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忸怩たるメソッド話。いや嫌いじゃないというかそれが好きなので困るわけですが。純真にゲームを楽しみたい俺ガイル一方で、今更ながらエロゲweb論壇の過去ログを最初から読むべきではないかと思っている自分もあるわけですが。なにしろ、エロゲweb論壇で前提となってる問題意識をいまひとつ共有できてない自覚があるので(バー、バー、ブラックシープ!)、論じられてきた事柄に関して一度掘り下げて見なければならないなあという危機意識があるわけです。というわけで、現在その作業中。長丁場です。 というわけで、以下(主に)cogni氏へのレスです。「最果てのイマ」のメソッドについてネタバレあり。ネタバレおkの人は読んでください。 cogni氏がここを読まれているようなのですので、氏のために追記しておきますが、イマの拠って立つ問題意識としてhttp://imaki.hp.infoseek.co.jp/r0210.sht
岡和田晃氏の「海外のわけのわからないものより身近なサブカルチャーを褒めろ?」(http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20110411/p2)というエントリですが、実はこれ、ぼくに対する個人攻撃エントリなのです。以下にその次第を説明しておきます。 まずぼくが、Twitterで一連のエントリを書きました。 岡和田晃氏は「エクリプス・フェイズ」に世界内戦の問題意識を見ているようですが、ぼくとしては「ダブルクロス」に世界内戦の問題意識を見出していきたい。だってFEARゲーって批評文脈で全く語られないし、そのくせプレイヤー層は厚いじゃないですか>http://ux.nu/TKs42G http://twitter.com/crow_henmi/status/56045322346041344 ダブルクロスは程よくアメリカ的例外状態における例外国家の姿を描き出すとともに、例外国家がも
Twitterからの転載・改稿。 世界内戦において、ぼくが世界システム史的観点より、クラスタ性・親密圏にまで及ぶ他者性に注目するのは、そこで生きる個人の心理的なありかたというものを重視するからであるという話をしておきたい。 戦う相手が明確にヴィジョンとして見え*1、それに対して素朴コミュニタリアニズム的に共闘できるなら、それは単に友=敵関係の世界的延伸に過ぎない。グローバルなレベルでの非対称戦など、911以前から展開されていた。911がなにか具体的なものをもたらしたとしたら、グローバルな非対称戦が衆目のもとに立ち現れたことであり、その当事者としてのわれわれと、敵としての「他者」=ジハディストが立ち現れたこと、そしてそれにより例外国家の例外状態性が前景化しつつなお是認されたことであるが、それは事実上「過去のこと」として後景化した。結局「911的想像力」――国家の内外における危機のもとに結集し
ずいぶん昔にメモしていた文章の再掲。 「TRPGにおける世界内戦の再現性」について少しメモしておこう。 世界内戦とは、ポスト9.11における、世界の誰しもがどこにいても必ず何らかの先鋭的な友=敵関係に包含されそれによる脅威にさらされざるをえないという状況を指す、というのがぼくの解釈だ。その理由は経済・宗教・イデオロギーなど様々であるが、ここにおいて、世界は無数のクラスタに分断され、それぞれが先鋭的な友=敵関係に晒される。そして個人の主体も、そのような環境の中で再帰的に陶冶される。彼らは生き残るためにそれぞれ有意に友的である存在と共通利害によるバンドを形成し、敵なるものと対峙=闘争することとなる。敵はただひとつの方向にいるのではない。トポロジックに展開されたコミュニケーションのネットワークを通じ、あらゆる方向に存在する。一方で、友となりうるものもまたそのように無数の方向に複数存在している。そ
「コードギアス」と「羽月莉音の帝国」について、いささか思うところがあったのでメモ。 いわゆる決断主義的アティチュードによって主人公のマニューバーが決定されていることから、両作品は決断主義的と一部の人には捉えられそうだが、両作品の本質は、自己の欲望が世間という中間項を貫通して世界全体にまで至るエスカレーションである。決断主義はセカイ系の奇胎であるがゆえにセカイ系的な現実認識の歪み――すなわち世間や社会という中間項を迂回して直接世界全体と接続すること――をも継承しているが、両作品においては中間項における現実的諸問題との対峙/克服と、それにともなう具体的な闘いの技法がプロットの重要な局面として描かれる。特に「羽月莉音の帝国」においてはそれこそが物語の中心モチーフである。 コードギアスにおいては「世界は自己の思惑とはかかわりなく勝手に自己へと侵入してくる」という伊藤計劃の謂があてはまるかのように、
