サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大そうじへの備え
blog.livedoor.jp/sebastianus0884
2012年08月21日21:47 カテゴリ シリーズは通して読まなくても楽しめます。 素人から玄人までひっくるめて、世の中で一番「評論」をする人が多いのはどのジャンルでしょう。 って聞かれたら、なんて答えます? 特にデータとかがあるわけじゃないのでなんなんですが、「書評」つまり書籍だと私は思います。 まー、でも私が興味のある分野だからそう思うだけかも。 でね。 本に限った事じゃないけど、特にシリーズものにおいてこういうのよく見ませんか? 「前作を読んで(見て)いないと分からない」 「シリーズを通して読んだ(見た)方が楽しめます」 とかとか。 ああいうの見るとすごいなーって、私、思うんです。 私は、前作を知らない人の視線で読むなんて器用な真似できませんから。 何が言いたいかって? そもそも、先に挙げた様な言説は成り立ちようがないってことです。 一人の人間が、シリーズ途中から読みだすのと、シリ
2010年09月24日21:22 カテゴリ戯言(5) 人を見る目 大抵の人間は個性を持たない。 それまでに出会った人、物、事。 それらの寄せ集めを個性と称しているに過ぎない。 だから、色々な人に出会い、様々な物に触れ、多くを学ぶことで、人は「個性」を持つことができる。 私が好きになるってことは、多分そんな人なんだろうと思う。 「戯言(5)」カテゴリの最新記事
2010年05月02日14:27 カテゴリ あきらめたら、そこからスタートです 教育とか、学問とか、その辺りのお話です。 理想の在り方、っていうのは確かにあります。 試行錯誤しながらそこを目指していくことも可能です。 難しい、というかほぼ不可能なのが、それを広げていくこと、システムにしてなおその理念を保ち続けること。 理念とかって、システム化の段階になると急速に雲散霧消しちゃうんですよね。 個人が教えることと、システムとしての教育。 この二つの間には大きな断絶があります。 というか全く別物です。 個人が教える、というのは学校に限ったものではありません。 というか、教える、という表現もあまり似つかわしいではなくて、学ぶ、といった方が正確かも知れません。 内容は何でもよく、各分野の学問はもちろん、実践的な技術、趣味的な知識、あるいは誰かの生き様、両親の振る舞いだったり、尊敬する人の言動だったり
2008年08月06日10:35 カテゴリ詮無い事(4) 自分の人生と他人の人生の違い 他人の人生を見ることはできても、他人の人生を生きることはできない。 生きられるのは、自分の人生だけ。 見ることと、生きること。 両者の違いが、まだ明確になっていない。 というか、曖昧になっちゃった、のかな? 私には、色々と考えないようにしていることがあるのだと思う。 それを深く突き詰めていくと落ち込む、という理由で。 その一つが、自分はどう生きるべきで、実際にどう生きているのか、だね。 人間は人間であることからそうそう逃れられない。 相対的な禍福と、個々人が感じる幸福感や不遇感は、一致しない。 素晴らしく楽しい人生を過ごしながらも、日常の不毛さに悩んだり。 暴力が日常となった世界で、殴られないことに幸福を見出したり。 どんな状況にあっても、人が人である限り、そこには幸福と不幸がある。 だから、別に悩む必
2008年08月04日16:09 カテゴリ詮無い事(4) 「救い」に拒否反応を示す人たちが救われる方法 両義的である、ということ。 一貫している、ということ。 これらの両立は不可能。 両義は拡散の、一貫は収束の方向性を持つから。 ただし、使い分けることはできる。 基本的な在り方は、両義的であることが望ましいと思う。 物事の極と極を知り、そのどちらでもあり、どちらでもない。 関係も、利害もなく、観察するには最適の在り方だから。 しかし、観察者であり続けることは難しい。 社会に関わり、何かを成そうとするのなら、選択しなければならない。 そして、観察を元に選択する時は、一貫していることが望ましい。 でなければ、自らの選択に責任を持てないから。 両義的であることは、他人に都合よくとられる危険性を孕んでいるから。 また、他人と関わりあう時も一貫していた方がよいだろう。 通常、他人が自分以上に「私」に
