・・・私が担当していた「はやぶさ」の点火系は、7年もの長きにわたりスクイブ(火工品)が宇宙空間に曝されるのは経験がありません。「確実に発火する?」、「点火電源であるコンデンサーは無事?」うまく行って当たり前の点火系ですが心配でした。 「はやぶさ」は点火系にとっても今までの衛星にはない多くの仕様変更がありました。点火項目数の大幅増、多くの点火系はコマンドで実行されますので各種コマンドにアーミングを設け誤送信を防止しています。それに伴う回路の追加、さらに機械環境条件が厳しくなり、その対策のためにリレー部のショックマウントが必要になりまし
2010年7月20日 画像の思い出 マルチバンド分光カメラ(AMICA)チーム 横田 康弘 私が マルチバンド分光カメラ(AMICA)チームリーダーの齋藤潤さん に「『はやぶさ』をやらないか?」と誘われたのはイトカワ到着をひかえた2005年初頭でした。それまでの長い準備に参加していなかったのでためらわれたのですが、サポートで貢献すべく学生運用当番等をするうちに、AMICAとONC-T/W航法画像両方の現場に触れる貴重な機会を得ました。ここで思い出を振り返らせていただきます。 1.イトカワ着 8、9月頃。イトカワに到着し異様な姿が露わになると、皆と同じく私も度肝を抜かれました。ホームポジション(距離7km)に着くとまず、形状把握のために自転でイトカワの向きが変わるごとに画像が撮りまくられました。2つ目のリアクションホイール(RW)が壊れたのはその直後です。RW故障はその後に大影響を与えました
2010年7月16日 「はやぶさ」&関係者の皆様、ありがとうございました。 化学推進系及び電気推進燃料供給系担当 高見 剛史(三菱重工業株式会社) まずは化学推進系について。 古い話になりますが、「はやぶさ」がITOKAWAへのタッチダウン準備を始めようかというある夏の休日、プロマネの川口先生から携帯に電話が入りました。「スラスタ(化学推進系の小型ロケットエンジン)は、どのくらい短く噴射ができますか?」というお問い合わせでした。「はやぶさ」に搭載している姿勢制御装置の調子が悪くなった頃のことです。「はやぶさ」の姿勢制御を、化学推進系(RCS)で実施することになった場合の対策を考えられてのことでした。 元々RCSは微小姿勢制御用には考えておらず、通常の設定噴射時間では発生力が大きすぎて制御が大変になるため、なるべく小さくしたいとのことでしたので、そこから大急ぎで確認試験を計画、準備、実施して
2010年7月15日 診断システムを通して見た「はやぶさ」 元診断システム担当 水谷 光恵((株)富士通アドバンストソリューションズ) 「はやぶさ」帰還時の映像――夜空に、燃え尽きていく「はやぶさ」本体の傍らで、輝き続ける大気圏突入カプセルの映像――は、とても印象的でした。「はやぶさ」が燃えるのを見ていたら、もうどうやっても「はやぶさ」からテレメトリデータは来ないのだと実感して、診断システムも役目を終えたのだと思いました。 私はSEとして、「はやぶさ」の診断システムの構築と運用支援を担当していました。診断システムは、テレメトリデータ(探査機から電波で送られてくる探査機本体や内部機器の情報)、軌道データ、地上局データ、運用情報、などを取り込んで、「はやぶさ」の健康状態を自動的に監視診断して安全運用を支援するためのシステムです。 診断システムの構築は、1990年12月から、磁気圏尾部観測衛星G
