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トランプが当選して、ようやく四年間の苦しみが終わるわけだが、あらためて思うのは、LGBTとは高学歴だけが理解できるものだということである。高学歴でなおかつエスタブリッシュメントであると、LGBTが理解できる。これは不思議なことである。あくまで性の問題であるし、動物的な本能であるから、学歴と無関係のはずだが、実際は、高学歴、なおかつエスタブリッシュメントだけがLGBTを理解している。理解の仕方が観念的ということであろうし、カマラ・ハリス的な疚しい人間の世界観である。自分がアッパークラスにいるという認識が土台にある。高級マンションに住んでいるセレブも、彼らなりのギルティコンシャスがあり、その罪悪感がLGBTに向かっている。災害のような世界で、自分たちだけ悠々自適という疚しさがあり、それへの免罪符である。LGBTを支援することで、世界からカーストを取り払い、全体を調和させたかのような錯覚をしてい
石丸伸二を巡るヒステリーの本質は、人間の知的コンプレックスである。ここでは、石丸伸二が本当に頭脳明晰か、ということは深く問わない。むしろたいして優秀でもあるまいが、なぜか知的コンプレックスを刺激されている人が多いのである。勉強ができると異性にモテるかというと、それはないし、容姿や運動能力に比べると、知性は独特な立ち位置である。野性から知性へと社会化されていくのが人間だとすれば、後半生になって文明化してから欲しいと思うのかもしれないが、人生の前半においては知性などなくても構わない。人間が20歳で死ぬなら知性はなくて差し支えない。いわゆる教育ママも、要するに人生の後半だから偏差値とかに憧れるのであり、若い頃はガリ勉男子など嫌いだったに違いない。この文明社会において、あとから知性が欲しくなる人間の醜さが、石丸への憎しみとなっているのである。宮根誠司が「自分は頭が悪いので」と石丸に言っていたのは、
気性が激しい女子がいる。不真面目な男子とは違って、病的な真面目さを感じる。スポーツで女子を指導すると宗教っぽくなるのは「こうやってみてはどうか」と妥当なことを言っても頑なに拒絶されるからである。教祖と信者という宗教的関係でなければ従わない。チャラチャラした男子部員とはまったく話が違うのだ。絶対に言うことを聞くものか!という意固地さが女子にはある。合理的な指導者は退場するしかないし、宗教的な指導者しか残らない。洗脳するしかないのである。男が「この人の言うことなら聞く」というのは義理堅さだが、女がそれだと、なにかしら狐憑きのような激しさである。男の忠誠心は盲目的ではなく、どこかしら政治的立ち回りというか、派閥のバランスまで目配りした行動だが、女はただ一直線で盲目である。だから女を指導するとしたら「手なづける」しかないのである。女は劣った生き物であるからこそ、強いオスだけに従うという動物的本能が
昭和の頃は「日本人は海外に行くと集団で群れる」と揶揄されたわけである。宅間守による不審者ブームあたりから、われわれは同じ日本人を疑うようになり、見知らぬ人は危険、知り合いでも危険、だから知り合わないし、近所に誰が住んでいるのか知らない、という具合になった。かつては近所全員が顔見知りで、専業主婦があちこち聴き込みをして密度の高い地域社会を作っていたのだが、宅間守以降は、ただひたすら他人を敬遠しているのである。だから、クルド人とかブラジル人とかインド人とか、海外からやってくる輩のほうが、まるで昔日の日本人を思い起こさせるかのような集団行動をしている。多くの日本人はあまりにもひとりぼっちな世界を生きている。嘆くことではなく、たぶんわれわれ日本人が望んだ都会の生活なのだろうが、日本にやってくる外国人の団結力に面食らってしまうところはある。彼らは日本人が忌避した田舎の人間関係をやっているわけだが、こ
なぜかわれわれは嫉妬していると言われるのが嫌らしく、それは避けるようである。他人に嫉妬しないというのではなく、疑われるのが嫌であるらしい。本当に嫉妬しているなら恥も外聞もなく凶相を剥き出しにするが、濡れ衣を着せられると嫌なので、嫉妬という穢れを忌むのである。われわれが河野太郎に遠慮しているのも、なぜか人気者らしきオーラがあり、このひとに文句をつけると嫉妬していると言われそう、という内面相互監視の力学が働いているのである。このところわたしは社会保険料について腸が煮えくり返っており、なにかきちんと使われているならいいが、マイナ保険証の件で無駄な出費を生み出している河野太郎許すまじ、という怒りが強くなっている。で、河野太郎の力の源は、インターネットで人気者ということなのだが、果たして本当にそうなのか疑わしい。まあいい。もしかすると河野太郎への個人崇拝が極東の島国を覆い尽くしているのかもしれないが