2008年03月29日06:41 カテゴリ詮無い事(4) 足の速い子と、視力のいい子と、そうじゃない子の、お話。 成長の方法と認識 前だけ見て突っ走って、客観的に分析、方向を修正して、また突っ走る。 成長っていうのは、そういうことの積み重ね。 前しか見えてないととんでもない方向に暴走してしまう。 分析しているだけでは自分の視力が世界の広さになってしまう。 ただ、これは一般人のお話。 もっと優れた人もいるし、そうでない人もいる。 そういう人たちにとっては、成長の方法や世界の認識は全然違ってくる。 とんでもなく足の速い人がいる。 行きたいところにはすぐ行けるし、行って詰まらなかったらすぐ他の場所に行くことができる。 世界はとってもエキサイティングで、走るというのはそれだけでも楽しいもの。 そうでない人もいる。 なんとなく面白そう、と思って苦労して走って実は詰まらなかったと気付いても、もう疲れて
2007年07月21日16:11 カテゴリ詮無い事(3) 記憶方略 突然ですが、何かを覚える時どうやっていますか? まあやり方は色々あると思いますが、一般的には「情報量は少ないほうが覚えやすい」と思われているんじゃないかと思います。 でも、本当は逆なんですよ。 試してみましょうか。 以下の文章を覚えてください。 制限時間は特に設けません。 男が二人立っている。 ハゲが広告を読んでいる。 女が男を笑っている。 犬が壁に向かってほえている。 猫が飛びついた。 ジャガイモとウィンナーとチーズを買いに行く。 サラリーマンが学生を怒った。 で、思い出してみて下さい。 「男」「ハゲ」「女」「犬」「猫」「ジャガイモ」「先生」を紙か何かに書き出して思い出してみるといいでしょう。 いくつ思い出せますか? 全部思い出せましたか? 単なる文章としてそのまま覚えようとすると、難しいのではないかと思います。 じゃ、
2007年05月25日02:12 カテゴリ詮無い事(3) 賢さを「早い」思考で補う 打ち返すのは得意だが >ボールを打ち返すバッタ型の人間が多い、ということだろう。つまり、ピッチャ型が少ない。 >手持ちのネタがゼロであるところから、何を作るのか、何を語るのか、何が問題なのか、何をすべきか、という問いを発することが大切だと思う。 >もちろん、まったくのゼロではない。過去のどこかで自分に飛び込んできた球を打っているのだが、その球がすっかり自分の中で静止し、自分のものになるまで時間をおくことで、表面的には少なくともオリジナリティが生まれるような気もする。 頭の回転が遅い自覚があるのなら、頭の回転が速い人より早く考えればいい、というのが私の持論。 これに限らず、私の考え方は森博嗣の影響を受けて被ってる部分が少なくない。 森氏の考え方はシンプルで綺麗だから好き。 引用後半に書かれているけれど、相手の
2006年10月20日23:57 カテゴリ詮無い事(2) 再考:理系と文系 ちょっと軽いものを。 私が文系である理由(10月22日、追記)。 文系にする理由としてよく挙げられるのは「数学ができない」です。 私も理系の人間と比べれば明らかに数学ができない部類に属するでしょう。 私の数学はできる科目、できない科目が偏っています。 ベクトルや確率、組み合わせ、微分積分、証明など論理的であったり、法則さえわかっていれば解けるものは、今でもかなり解けます。 苦手なのは複雑な計算、それと「自明のこと」の証明です。 数学は、経過はどうあれ結論は同じ。 ならおのずと選択肢も限られる。 それを大勢でやる意義が感じられない、というのが一番の理由です。 「自明のこと」の証明が嫌いなのは、これに起因します。 今回、以前まなめさんの書いた理系と文系を読み直しました。 その中で気になったのがいくつか。 >文系って社会
2006年10月06日22:45 カテゴリ詮無い事(2) 頭のいい子には、頭のいい教師を 学校の先生には頭のいい人と頭の悪い人がいること。 学校とは利用するものであること。 思考(思想)と行動が一貫している必然性はないこと。 トータルでの自由のために一部の自由を封印する、という方法もあること。 頭のいい子には、こういうことを教えてやることが必要だと思う。 教育を何とかしようと思うのなら、教師や学校を変えるのではなく、子供の認識を変える方が効果的。 頭のいい子は頭の悪い教師の欺瞞に気付いている。 ただ、折り合いのつけ方が分からないだけ。 教師も教師で、頭のいい子にその能力を運用する術を教えない。 頭のいい教師は頭の悪い子の存在に頭を悩ませる。 頭の悪い子の親は、大抵頭が悪いから。 正しい能力の運用の仕方は、頭の悪い人間にとっての脅威だから、排除される。 正しい能力の運用の仕方は、常識から一歩