2010年7月13日 最後の記録 データレコーダ・オンボードコンピュータ担当 伊賀 小弓里(日立製作所) 「はやぶさ」(MUSES-C)ではデータレコーダ(DR)とXRS・NIRS共用のオンボードコンピュータ(OBC)の開発に関わらせていただきました。 DRについては、それまでのテープレコーダー的な記録/再生ではなく、ある程度自由に領域を指定できる複数のパーティションに可変長データをランダムに記録するという、それまでに無い機能を持っていました。記録/再生にいろんなパターンが考えられるので、設計にも苦労しましたが、試験方法にも頭を悩ませたのを思い出します。 OBCの方は民生用のRISCチップを使用しており、信頼性を上げるために、クロックレベルで同期させた3重系で動作させて、出力を多数決する方式をとっていました。3つの系を同期させる方法やエラーがあったときの復帰方法など、色々試行錯誤を繰り返し
2010年7月9日 私の選ぶ「はやぶさ」最高の「その時」 探査機運用班長、スーパーバイザー、イオンエンジン担当 西山 和孝 「はやぶさ」の応援をしてくださった方々やプロジェクト関係者の皆さんにとって、最も印象的で記憶に残った「その時」は7年間の「はやぶさ物語」のどの場面でしょうか? おそらく、「はやぶさ」がさまざまな苦難に立ち向かう場面を思い浮かべる方が多いことでしょう。プロジェクト関係者ですら記憶にないことかもしれませんが、私はあえてイトカワ到着の4ヶ月ほど前の2005年5月10日から17日にかけての一週間を最高の名場面、「その時」としてあげたいと思います。 2010年6月13日、一時は「強制終了」かとも思われた7年間(2592日間)にわたる「はやぶさ」探査機運用のラストシーン(最終追跡運用)を私は最終スーパーバイザーとして完成(管制)することができました。全ミッション期間の探査機追跡は
2010年7月6日 ありがとう「はやぶさ」! 電池担当 山本 真裕(古河電池株式会社) おかえりなさい「はやぶさ」! そして幾多の感動をありがとう。 また、JAXA諸先生方ならびに関係した全ての皆様、カプセル生還、おめでとうございます。皆の思いで蓋を閉めたカプセルにイトカワのサンプルが入っていることを心よりお祈りいたします。 大気圏突入の時、私は自宅のパソコンの前で燃え尽きる「はやぶさ」を見つめていました。 「はやぶさ」の炎が大きくなる度に11個搭載したリチウムイオン電池の1つ1つが、残された「はやぶさ」ミッションの全ての成功を祈った花火と化し、飛び跳ねているかのように見え、私も嬉しくて、年甲斐もなく泣き続けていました。 「はやぶさ」がまだ「MUSES-C」だった1998年、「はやぶさ」専用のリチウムイオン電池を開発することになりました。まだまだ電池屋として駆け出しであった私は、電池の設計
2010年7月5日 「はやぶさ」が「MUSES-C」と呼ばれていた頃 推進系・ターゲットマーカ担当 澤井 秀次郎 私が「はやぶさ」に関わっていたのは、主に打上げ前、つまり「はやぶさ」がMUSES-Cと呼ばれていた頃です。 その「MUSES-C」改め「はやぶさ」を再び目で見ることができるとは、正直思っていませんでした。それは、カプセル帰還の映像で、一緒に大気圏に突入して燃え尽きる姿でしたが、まさに華々しく散る様子。自分たちが精魂込めて作り上げたものが、灼熱の中で焼けていく姿は、悲しいというよりも、とても美しく、また、最期を看取ることができた、という感慨がわいてきました。 探査機の「はやぶさ」がこれほど注目を集めることになった、というのは、嬉しい反面、驚いてもいます。 たとえば、打上げの半年くらい前に、「はやぶさ」(当時はMUSES-C)の話をしに、西日本の某都市に出かけたときは、数百人入る会
2010年7月1日 回収チームの真ん中で 〜EDL解析(注*)という仕事〜 EDL解析担当 山田 和彦 注*)EDL解析=Entry(突入), Descent(降下) and Landing(着陸)解析:軌道決定値、カプセルの諸元、大気の状態など、様々な情報を集約して、カプセルの降下軌道や着地点を予測する解析のこと。 「はやぶさ」回収ミッションを終え豪州から帰国し、あっという間に日常が戻ってきて、いつもと変わらない日々が過ぎていく中、あの時は、確かに感動と興奮の中にいたのだと、ふと、思い出したりしています。 私は、学生時代は宇宙から地球に帰還する再突入機に関する研究を行っており、その後は、JAXA大気球観測センター(現大気球実験室、以下気球Gと呼ぶ)で、気球の放球、追尾、観測機の回収までの一連の運用に関わっていたこともあってか、2年前に「はやぶさ」の回収チームに参加することになりました。再
