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旅行ガイドブックの類(たぐい)で埋め尽くされている棚があった。その棚を興味深く見つめる。「るるぶ」だとか「地球の歩き方」だとか、わたしのマンション部屋(べや)の本棚にはほとんど入ってないものね。新鮮。 それから、CD棚に眼を移す。意外と言ったら失礼だけど、比較的硬派なミュージシャンのアルバムが並んでいると思った。『八木さんもなかなかやるなぁ』と思う。音楽の趣味の良し悪しだけで人を値踏みしてはいけない。だけど、八木さんのCD棚を見てホッとした気分になったのは事実だし、彼女へのリスペクトの度合いが上がった。 ドアが開く音がした。八木八重子(やぎ やえこ)さんがコーヒーカップの2つ載ったお盆を持って入ってきた。 「インスタントでゴメンね」 「いえいえ」 「羽田さんは砂糖もミルクも入れないよね? わたしよりオトナだなぁ」 「またまた~。社会人の八木さんの方が絶対オトナですって」 八木さんは腰を下ろ
わたしの母は「心(こころ)」という名前だ。わたしの「愛」という名前の中に、「心」という文字が入っている。どうしても自分の名前を入れたかったらしいけど、母の名前がわたしの名前に入り込んでいるのを意識すると、フクザツな気持ちになってしまう。 × × × おとうさんの帰りを今か今かと待っているのだ。日曜の夕方、『笑点』がもう少しで始まる時間帯。帰国した両親が住んでいる一戸建て。弟の利比古が用事で今夜来られないのは残念だけど、おとうさんが帰宅したらすぐに回らないお寿司屋さんに行くことになっていて、とても待ち遠しい。 「なんだかポワ〜ンとした顔してるわね、愛」 ちょっとなによ、お母さん。 ポワ〜ンって、なに!? 苦々しい気持ちになるわたしに、 「お父さんが帰って来るのが、ほんとうにほんっとうに待ち遠しいって表情じゃないの」 という鋭利な指摘。 ココロを読まれた……!! 「心」って名前だから、ココロを
スパーリングの音が響いてきた。ボクシング部の練習所の裏なのだから当然だ。スパーリングをBGMに、意味も無く、時折、スマートフォンの画面を確かめる。通知は何も無い。 秋晴れだった。上空に雲はほとんど無かった。空の色は水色過ぎるぐらい水色だった。風は微(かす)かに音を立てるだけ。怖いぐらいに天候は良かった。 こんなに天気が良いと、『彼』がここにやって来た瞬間に、まるで凍っていくかのように、背筋が冷たくなってしまうかもしれない。天気の良さが、わたしのカラダの温度とココロの温度を奪っていきそう。本当に怖い。 スマートフォンを再度見ようとする。画面ロックを解除するのに2回失敗してしまった。自分が自分でなくなっている自分が嫌になる。通知はやっぱり無い。誰からも連絡は来ていない。 通知の有る無しよりも大事なコトがあった。今の時刻が何時何分であるかというコトだ。もちろん、スマホは画面に時刻を示している。
ハムスターが巨大化したようなぬいぐるみをフニュフニュといじりながら、 「埼玉さんちの西武ライオンズくんぐらい、悲惨な球団も無いわよね」 と言うわたし。 利比古が、途端に苦い顔になり、 「そんなコトをあんまり言うものでも無いよ、お姉ちゃん」 とたしなめてくる。 「だって事実なんだもん」 このヒトコトで、全て結論付けられる。わたしはそう信じて疑わない。決めゼリフを言えた爽快感でもって、大きめのマグカップに入ったブラックコーヒーを啜る。美味しい。 「あんた、自分のコーヒーにあまり手を付けてないじゃないの。飲んだら?」 利比古に促してみる。 しかし、利比古は利比古のマグカップに手を伸ばそうとしない。 若干黙りこくったかと思うと、可愛いはずのわたしの弟は、 「お姉ちゃんはさ、野球の話になると、ヒドいよね」 ちょっとなにそれ。 空気を読んで。 某民放テレビ局の某アナウンサーじゃなくても、『水差し野郎』