2006年09月23日23:25 カテゴリ詮無い事(2) ブロガサロン設立の提案 サロン的なブログが見てみたい。 現状のブロガ(ホスト)とコメント(ゲスト)の関係はサロンとは少し違う気がするからだ。 あれはやはりブロガ主導になってしまう。 個々人のブログの集合による集合知ではなく、一つのブログに集合するブロガによる集合知。 一つのテーマについて多数の人間が様々な視点から考察を加え、それらをテーマごとのカテゴリでくくることによる、インデックスの作成。 ある程度選別された集合による、程度の高い擬似集合知。 そんな形が作れれば、ブログの消費を多少は食い止められるのではないだろうか。 その点Project::Logistica.では複数のブロガ(正確にはニュースサイタ)によるテーマの共有を行おうとしていた。 サロン的な集まりになるのかと期待していたが、テーマを一つに絞り、それについて順番に書く、と
2006年09月18日12:27 カテゴリ詮無い事(2) 「やればできる子」を「できる子」にする方法 やればできる子。 要は自らのスペックに比べて程度の低いプログラムしか走らせてない子のこと。 やればできる子は、実はできる子とできない子に分けられる。 両者の違いは、スペックに見合ったプログラムを持ち合わせているか否か。 学校組織、あるいは通常の親から与えられるプログラムは概して程度が低い。 そういうプログラムをただ漫然と走らせておくのは、ある程度のスペックを持つ人間なら誰でもできる。 そして学校や親はそれでよしとする。 しかしそこで満足するのは間違っている。 自分のスペックがそこに留まらないことを自覚、あるいは指摘されたのなら、自分に最適化されたプログラムを自分で書く必要がある。 普段はお仕着せのプログラムを走らせておくのもよいだろう。 そのプログラムしか持たない人間とコミュニケーションを
2013年04月01日09:12 カテゴリこのブログについて お知らせ的な。 戯言的なことはこっちで書くことが多くなってるので、こっちを見てもらうといいかも。 以前作ったついったーのあどれすなのですよ。 https://twitter.com/izutis sebastianus0884 コメント( 0 )トラックバック( 0 ) 2012年11月09日15:21 カテゴリ詮無い事(5) アクセス童貞はソープへ行け! 北方てんてーの「ソープへ行け!」じゃないですけど、 例えば単純にアクセス数を稼ぎたいのだったら性欲に訴えればいーのです。 「アクセスが少ない」とか嘆くぐらいならエロい文章を書け。 創作でも体験談でもいい。 なんならソープに行って童貞も捨てて来い。 んーと、ちなみにここで言うアクセス数は数万PVくらいを指して言ってるよ。 普通にそれぐらいアクセス稼いでる人はこの先を読む必要はな
2006年03月31日04:37 カテゴリ詮無い事(1) 書評するならポストイットくらい用意しなよ 世間には自称批評家さんが掃いて捨てるほどいます。 ま、私もその中の一人といえばそうなんですがw さて、彼らが書く批評、ここでは特に書評について。 私自身本が大好きなので、またいい本があれば書評を書くつもりでいますし、他人の書評を読むのも結構好きです。 しかし、いい書評はそうありません。 ポイントが分からない、あるいは最も印象的な部分だけを抜き出して、感想をさらっと書いてはい終わり、というものが大半です。 これは、ほとんどの批評家さんが一度だけ、それも面白い所で立ち止まらずに読んで批評しているからだと思います。 余談ですが、私はつまらない本は初めから紹介しません。 本なんて百冊の内本当に役立つものは数冊あればいい方ですから。 下らない内容の本の感想を書いても楽しくありませんし、ただでさえ時間を
2006年03月27日16:17 カテゴリ詮無い事(1) 「〜すべき」って言い切っちゃダメなのかい? 「『〜すべき』じゃありませんけど〜」といった調子の文章をよく見かける。 うんうん、一見謙虚。 他人の意見も受け入れますよ、って雰囲気が漂ってていいんじゃない? けどさ。 誰かがあんたに何か言われてはいそーですかって行動を改めるとでも? 結局大切なのはその文章の意味、そして説得力。 納得できれば「〜と思う」とだけ書いてあろうがその通りにするし、一笑に付す様なものであれば「〜すべき」と書いてあろうが誰も従わない。 結局答えの出ないものなら、いっそ言い切った方がいい。 その方が話が進む事もある。 例えば数学の公式。 公式が先にあって、後世になってそれが証明される、または答えはわかりきってるけどそこに至るまでのなんて事例はいくつでもある。 有名なものとしてフェルマーの最終定理なんてのがあったっけ。
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『Logical Sebastian』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く