1950年問題 単語

センキュウヒャクゴジュウネンモンダイ

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1950年問題[1]とは、日本共産党で起きた内部分裂であり、共産党にとっての黒歴史である。

概要

戦後日本共産党は合法政党となり、40年代後半は着実に議席を増やし、存在感を高めていた。そんな中で1950年に入り、共産党針に対するソ連からの批判により、共産党にとっての大きな変動期が始まる。

1950年問題は入り組んでおり、Wikipediaでもあっさりと書かれているため、ここでは不破哲三の「日本共産党史を語る」を参考文献として、日本共産党から見た1950年問題について記載していく。

1950年以前

戦後共産党は合法政党となり、当初は左的な政党としては日本社会党が握り、共産党は小規模な政党であった。その後は日本社会党が政権を握ったものの短命政権となり、社会党に失望した左の人達が共産党に流れたため、1949年衆議院選挙では大躍進の35議席となった(その前は4~5議席であった)。

共産党大躍進をよく思っていなかったのが、GHQアメリカ)である。日本が共産化されるという懸念を抱いたのか票田となる労働組合潰しの強化を行うこととなる。特に労組潰しで有名なのが国鉄の人員整理であり、これが因果となったのか国鉄三大ミステリー事件が引き起こされることになり、共産党側の犯行と疑われることになる(下山事件犯人不明。三鷹事件は1人の死刑を除いて全員無罪松川事件は全員無罪となり、共産党側は労組潰しのでっちあげだとしている)

一方で「ある大」も共産党についてらせていた。それはスターリン率いるソ連であった。ソ連戦後東欧を共産化させ、共内戦では中国共産党を援助して勝利させた。この時、中国共産党少奇は労働組合会議にて「アジアの共産化は暴力による革命で成り立つ(要約)」と発言したのである。これに驚いたソ連スターリンに確認したところスターリンは追認したのである。実をいうと本人も会議前まではこの発言をすることにしていたため、スターリンに対して何かしらの説得があったと思われる(要は暴力革命の推進は最初から既定路線であったのである)。そして、スターリンは次のアジアの共産化として狙ったのは日本であった。

1950年

まず、共産党を狙ったのが意外にもGHQであった。GHQは新年のラジオメッセージ共産党を「新しい全体主義」として、批判に挙げたのである。そして、1月7日ソ連ラジオ共産党平和主義革命批判したのである。

ラジオ平和主義革命批判を聞いた共産党の上層部では「批判を受け入れない(いわゆる所感)」が7名(徳田球一、野坂参三など)で「批判を受け入れる(いわゆる)」が2名(宮本顕治、志賀義雄)となり、分裂間近となったが、中国の助言により「批判を受け入れる()」の意見で収まった。

しかし、所感にとってはの意見が認められたことは気に食わない結果であった。そのため、所感は内部でを追い出す内部工作を行い、所感による導部の準備を行っていたのである。

GHQ5月3日共産党に対して改めて批判5月30日に人民広場(皇居前広場)にて共産党による集会を行っていたところ警官と小競り合いが発生し、8名逮捕という事件が発生する(人民広場事件)。この事件に対して、共産党参院選選挙GHQ批判。一応、選挙自体は穏便に収まり、改選前の2議席の確保は出来たものの6月6日GHQによる共産党の幹部の職追放を機に所感共産党乗っ取りを行って成功し、所感暴走が始まるのである。

追放された24名のうち所感の17名は「中央委員会」の事実上の解体と「臨時中央導部」を組織する。「臨時中央導部」は形ながらの組織であり、大半の幹部や党員は地下に潜ることになる(後の北京機関の設立)。更に51年2月には第4回全議会(四全協)を開催し、武装闘争に関するおおまかな方針が決定となった。一方の7名はこの混乱を抑えるために「全国統一委員会」を設立し、混乱の収拾に図ろうとしていた。