2010年6月29日 微力だけれど カプセル回収チーム測量班・ヘリコプター班 河野 まり子 以前、衛星開発の現場にいたことがあり、宇宙研で働くようになってからはMUSES-C搭載機器の開発に伴う苦労を間近に見ていたこともあって、MUSES-C(はやぶさ)は遠い存在ではありませんでしたが、自分がカプセル回収チームに加わることになるとは夢にも思っていませんでした。 現地では目の前にある測量班・ヘリ班の作業に取り組んでいると日々があっという間に過ぎてゆき、オーストラリアの地で多くの人の注目を浴びているプロジェクトに関わっているという実感や高揚感がまるでありませんでした。 もちろん、きれいな南半球の星空に感激したり、扱っていた測量機器が予期しない動作をして慌てたり、カプセル捜索のために飛び立つヘリを祈るような気持ちで見送ったり、というような心の動きはあるのですが。 「またとない経験をさせてもらって
2010年6月25日 「はやぶさ」の運用支援を終えて 地上系担当 小坂 隆征(富士通株式会社) 大気圏再突入の日、私は担当するシステムの動作監視のため事務所にいました。「はやぶさ」打ち上げられてから7年、様々なトラブルに見舞われながらも見事に帰還を果たしました。運用にかかわられた関係者の皆様、お疲れ様でした。また、無事回収されたカプセルにイトカワ由来のものが存在していることを心よりお祈りしております。 私が担当したシステムは、「はやぶさ」から送られてくるデータや地上局の受信状態などから、宇宙機の状態が異常になっていないかを自動で監視し、異常があれば関係者にメールなどで通知するシステムです。「プロの目」による判定を「知識ベース」として蓄え、それに基づいた判断を行います。運用担当者は、管制室のモニタに張り付いていなくても、「知識ベース」に基づいた判断結果を知ることができるようになっています。
2010年6月23日 「はやぶさ」から 元宇宙研広報委員長 的川 泰宣 「はやぶさ」のカプセルが相模原に帰ってきた。6月18日午前2時過ぎである。深夜の宇宙科学研究所の正門前には大勢の人が歓呼の声を挙げて出迎えた。入口左に「夢と希望をありがとう はやぶさ」と大書した横断幕。7年間の長旅を経た「はやぶさ」の、戦地からの「引揚者」はこれだけである。「本隊」は華々しくオーストラリアの夜空に散った。 6月13日の夜、上空に出現した光の点がみるみるうちに輝きを増し、すぐに人々の影が地上に見えるほどの明るさになった。と見る間に太い光の帯はほどけて、おそらくは体のあちこちを溶かしながらバラバラとそれぞれの個々の大きな真珠に姿を変じていく。やがて真珠は小さな小さな粒になって大空に消えていった。ふと見るとその黒い虚空のすぐ下に懸命に走り抜けている弾丸走者がいる。「はやぶさ」の消えた闇をただ一人生き抜いて生還
2010年6月21日 はやぶさ〜Well come Back to Home!〜 ジャズピアニスト、作曲家 甲斐 恵美子 7歳になったはやぶさ君。 いよいよ今月6月に地球に帰ってきます! 私は、はやぶさ君がまだMuses-Cと言われている時に彼に会いに行きました。 なぜなら、Muses-Cのプロジェクトチームの方たちから、「僕たちのロケットにテーマ曲を作って!」との依頼があり、曲の構成を考えていたからです。 最初に目に飛び込んできたのは、真っ白い本体に金色の衣装を着た美しく、またかわいらしい姿でした。身の丈私くらい(私152センチ)巾はわたしが寝っ転がったよりもう少しありました。 まあ!こんな小さな子が、遠くの火星の外の小惑星まで行って、星のかけらを取ってくるなんて、なんて勇気があるのでしょう! と、しばしはやぶさ君と色々とお話しをしてきました。 はやぶさ君の任務を考えてみると、人間の一生