山川穂高は以前から今一つ好きではなかった。陽気な人物であり、いい人というオーラはあるのだが、むしろ、そこに空々しい違和感があった。わたしは沖縄の人と関わって嫌な思いをしたことがあるので、おそらく似たような虚無を山川穂高に感じたのだと思う。沖縄が大好きで移住する人たちも、失敗して戻ってくることが多いようだ。フレンドリーに見えて、根っこの部分では断絶がある。琉球処分で日本に組み込まれたのは1879年である。国民国家という統一的な概念も近代的なものだし、この頃の田舎はどれも独特な風土や因習があろうし、日本の田舎と沖縄でたいして違いがあったとは思わないが、太平洋戦争に負けてから1972年まで占領されて返還されなかったのが大きく、どうも日本語がネイティブに浸透してないというか、文化的断絶は間違いなくある。人間知性の最高峰は数学だとしても、やはり読み書きが基礎として大事である。本土復帰してから50年経
https://news.yahoo.co.jp/articles/61987dc311bca8d4b9ce3a8128bc47ba608472da 日テレNEWS 29日、埼玉県熊谷市で、胴体に矢のようなものが刺さった猫が見つかりました。 警察によりますと、29日、埼玉県熊谷市の住宅で、70代の女性から「野良猫の体に矢が刺さっている」と通報がありました。通報した女性によりますと、猫は胴体に10センチほどの矢のようなものが刺さっていましたが、保護しようとしたところ、そのまま逃げたということです。 猫が見つかった家の住人「なんか体についてるよって。それでよく見たら矢が刺さってた」 女性はこの猫に定期的に庭でエサをあげていたということですが、29日、庭にきた際に矢のようなものが刺さっていたということです。 警察は、猫の捜索を続けるとともに、動物愛護法違反の疑いで詳しく調べています。 野良猫への
われわれは社会改善への意思を持っている。高潔な動機というのではなく、自分の都合としても、世の中が良くなってくれたほうがありがたいからである。では社会改善への意思が人類普遍のものかというと難しく、ロシア人にはなさそうだし、中東の国家でもあまりありそうにない。独裁的な政治を受け入れる国民性の問題もあるだろう。民主的な国家では、支配者と人民が阿吽の呼吸というか、支配者側も批判を甘んじて受けるようなところがあるが、独裁者はそうではないし、批判されれば粛清して終わりである。ロシア人の冷血さの原因はよくわからないが、なぜか共存共栄という発想が弱いようだ。DNAがそうなのか、ロシアという広すぎる大地がそうさせるのか、そこは不明である。プーチン個人が独裁気質だというのもあろうが、それを受け入れてしまうロシア人の性質の問題でもありそうだ。利他的な行動で社会を改善し、それがいずれは巡ってきて自分のためにもなる
人類に付き物の衣食住の貧困は、安っぽいユニクロやそれなりの食事や、安い住まいで確保されたように見えるが、やはり高い服や、美味しい食事やタワーマンションへの憧れはあろうし、紙屑と塵芥が有象無象として虚空を舞っているからこそ、存在の輪郭を現し格差を識別する位階秩序として高学歴を求め、それが新たな貧困の温床となっている。行き倒れて餓死することはない世の中だが、教育の貧困があるらしい。学びたいという欲は、食欲や性欲のような根源的な欲求ではなく、学歴を渇望する煩悩であるが、「卒業させてもらっている」のが教育の実態である。高卒の人は、だいたい高校を卒業させてもらっている。高校で高校の勉学など全うしておらず、むしろ退学処分が似つかわしいのに卒業させてもらっている。高卒の学力は中学レベルである。さて、それでは大卒の実態は高卒なのか、というと、そういう側面もあるだろう。本当に大学の学問を深く理解するのは難し
なぜ歴史が終わったのかというと、医学の発展で人間が死ななくなったからである。何百年も前だと、個人個人の寿命は予測不能であった。大病すればあっさりと30代や40代で死んでしまう。疫病や飢饉もある。たとえば遣唐使は、三分の一くらいは沈没して死んでいるはずだが、それでも空海は遣唐使の船に当然のごとく乗った。なぜ沈没リスクがあっても船に乗るのかといえば、後生大事に自らの命を守っても、なにか別の理由で死んでしまうのが大きいと思う。自分の命でギャンブルをする合理性があった。あるいは他人があっさりと病死して、世界の局面が大きく変化したりする。病死と事故死にさしたる径庭もなく、命は軽かった。翻って、われわれ俗人がのうのうと暮らしている現代社会は、生命に関するアクシデントがとても少ないので、たとえば50歳なら、あと30年は生きると予想できてしまう。人生80年の保証書が付いて生まれてくるようなものである。お互
