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私がジャン=ピエール・デュピュイのことを知ったのは、スラヴォイ・ジジェク氏の『ポストモダンの共産主義』(ちくま新書、2010年、原著2009年)を読んだときだった。 ジジェク氏はデュピュイの次のような一節を引用していた。 大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。(……)たとえば大災害のような突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生み出しているのだ。 私が「大惨事」の例として当時(2010年)思い浮かべたのは、1995年の阪神大震災や地下鉄サリン事件、2001
日本人は「単一民族」で「農耕民族」だというイメージは広く流通しているが、それに対する反証もすでにいろいろ挙がっている。 たとえば小熊英二氏は、『単一民族神話の起源』で、日本は単一民族国家であるという言説は、植民地を失った戦後に広められた主張であり、大日本帝国の時代はむしろ多民族国家・混合民族論ということが言われていたことを明らかにした。 また、網野善彦氏は、「百姓」とは必ずしも農民(稲作民)ではなく、漁業や林業、塩業や廻船業などに携わる多様な非農業民が含まれていたことを、各種の史料から読み取っている。 江上波夫氏は、『騎馬民族国家 改版』の中で、「弥生式時代の水稲農業」の問題を取り上げ、そこに「縄文式時代の狩猟採集の経済」からの断絶と飛躍を見出している。 …弥生式時代の水稲農業は、おそらく縄文式時代の狩猟採集の経済から発展的に導きだされたものではなく、また縄文式時代の後期ないし末期に特別な
柄谷行人氏は、『哲学の起源』で、アテネに代表されるようなギリシアのポリスと、ギリシア本土からの植民によって形成されたイオニアの諸都市は異質だと指摘し、イオニアにはアテネに見られるような貨幣経済による階級分解や門閥(大土地所有者)支配、言い換えれば「不平等や支配−被支配の関係」がなく、イソノミア(無支配)が存在したと言っている。《…イオニアでは独立自営農民が主であり、大土地所有者はいなかった。その原因は使役可能な他者がいなかったことにある。土地をもたない者は、他人の土地で働くより、別の土地に移動したのである。》《…アジア全域に広がったイオニア人の交易は、国家的ではなく、私的交易であった。それは商工業者のネットワークによってなされた。イオニアのポリスは、ある意味で、このような商工業者たちの評議会なのである。国家による交易の独占がない場合、交易の利潤は平準化される。したがって、市場経済や交易がた
ビギナーズ・クラシックス版の『うつほ物語』(角川ソフィア文庫、室城秀之編)を読み始めるまで、私はこの物語についてほとんど何の予備知識もなかった。だが、冒頭からしてもうぶったまげた。「わが国初の長編小説」は、デフォーの『ロビンソン漂流記』を思わせるようなエキゾチックな冒険譚として幕を開けるのである。 昔、式部大輔(しきぶのたいふ)で左大弁を兼任していた清原の大君(おおきみ)には、皇女である北の方〔正妻〕との間に、俊蔭(としかげ)という子がいた。俊蔭はとても聡明で、七歳のときに来朝した高麗人(こまうど)と詩を作り交わすほどだった。俊蔭が一六歳のときに、今回は特に漢学の才がすぐれた者を唐土に派遣することになり、俊蔭も遣唐使の一員に選ばれた。俊蔭とその父母は紅の涙を落として別れを惜しんだが、ついに俊蔭は船に乗った。 唐土(もろこし)に至らむとするほどに、仇(あた)の風〔暴風〕吹きて、三つある舟、