随分前に読了したのですが、ふと思い立ったので感想など。 日本軍の敗北に終わった六会戦の分析から、日本軍という組織の体質とその欠陥をあぶりだし、そこから「失敗の本質」を見出そうとする軍事研究・組織論・経営論の書です。 著者たちは日本軍の失敗の本質を「組織及び人材の硬直化による目前状況への対処能力喪失」および「教条主義的価値観により整備された偏頗な戦力体系と運用思想」そして「各組織間の統合的意思決定と意思疎通の欠如」に求めています。日本軍という存在に対し本質的な問題提起を行い、現在に至るまでの日本軍観を集大成した名著ですが、内容に、若干気にかかるところがあります。 うーん、やはり古い本だからか、小首をかしげるような所が幾つかあるのと、実証性の少ない経営哲学本に堕している雰囲気がいささか感じられました。最終章の総論における日本軍の総括が、印象批評的であるのが残念。本当にそうなのか? と聞きたい部
序文 このエントリーは、主にTRPGというジャンルにおける意思決定と倫理について先にupしたコヴェントリー・ジレンマから考えるTRPGの遊戯としての可能性の続編であり、AGSの「傷だらけの偉大な負け組に捧ぐ:「役割演技式競技」における「ヒーロー」とは何者であろうか?」及び、「戦略の迷走:『空の境界』と『キラーエンジェルズ』の場合」への補論として書かれたものである。 このエントリーにおいては、主にTRPGにおけるプレイヤーの意思決定について語っているが、その方向性は人間一般の意思決定に関わる倫理にもある程度敷衍しうることを織り込んでいる。TRPGというジャンルについてご存じない方も、ある種の意思決定に対しての倫理性を語ったエントリとして読んでいただければ幸甚である。 本文 意思決定の時間性、あるいは限定性の回避について まずは、人間の意思決定というものがどのような時間性に縛られているかについ
序文 岡和田晃氏が主催するAGSというゲーム批評blogにおいて公開された「傷だらけの偉大な負け組に捧ぐ:「役割演技式競技」における「ヒーロー」とは何者であろうか?」というエントリについて、主に倫理的問題から対論を展開してみたい。 このエントリにおいては、ある種の英雄像――すなわちある事態において、事態に関わる全員が救われるように行動し、それに成功する者と対置して、ある事態において限定的なリソースしか持たないがゆえ、常に誰かを犠牲にすることでしか他の誰かを救えないという無力さを抱えつつも、なお最善を尽くし犠牲者の死を背負ってゆく者の姿を指し示し、それを称揚しているように、ぼくには思える。それは基本的に了解可能な概念であり、多くの人達がそのような人物像に学び得るだろう。特に、有限のリソースしか持たずにゲームに向かうプレイヤーたちが、目的達成のため「何を切り捨て、何を取るべきか」という決断をす
初出不明。 いわゆる「サバイブ系」すなわちある個人または共同体がその外部の敵対性と対峙し、それを克服せんとしていく想像力が生み出す物語の形態について、少し思うところがあったのでメモしてみた。 サバイブ系コミュニティの存在強度/存在意義は「共通の敵」によって導きだされる。しかし、それが存在しなくなってしまえば、コミュニティの存在価値は必然的に低下する。そこにおいて、コミュニティ維持の自己目的性が「新たな敵」を作り出しはしないか、という懸念が発生する。また、そのようにはならず、存在意義の小さいコミュニティが惰性的に存続する、あるいは目的を達して解散するという形もありうるが、そこにおいて重要なのは、コミュニティと自己との距離をどのように設定し、コミュニティによって補填されない実存価値をどのように代替するかということになる。 つまりこれはいわゆるモバイル的実存と関わってくるのだが、主人公に取って真
初出2010年6月ごろ。 カール・シュミット「パルチザンの理論」で、現代ファンタジーのうち、特に絆と世界内戦的状況に重点をおいたものを語ってみるためのメモ。われながらこじつけが過ぎると思うが、誰かの思考の肥やしにでもなれば幸いです。 本文 現代ファンタジーあるいは現代伝奇などと云われる想像力というのは、まずその核心に「中心対周縁」の対立構造をもって現れた。それは大きな物語とそれに包摂されないものという対立関係であり、周縁から中心へと、日常を異化する「不気味なもの」の侵攻という構図をとった。だが、後期近代における社会の脱呪術化がもたらした「平坦な日常」――すなわち極限まで周縁的なるものが排除された世界観は、その「中心対周縁」という構図を無効化した。 しかしながら「平坦な日常」は、その必然として「中心」が存在したがゆえの求心力を失い、分断され、衰退しつつある。そこにおいて世界の連続性は失われ、
