先日の仙台地裁で出た少年事件の
死刑判決について、考えさせられる意見をいくつかご紹介しましょう。いずれも、私もこんな風に書けたらな、とうらやましくなったものばかりです。
まずは、
こちらの記事にいただいたgreenstoneさんのコメントから
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-584.html#comment2300
被告人が判決を受け入れたい、と言ったこと、公判中も反省の色をあまり見せなかった、と言われていることがとても悲しかった。
この人がまだ21歳で、ロクな人生を歩んでこなかったことがよくわかった。
この事件は、少年事件の特徴がよく現れた、典型的な少年事件だと思う。
そして、専門家と普通の人の評価が大きく分かれるのが少年事件だといわれる。
始めて少年事件に当たった人は理解が困難だろう。子供のくせにこんな大それたことをしやがって、と怒るか、或いは、子供なのにこんな残虐のことをする、と感じてショックを受けるだけだろう。その結果、厳しい判決をしたくなる。子供は大人より下の存在だと考えているのだ。
裁判員制度で一番いい思いをしているのは裁判官だろう。刑事事件の判決をメディアが批判することがなくなった。話題になった殺人事件では、必ず被害者に焦点が当てられ、死刑が出なかった日には、裁判官はメディアから厳しい批判を浴びた。
審理に参加していない以上、死刑判決の当否を論ずる資格は私にはない。ある裁判員がインタビューに答えたとおり、仕事をした裁判員が、死刑判決をしたことで下を向く必要はない。
しかし、この裁判員が、年齢に関係なく死刑判決を出すべきだと唱えたことはどうであろうか。
この人は少年事件の何を知っているのだろうか。刑罰についてどれほどのことを学んできたのだろうか。
こういう正義漢タイプの人が増えている気がする。
とりとめがなくなってしまいました。
少年事件ならではの特徴を知らない素人が裁くことの無謀さ
なのに、裁く責任を裁判官が素人に丸投げした形になってしまってはいないか
少年であっても
死刑に処してしまえと叫ぶことが社会正義だと勘違いしている風潮
それに疑問を投げかけるどころか、後押しするかのようなマスコミ
一体この日本社会はどこへ向かって進もうとしているのでしょうか
次のゆうこさんのエントリーは、大人としての良識とはこういうものではないかと感じさせてくれたエントリーです。
◆
空と風と、月と、星。
『少年に死刑判決 大人に責任は?』---18歳投稿者・朝日新聞「声」欄
11月下旬、裁判員裁判では初の少年に対する死刑判決が言い渡された。
裁判員が判決後インタビューを受けていたが、私はこの状況---裁判員が19歳の未成年に死刑が相当である(悩みに悩んだあげくだと思う)と最終的に判断したこと---をどう捉えたらいいのか、頭が混乱して分からずにいた。
死刑を言い渡された少年は現在19歳、犯行当時は18歳。
2人を殺害し、1人に重傷を負わせた。
考えてしまったことは、この少年が19歳ということは、
彼は私が21歳の時に生まれた、ということ。
私の同級生には18歳で子どもを産んだ人もいて、その子どもは現在22歳くらい。
12年前でそこだけ止まっている、時間。
私がお腹の子を亡くした時、死刑を言い渡されたその少年は、7歳くらい。
7歳の男の子ってどんな感じだったかな。
自分が7歳の時は、母は色々大変だったろうけれど、ごく普通の家族で幸せだった。
私と少年の、この12年間を重ね合わせた。
12年間、少年はどこでどうなって、法廷で死刑判決を受けることになったのか。
そんなことを考えてしまった。
彼は、家族から愛されたのか。
「悲惨な家庭でもちゃんと成長して大人になる子どもはいるから、不幸な家庭に育ったからといって犯罪を犯す理由にはならない」、というのはもっともらしい。
だって人を殺してるでしょ。というのももっともらしい。
そう考えれば楽なような気がする。(←裁判員に対して言っているのではない)
けれど、やはり私はそうは考えられない。
11月30日付朝日新聞「声」欄のS.Hさん(高校生・18歳)の投書を全文紹介。
引用ここから。::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
少年に死刑判決 大人に責任は?