『竹取物語』の大まかなストーリーは広く知られている。竹の中で見つけられ成長したかぐや姫が五人の貴公子に求婚されるが、かぐや姫は無理難題のプレゼントを要求して求婚者を次々に退け、最後は天人たちに迎えられて月に帰るという話である。 だが、今回初めてビギナーズ版の『竹取物語』(角川ソフィア文庫、武田友宏解説)を読んでみて思ったのは、かぐや姫がこの物語の登場人物たちにとって異質な他者であるだけでなく、『竹取物語』という「日本最古の物語」自体が日本の文学伝統にとっての「他者」なのではないかということだった。『日本書紀』が日本の歴史にとっての「他者」であるのと同じような意味で。『竹取物語』や『日本書紀』では、いわば「日本の外から日本を見る」という超越的・外在的な眼差しが徹底しているように思えるのである。 武田友宏氏によると、『竹取物語』はもともと『竹取の翁(おきな)の物語』と呼ばれていたらしい。とす
チュニジアで大規模なデモやストライキが起き、政府に対する抗議運動が高揚して、ついにベン・アリー大統領の亡命を引き起こし、「ジャスミン革命」と呼ばれる事態に至ったのは2011年1月のことである(正確には前年12月後半から各地にデモが拡大していた)。その衝撃はエジプトなど周辺諸国に飛び火し、こうした一連の民衆蜂起と民主化の動きはやがて「アラブの春」と呼ばれることになる。 当時私は北村透谷や自由民権運動に関する本などを読んでいたが、「自由民権運動」が英語で“Freedom and People’s Rights movement”ということを知り、「(私も詳しい事情は知らないが、報道で知る限り)つい最近チュニジアで起こり、エジプトなどの周辺諸国へ波及しているのは、広い意味での“Freedom and People’s Rights movement”の延長ではないだろうか」と書いたりした(201
鎌田慧『六ヶ所村の記録――核燃料サイクル基地の素顔』(岩波現代文庫、2011年)の5「反対同盟」に、鎌田氏が取材を始めた当初(1970年)の六ヶ所村の寺下力三郎村長へのインタビューが載っている。当時はまだ「開発」の具体的な計画内容が明らかでなく、ただブローカーや開発会社による土地の思惑買いが先行してどんどん進んでいる段階だった。 寺下村長は、「結局、わたしの考え方は、従来からここにおる農民と農地が、あまり移動するとかあるいは消滅するとかいう状況でないような開発計画をたててもらいたいと」いうことだと述べ、その理由として、住民が立ち退くことになった場合、「適応性のある人もあるでしょうけれども、半分以下あるいは三分の一ぐらいは、このままよそへ行くと脱落者になり」かねないからだと言う。「…わたしはこういってるんです。レベル以上を対象にこの開発計画に対処するか、それとも水準点以下の村民を基準にして開
本書の副題は「ロシア・アイヌ・日本の三国志」というもので、主に一八世紀から一九世紀初頭にかけての「北方」をめぐるロシアと日本、そしてアイヌの交渉の歴史を扱っている。 渡辺京二氏は、『逝きし世の面影』で、「異邦人観察者」の目から見た幕末期日本の生活様式をつぶさに描き出してみせた。『黒船前夜』も、方法論的にはその延長線上にある試みといえるが、近代以前の「北方」における諸民族の交易や交渉の実態は一般にはあまり知られていないと思うので、「日本史」という尺度では測りがたいような光景も視野に入ってくる。 『黒船前夜』では特に主題として前景化されていないが、以前、上村英明『北の海の交易者たち―アイヌ民族の社会経済史―』(1990年)を読んだとき、上村氏が明らかにしているアイヌの異民族交易の実態に驚いたことがある。まず彼らが接してきた異民族として、和人、中国人(満州族)、ロシア人、ウィルタ人(サハリン中
このところいろいろと忙しく、なかなか腰を据えて本を読む余裕がないが、少しずつ鎌田慧『六ヶ所村の記録――核燃料サイクル基地の素顔』上・下(岩波現代文庫、2011年、原著1991年)を読み進めている。 とりあえず、1「開発前史」から4「開発幻想」まで読んだところだが、ここまでは1970〜71年頃の取材記事が基になっているらしい。 鎌田氏は1970年3月、「あるちいさな経済雑誌の依頼で、この基地の町で突如としてはじまった開発ブームを取材するため」に、青森県三沢市を訪れる。その前年、69年5月末に閣議決定された「新全総」(新全国総合開発計画)では、「一方、小川原工業港の建設等の総合的な産業基盤の整備により、陸奥湾、小川原湖周辺ならびに八戸、久慈一帯に巨大臨海コンビナートの形成を図る」という二行で、この地域の将来がラフにスケッチされていた。 迂闊なことに、私は先日図書館で鎌田慧・斉藤光政『ルポ 下