木村花さんの死は、人間が生きていく苦悩という実存的な課題から遠く離れており、物事の真実ではなく、法的に勝てるかどうかの話になっている。厳罰化を主張しておけば安全という人々の無責任さと相俟って、反知性主義が猖獗を極めている。知性ある人間は刑罰について吝嗇でなければならない。あまりにも阿呆が多いので仕方ないのだろうが、茫漠たる世情である。木村花さんが死んだのは、コロナでプロレス興行が中止に追い込まれたからであるが、これだと誰にも責任を問えない。であるから、誹謗中傷のせいで死んだとしたいのである。これで木村花さんの御遺族が儲かるわけではないと思うし、世論を動かすこと自体に酔ってるのかもしれないが、他罰的思考の見苦しさである。コロナは天災だから罪を問えないので、どうしても人災に話を擦り替えなくてはならないらしい。人生が苦しくて死んでしまいたいという実存的苦悩が等閑に附され、見当違いの勝利を目指した
厚生労働省のサイトの統計を見ると、やはり最近は共働きが増えている。「こんな高い価格のマンションを誰が買うのだろう」と疑問に思うことがあるが、共働き夫婦で合算すれば意外と買えるのかもしれない。こうやって専業主婦の割合が低下しているからには、男性から見て社会人女性がさぞかし魅力的なのかというと、そこはわたしにはわからない。古い価値観で言うなら、社会人女性は男性的であり、専業主婦は純粋な女性である。女が学歴をつけると、女としての魅力が下がる。学歴や社会的地位が高い女性にはチンコが付いているイメージである。あるいは一応は社会人でも、古めかしい言い方で言えば腰掛けOLとして寿退社するような女性はいい匂いがする。重役まで行くとなると女として片輪である。こういう古臭い価値観が変わりつつあるからこそ、専業主婦がどんどん減っているのだろう。社会人女性が本当に魅力的に見えているのか、それとも、共働きで合算しな
人権団体に謝罪して済まされることはない。なぜなら彼らは「これさえなければ(これさえあれば)」という思い込みに固執しているからである。たとえば手足がない人がいるとして、「手足さえあれば」と思うのは無理もないが、しかし、世の中の五体満足な人がそれほど満ち足りているかどうかは謎である。手足がない人に手足が生えたところで解決しない問題はいくらでもある。つまり、人生の苦悩の原因をたったひとつに求めるという誤謬である。人権活動するひとは「これさえなければ(これさえあれば)」という論法で動いているから、その執着は並大抵ではないし、世の中のいろんな悩みへの想像力に欠けている。いや、想像力を持てば解決するわけでもないし、自分の眼前に立ちはだかる関門が苦悩の原因のすべてだと思いこむのは仕方あるまいが、おそらくその関門が無くても、別の関門が立ち現れたはずなのである。たとえば最近わたしが目にした中で莫迦莫迦しいと
自らの肌が黒いという理由でバイデンに投票した人間は、自らが白人だという理由でトランプに投票した人間となんら径庭がない。あるいは、リベラルの圧力に媚びてバイデンに投票した白人も、やはり逆差別に組みしただけであるし大差がない。もはや人種問題は税金の分配だと言って差し支えないし、どうやって綺麗事で金を引っ張れるかどうかである。マジョリティーの税金がマイノリティーに流れる、というのは、所得税もそうだし、法人の広告宣伝費もそうである。広告宣伝費は経費として落とせるから(つまり税金の節約なので)よくわからないスポンサー料が流れる。白人の著名人がバイデンを支持するとしても、やはりそれは金目当てであるし、スポンサー料がでかいわけである。なにかしらリベラルな理由がないとスポンサーにならないという構図が作られている。もはや広告宣伝費の損金算入に制限を加えないとまずい。損金に算入されないのであれば、企業も金を出