も所感暴走状態に対して、ソ連中国に説明しなければならない(なのに武装闘争していない、共産党は分裂してはいけないのに分裂しているなど)という状況であり、田里見という人間を中ソに送り出したのである。しかし、中ソの答えは残酷なものであった。中ソの回答は簡潔にして言うと「所感行動が正しい。は間違っている(つまり、が分なのである)」という見解であり、遂に後ろくなったは51年8月田の自己批判という形で事実上の敗北を認める。9月にはサンフランシスコ条約が締結され、10月には所感による第5回全議会(五全協)が開催される。ここでは51年綱領(後述)を採択。導の全国統一委員会の解散となる。

紆余曲折がありながらも所感による暴力革命を認めた共産党が出来上がったのである。ここで多くの人は「平和革命推進していた所感暴力革命に転向したのかがわからない」という状況になるだろう。ここで所感の一人である野坂参三という人物に注してみよう。元々は平和革命を謳った野阪であるが、結論から言うと野坂は「ソ連スパイなのである。かつてから野坂はソ連の下で示などを受けてきた経緯があり、平和主義革命批判の際には何故か徳田を責めずに一方的に野坂を責めたのである。これはソ連は野坂に対する平和革命の否定と暴力革命の推進という暗号であったことは確かであったのである。ここからスターリンスターリンの意思を感じた野坂率いる所感導の共産党日本国内で暴れまわるのである。なお、ソ連崩壊後に機密文書から野坂は「ソ連スパイ」だとわかる資料が発見され、追放という形で共産党での人生を終えるのである。なお、野坂はソ連スパイだとは認めたが、詳しいことは語らずに死去したため、資料以外での動きは今後であるだろう。

所感派の時代

概要

50年6月6日共産党幹部の追放後から51年10月の第5回全議会の開催という所感事実上の勝利までの間を改めてまとめると

という流れとなる。

国内では

内では「球根栽培法」や「栄養分析表」という闘争するにあたっての南文書が出回り、中核自衛隊山村工作隊を中心としたデモ闘争や警官襲撃事件などが多発していた。

こんな荒々しい活動を行った結果、1952年7月に破壊活動防止法の制定・施行。8月には第25回衆院選では獲得議席0という大敗北となり、武装闘争の事実上の失敗が判明、北京機関内でも責任の押し付け合いとなる。

ちなみに武装闘争時代にほぼ一歓迎されたのは巡回で医師が診療していたことで、医者のいない地域では大歓迎だったとのこと。

ちなみにリーダーであった宮本は51年1月に妻を亡くし、敗北以降は共産党から少し距離を置き、文芸評論家に近い立場で活動していた。そういう状態が終わるのは55年に入ってからのことである。

国外では

スターリンソ連)は次なる共産化対として日本を考えていた。その際にスターリン日本に対して「51年綱領[2]」を作っており、五全協で正式採択されたものである。不破氏の文献で書かれた内容を噛み砕いて説明すると

  1. アメリカ民を苦しんでいる。
  2. 政府アメリカの言いなりだ。だから、現政府の打倒こそが民の開放へのとなる。
  3. 革命闘争(新政府立)の実行の際には問題点や課題点、標を列挙する必要がある。
  4. 革命こそが新政府立へのであり、現行の憲法法律、制度の下で平和革命なんて出来ない。

という理論暴力革命を推し進めたのである(3番の内容は深く考えなくて良いと思う)。この理論を物凄く簡単にいえば「アメリカの言いなりで出来た制度の中で平和革命なんか出来るわけねーだろ、バーカ。暴力革命しろ」というくらいに考えればわかりやすい。ちなみにほとんど同じような理論インド西ドイツブラジル共産党にも示していた。

このようにスターリン本人もなかなかの自信作の理論と思っていたのかはわからないが、肝心の日本での結果は散々であり、スターリンも53年3月に死去。所感玉でもあった徳田も現状について野坂と言い争っていたものの53年10月に死去したため、北京機関ソ連内部でも露な武装闘争では成功できないという潮が徐々に起き始める。54年のソ連、野坂を始めとした北京機関の5名、自己批判して以降モスクワに残っていた田、中国共産党メンバーで次に向けての日本共産党の方針を決めることとなる。決まったこととしては

  1. 暴力革命をやめて方針転換すること。
  2. 51年文書の内容は正しかったが、極左暴力集団的で情勢を見誤ったという形で終わらせたい。
  3. 六全協(第6回全議会)を開催すること。