少し前に、私が愛読しているブログ「さとすけのどら猫見聞録」で、戦後シベリア抑留体験をした詩人・石原吉郎のことが取り上げられていた(2012-08-18「誰も知らない戦後を生きた人〜石原吉郎『望郷と海』」)。 私が石原吉郎のことを知ったのは、山城むつみ氏の評論『転形期と思考』(1999年)によってで、「ペシミストの勇気について」というエッセイの内容はそこで知った。その後、石原吉郎(1915−77)が戦争中は関東軍情報部に所属していたことや、特に晩年は酒癖が悪く、奇行も多かったことなどを知り、そのあたりの事情を知りたいと思いながら、これまでちゃんと読む機会を見出せずにきた。*1 とりあえず図書館で以前から気になっていた多田茂治『石原吉郎「昭和」の旅』(2000年)という本を借りてきて、読んでみた。著者は「新聞記者、週刊誌編集者を経て現在文筆業」をしている人で、『内なるシベリヤ抑留体験』(199
以前、大塚英志『「捨て子」たちの民俗学――小泉八雲と柳田國男』(2006年)を読んだとき、ラフカディオ・ハーン、柳田國男、折口信夫という3人の「起源の民俗学者」たちが、いずれも「来歴否認」や「血統幻想」、言い換えれば「ファミリーロマンス的不安」を抱えていたことを軸に、大塚氏が「民俗学の起源」の問題に迫ろうとしていることに強い印象を受けたことがあった。 大塚氏が他にも『怪談前後――柳田民俗学と自然主義』(2007年)という本を出していることは知っていたけれども、大塚氏に対する私の関心はむしろ『「彼女たち」の連合赤軍――サブカルチャーと戦後民主主義』や『サブカルチャー文学論』のほうにあり、民俗学的テーマには向かわなかった。 最近になって図書館で、大塚氏の『偽史としての民俗学――柳田國男と異端の思想』(2007年)や『公民の民俗学』(2007年)という本を見つけ、『「捨て子」たちの民俗学』『公民
鹿島田真希さんの小説は、以前『六〇〇〇度の愛』を読んだことがある(2005-08-20)。その少し前に私は、こうの史代の漫画『夕凪の街 桜の国』を読んで、改めて広島・長崎への原爆投下とその記憶というテーマに関心を持つようになっていた。『六〇〇〇度の愛』は、一見「原爆の街・長崎を舞台とする恋愛小説」というフレームを借りて書かれているようにみえるので、その点からも興味があったが、実際にはこの小説は、「原爆でも長崎でも、そもそも恋愛ですらない」テーマと取り組んでいるという当惑や疑念を覚えさせるものだった。だが、私にはむしろそれが作者固有のテーマを導くための序詞のように思えて、この作者が抱える「語りえない謎」の深さのようなものを感じたのだった。 ある意味で、『冥土めぐり』は、『六〇〇〇度の愛』の謎の種明かしのように思えるところがある。たとえば『六〇〇〇度の愛』には、かつて自殺したアルコール依存症
以前(2010年4月)、NHKスペシャル「日本と朝鮮半島 第1回 韓国併合への道 伊藤博文とアン・ジュングン」という番組で、初代韓国統監・伊藤博文は必ずしも積極的な韓国併合論者ではなかったとする説が紹介されていたと記憶する。 だが、韓国併合の経緯を調べたことがある者なら、伊藤が第二次日韓協約(1905年)を締結する際、どういう振舞いに出たか、いかに韓国(大韓帝国)の主権を踏みにじったかということを知っている。 日本は朝鮮支配にたいする列強の承認をとりつけると、一九〇五年一一月、伊藤博文を朝鮮に特派して、「保護条約」の締結を強要します。日本軍が王宮を包囲するなか、伊藤は林権助〔はやしごんすけ〕公使・長谷川好道〔はせがわよしみち〕韓国駐箚〔ちゅうさつ〕軍司令官をひきつれて朝鮮政府の閣議にのりこみます。伊藤は、大臣一人ひとりに賛否を答えさせ、強硬に反対する参政大臣(首相)の韓圭■〔ハンギュソル〕