https://twitter.com/lp_announce/status/1126201366118932480 これはわたしも以前から気になっていたのだが、有村悠さんは自撮りで決して歯を見せない。精神だけでなく口腔も魔窟のごとく蝕まれていることは容易に察せられたが、恫喝されても怖いので指摘は控えていた。学生時代の鬱がどうこう言っているが、東大入学まで健康優良児だったとは思えないし、欠損家庭は歯も欠損しているという法則通りなのであろう。エリート東大生のキラキラした歯列とは対極的なのである。九州の田舎者の歯がボロボロというとシンナー疑惑も持たれるところだが、典型的な教育ママとガリ勉というか、刻苦勉励して東大合格という経歴からして、それは考えづらい。やはり母子家庭は母子家庭であり、父という頭部がもげた状態で、壊死を待つまでの断末魔として蠢いている。東大に入学すれば薔薇色になると思っていたの
人手不足だと言われるが、消費者が自ら選ぶ時代に対応できてないのだろうと思われる。消費者の求めに従って機械的に対応するのが「単純労働者」として括られて低賃金だからこそ、人手不足ということになる。消費者が自らの判断で選ぶとなると店員は機械的で低賃金だが、押し売りは商品知識が必要で賃金が高いという妙な話である。この無駄な商品知識を取り除かなければならない。変な話ではあるが、商品知識のない店員のほうが(押し売りしてこないから)消費者には望ましいのである。 では、望まれてない職業がなぜあるのかというと、まず旧態然とした法律に守られているからだし、利益構造が成功報酬型だからである。あちこちで疎まれて三振だらけでも、時たまホームランを打てばいいわけである。消費者からすると被弾と言ったほうがいいのかもしれないが、ともかく成功報酬型の職業というのは、昔なら必要悪とも言えたが、ネット時代ではかなり迷惑な存在で
自然な人の流れに抗って、ルール通りにやるのは思想犯罪者である。多くの人は、人とすれ違う時は自分の右側を空けようとしており、これは利き手の方を空けようという本能であろうが、左利きの人間だっているのだし、右利きだってその習性が強く根を張るわけではあるまい。あくまで人の流れを見た上での臨機応変である。この間も新宿駅の階段で、(普段は左側を歩く習性があるからわたしも違和感はあったのだが)進行方向の矢印がなかったので、上から降りてくる人が多いから臨機応変に手すりの右側の狭いところを登ったのである。登ったところに改札口があるのだが、朝のラッシュのときなら満員電車から一気に吐き出された雲霞の如き人の群れが改札口を通過するべく階段を埋め尽くすはずである。ラッシュでないと、改札口から降りてくる人間の方が多いこともあろう。ともかくラッシュの時間帯ではなかったので、改札口から降りてくる人の方がマジョリティとして
東浩紀のゲンロンカフェがゴタゴタしているらしく愚痴ツイートを繰り返している。御本人が仔細まで述べてないから、言葉を濁している部分は想像で補うしかないが、社員に「裏切られた」らしい。横領ではないそうだが、何かしら経理面で杜撰なことがあったと思われる。そこそこ人望のある社員だったが、裏の顔があったらしい、とかわたしもよくわからんが、ともかく、このところ東浩紀は尻拭いのため経理のお勉強に忙殺されているそうだ。ゲンロンは閉鎖しないそうだが、ひとまず規模の縮小というか、今まで社員が九人だったのが四人に減るそうだ。東浩紀は筑駒で二番だか五番だかの成績だったのが御自慢であり、秀才ではあるのだろうが、ソーカル事件(ジャック・ラカンの高等数学の知識が出鱈目だと理数系の大学教授に晒し上げられた事件)の影響で、フランス現代思想の知識がむだになってしまった。東浩紀は天才でも何でもないから、その学識に疑義が呈された
われわれは後半生になるともっと勉強しておけばよかったと悔いたりするが、前半生にガリ勉しすぎて有村悠さんのようになっても困る。健全な人間になるためには青春を謳歌しなければならない。有村悠さんのようなガリ勉は、老人のような少年時代を過ごし、老人のような青年期を過ごし、そして子どものような初老の男性になっていく。これも人間性のひとつであり、誰もが周辺世界に適応してスイスイと泳いでいるわけではない。有村悠さんは東大受験のために九州の山奥で地獄のようなガリ勉をした過去があり、いわば西方浄土を想見した修験者だったから、生まれついてのドクズではないので、挫折したビルドゥングスロマンの典型とも言えるし、インチキな人間であるにもかかわらず、青春の葛藤で自壊した様子が何かしら生々しい抜け殻として文学性を持っている。東大合格後も歴史年表片手にガリ勉していればよかったのだろうが、青春という悪魔に取り憑かれて背伸び
