2025-11-19

流れよ涙、と男は言った

2089年。

人はもう泣かなくなった。

今では誰もが知っている。

かつての涙は、取り返しのつかない喪失の証だったということを。

だが今は違う。死は消えた。正確に言えば——

死んだ人間記憶は、保存される。

そしてその記憶を引き継いだアンドロイドが、翌日には帰ってくる。

肉体が消えるだけの通過儀礼

それが、この時代の死だ。

 

妻が死んだ。

誰も泣かなかった。

簡易葬式が行われ、終わると人々は気軽な様子で次の予定へ向かった。

翌日、妻は帰ってきた。

呼吸の深さも、まばたきの速さも、

皿を片づけるときの癖までも——

すべて同じだった。

食事をして排泄もする。

抱けばほのかに汗のにおいがする。

体温もある。

何も変わらない。

 

その夜。

返ってきた妻とセックスをした。

肌の柔らかさも、抱かれたときの声も、

冗談を言ったときの返し方さえ、確かに彼女だった。

——そのはずだった。

 

彼女は先に起きて、シャワーを浴びに行った。

私はベッドに仰向けになった。

そして気づいてしまった。

何も変わっていないのに、何かが永遠に戻らない。

その何かの名前を、言葉で見つけることはできなかった。

それを胸の奥で知った瞬間、

私は静かに泣いた。

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