熊谷徹氏は、『脱原発を決めたドイツの挑戦――再生可能エネルギー大国への道』の「まえがき」で、「ドイツ政府は、福島事故をきっかけに脱原子力計画を加速し、二〇二二年一二月三一日までに原発を全廃することを決めた」が、日本のマスメディアは、「原発全廃が、ドイツで進んでいるエネルギー革命の一部にすぎないことについては、ほとんど伝えていない」と言っている。 ドイツのエネルギー革命(Energiewende、エネルギー・ヴェンデ)とは、「二〇五〇年までに発電量の八〇%を再生可能エネルギーでまかなうという、野心的なプロジェクト」のことである。 ドイツではなぜ脱原子力政策の決定が可能だったのか。著者は、「緑の党がこの国に存在しなかったら、脱原子力政策が法制化されることはなかった」、「さらに、一九九八年に緑の党が初めて連立政権の一党として連邦政府に加わった瞬間に、この国で原子力時代が終わる運命が決まった」と
『古今和歌集』をどう読むか。 私はこれまで『古今集』の世界に入り込むための手がかりをつかめずにいたが、小松英雄『やまとうた――古今和歌集の言語ゲーム』(1994年)を読んで、ようやくそのヒントを得たように思った。 小松氏は、「平安時代の和歌は仮名だけを用いて書かれていた」こと、「平安初期に成立した仮名は、今日の平仮名と違って、清音と濁音とを書き分けない文字体系であった」ことに改めて注意を促す。 かかりひの かけとなるみの わひしきは なかれてしたに もゆるなりけり これは『古今集』巻十一・五三〇の歌だが、旺文社文庫版(小町谷照彦訳注)ではこれを、 篝火の影となる身のわびしきはながれて下に燃ゆるなりけり と表記している。小町谷氏は注で、「「流れ」と「泣かれ」を掛ける」ことを指摘しているが、小松氏はこうした掛詞を、「複線構造による多重表現」という視点から解明しようと試みている。そうした「
脱原子力国家への道 (叢書 震災と社会)作者: 吉岡斉出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2012/06/27メディア: 単行本クリック: 1回この商品を含むブログ (2件) を見る 本書の目次は以下の通り。プロローグ第1章 なぜ脱原子力国家なのか第2章 福島原発事故のあらまし第3章 福島原発事故の原因と教訓第4章 日本の原子力開発利用の構造第5章 日本はいかにして原子力国家となったか第6章 日米原子力同盟の形成と展開第7章 異端から正統へと進化した脱原発論第8章 脱原発路線の目標とシナリオの多様性第9章 脱核燃料サイクルのシナリオエピローグ 本書を読みながら、私は家永三郎氏の『戦争責任』や『太平洋戦争』を思い出していた。 たとえば『太平洋戦争』は、以下のような論点について、歴史的・具体的に検証している。 序論 戦争の見方はどのように変ってきたか 第一編 戦争はどうして阻止できなか
古典とは、私がいつも途中まで読みかけては挫折し、決して読み終えたことのない作品のことである。フローベールの『ボヴァリー夫人』はこれまで、私にとってそんな古典の一つだった。 今回私がようやく『ボヴァリー夫人』を読み通すことができたのは、これまでよくわからなかったこの小説の「文法」というか、「内的な構造」がだんだん見えてきて、ほとんどドストエフスキーやカフカの小説のような凄みを感じたからである。 「私たちは自習室にいた。すると、校長先生が制服でない普通服をきた『新入生』と大きな教室机をかついだ小使いをしたがえてはいってきた」というのがこの小説の書き出しで、この「私たち」とは誰のことなのか、(作品内では)ついに明かされないままだというようなことを蓮實重彦氏が指摘していたと思う。 第1部第1章では、シャルル・ボヴァリーというこの「新入生」が医者となり、四十五歳の未亡人と結婚してトストで開業するま