「目には目を、歯には歯を」と、ハンムラビ法典にある。自分の犯した過ちに対しては同等の償いがある。人を殺したら死刑は当然。最近の裁判員裁判で、少年に対する初の死刑判決が出た時も、私はそう思った。
しかし、新聞で少年の生い立ちを知った。親からの暴力の暗い過去。愛情を知らないで育ったと思える被告の少年は果たして人に愛情を与える能力があったのだろうか。
犯行時18歳7ヶ月、偶然にも今の私と同じ年齢を生きていた。しかし、恵まれた環境の私には到底理解できない心理状況が、少年にはあったのだろう。少年を闇から救う機会は、周りの大人たちの手の内にあったのではないか。社会の危機を感じずにはいられない。少年1人に罪を負わせ、このような社会状況を作り出した大人たちに責任はないのだろうか。
死刑判決という思い事実の意味を解きほぐすには、まだ私には時間が必要だが、少なくとも、この事例から反省すべきことはある。このような少年を生み出さないために、社会の大人たちも責任を痛感してほしい、しっかりしてほしいということである。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::引用終わり。
この投稿者の18歳高校生に「まだまだ子どもだから何も分かっていない」というのは簡単だ。
けれど、私はこの投稿者に「その年齢だからこそ」の真っ直ぐさを感じた。
「少年 死刑判決 生い立ち」で検索していて、気になる記事を見つけた。
この少年に対し、「脳鑑定」をする必要があるのではないか、という脳科学者のHP。
続きをまた書きます。
以前、
こちらで「子どもは社会で育てるもの、子どもは社会の宝だというのなら、少年を更生させる役割を負うのも社会のはず」と書きました。
社会は被害者や被害者遺族の支援に心を砕かねばならないとともに、この加害者である少年についても深く洞察する義務があります。この少年も同じくこの社会の一員として育ってきた以上、その義務を放棄するわけにはいきません。
これは被害者を軽んじることでは決してなく、むしろこのような少年事件を未然に防止するためにも必要なことです。
(私は、加害者に更正の手を差し伸べることが被害者への冒涜になるとでもいうような誤った「犯罪被害者支援」の考え方が広まっていることを憂えます。被害者遺族の応報感情ばかりを強調し、それを満足させることだけが犯罪被害者支援ではありません。これについてはまた別の機会に)
社会は犯罪被害者、犯罪加害者、双方を修復する義務があります。両方やってこそ、相互扶助、傷の修復、再生産という社会が持つべき機能が働いたといえるのではないでしょうか
次の村野瀬玲奈さんのエントリーは圧巻です。これは少年事件に限らず、社会が死刑を容認すると言うことはどういうことなのか、その根本を問うてくれています。
長文なので私が強調したいところを太字、赤字にさせて頂きました。
何度でも読み返し、かみしめたくなる文章です。是非全文をリンク先でお読み下さい。
◆
村野瀬玲奈の秘書課広報室司法と社会の敗北宣言 (裁判員制度初の未成年事件での死刑判決について (2) (石巻3人殺傷事件))
(引用開始)
この石巻三人殺傷事件は、判例や「永山基準」からいうと、死刑かどうか、境界線上のケースだそうです。ですから、この死刑判決は物理や数学の公式を証明するような意味での必然的な結論ではなくて、裁く側、つまり社会全体の主体的な意思として選びとられたものということになります。
たとえば、人間の身長は、(たとえば)「163cm」などと数値化できます。しかし、「更生の可能性」は何パーセントなどと数値化できるものではありません。ある人のことを更生不可能と思えば、そう思う理由はいくつでも見つかるでしょう。しかし、更生可能だと思えば、更生できると信じる理由だっていくつでも見つけることはできます。つまり、更生できるか更生できないかについて客観的で正確な診断はできないということです。できるのは、不正確で主観的な予想だけです。つまり、ある人が更生できるか更生できないか、どちらの判断が正しいかという問題ではないのです。
民主社会ならば、どのような被告や犯人や受刑者であっても、反省、更生させるのが難しそうな者であっても、更生させようとする努力を怠ってはならないのです。なぜなら、「おまえは社会にとって不要の人間であると決定した。したがって、おまえは死ななければならない」と社会全体が一個人に命令するのは全体主義の世界だからです。
更生が難しそうな被告であっても、更生させようと手を尽くすことが禁じられているわけではありませんし、更生のために周囲が本人にはたらきかけることは周囲の人々の意思として、つまり社会の意思として可能です。そして、そうするのが同胞としての人間の行動だと思います。人間が「社会」という集団を形成して互いに援助しあったり互いに影響を与えあったりしながら生きている以上、それが自然なことだと思います。