「え、えーっと。み、皆さま、おはようございます……じゃなかった、こんにちは。 金曜のお昼、どうお過ごしでしょうか? 元気ですか?」 「トヨサキくん、タイトルコールタイトルコール」 「あっ」 「『あっ』じゃないよ。タイトルコールしなきゃ。番組が始まらないよ?」 「そ、そーでしたっ。 ん、んっと……んっと……。 あれっ? 番組名、何でしたっけ」 「ガクッッ!!」 「……」 「普通、ド忘れなんてする!? 前代未聞だよ。 この校内放送番組のタイトルは、『ランチタイムメガミックス』に決まってんじゃんっ」 「すみません……。緊張していて」 「言い訳はNG。 ほらっ、早く。 『ランチタイムメガミックス』って言うんだよ」 「お、お聴きの皆さま。わたくしが緊張し過ぎていて大変申し訳ありませんでした。 これから、『ランチタイムメガミックス』を始めようと思います。 ――って、なんで紅葉(もみじ)先輩、笑いまくっ
夏休みが終わり、2学期が始まった。わたしたちの夏が過ぎ、わたしたちの秋が始まる。わたしたちの秋が始まるといっても、校舎では冷房がフル稼働だ。現在(いま)わたしが居る図書館でも、クーラーが室内を懸命に涼しくしてくれている。放課後だけどお陽(ひ)さまは高く、窓の外のアスファルトを容赦無く照らしている。 「残暑だねえ」 そう言ったのは春園保(はるぞの たもつ)センパイだった。カウンターの奥にある図書委員の作業スペースで、わたしと春園センパイは向かい合っていた。センパイは呟くように残る暑さに言及した。呟きのような言及ながらも、その眼はわたしに据えられていた。 学年が1つ上の男子たる春園センパイの据えられた眼に緊張しながらも、 「危険なくらい、暑さが持続してますよね」 と彼のコトバを承(う)けて言う。 「地球がヤバいよな。この暑さの中で、高校球児たちは甲子園球場で闘っていたワケだ」 センパイはそこで
羽田利比古くんと川又ほのかさんのカップルを邪魔するワケにはいかなかった。わたしが近付いていきたいのは、羽田利比古くんのお姉さんの羽田愛さんだった。羽田くんをそっとしておく代わりに、愛さんに対し積極的になりたい。だけど、肝心の愛さんがなかなか見当たらない。 もう夏祭りは始まっている。夜店の立ち並ぶ通りに愛さんは溶け込んでしまったのだろうか。夜店の通りの入り口付近でわたしは棒立ち状態。愛さんを見つけられずにチャンスを逃してしまったら、夏祭りに来た意味も……。 『猪熊さん、どーしたの?』 左斜め前方から声をかけられた。ひょこり、と現れたのは、戸部あすかさんだった。羽田利比古くんと同じ邸(いえ)に住んでいる1つ年上の女子(ひと)。そもそも、あの邸(いえ)はあすかさんの実家なのである。 あすかさんとは数回顔合わせの機会があった。顔合わせの詳細は都合により省略するとして、今日、あすかさんは浴衣を着てい
良い目覚めではなかった。睡眠時間は足りていたが気分が悪かった。悪い夢を見たワケでもなかった。だけど寝起きに不快感があった。頭に鈍い痛みがあってしばらく身を起こせなかった。 お腹も空かなかった。 まだ、3日前の麻井先輩との◯◯のコトが、尾を引いている。 彼女は、麻井先輩は、この部屋で、どうしてあんな行動に……。考えれば考えるほど後遺症みたいになる。目覚めてすぐにぶり返す。3日経った今朝も同じだ。ぼくに対する彼女の行為が重たくて、下を向く。下を向けば向くほど、さらに辛くなる。 どうにかベッドから抜け出し、タブレット端末に助けを求めた。あらかじめ充電をしておいて良かったと思う。頼りがいのあるタブレットの画面を指で動かし、例のごとくウィキペディアにアクセスする。関西地方のテレビ局や関西ローカルのテレビ番組に関する記述を読んでいくと、気持ちの落ち着きは少しだけ戻って来る。晴れない気分の根本的な解決に