ビギナーズ・クラシックス『和泉式部日記』(角川ソフィア文庫、川村裕子編)で、川村氏は『和泉式部日記』を現代のわれわれに引き寄せて読むために、恋人同士の手紙のやりとりをメール交換になぞらえたり、「御簾(みす)」に(ブラインド)と付けたり、天皇の子である敦道(あつみち)親王を「すごいVIP」と呼んだりして、いろいろ工夫を凝らしている。 一方、この時代(平安朝)特有の風習についてもきちんと解説している。たとえば、男性からの恋の歌に対して、女性の方は「反発するような歌を送るのが鉄則」で、それを「切り返しの歌」と言ったということなど、私は初めて知った。 以前、与謝野晶子訳で『源氏物語』を読んだとき、平安朝期の身分の高い者たちの男女関係においては、女性は御簾(みす)に隠れて、男たちに顔を見せないようにしているが、御簾の中に入ってこられると逃れる自由はなく、男に言い寄られたことも女性の方の過失にされてし
漱石『草枕』の中に、「余」が茶屋の婆さんから「長良(ながら)の乙女(おとめ)」に関する物語を聞かされるくだりがある。*1「昔しこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者の娘が御座りましたそうな」「へえ」「ところがその娘に二人の男が一度に懸想(けそう)して、あなた」「なる程」「ささだ男に靡(なび)こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い煩(わずら)ったが、どちらへも靡きかねて、とうとう あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも と云う歌を咏(よ)んで、淵川(ふちかわ)へ身を投げて果てました」 これに関して、三好行雄氏は巻末の注で、『万葉集』巻八の日置長枝娘子(へきのながえをとめ)の歌や、巻九の高橋虫麻呂の葦屋(あしのや)の菟原娘子(うなひをとめ)の歌などに基づいて構想された架空の少女の物語だと述べている。 日置長枝娘子(へきのながえをとめ)の歌は、『草枕』に引用さ
何度目の挑戦だろうか。今回、私は初めて漱石の『草枕』(1906年)を読み通すことができた。 実はこの小説には、画工の「余」が「女」(那美さん)に向かって、小説というのは、「初から読んだって、仕舞から読んだって、いい加減なところをいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか」と言う場面がある。「筋を読む」気なら、初から仕舞まで読まなけりゃならないが、「只机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んで」みるほうが面白いのだと。 漱石もこの小説に関しては、そういう読まれ方を望んでいたのかもしれない。 『草枕』の「筋」というか、物語(プロット)の骨格に関しては、柄谷行人氏が次のように指摘している。 たとえば、『草枕』では、一見すると、山中の桃源郷が描かれていてそこにも下界の現実が侵入してくるといったふうにみえる。だが、本当はその逆である。招集されて満州の野で戦わねばならない青年や、破産したあげ
中西進氏は、『悲しみは憶良に聞け』(2009年)で、山上憶良(660−733)は、百済から来た渡来人ではないかという説を述べている。 六六〇年に百済は唐・新羅の連合軍によって滅亡に追い込まれ、六六三(天智二)年八月、百済救援に乗り出した日本(倭)は白村江の戦いで大敗北を喫する。『日本書紀』の天智二年九月条には、佐平(さへい)余自信(よじしん)・達率(たつそつ)木素貴子(もくそきし)・谷那晋首(こくなしんす)・憶礼福留(おくらいふくる)らが、船を出してはじめて日本に向かったという記事がある。ちなみに、韓国ドラマ『薯童謠(ソドンヨ)』を見ると、佐平(サピョン)や達率(タルソル)が百済の宮廷での官位を表わすことがわかる。 中西氏は、このとき数え年四歳の憶良も父親に連れられて日本に渡ってきたのではないか、さらに、天智天皇の侍医となった憶仁(おくに)という百済人が憶良の父ではないかと推測している。