ところが、この判決は「更生させよう」という意思を放棄しました。合議体の中でどのような議論があったのか、判断がどのように割れたのかは、この裁判員制度の秘密主義のためにわかりません。しかし、いずれにしても、「更生させよう」という意思を放棄することを社会全体の判断とするとこの合議体は決めたのです。人によっては、判決は裁判員と裁判官だけによって出されたのであって、社会全体がそう判断したとはいえないと考えるかもしれませんが、司法制度、裁判員制度は国家の制度として作られているのですし、裁判員は国民の代表として審理に参加したのですし、判決結果やそれについての意見の報道を通じて社会全体の追承認も求められていると考えれば、「更生させる」努力や「贖罪や償いをさせる努力の放棄」を日本社会全体の判断にしようということが提案されたということです。
そのように考えると、この判決からは二つのメッセージが見えてきます。
まず、人間の中の可能性を信じる必要はないという人間観を社会全体で共有しようというのが、結果的ではありますが、この判決の一つ目のメッセージです。
私は全知全能の神ではありません。しかし、私は、すべての人がこの社会の中で思索を深めて少しずつ人間性を高めることを望み、私自身もこの社会を少しずつでも良くしたいと願っています。私はそう考えますので、判決に込められたこのメッセージを承認することができません。
次に、この判決から見える二つ目のメッセージは、この悲劇的事件の結末に至るまでに多くのことが重なってこの被告の犯行に至ったわけですが、それ自身重い少年自身の責任とは別の、そこに至るまでの社会の不備や周囲の要因までもすべてこの被告個人に押しつけてよいのだというメッセージです。
誤解がないように言いますが、この被告にとって不幸な要因が周囲や社会の中にあったからこの被告が責任を免れるという意味ではありません。この被告の責任は厳然としてあります。しかし、この被告を死刑にすることによって、必ずしもこの被告自身の責任ではないことまでこの被告に結果的に押しつけているということを言いたいのです。
私は全知全能の神ではありません。しかし、私は、すべての人がこの社会の中で思索を深めて少しずつ人間性を高めることを望み、私自身もこの社会を少しずつでも良くしたいと願っています。私はそう考えますので、判決に込められたこのメッセージを承認することができません。
つまり、人間に変化や更生の可能性を期待する必要はなく、犯罪は個人の問題であるから社会の問題として考える必要はない、犯罪を起こさないための社会的努力はしないでよい、というメッセージをこの判決の中に私は見たということです。さらに言えば、この裁判にかけた時間の短さも、犯罪を社会の問題として深く考える必要はないという思想の象徴でもあります。
もう少し具体的に言いましょう。
まず、この少年の生い立ちです。この被告に情状酌量の余地や更生の可能性を認めない死刑判決をくだすことによって、この被告や似たような境遇にある現在と未来の少年がこのような育ち方をしないためには社会の中に制度や習慣として何が必要だろう、次世代育成のために私たちは何を考えたらいいのだろうという思索を私たちはしなくてよいというメッセージがこの判決で暗示されているのです。
それから、この被告が警察の手をわずらわせていた時、つまり、この被告が保護観察処分になっていた時の、警察や周囲の人々の対応です。警察や周囲が少年に対して別の対応をしていれば、このような悲劇的な事件は起きなかったかもしれなかった、と言うことだってできなくはないのです。警察や周囲の人の不十分な対応がこの被告をさらに犯罪に追いやったと言いたいわけでは全くありません。警察や周囲の人の努力が全く足りなかったと証明したいわけでも全くありません。しかし、この保護観察処分は結果的に機能しなかったことになります。この被告を死刑にすることだけでその重い教訓を生かすことができるのでしょうか。
つまり、「この被告が更生不可能だった」と断じて死刑判決を出すことは、警察や周囲の人たちがこの少年のためにできることはほかになかったのか、どうすればこの被告がこのような犯罪を起こさずにすんだのか、と社会レベルで内省する機会を失わせるのです。あえて言えば、「すべてこの被告が悪かったのだ。私たちは何も悪くない。今までのまま、犯罪の原因を全部個人に押し付けておけば私たちは何も責任感を感じなくてすむ。社会を改善しようとする努力も要らない。」と暗黙のうちに宣言していることになるのです。
死刑制度があってそれが適用されているということは、犯人を死刑にすればすべて解決するというメッセージを暗に人々の心に植え付け、犯罪が起きにくい社会のあり方とは何か、被害者遺族を援助するということはどういうことかという人々の思考を麻痺させるはたらきがあります。裁判員制度で一般人に死刑判決をたびたび出させてそれを大々的に報道することには、社会全体に対してそういう後ろ向きのはたらきをします。そういう意識を人々の中に知らず知らずのうちに固定していきます。そして、それを私は社会にとって有害なことだと思います。
(引用ここまで)
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