控えめなノックの音。なんとなくだけど、誰がノックしてきたのか推測できる。勉強机から立ち上がり、ドアに歩いていく。 ドアを開くと、身長140センチ台の小柄な女の子が立っていた。長めの髪のボサボサ加減が可愛らしい。焦げ茶色のナイトウェアに小さなカラダを包んでいる。160.5センチのわたしの胸の下あたりに視線がある。 彼女は麻井律(あさい りつ)ちゃんだった。 わたしの弟の利比古の先輩だった女の子。桐原高校で『KHK』という放送系クラブを率いていた。学問に専念できる環境が整っている茨城県の某国立大学の4年生。彼女の方から、『お盆の帰省の時に、お邸(やしき)に泊まらせてほしい』と申し出てきた。彼女が邸(ここ)に来るのも本当に久しぶり。嬉しかった。 さて、控えめにドアをノックした麻井律ちゃんは、控えめに部屋の入り口前に立っている。 「りっちゃん」 彼女に呼び掛けるわたしは、 「入って良いのよ。遠慮し
大企業の社長なのに、アカ子のお父さんが、平日の昼間に邸(いえ)に居(お)られた。アカ子はアルバイトに行っていて、蜜柑さんはダイニングキッチンで紅茶やお菓子の用意をしているので、最初にわたしをもてなしてくれたのはアカ子のお父さんだった。応接間に通され、陽気なお父さんから幾つか質問をされ、それに真面目に答える。 アカ子パパさんが座っておられる革張りソファの手前のテーブル上に、プラモデルと思しきモノが置かれていたので、気になって視線を寄せた。するとパパさんはわたしの視線寄せに気付き、プラモデルの存在に注目してくれたのがとっても嬉しそうに、『蒼穹のファフナー』というアニメに出てきたロボットのプラモであるコトを教えてくださった。 「ちょうど20年前の2004年に始まったアニメだから、さやかさん、2002年産まれのきみはきっと知らないだろう」 そう訊かれ、首肯するけど、アカ子パパさんが長い解説を始めそ
昼下がりのカフェテラス。左斜め前には川又さん、右斜め前にはさやか。川又さんはホットコーヒーを、さやかはアイスコーヒーを飲んでいる。 川又さんは喫茶店の娘らしくホットコーヒーをじっくりと味わっている。 そんな姿を見て、さやかはアイスコーヒーのストローを右手の指でつまみながら、 「吟味してるんだね、川又さん」 ぴくっ、と反応した川又さんはコーヒーカップを置き、 「すみません、青島センパイ。吟味し過ぎて、自分だけの世界に入り込んでしまってました」 「いいんだよ」 さやかはそう優しく言い、川又さんに微笑みかける。 どきっ、としたみたいな川又さんの表情。 いい感じ。 いい感じ、というのは、 『川又さんとさやかの距離を近付けたい』 という目論見がわたしにあったのである。 2人がお近付きになったら、面白い。 「さやか、さやか」 「なにかな、愛。はしゃいでるみたいな勢いでわたしの名前を呼んで」 「昔話なん
「流(ながる)さん!!」 「ず、ずいぶん元気良いね、愛ちゃん」 「本日は『短縮版』です」 「ああ、土曜日だからか」 「ですねー。土曜日恒例の短縮版のブログ記事」 「ぼくと愛ちゃんの会話だけで、地の文は無いワケだ」 「賢いですね、流さん」 「いやいや」 「時間がかなり『押している』ので、短縮版の中でも短い文字数になっちゃうんですけど」 「『押している』ってのは……」 「ブログの『中の人』が、時間が『押している』んです。なので、『焦点』を1つに絞りたいんですけど」 「『焦点』? フォーカス??」 「今、わたしと流さんはダイニングテーブルで向き合っている。そしてこれからわたしは2人分のお昼ごはんを作る」 「ぼくが手伝ったらいけないんだったよね」 「1人で出来なきゃ意味が無い。1人で調理するコトに意義があるんです」 「愛ちゃんは強いよね」 「激強(げきつよ)ですから」 「アハハ……」 「なーんか間