2010年6月18日 7年越しのラストショット マルチバンド分光カメラ(AMICA)チーム 十亀 昭人(東海大学) 「はやぶさ」の打上げが迫った2002年、私は「はやぶさ」AMICAチームのリーダー齋藤潤氏から呼び出されました。 彼は私のかつての上司であり、私が東海大学に移った後も懇意にさせて頂いておりました。その彼からおもむろに「実は、君にしかできない仕事がある。AMICAのカメラ性能を試す最後の試験をするための小型の積分球を作って欲しい」と告げられました。 「君にしかできない」とは、私のものづくり魂に火を着けるために、幾分、“ゲタ”を履かせた言葉であったとは思いますが、そう言われて意気に感じない訳にはいかず、どのように作るのかも分からぬまま、ふたつ返事で「私でよければやらせてもらいます」と答えていました。 打上げまでに残された期間は僅か数ヶ月。その間に何としても使用に耐える精度の積分球
2010年6月18日 「はやぶさ」からの最後の信号 スーパバイザ・軌道決定 竹内 央 この画像は、6月13日 22:28頃、「はやぶさ」が地球との最後の交信を終え、通信のための電波の信号が消えてゆく瞬間を捕らえたものです。 全ての仕事をやり終えた「はやぶさ」は、このおよそ23分後に、大気圏に突入し燃え尽きました。 「はやぶさ」は、7年間の間ほぼ毎日(一時音信不通の時期もありましたが)、このような電波の信号を使って地球と通信を続け、貴重なデータを送り続けてくれました。 私は、このような電波信号の波形を詳細に解析することにより、探査機が飛行している位置を求める技術の開発を行っています。( ISASメールマガジン第208号「探査機の軌道決定」) 探査機の位置を正確に推定するためには、世界中の遠く離れたアンテナ同士が協力して電波信号を受信する必要があります。そのため、必然的に、海外の宇宙機関との間
2010年6月17日 「はやぶさ」帰還への想い ミネルバ担当 足立 忠司((株)IHIエアロスペース) いよいよ今日、「はやぶさ」が地球に戻ってきます。「はやぶさ」プロジェクトに参加させていただいた者として、「はやぶさ」の帰還を見守ることが出来ることに万感の思いがあります。 MINERVA開発を担当しました私にとりまして、まさにMINERVAの母親の帰還であります。今日、「はやぶさ」は燃え尽きますが、これほど多くの夢と希望を運んできてくれた探査機は無かったのではないでしょうか。そして、必ずよみがえると信じております。 私の「はやぶさ」との係わりは、日本初の小惑星探査機で、日本初の小惑星上を動き回れる小惑星探査ロボット開発してもらいたいとの要請からでした。この小惑星探査ロボットがMINERVAです。 月、惑星ローバを研究しておりました私にとって、宇宙に行けるロボットが開発できるチャンスに燃え
2010年6月17日 「はやぶさ」の帰還を祈る ミネルバ担当 齊藤 浩明((株)IHIエアロスペース) “小惑星ロボットを作ってみないか” 12年程前に中谷先生からいただいたお話が始まりでした。ミネルバ(MIcro Nano Experimental Robot Vehicle for Asteroid)という女神の名前を頂戴したのもつかの間、システムの実現性に確信を持てないまま開発に着手していったのを覚えております。 重力が10-5G(地球の10万分の1!)の小惑星上をどのように移動するのかが当面の課題でした。宇宙研の先生方とのディスカッションの中から生まれた、“弾み車の原理を用いて飛び跳ねよう”との吉光先生のアイディアを検証することになり、地球の重力をキャンセルするため部屋の垂直の壁を小惑星表面に見立て、上から紐で吊るしたミネルバの模型が壁から離れていくかを確認したのが始まりでした。