http://www.wired.com/wired/archive/13.12/start.html?pg=5 id:walkeriさま経由で。 walkeriさまも列挙されておいででしたし、さて自分もと思って並べてみました。 オセアニア(1984年)。いやこれ外しちゃダメでしょう。ディストピアに必要な殆ど全てのモチーフとテーマがそこには存在していています。「個性の圧殺」「体制の不条理」「個人の無力」「先取りされた未来へのニヒリズム」そしてなによりも「しょぼくれたルーチンワーク生活と貧乏配給ガジェット」――勝利ジン、勝利シガレット、勝利体操、二分間憎悪! ないのは「一見完成したユートピアに見えるけどディストピア」という成分ですが、そこは二重思考で補え(ぇ 未来世紀ブラジル。1984年のオセアニアにモンティ・パイソン風味のスパイスを山ほど振り掛けるとああいう有様になるわけで、今でも僕はあの
2010年4月30日更新。 mixiボイスのほうで長文を書いたので、流れてしまわないうちにメモしておく。 mixiでやりとりした「尖ったヲタがお約束とセックスの重力に引かれて小さくまとまる」問題というのは結構重要だと思っているのだが、俺自身が小さくまとまったなかでごちゃごちゃやっているヲタなので耳が痛い。ヲタは量的には浸透と拡散をしたが、質的にはかつての過剰さを失い、むしろ平凡なものになりすぎたように、ぼくには思える。ではなぜそのようになったのか、少し偽史的記述を試みてみる。 80年代に勃興し、しかし一度は徒花として散るかに見えた「美少女」というイデオロギーが90年代前半にセラムンで復権したことが、ことの始まりである。それ自体は悪いことではない。しかし「美少女」というイデオロギーは強すぎ、ヲタのあらゆるイデオロギーと結合して「美少女にハァハァする人≒ ヲタ」という状況と概念を生み出してしま
2010年1月25日更新。 ギャルゲー一般の立ち絵演出の起源において、立ち絵はキャラを表し、背景は状況を表す書割だった。キャラとの関係性を重視するギャルゲーにおいて、重視されるべきはキャラとの関係であり、キャラがどのように振舞うかであった。まるで中世の宗教画のように、物語の文脈の中で重要なキャラは前景化し、そうでないキャラは後景化/フェードアウトする。そのさらにうしろに、書割としての背景が存在する。そのような形式が、かなり長期間用いられてきた。これを究極的に推し進めると、Liar-Soft「Forest」のように、書割とキャラが完全に分離した演出手法となる。 しかしながら、やがて立ち絵演出の中にも遠近法が――物理的な意味で近くにいるキャラは前景化し、遠くにいるキャラは後景化するという方法論が部分的にも用いられるようになる。これは、基本的にはプレイヤーの「視点」がひとつに――そのアバターたる
2010年1月22日更新。 「中二病と云う言葉が使われる度に、世界から大切なものがひとつ消えていく」 ――元長柾木―― 中二病とか云って現代伝奇のテンプレ要素が否定されて行く時代に、ぼくたちはどうやって現代伝奇を書けばいいのか問題。 中二病同士が己の尊厳をかけて邪気眼バトルする話が現代伝奇の本来の姿であり、いまでも売れ線の作品に多く見受けられるが、その想像力はすでにネタ化され、アイロニカルに語られるものになりつつある。ここでも使っている「中二病」あるいは「邪気眼」といった概念によってネタ化された現代伝奇の想像力は、ある種の行き詰まりを見せていると云えるのではないか。 しかしなぜこのようなアイロニカルな変容を、現代伝奇の想像力は経てきたのだろうか。そこには「時代的感受性のアイロニカルな変遷」というものが関係しているように思われる。具体的にはどういうことか。 まあこれはいつもの後期近代論とポス
2010年1月20日更新。Twitterよりの転載・改稿。 後藤和智「お前が若者を語るな!」は、その俗流若者論への批判の鋭さについては多分に評価するべき部分があると思うが「東浩紀の劣化コピー」*1であるぼくとしてはdisっておかねばならない部分があるとおもうのでちょっとdisっておく。 後藤和智の宮台真司や東浩紀の若者論に対する批判は、その実証性のなさを突いた部分は理解/評価できるが、なぜそのようなものが当事者世代の一部にも受け入れられ、熱心なビリーバーを産んだかについて言及していないところに議論としての欠落があるように思える。後藤の批判はそれが若者世代の「敵」――具体的には年長世代の攻撃の具となっている、というところに焦点がおかれており、肝心の若者自体がどう感じているかについての客観的な視座が欠落している。このため、世代論ビリーバーの動きを捉えられないか無視しているのだ。宮台や東の俗流的