https://twitter.com/lp_announce/status/1045542798450077697 個人差はあるが、人間は愚痴を言うわけである。愚痴というのは本音/嘘という対立軸では捉えられない。愚痴はあくまで「現実への不満」であり、現実が嫌になったときの憂いである。たとえば現実的に分相応な結婚をしていても「こんな相手と結婚しなければよかった」と言ったりするわけである。そういう愚痴にマジレスされて困惑することもあるだろうし、あるいは、愚痴がエスカレートして本当に離婚することもあるだろう。つまり、人間は最高の理想を実現しながら生きているわけではないので、いわばレトリックとして「京都大学に行きたかった」という表現が生じるのである。理数系だと京都大学は優秀だけれども、文系で超エリートコースを志願している人は東大に行くわけで、エリート東大生を忌避する意味では京大の方が有村さんにフ
https://twitter.com/lp_announce/status/1041486626038267904 どのような失敗も何らかの勉強になるものだが、学習能力がなかったり、失敗そのもののダメージが大きすぎるということがある。有村悠さんについては、学習能力もないであろうし、東大を退学になって高卒というダメージが大きすぎるし、この按分はなんとも言えないが、ともかく頭が悪い。ゲーム音痴もまったく改善されないらしく、艦これでうまくいかないので、攻撃衝動が高まっているらしい。自らの顔面を殴打し、街を徘徊しながら、コンビニのガラスを壊したいとか、自動販売機に頭を打ち付けたいとかツイートしている。この有村悠さんだが、最近鹿島田からどこかに引っ越したわけである。「肉のハナマサ」があるのと、横浜市に隣接しているのがヒントである。これに当てはまるのは、川崎市と横浜市の境目にある矢向か、東京都町田市
「わたしを信用出来ないですか」と言ってくる人に時たま出くわす。 なぜか異常者ではなく、正常人なのである。 つい最近だと、ほとんど初対面の営業マンの人から「わたしを信用出来ないのであれば」と言われたり、はじめての歯医者でインプラントを薦められて「わたしを信用できませんか」と言われたりとか、要するに押しが強い営業の手法なのである。 イエス・ノーで答えるとすれば「信用できません」と答えるしかないが、面と向かってそんなことは言えないので、「信用できる」と答えてしまうお人好しだっているわけである。 もちろん1か0かで答えられる話ではないから、こんな阿呆な問いかけに答える必要はないし、相手もキチガイではないから、こちらの沈黙で理解するであろうし、「初対面の人からそんなことを言われても判断できません」と明確な言葉で説明する必要もあるまい。 つまるところ、たぶん他人を信用しないのは嫌な人間という前提があり
被害者や敗北者にこそ権利ありという観点からすると、何かしら被害を受けたらその時点から債権者なのである。たくさん被害を受けると億万長者とさえ言えるのだが、もちろんそんなことはなく踏み倒されて終わりである。だから通常であれば当たり屋になる競争にはならないのだが、時たま被害者として名乗りを上げる争いの戦端が開かれることもある。杉田水脈のLGBTの話はくだらないだろうからそもそも読んでないわけだが、これを扱った新聞記事で「ナチスと同じ」と書いてあったりすると辟易する。「ナチスと同じ」というのは慣用句というか、白髪三千丈のようなレトリックとして理解するべきかもしれないが、どれだけ差別されたかを競い合う弱者の論理なのである。非モテで結婚できないのは「ナチスと同じ」なのかというと違うであろうし、結婚できる人の結婚を妨害するとナチス的だとされる。LGBTカップルは人権問題となるが、結婚できない非モテは人権
このあいだ読売新聞を見ていたら、四十代男性が結婚できないというテンプレ記事があった。エア取材なのか、アリバイ的に取材したのか知らないが手取り10万円かそこらで粗末な一汁一菜がやっとであり、スーパーで惣菜に半額シールが貼られてから買うのが日常だが、それでも生涯の伴侶を求めていて、結婚相談所で断られたり、婚活で失敗しているのである。この手のルポルタージュは作文だと考えて差し支えあるまいし、また、特定の人物や事件ならともかく、一般人の誰かを取材して社会を語るという形式そのものに無理があるように思う。マスメディアの病理と結論づけてもいいのだが、根本的にわれわれは一般人を均一化させるしかないのであり、「フランス人はこんなことを考えている」とか「ドイツ人はこんなことを考えている」という雑駁たる世界認識である。そもそも個々人の考えが主役なのかどうかは不明であるし、間接民主制こそが人間社会の本質であり、イ