放課後。 例によって旧校舎の「第2放送室」に篁(タカムラ)かなえと居るんだが、 「顧問が欲しいよね」 とタカムラがいきなり言い出したので、ビビる。 「と、唐突だなタカムラ。ビックリしちゃったぞ」 「なんでビックリするの? できるだけ早く顧問の先生付けなきゃでしょ」 まあ、それは、確かに……。 「アテはあるのか。おれたち入学したばっかりだし、まだ先生のコトよく知ってないよな」 「アテならあるよ」 「どの先生だよ?」 「英語の守沢(もりさわ)先生」 「守沢先生? なぜ」 「彼、新任教師でしょ? 授業で言ってたんだよ、『まだ受け持つクラブ活動が決まってない』って」 「へえ。そんなコトもあるんだな」 「まだどこの顧問にもなってない今が狙い目だよ」 言うやいなやタカムラが勢い良くパイプ椅子から立ち上がった。 「わたし職員室に突撃する」 突撃って、おいおい。 「豊崎(とよさき)くんは留守番ね」 × ×
放課後。 旧校舎の「第2放送室」にノートパソコンを運び込んだおれ。 篁(タカムラ)かなえがパイプ椅子から立ち上がり、ノートパソコンに近付き、 「なんでこのパソコン明智(あけち)先生が保管してたんだろうね。KHKの顧問じゃなかったのに」 おれは、 「一昨年(おととし)の『KHK紅白歌合戦』の総合司会だったろ、明智先生。それでKHKとの繋がりが深くなったから、パソコン預かってたんじゃねーの?」 「おー」 タカムラは感心したように、 「確かにそうだよねえ! 豊崎(とよさき)くん、案外アタマの回転速いんだね」 余計な漢字二文字が付けられてた気がするんですけど。 「おれが特別アタマの回転速いワケじゃない。これぐらいの推理なら、おれじゃなくたって可能だ」 タカムラがいきなりノートパソコンを開いた。 「このパソコンに入ってる『ランチタイムメガミックス』の音源、2022年度までのなんだよね? まだ『(仮)
夕方。 横浜駅。 おねーさんと利比古くんのお父さんの守さんを待つ。 守さんとディナーに行くのだ。 約束の時刻の3分前に守さんはやって来た。 「待たせちゃったかな、あすかちゃん」 「いえ、そんなコトありません」 羽田姉弟のお父さんと向かい合うわたし。 視線を逸らすのは失礼だから、顔を見る。 優しい笑み。 暖かそうな人柄が滲んでいる。 だから、おねーさんと利比古くんの姉弟がちょっぴり羨ましくなってしまう。 × × × 『羨ましがり過ぎちゃダメだ』 そう自分を叱りながら、守さんの少し後ろを歩く。 かなり上品なレストランだった。 2時間以上服装を考えた甲斐があったかもしれない。 おねーさんみたいな優雅さを身にまとうコトはできないから、服装を考えても考えてもコドモっぽさを拭うコトはできない。 だけど、今日守さんと会う時間は特別な時間だから、わたしなりに精一杯努力してみた。 『なにか飲む?』とお酒を勧
昼過ぎ。待ち合わせの駅に流(ながる)くんがやって来る。 なんだか冴えない彼。 これからデートするってゆーのに。 「猫背じゃない? 流くん」 「そ、そーかな。カレンさんには……そう見えるか」 「わたしじゃなくたって、見えるよ」 ぬっ、と彼に迫り、顔を近づける。 「距離感、近くない……?」 そんなコトを言っちゃう流くんがどーしよーもないので、 「あんまりだらしなさ過ぎたら、背中をバッグで叩くよ!?」 と言って、睨むように見る。 「ごめん。公衆の面前できみに叩かれないように、頑張るよ」 だったら今から背筋伸ばして。 頼りないんだからっ。 × × × ゲームセンターに行く。 流くんとプリクラが撮りたい。 プリクラは昔からの恒例行事。 入店するやいなや、 「もっとキャピキャピした服を着てくれば良かったかも」 と、上着の襟元をつまみながら言ってみる。 わたしながら、わざとらしさ満点である。 無言になる
えーどうもアツマです。 先日、ウチの愛が東京競馬場に招待されたわけですが。 今回は、愛の「談話」という形式で、当日の模様をお伝えしたいと思います。 愛のヤツ、終始嬉しそうに嬉しそうに語っておりました……。 × × × × × × 東京競馬場ってスゴいのね。 建物が現代的で、とても清潔なのよ。 空気もキレイで美味しかったし。 鉄火場のイメージとかけ離れてて、とってもクリーンだったわ。 『東洋一の競馬場』っていうキャッチコピーが昔からあるみたいだけど、東洋一どころじゃなくて『世界一』じゃないのかしら? 気に入っちゃった。 アツマくん、あなたも「パドック」がどんなトコロなのかぐらいは知ってるでしょ? わたしを招待してくれた馬主さんに連れられて、第1レースのパドックに行ったのよ。 土曜日の朝だったから、いちばん前の場所に立って競走馬を見ることができたわ。 サラブレッドを至近距離で見るのは、もちろん