2010年6月15日 帰還を終えて NECはやぶさシステムマネージャ 大島 武 1996年のGW明けに、かねてから希望していたシステム部門に異動となり、初めて担当したのが、MUSES-C(はやぶさ)でした。右も左も分からず、「リプロって何?」などと言いながらも、がむしゃらに取り組んでいたことが思い出されます。(注:リプロはReproduceの略で、データレコーダを再生すること。) 2003年5月に打ち上げられ、無事にイオンエンジンも立ち上がると、私自身は、金星探査機PLANET-C(あかつき)の開発の方に軸足が移ってしまいましたが、それでも、2004年の地球Swing Byの時や、2005年のイトカワ ランデブー/タッチダウンの時などには、軸足を戻し、(時には)必死で対応してきました。 ここ暫くは、「あかつき」の打上げもあり、「はやぶさ」から離れてしまっていましたが、最後の最後、カプセル分
2010年6月13日 電波方向探査班としての2年間。 電波方向探査班チーフ 川原 康介 豪州に着いた。 これから約3週間の回収オペレーションが始まる。 この時をどれだけ待った事か。。。 いつ回収オペが延期になるか分からない状況の中 はやぶさ帰還をただ信じてこれまで粛々と準備を整えてきた。 わたしが回収チームの一員として声をかけられたのは、 今から2年程前の事。 M-Vロケットや観測ロケットの追跡業務をやっていた関係上、 回収班員としてすぐさま白羽の矢が立った。 班員の一人に過ぎなかったはずが、 会議を重ねて行く中で、 徐々に資料を作成し説明するようになり、 いつの間にか電波方向探査班の取り纏め役となってしまった。 チームのみんなからは「チーフ」「チーフ」と呼ばれている。 ベテランの方々や偉い先生達からも同様に呼ばれているため 少々違和感を感じていたが、今では何の抵抗なく返事している自分がい
2010年6月13日 次世代の「はやぶさ」に向けて イオンエンジングループ/カプセル回収隊 本部班 小泉 宏之 自分が宇宙研に異動し、イオンエンジンの運用を始めたのは2007年の春。まさに、「はやぶさ」の復路ΔVがはじまったときだった。 それまでの大学における仕事でも、(イオンエンジンとは異なるが)電気推進研究を専門としていた。そして、経験は浅くとも電気推進研究の専門家であるとの密かな自負があった。しかし、宇宙研に来て研究をはじめ、「はやぶさ」の運用に関わり、自分は如何に無知であるかを思い知った。実宇宙機に関わるのは初めてであり、軌道計画、軌道決定、姿勢制御、通信、テレメトリ、地上局…、知らない事のオンパレードである。「推進機だけの宇宙機は存在しない」、昔どこかで聞いた言葉が強く思い出された。さらには、イオンエンジンμ10(ミューテン)の研究/開発の歴史と今を学ぶたび、その工学センスの高さ
2010年6月13日 ~道~ 電池屋~方探班の一隊員として~ 曽根 理嗣 僕達のチームは方探班と呼ばれている。 カプセルが出すビーコンを捕らえて、着地点を絞り込むことが仕事だ。各班3人+1人体制で、3人が豪州の大地に展開し、1人は本部に残る。こういったチームがいくつか編成されて、各所に散っていく。 6月1日、僕達は、とうとう成田空港を発った。遂にこの日が来た。まだ予断は許されないのだろう。でも「はやぶさのカプセルを持ち帰る」という大義のために豪州にむかえることがうれしかった。 6月2日、豪州着。シドニー経由、アデレードへ。アデレードからは陸路でポートオーガスタまで移動。そうだ、この道を、ちょうど一年前も通った。景色が懐かしい。メンバーの中でも昨年の豪州での訓練に参加した者は多くはない。初めて豪州に来たメンバーは、周りの風景に感動しているようだった。僕は、もう一度、去年からブレていない同じ目