https://twitter.com/lp_announce/status/1001456491235233793 以前から告知されていたが、有村悠さんが鹿島田を離れる日程が決まったそうである。 100歳を過ぎていた祖母が亡くなったので年金が途絶えたのが原因だとわたしは勝手に想像しているが確たる証拠はない。 ともかく何らかの理由で引っ越されるのである。 相変わらずママンと同居を続けることについては、同人誌の収入がお小遣いという貴族生活を維持したい甘えであろうし、まったくの無収入ではないから一人暮らしは可能という批判もあるだろうし、6月11日のお誕生日で39歳になることを踏まえると人倫に悖るケダモノという御意見もあると思われるが、若いならまだしも39歳だからこそどうにもならないのが現実である。 だいたいママンと離れたからどうなるわけでもない。 物理的な距離の近さと、存在としてのアクセスの距
https://twitter.com/lp_announce/status/993895869459062784 わたしはもちろん内情について知るわけではないが、ごく普通の想像として、100歳過ぎまで生きていた母方の祖母の年金が有村家の収入源だったと思う。 (有村悠さんの本名は坂口拓二だが、なぜか本名を憎悪しているらしいので、これからも有村家と呼ぶことにする)。 わたしは有村悠さんの祖母の年金についてまったく知らないし、傍証すらないのだが、さしたる収入源も見当たらないし、やはり祖母が100歳過ぎまで生きていて、充分な金額の年金を貰っていて、それが有村家の生活を支えていたと想像するのが妥当であろう。 相続税は少し前だと四%の人しか払っておらず、法改正で基礎控除が減額されてからもたぶん六%くらいである。 法定相続人が有村さんのママンだけだったとしても、3600万円は基礎控除があるから、おそら
昭和というのは時代そのものが戦争であり、あれに比べたら最近の若者のマナーのよさに驚くのだが、これが親子連れとなると、だいたい父親の態度が悪い。先程もスターバックスに行ったらわたしより少し前に親子連れが入って、父親と娘という組み合わせだったが、スターバックスの構造としてよくあることで、列に並ばずにショーケースに並んだケーキを見たりしていたわけである。わたしは真っ直ぐレジに並んだのだが、しばらくして親子連れが私より前に注文する気満々でやってきたのでわたしは譲ったのである。それだけであり、ここでどちらに優先権があるのか目を三角にして論じる話でもなかろうが、最近の若者だったら(店内に先に入ったとはいえレジに並ばずにあちこち見ていたので)遠慮するというか、このところこういう体験を繰り返している。礼儀正しい若者から気を遣われてこちらが恐縮することはたくさんあるのだが、なぜか父親が子どもを連れていると図
われわれの世の中は侮辱を畏れることで成り立っている。侮辱されないように、いろいろ気を付けたり、空威張りしたり、他人を避けたりするのである。これが家族内の関係となると罵詈雑言の応酬となることもある。 われわれには知られたくない秘密というものがあるが、ミウチではそれが曝け出されている。人間最後のタブーというべき事情が筒抜けだったりするから、悪い意味で居直った空間が生じるし、世間には知られてない恥部を抉り合うのが普通となる。 家族、もしくは、それに近いくらいのミウチ感があると、どうしても普段は怖がっている「心ない言葉」を投げつけ合い、もはや恐怖もクソもない乱闘となる。 いわゆるDVというか家庭内暴力で家族を半殺しにする人がいるのは、つまり、侮辱を恐れない関係だから、ズタズタになるところまで行くしかないのである。 他者性への恐怖がない関係で恐怖を持たせるにはかなり暴力的にならねばならない。 この背
二十世紀的な神経症の典型事例として対人恐怖症というものがあった。日本人に顕著だという指摘も多々あったが、文化的差異については筆を省く。総じて言うなら人類はオカルトを信じて生きてきたのであり、神経症はまさにそのメンタリティなのだが、ノストラダムスはいなくなったし、UFOやネッシーや雪男が見えてしまう霊感もわれわれは失った。対人恐怖症というのは、おそらく呪詛という迷信が根底にあり、他人の心の中で悪口を言われることへのイミフな怖れ、もしくは心の中で相手を罵ることで復讐したことになる、というオカルト的な発想である。他人に平身低頭しつつ心の中で罵倒したとして有効打になるはずがないのだが、昔の人はそういう精神世界を信じていたのであろう。今日のわれわれはこういう迷信から脱却したであろうし、丑三つ時に藁人形を五寸釘で刺すこともない。われわれは外面世界に実存しているのであるから、他人の内面世界での寓され方を
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