浪人生活を経て、加賀くんが大学に受かった。 彼が報告してきたとき、感極まって、こみ上げてくるモノがあった。 教師になって良かったと思う。 × × × 「スポーツ新聞部」の3年生は3人とも現役合格できた。 まず、日高さん。 彼女はワセダな大学の複数の学部に合格した。 12月に入ったあたりから偏差値がどんどん伸びたという彼女。その前からワセダは有望だったんだけど、12月以降の模擬試験では複数の学部でA判定になることもあったという。 12月を境に偏差値が伸びていったコトの理由を、わたしは推し測ることができる。 だけど、彼女にとってプライベートでデリケートな◯◯、が絡んでくるから、オブラートに包んでおく。 合格報告をしてきてくれたとき、 『どの学部に進むの?』 と訊いてみたら、 『カルチャーを構想する学部に』 と答えてくれた。 さらに、そのとき、 『椛島先生。あたし、つらくなるコトがあったら、先生
「プチ帰省」ということで、昨日からお邸(やしき)に来ている。 朝食後。わたしはアツマくんの部屋の前に立っていた。 軽く深呼吸して、ココロを整えて、ノック無しで部屋に入っていく。 「二度寝せずにちゃーんと起きてたわね。偉いわ」 「偉いか?」 「偉いわよ。」 『できるだけ優しくしたい』というキモチを籠めて、彼をジックリと眺めていく。 ベッドに座るアツマくんが照れ気味になる。 「なんか、ホメられると、戸惑っちまうんだよな」 優しさを籠めた声で、 「戸惑わなくたっていいじゃないの」 とわたし。 「たまにはツンデレを封印したいの」 とも言う。 それから、 「攻撃的じゃないわたしのことも受け容れてよ」 と、さらに付け加えてみる。 「そっか」 と言って、わたしの恋人は苦笑いながらに、 「そんな心がけのおまえも、可愛いよ」 と。 嬉しい。 「ところでアツマくん」 「なんだ? 愛」 「この前わたし、東京競馬
「アツマくん、今日はやや短縮版よ」 「1200文字ぐらいってこと?」 「そうよ」 「土曜日だけでなく金曜日にも短縮版とは。やる気が感じられん」 「『だれの』やる気が感じられないってゆーの」 「……ふんっ。」 「それと、『やや』短縮版なんだから、手抜きし過ぎてるわけでもないのよ?」 「擁護(ようご)、ご苦労さま」 「わたしだれも擁護してないし」 「ウソだぁ」 「そんな顔になんないで!! まったくもう」 「今日は明日のメインレースの話をするわよ」 「おまえ明日東京競馬場行くんだもんな。そのメインレースについて素人なりに講釈したいわけだ」 「『講釈』とか……まったくもう」 「お。『まったくもう』ってまた言った」 「明日の東京競馬のメインレースはダイヤモンドステークス」 「唐突に説明し始めるんだもんな」 「なんと距離は3400メートル。伝統の長距離のハンデ戦」 「G3だっけ」 「G3よ」 「日曜の
「CM研」のサークル室でCM雑誌を読んでいたら、 「羽田くん、ちょっといいか」 眼の前に現れたのは荘口節子(そうぐち せつこ)さん。 やっと「羽田くん」と呼んでくれたのが嬉しくて、 「ありがとうございます。羽田『新入生』と呼ぶのをやめてくれて」 荘口さんはなぜか若干恥ずかしそうになって、 「もうそろそろ……きみも、2年生だし」 彼女が後ろ手になにか持っていることに気付いたぼく。 ひょっとして。 「義理チョコを渡しに来たんですかー? 荘口さん」 彼女はギクッとなって、 「ま、ま、ま、まーな」 という声を発し、恐る恐るといった感じで、包装紙に包まれた義理チョコを見せてくる。 × × × まだ包装は解いていないけど、明らかに中身は、市販のミルクチョコレートだ。 『もらえるだけ、ありがたい……』 包装紙に包まれたままのチョコをしみじみと見ていたら、横からドアが開く音。 荘口さんと入れ替わるように吉