今旬の話題であるヱヴァと、それが前提とした「THE END OF EVANGELION」(以下EoE)と、このふたつに近縁するジャンルであるところの美少女ゲームがそれぞれ描き出す「他者性」について、それぞれを絡めながら、少し語ってみたい。 美少女ゲームにおける他者とは? 美少女ゲームにおける他者は大体において都合のいい他者であり、自己愛の鏡みたいなところがあるというのは古典的な批判だが、割と的を射ている。というか、それはもはやある種の共通認識だろう。だからこそ、現状における美少女ゲームの倫理的/作劇的問題は、そうしたものであるからこそ表現し、達成しうる何がしかがあるということに移行している。 では、それはどのようなものだろうか。 美少女ゲームにおける他者とは、自己愛が投影された「都合がいい他者」――すなわち他者性と自己愛との間にある両価的他者であるからこそ、異質でありながら共感性を得られる
あちこちで俺ディストピアを語ってくださる方々がいらっしゃいましたので、こちらでリンクしてみました。 http://park5.wakwak.com/~rasen/diary.html 偉大なる指導者同志速水螺旋人さま。12月14日付日記。定番物を外してこれだけ出てくる引き出しの広さに脱帽です。「暗黒世界のオデッセイ」とか「収容所惑星」とか渋いチョイスです。百万迷宮の舞台設定は秀逸ですね。ホント、余りにも重苦しく、どこまで行っても出口がない。明け方の寝覚めの悪い夢に出てきそうな感覚です。スターリン体制下のソビエトも現実に存在していたディストピアとしてはレベル高すぎ。ナチが勝利した改変世界ものは結構あるのに、ソビエトが冷戦に勝利したポスト冷戦時代を書いた作品が殆どないのは悲しい限りです。 http://d.hatena.ne.jp/REV/20051214/p9 REVさま。さらっと「ハイ-ラ
今期の「涼宮ハルヒの憂鬱」においては、原作では1話で済んだ「エンドレスエイト」をループ構造の作品として延々繰り返しているのだが、これはいわゆる「ループもの」の作品とかなり違う文脈で描かれている珍しい例なので、少し論じてみたい。 一般にループものと呼ばれる作品が、実際に同じシークエンスをループすることは余りない。むしろ「ループしている」という状況を、さまざまなベクトルから描きつつ一本のシリアルなストーリーラインに落とし込むか、ループという状況によって多数化された物語の上にメタフィクション構造を積み上げ、そのメタ部分をメインラインとして、やはりシリアルなストーリーラインが組まれることが多い。 たとえば、前者の代表的な作品である「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」(正確にはその前半部)においては、登場人物たちそれぞれがループの奇妙さに気付き、それを打破しようとしてさらに混乱していくとい
「こっそり南京アンケート - 「で、みちアキはどうするの?」」を読んで思ったことなど。 南京大虐殺があった/なかった、みたいな、自己の生活と直接的にかかわりのない*1問題について、真剣に論じる人たちというのは何か、ということをみちアキ氏が問うていたので、自分なりに考えてみると、すなわちそのような問題は、われわれにとって自らの倫理のあり方における賭金としてあるがゆえに真剣に論じられるのだという印象を抱いた。 南京大虐殺があった/なかったを問われるとき、それを「どうでもいい」と回避せず「あった」と主張する人は、そこをフックとする問題意識を抱いている。それは史実性をめぐる正確さやレスポンスビリティ、民族主義やレイシズム、あるいは愛国主義や自由主義史観、「歴史家論争」など多様な分野に広がっていく問いとしてある。そして究極的には「人間とは/自分とはいかなる倫理において生きるべきか」をむき出しにしてし
宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の提示した問題のフレームは確かに興味深いのだが、同時にさまざまな異論をあげたくなるような強引な部分が存在する。それについて、少しばかりメモしておきたい。 主体性の素朴な扱い 宇野常寛の議論にひとつだけ異を唱えろといわれたなら、迷わず彼の「主体」に対する執着をあげる。これは彼の議論の根幹である動員ゲーム論から、細部であるレイプファンタジー批判にまで応用できる。彼は主体が能動的決定者であるように単純化して取り扱うが、実際のところ、主体というのは「われあり」という根源的な部分と、それが世界と向き合うことで発生する「われかくあり」という倫理=表現的部分とに分かれる。そして人間は後者の主体性を生きている、といえる。 このような主体性は、世界と自己との関係性――すなわちコンテクストの中での暫定的なものでしかないにもかかわらず、再帰的に強化されていくという性質を持つ。これを宇
「ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ - 過ぎ去ろうとしない過去」を読んで思ったことなど。 おそらく、レスポンスビリティは「趣味」の問題としても発生しうる。あるものが声を上げたとき、それに対してどう振舞うかを決めるのは趣味であろうとなかろうと究極的には自分だ。そこには決断という自己決定がある。その意味で、決断とは倫理の問題ではないだろうか。 決断を行うこと、それを再帰的に展開していくこと、あるいはそれを途中からコミュニケーションの様相に応じて変化させていくこと、そしてその結果を引き受けていくこと――それはやはり「趣味の問題であろうとなかろうと」ひとつの倫理なのだ。それゆえに、けして「趣味の問題」などというカジュアルな言葉で切り捨てるわけにはいかない、独自の深刻さと戸惑いというのがポストモダン・リベラルにはある。 その深刻さと戸惑いとは、とりもなおさず自己が無根拠の中から何かを選択しな
「うみねこのなく頃に」におけるゲーム的想像力は異様な姿を取っている。通常のゲーム的想像力においては、メタ物語は多数化された物語からビルドアップされる――多数化した物語を読み解いていくことで立ち現れる「個々の物語がなぜそのようにしてあったか」という審級であり、それを克服するための「解」として描かれるのだが、うみねこははなからメタ物語を前面に押し出しており、個々の多数化された物語はメタ物語にサブジェクトする存在に過ぎないはずだった。 これはある意味ラジカルな方法論といえる。ゲーム的想像力というものの本質――すなわちメタ物語という階梯を摘出し、前景化しているといえるだろう。しかし一方で、うみねこはメタ物語部分をストレートに物語として展開しているので、ここからメタのベタ化という問題が生まれる。個々の物語の総合からたち現れるのではなく、あらかじめひとつの「物語」として描き出されたメタ物語は、通常の1
Twitterからの転載・改稿。 CLANNADは、主人公とヒロインが、出会いから恋愛、そして学生生活におけるゲゼルシャフト的関係を通じて、「イエ」という史的・空間的連続性を持つ共同体に包摂され、家族として成り立つという話として読みうるし、またそう読まれがちである。 しかし、CLANNADにおいて「イエ」そのものへの帰属が重要であっても決定的でないことは、妻/ヒロインの実家である古河ファミリーに、主人公である岡崎朋也が参入しない/参入を拒否することから見て取れる。より重要――そしておそらくはメインのテーマであるのは「主人公自らのイエ」への帰属と、その家長としての自意識の形成である、と見るべきだろう。 主人公が古河ファミリーに帰属しないのは、彼自身に「古河のイエ」の一員ではなく「自らのイエ」の家長であるという自覚が無意識的にあるからだといえよう。そのくせ育児放棄とかはしてしまうのだから、主人
3月22日、伊藤計劃氏が逝去されたとの報に接し、悲嘆と落胆を禁じえない。しかしながら、伊藤計劃作品に触れ得たひとりのファンとして、ただ落胆するのではなく、それを受け入れてなお姿勢を正すべきと思い、ここに追悼の辞を述べる。 すでに何度か書いたことではあるが、伊藤計劃において、人間の生とは「確率性」および「大量死と大量生」そして還元主義、再帰的近代化、ポストモダン的社会経済システムなどによって、何重にも意味を剥奪された存在であった。その根源的な無意味の上にあるヴェールをはぐことで、われわれの視点をそこへといざなうことが、彼の第1のテーマだったと解釈している。伊藤計劃は「バットマン」シリーズのヴィラン、ジョーカーのファンだった。ジョーカーが、自ら道化として振舞うことで世界のうわべのヴェールを剥ぎ取り、彼好みの真実を人々に見せようとしたのと同様に、伊藤計劃もまた、その束縛された生によって得た省察を