2010年6月13日 駒場、チリ、豊山、土岐、守谷、内之浦 サイエンス・チーム 高木 靖彦(愛知東邦大学) ちょうど25年前の1985年6月29日に、今は懐かしい駒場の45号館で「小惑星サンプルリターン小研究会」が開かれたことは 齋藤さんのメッセージ に紹介されていますが、その集録や、その年の11月にかけて5回開かれた「小惑星勉強会」(私自身は、この勉強会には参加できませんでしたが)の報告を眺めてみると、「はやぶさ」に直接つながる議論が25年前から行われていたことがわかります。例えば、電気推進を用いてErosにランデブーを行う案とか、発見まだ間もない1982DBについて、発見者 (E. F.Helin)による論文を基に軌道の議論が行われていました。この1982DB は、その後、4660 番の確定番号とネレウスという名前が付きました。そう、MUSES-C 計画の最初のターゲットだった小惑星で
2010年6月13日 約束 サンプラ担当、SV、回収隊・方探班本部、科学・輸送班 矢野 創 はやぶさへ、 いまは6月13日朝。僕は、オーストラリアのウーメラ砂漠の宿で一人、君への手紙を書いている。 君が内之浦の5月晴れの空に吸い込まれていったあの日から、もう7年が過ぎたね。今朝のウーメラも、打上げの日の内之浦みたいに雲ひとつない青空で、窓から入ってくるひんやりした風が、心地いいよ。 「はやぶさ、いってらっしゃい。」 2003年。僕は、君のお腹の中にあるサンプラに、打上げ直前まで地球の汚染物質を入れないように窒素ガスを送り続けるため、科学者として最初に内之浦に入った。打上げ12時間前にM-Vロケット先端のフェアリングに包まれた君からガスチューブを抜いて蓋をする、最後の一人でもあった。フェアリングのアクセス窓を閉じたときに君にささやいたのが、この言葉。そのとき君はまだ「MUSES-C」と呼ばれ
2010年6月12日 「はやぶさ」よ。ご安全に 後方支援 米倉 克英 昨年11月、月周回衛星「かぐや」の追跡管制運用、後作業も無事終わり、次に私を雇ってくれるところはあるのか?と不安に駆られていた頃、「はやぶさ」プロジェクトマネージャーの川口先生からお誘いを頂き、カプセル再突入に係わる一連の作業について後方支援でお手伝いすることになりました。 そこから怒涛の作業開始です。 全体作業計画の確認、JAXA内安全審査や、豪州政府関係者にも参加頂いた「カプセル再突入・回収準備確認会(Reentry & Recovery Readiness Review)での事務局対応とめまぐるしく作業に追われる毎日でした。 「はやぶさ」プロジェクトとしては、打上げ前(旧:宇宙科学研究所時代)に様々な安全審査(当然、カプセル再突入に係わる作業も含む)に合格して打上げられたわけですが、なにせ約7年も前のことですし、「
2010年6月12日 ウーメラにて、「はやぶさ」の帰還を待つ! 航法誘導系 久保田 孝 宇宙研にはいって、私が最初に従事したプロジェクトは、M-Vロケットと「はやぶさ」プロジェクト(当時のコードネームは、MUSES-C)です。特に「はやぶさ」は、構想段階から検討に加わりましたので、かれこれ15年以上になります。 「はやぶさ」は、御承知の通り、小惑星「イトカワ」の探査を行い、サンプルを持ち帰るミッションです。成功すれば、太陽系の始まりの手掛かりを得られる、とてもわくわくするミッションです。一方、探査する小惑星の正確な位置はわからないし、大きさや形、表面の状態も行ってみないとわかりません。そんな天体に到達して、サンプルを持って帰ってくる、まさしくチャレンジングなミッションです。当時、チャレンジング過ぎると言われたこともありますが、工学者としては、逆に意欲を掻き立てられ、成し遂げるためのアイデア
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