明日はどんな日か? だれでも知っている。 バレンタインデーだ。 というわけで、1日中チョコ作りをしていて、くたびれた。 今はリビングでダラダラしている。 テレビは点(つ)けていない。 夕方のテレビのニュースを真剣に視(み)る余裕なんてあるはずない。 テーブルに置いたスマートフォンを手に取り、 『音楽を聴こうかな』 と思う。 だけどあいにく、ワイヤレスイヤホンは自分の部屋に置いたままだった。 部屋に取りに行かなくちゃ。 だけど、くたびれた腰が重くて、なかなか立ち上がれない……。 グズグズしていたら、利比古くんがリビングに出現した。 「あっ。野生の利比古くんが……現れた」 「なんですかそれ。ポケットモンスター構文ですか」 真向かいのソファに腰を下ろしつつツッコミを入れる利比古くん。 彼に、 「くたびれてるの。くたびれてるから、ポケットモンスター構文になったの。わたしの苦し紛れ」 「くたびれてる
「利比古。せっかくの連休なんだし、あんたにお料理を教えてあげたいわ」 「どんな料理を教えるつもりなの? お姉ちゃんは」 「当ててみなさい」 「え。ノーヒントで? そんなムチャな」 利比古の姉たる愛は少し機嫌を損ねて、 「悪かったわねえノーヒントで」 と不満をこぼし、 「わたしはね、スープの作りかたを教えたいの」 「お姉ちゃん、スープなんて無数にあるでしょ。具体的なスープの名前を言ってよ」 「んー」 先程の不機嫌さが嘘のように楽しげな顔になって、いろいろと面倒くさい利比古の姉ちゃんは、 「具体的には考えてなかった。この場で決めてもいいかしら?」 × × × 「なんで昼間っからグッタリなの? 利比古くん」 「あすかさん」 愛と入れ替わりにやって来たあすかは、愛と同じく利比古の真向かいのソファに座っている。 利比古はやや目線を上げつつ、 「姉に振り回されてしまったので……」 「それは是非とも詳し
「アツマくん、今日は短縮版よ」 「ふうん。何文字程度?」 「900」 「げっ。900字って、なんか中途半端」 「そう?」 「800と1000の間(あいだ)で」 「200の倍数でないとシックリ来ない感じなのね」 「ごめんな、愛。どうでもいいトコロで面倒くさくって」 「……やけに素直ね」 「しょっちゅうおまえを怒らせちゃってるからさ」 「反省の気持ちで?」 「そーゆーことだ」 「……」 「どーした。無言になるなや。おれがおまえの頭に右手を乗っけてるからって」 × × × 「えーっと、わたしたちの横浜DeNAベイスターズも、めでたくキャンプインしたわけで」 「動揺から立ち直るのに必死って感じだな、愛よ」 「あなたのせいでしょっ」 「えへへ」 「わたし、『えへへ』って言われるのが、いちばんムカつく!!」 「疑問があるんですがね、愛さん」 「はい!?」 「横浜DeNAベイスターズはセントラル・リーグ
愛とアツマさんがふたり暮らししているマンションに来た。 ダイニングテーブル。例によって、愛はブラックのホットコーヒーを味わっている。わたしはホットレモンティー。 「アツマさんが帰ってくるのは18時以降なのよね」 「待ち遠しいの? 侑(ゆう)」 「待ち遠しいわよ」 「慕ってるのね。リスペクト具合がちょっと謎だけど」 苦笑いの愛に、 「世界でいちばんアツマさんの帰宅が待ち遠しいのは、あなたでしょう? 愛」 と言って、突っつく。 「……」と愛は頬(ほほ)を染め、コホン、と咳払い。 「侑」 まだ照れの残る顔で愛は、 「サークルのことについて話しましょうよ」 「無理やり話題を変えたわね」 「『無理やり』じゃないっ」 「はいはい」 『漫研ときどきソフトボールの会』。『ソフトボール』のほうに焦点を合わせて、春からの活動について意見を交わす。 男子を鍛えたい。 「同学年だと、脇本くんが鍛え甲斐ありそうだわ