『平家物語』を読む楽しみの一つに、注を参考にしながら、引用・参照・関連文献のリンクをたどっていくことが挙げられる。*1 『平家物語』巻第六、「祇園女御(ぎおんにょうご)」の段に、藤原国綱(邦綱)の先祖である山陰(やまかげの)中納言の子、助務(如無)僧都(じょむそうず)に関するエピソードがある。 かの僧都は、父山陰中納言、太宰大弐(ださいのだいに)〔大宰府の次官〕になッて、鎮西(ちんぜい)へくだられける時、二歳なりしを、継母にくんで、あからさまにいだくやうにして〔ちょっと抱くように見せかけて〕、海におとし入(いれ)、ころさんとしけるを、死ににけるまことの母存生(ぞんじょう)の時、桂のうかひ〔桂川の流域に住む、鵜を用いて魚をとる漁夫〕が、鵜(う)の餌(え)にせんとて、亀をとッてころさんとしけるを、着給へる小袖を脱ぎ、亀にかへはなされたりしが、其(その)恩を報ぜんと、此きみ落し入(いれ)ける水の
今はもう図書館に返してしまったので手許にないが、中西進『日本文学と漢詩』を読んでいて、「あ!」と思ったのは、「年のうちに 春はきにけり ひとゝせを 去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ」(在原元方)という『古今和歌集』冒頭の歌は、「自然が暦に支配されている」という考え方に基づくものだと指摘されていたこと。 この歌の詞書には、「ふる年に春立ちける日よめる」(旧年中に立春となった日に詠んだ歌)とある。暦がまだ旧年のうち(たとえば十二月十五日)に「立春」になってしまった場合、十六日から三十一日までの「ひとゝせ」を、去年というのか今年というのか、とこの歌では問うているのである。*1 この歌は『和漢朗詠集』(巻上・春・立春・3)にも収められているが、『和漢朗詠集』には他にも暦と季節の一致・不一致を詠んだ詩や歌がいくつもある。 たとえば白居易の次の詩。4 柳気力なくして条(えだ)先づ動く 池に波の
『平家物語』巻第五に、「朝敵揃(ちょうてきぞろえ)」という段がある。「揃(そろえ)」というのは、「朝敵の人名を並べたてるところから付けた」(武田友宏)もので、他にも巻第四の「源氏揃(げんじぞろえ)」や「大衆揃(だいしゅぞろえ)」といった章段名がある。 夫(それ)我朝(わがちょう)に朝敵のはじめを尋(たずぬ)れば、やまといはれみことの御宇(ぎょう)四年、紀州名草(なぐさ)の郡(こおり)、高雄(たかおの)村に一(ひとつ)の蜘蛛(ちちゅう)あり。身みじかく足手ながくて、ちから人にすぐれたり。人民(にんみん)をおほく損害せしかば、官軍発向して、宣旨(せんじ)をよみかけ、葛(かづら)の網をむすんで終(つひ)にこれをおほいころす。それよりこのかた、野心をさしはさんで、朝威をほろぼさんとする輩(ともがら)、大石山丸(おおいしのやままる)・大山(おおやまの)王子・守屋(もりや)の大臣・山田石河(やまだのい
荒俣宏『歌伝枕説』に、「安達(あだち)ヶ原の黒塚(くろづか)」の鬼伝説について述べたくだりがある。 福島県二本松市安達ヶ原には、鬼婆伝説で有名な観世寺(かんぜじ)がある。「この敷地内に巨大な岩を積み上げた場所があり、ここに鬼婆が住んでいたと伝えられる」とのことで、今は観光名所になっているらしい。 この鬼女伝説は、室町時代にかかれた謡曲『黒塚(くろづか)』に基づくようだが、この謡曲のタネになったのは、平安時代の三十六歌仙の一人・平兼盛(かねもり)の歌だという。《みちのくの あたちの原の黒塚に 鬼こもれりと云ふはまことか》(『拾遺集』) もともとこの歌は、「名取郡黒塚」にいた陸奥守(むつのかみ)・源重之(しげゆき)の妹をみそめた兼盛が、重之の父に書き送った歌で、「鬼」とはいわばかくれんぼの鬼、つまり「陰に隠れて出てこない女性」のことをたとえた一種の洒落だったらしい。 しかし、「これが『大和物