という内容でひとまず終えて、北京機関の解体と内の再統一に向けていった。

六全協による後の影響

55年1月宮本は野坂の命を受けた志田重男と会談。六全協の開催に関する準備を始め、同年7月に六全協の開催となる。ひとまずと所感の分裂状態は終止符を打ち、武装闘争方針は放棄したものの51年綱領までは放棄しないという形となった(つまり、暴力革命の否定まではならなかった)。更に今までの所感行動について「共産党として行ったものではなく、所感が勝手に行ったものである」という形でひとまず決着を付けることとなった。

もちろん、開催前にはひと着あり、所感は武装闘争についてはソ連中国の意向に沿って「理論は正しかったが、情勢を見誤ってこんな結果になった」という形で終わらせたい状況であった。一方、は「そもそも、四全協、五全協自体正常じゃない協議会なのに六全協の開催はおかしい」という対立状態にはなりかけたもののこれ以上の党の分裂状態を回避したかったこと、所感行動に誤りがあったことを認める表明もあったためもひとまず受け入れる形となった。

一方で一般の党員にとってはこの終わり方は衝撃的であった。武装闘争という状態の中で党員は困惑しながらも闘争に参加し続けたのに実は中央(導部)は乗っ取られた非正規組織であり、誤った方針の中で闘争を続けていたという内容が発表されたため、党員は更なる混乱に陥ったのである。一部の党員(特に学生党員)はこの状況を認めずに党を抜けて、共産党下にあった全学連を乗っ取り批判流の組織となった。また、58年に結成された共産主義者同盟(通称ブント)も六全協によるが大きい[3]

残された課題

六全協で分裂状態は解決されたものの課題は山積みであった。特に一番困った問題として51年綱領の存在である。ソ連中国はまともに総括しないでそのまま流してほしいと日本の代表に間接的に伝えるレベルであったが、共産党の多くの幹部は総括に賛成であり、反対したのは志賀義雄と西沢二のみであった(後に志賀ソ連西沢中国と接触しており、結局両者とも共産党を離れる結果となった)。

まず、六全協の役員と日本共産党第6回大会の役員で日本共産党第7回大会大会準備を行い、51年綱領については第7回大会では役割は終わったという形で止となった(ただし、警察関係者は「敵の出方論」という形で警はしている)。第8回大会では以下のように総括し終えたのである。

一応、こういう形で1950年問題は終わったものの約10年の間にまぐるしく変化していった共産党に対して、元から平和革命を支持していた党員、闘争に積極的に参加した党員、警察関係者、元から暴力革命を支持していた知識人、そして武装闘争に批判的な大多数の民というありとあらゆる方面から不安視、不信感、警感を持たれたのは事実ではある。終息から数十年経った今でも、この問題を引き合いに出して共産党批判する人も多い。

宮本顕治と日本共産党

日本共産党の中で特に荒波に揉まれたのが、宮本顕治である。リーダーであったが、ソ連中国から見放され、党の中では冷遇された存在であった。しかし、宮本は所感が暴れていた間も着実に日本で活動を行い、迷走に陥った共産党を再建する一人となった。

彼はながらも平和主義革命導の共産党の重鎮となった。ある意味宮本にとってはこれまでの歴史トラウマとなったのかもしれない。その後はソ連日本の対立の際にはソ連を追い出し、文化大革命の時には中国ケンカを売ったり、イタリア共産党の変革に当初は歓迎はしていたが防関係で異議を唱え仲違いしたり、北朝鮮とはラングーン事件をきっかけに仲違いするほどであった。

多少荒々しいことはあったもののソ連崩壊後も生き延びることができた一因なのかもしれない。

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脚注

  1. *五十年問題」、「五十年分裂」とも呼ばれているが、ここではWikipediaの名称を採用する
  2. *Wikipediaなどには51年綱領と呼ばれているが、共産党の見解は「不全な状態で五全協を開催し、採択されたものだから綱領ではない」という姿勢を取っており、代わりの名称として「51年文書」としている。
  3. *他にもスターリン批判ハンガリー動乱における共産党の対応に関してもブント結成に大きくしている。
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