返してほしい本があったので、兄貴に会いに行く。 『PADDLE(パドル)』編集室を出て、学生会館の出口へ突き進む。 しかしその途中で、浅野小夜子(あさの さよこ)につかまってしまったのだ。 「結崎(ゆいざき)、どこ行くの?」 「キャンパスに」 「キャンパスの、どこよ」 「入口付近」 「だれかと待ち合わせなの? もしかして、一眞(いっしん)さんと?」 「なぜおのれはそんなに勘が鋭いんだ」 「じゃあ、わたしもついて行くわ」 「は!?」 浅野はもう歩き出している。 頬(ほほ)が淡く染まっているのがチラリと見えた。 × × × 兄貴に会いたくて仕方無いらしい。 化石のような表現を使うならば、浅野は兄貴に『ホの字』であるということなのだろう。 最近の一連のやり取りからして、浅野の兄貴に対する好意は疑いようもない。 たまに兄貴と会えるのが楽しくて仕方無い。兄貴と会う機会を逃したくない。 ただ……。 キ
玄関で東本梢(ひがしもと こずえ)さんを出迎える。 「こんにちは梢さん」 「アツマ君、こんにちは……」 あれっ。 なんだか違和感があるぞ。 梢さんの声に、若干の震えが……? もしや。 「梢さん」 下向き加減の彼女に、 「緊張してるんですか」 と言う。 びくり、としたようなリアクションを見せる梢さん。 それから彼女は、 「緊張しないわけ……ないし」 と言ってくる。 たしかに、そんなシチュエーションにならざるを得なくなってくるのは明らか。だから、彼女の緊張感も理解できる。 しかし、緊張感と同時に、なにやら『恐怖心』みたいなものを彼女が抱いている気がして、そこが心配だ。 「梢さん。おれの母さんは、べつに怖くなんかないんで」 そう言ったら、視線を上昇させて、無言でおれの顔にピントを合わせてきた。 「だから落ち着いてください」 しばらくおれの顔を凝視したあとで、彼女は、 「信じていいのね」 おれは、
東本梢(ひがしもと こずえ)さん。 アツマくんを介して知り合った、20代後半の女子大学生。 なぜ20代後半で女子大学生であるのか。 それは……人生いろいろ、ってこと。 いろいろな『ルート』があるってこと。 さてさて。 わたくし羽田愛は、梢さんをマンションへと招いているのである。 アツマくんはもちろん出勤中なので、梢さんと2人きりな平日の午前10時台だ。 わたしは2人ぶんのコーヒーをダイニングテーブルに置く。梢さんは椅子に着席する。 わたし側の卓上に置かれていた本に梢さんが注目して、 「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。……訳せば、『ライ麦畑でつかまえて』だよね」 「読んだことあるんですか!? わたしは、村上春樹が訳した、この『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が好きで――」 「ううん。読んでない」 控えめに首を振る梢さんは、 「ゴメンね。愛ちゃんの期待に応えられなくて」 ……あれっ? 梢さんの
レポートを提出し終わったので、後期も終了!! やった~~。 学生会館へと入っていき、エレベーターで5階まで上がり、わたしのサークルの部屋に行く。 扉を開けたら、 「脇本くんだ」 同学年の脇本くんだけが在室だったのである。 「やあ羽田さん。あいにくの雨だね」 きちんと今日の天気のことに触れて、日常会話をしてくれる脇本くん。 偉いわ。 天気のことなんか少しも話す気が無い男の子が少なくない中で。 具体的にどこのだれが天気のことに無関心なのかは、プライバシーを尊重して明かさないことにするけど。 「そうね雨ね。いつまで降り続くのかしらね」 「小雨で良かったよね」 「そうよ小雨でなによりよ。せっかくの新品の上着が濡れちゃったら台無しだもの」 そう言いながらサークル室の奥のほうへ歩き、幹事長職にある人間が座ることになっている席へとつく。 背後には窓。小雨の柔らかな音。 脇本くんは週刊少年チャンピオンのバ
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