以前、高橋富雄『平泉の世紀』に触発されて、「平泉と鎌倉」1〜4というエントリを書いたことがあるが、最近になって、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で有名な「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」という句を詠んだのは平泉の地でだったことに気づいた。 調べたところ、芭蕉が陸奥(みちのく)へと旅したのは、彼が敬慕した能因法師や西行らのゆかりの歌枕(和歌の題材とされた名所・旧跡)を訪ねるためであったらしいこと、そして、荒俣宏『歌伝枕説』という本がそういうテーマについて書いていることがわかった。ちなみに、これは『歌枕伝説(うたまくらでんせつ)』ではなく、『歌伝枕説(かでんちんせつ)』です。 図書館で借りて読んでみたが、これは実にスリリングで刺激的な本だった。もともと著者は、現地に行って歌枕の役割を再確認しようという「東北歌枕の旅」を企画したようだが、スリリングなのは、思いがけずもそこから、日本史の謎めいた領域へ
私は高校時代に漢文・漢詩の初歩を少し習ったきりで、最近まで特に興味もなかった。というより、分厚い漢和辞典を何度引いても意味のよくわからない漢字の連なりが、万里の長城のように私の行く手を阻んでいて、どうにもたどりつくことのできない異質の世界のように感じていたのである(今もそうかもしれないが)。 少し前に中上健次のエッセイ集『夢の力』(角川文庫)をパラパラとめくってみたら、日本霊異記(りょういき)、古事記、宇津保(うつほ)物語、近松、上田秋成、芭蕉などに、当たり前のように言及していて驚いたが、日本の古典に親しんでいた中上健次でさえ、「一か月、漢文を読もうと思った」、「昔の物にこもっている漢詩漢文の力、いや中国の力に出くわし、それを、解けなかった」と告白している。だが、「昔から、字を勉強するとは、漢詩、漢文を勉強することだったのである」(「空翔(か)けるアホウドリ」)。 しばらく前から『平家物
朝鮮人強制連行 (岩波新書)作者: 外村大出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2012/03/23メディア: 新書購入: 1人 クリック: 1回この商品を含むブログ (4件) を見る この本の帯には、「朝鮮人強制連行の歴史は、“朝鮮人のために日本人が覚えておくべき歴史”ではない」という著者の言葉が紹介されている。 この本を読むまで私は、戦時中の朝鮮人強制連行について事実関係をよく知らなかったし、自分にとってこの問題が何を意味するのかを考える具体的なとっかかりがないように感じていた。もちろん、私がそのような「人権侵害」を強いた旧宗主国の子孫であるという事実は認識できる。だが、私がいま置かれている状況や自分が抱えている問題との具体的な接点が見えてこなければ、そこにはどうしても切実さが欠けてしまう。たとえば、「戦時中に強制連行されて過酷な労働を強いられた朝鮮人がいる」という風に捉えるだけでは
鹿島茂『怪帝ナポレオン三世』を読むと、フランス第二帝政期(1852〜70年)は、鉄道建設、金融機関やシステムの改革、都市改造、パリ万国博覧会、デパートによる商業革命など、その後の日本にも影響を与えたと思われる産業主義的な社会変革の手法が実験・開発された時代だったということがわかる。 ナポレオン三世は基本的にサン=シモン主義者であり、「産業皇帝」の異名をとったという。では、サン=シモン主義とは何なのか。 サン=シモンについて私が知っているのは、オーウェンやフーリエと並んで、マルクス=エンゲルスが『共産党宣言』(1848年)の「批判的=空想的社会主義および共産主義」の項で取り上げていたこと、そして、『産業者の教理問答』などの著述を発表していることぐらいだった。 オーウェンやフーリエについては、近年再評価の兆しもあるようだが、サン=シモンについてはどうなのだろうか。 『世界の名著 続8――オウ
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