飛浩隆氏の「虐殺器官」評を読んで、自分の読みの限界と浅さを知った。一方で、元長柾木の小説の中に世界と自己とその関係性についての俯瞰的構図が手際よくまとめられているのに勇気付けられた。これは使える。 ということで、虐殺器官を論ずるに当っての要点を再整理。 主人公はなぜ「死者の国」を見続けるのか。 任務遂行による死者の記憶の蓄積か。 一過性のストレスはフィルタリングできても記憶は消せない。 結果として、それは彼の精神基調をなすものとなる。 「死者の国」とはなにか? 主人公の内面世界における「世界の本質」ではないか。 全てが無意味になる「死」の集合のうえにある虚像としての世界。 世界の裏側、暗黒面にこそ本質があるという倒錯。 本質的なる物としての「死」が主人公を束縛する。 死者の国における「母」の立ち位置は? 「母」によって「死者の国」の意味が立ち上がってくる。 「母」は主人公においての生の拠り
「うみねこのなく頃に」という作品(以下うみねこと略)は、現状で一意的な回答を出せるようにはなっていない。先のエントリでもあげたように、推理というのは「テクストと読者の共感性に拠って立つものであり、論理実証主義に基づいていないからだ」という問題もあるが、むしろ意図的に解を発散させようとしているように見える。それは選択次第で別のストーリーラインが描かれる、選択肢式ノベルゲーの構造に近い。 ならば、真実は人の数だけある、という方式でもいいのではないだろうか。そういう意味で、うみねこという作品はかなり譲歩し、ポストモダン的なテクストとの戯れの可能性を示唆しているにも拘らず、最終的には豊穣な可能性を切り捨てているように思える。うみねこは多世界同時存在解釈が一番スマートに当てはまる形式なのに、それをあえてむりやり一意的現実に収斂させようとしているように見える。 上記のような理由で、むりやり一意的な回答
「うみねこのなく頃に」という作品は、一見推理ゲームのように見えるが、その条件を完全に満たしているとはいえない。推理ゲームにおいては、与えられた手掛かりから得られる最もありそうな唯一の解を選び出すことが前提とされるが、当作品において与えられる情報は非常に少なく、解の発散――複数の解が同時に存在しうる状態を呼び起こしている。これは推理ゲームとしての欠陥なのか、それとも必然なのかを問うことは「うみねこのなく頃に」(以下うみねこと略)という作品を解釈する際、大きな意義を持つだろう。 まず、推理ゲームにおける推理というものが、実際には上記のごとき論理実証主義的なものではなく、テクストと読者のある種の共感性によって成立するものだということを指摘しておきたい。厳密に解が収斂するほど証拠を積み重ねた作品はさほど多くなく、多くはテクストが提示する断片的な証拠から推定されるいくつかの解のうち、よりもっともらし
ここまで怠っていた、統合的な伊藤計劃論についてのガイドライン。いずれ本格的伊藤計劃論を書くときに利用したい。ガイドラインの構造は以下の通り。 世界と自己の無根拠性――ポストモダン状況における主体の解体―― 「大きな物語」が失効し、社会の分子化とゲゼルシャフト化が進行し、世界が個人の存在論的意義を担保してくれないにも関わらず社会の一員としての義務を押し付ける後期近代〜ポストモダンにおいて、人はいかなる振る舞いをさせられるか(権力論)/せねばならないか(再帰的近代化論)が、伊藤計劃の問題意識の一角にあると思う。基本的にこれは「あえて何がしかを選ぶ」というシニシズム(決断主義)、あるいは「何も選ばず流れに身を任せる」という怠惰(動物化)として現れる。一方で、そもそも人=近代的個人の、事物としての本質性/存在論的意義は存在せず、実際にあるのはつぎはぎの実装された運用とそれが生み出す一種の幻想に過ぎ
人は卵であるとともに他者にとっての壁でもある。ほうっておけば互いにぶつかり合って粉々になる。それを互いに避けるため、それぞれ似た形の卵が互いに力学的に支えあう形の卵ケースに入ることで、互いにぶつかり合うのを避ける。しかし卵ケース同士もまたぶつかり合う。それを避けるため卵ケースの間に緩衝材を入れ、互いに支えあうようにして箱詰めする。だが卵の箱詰め同士がぶつかり合うことを和らげる仕組みはまだ完成していないし、それどころか卵ケースや箱自体の梱包が緩んできている、というのが現在だ。 ここでいう卵のぶつかりあいとは排他的権力関係、卵ケースや箱は排他的権力関係を緩和/止揚するための中間集団や国民国家などと考えて良い。これらの効力は再帰的近代化やグローバリゼーションにより失効しつつあるし、国民国家間の利害を有効なレベルで緩衝し得たものはただひとつ、恐怖の総和にほかならなかった。そこから垣間見えるのは、む
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