仙台地裁で予想通り、裁判員裁判初の少年の死刑判決が出ました。
耳かき店員事件を皮切りに、横浜の事件、本件、そして今度は宮崎でも死刑求刑事件がかかっています。
堰を切ったような死刑求刑ラッシュ、まるで機は熟したとばかりに裁判員が死刑判決をだすことを定着させようとしてるように見えます。今回の判決で少年事件分野でのミッションもクリアってとこでしょうか。
いまでこそ裁判員裁判での死刑判決はニュースになりますが、これも直に慣れっこになってニュースバリューがなくなるのでしょう、恐ろしいことです。
それにしても検察はほんとに安易に死刑求刑をするようになりました。
以前にどこかで書きましたが、殺人の法定刑は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役と幅が広く、昔は死刑求刑はよほどの時にしかされなかったように記憶しています。
しかし今では殺人事件は死刑求刑がスタンダードではないかと思えるほどいとも簡単に死刑が求刑され、それに応えるかのように次々死刑判決が量産されています。
日本では8割以上の国民が死刑制度を支持していますが、先進諸国で死刑があるのは日本とアメリカだけ、そして死刑判決が増えているのは日本だけという情報は意外と国民に知られていません。そういう状況で死刑の賛否について国民的な深い議論など期待する方が無理というものです。
ここは世界の潮流から外れた絶海の孤島のよう、まるで鎖国でもしているかのようです。
こんなに圧倒的に死刑が支持されるのは「もし自分の家族が殺されたらやはり自分だって死刑を願うから」というのが大きな理由としてあります。
それを思えば、少年事件に於いてだって当然
猪野亨弁護士のご指摘通り「もし自分や家族、友人たちが被告人になったら」という想像力を働かすより、「もし自分や家族、友人たちが被害者だったら」という想像力をより働かせるであろうことは容易に想像できます。
今回少年に死刑を言い渡した理由は
・犯罪性向が根深く、他人の痛みや苦しみに対する共感に欠け、異常性や歪んだ人間性が顕著
・事件の重大性を認識しているとは言えず、反省に深みがない。更正の余地無し
・残虐さや被害結果の重大性をみれば極刑もやむを得ない
というものでした。
死刑の言い渡しには慎重でなければなりません。
ましてや被告人が少年ならば、慎重の上にも慎重を期さなくてはならないのは、少年法の趣旨から言っても絶対曲げることのできない原則です。ですがそこは裁判員裁判ですから、審議は5日、評議はたった3日だけでした。全く以て疾風のごとき「迅速な裁判」ですね。こんな短期間でどうやって慎重を期せるのでしょう?
今回家庭調査官が作成した成育歴などの記録の大半は証拠請求されず、法廷で鑑別結果報告書の一部がほんの30分朗読されただけだったそうです。
そんなんで少年の成育歴がどれほど吟味できたといえるのでしょうか?その程度で更正の余地がないと安易に結論していいのでしょうか?
また、こんな短期間で、おそらく法律に触れたこともない裁判員が、果たして少年法の趣旨を理解し尊重する気になれたのでしょうか?
元家裁調査官の浅川道雄・NPO法人非行克服支援センター副理事長は「少年法の趣旨を裁判官が理解し、裁判員に説明している様子がに受けられない」といいます。
だとすれば、裁判員は少年法の理念を一番の念頭において判断できたのか、甚だ疑問に思わざるを得ません。
永山基準が引き合いにされる永山事件(犯行当時19才で死刑判決を受けた)ですが、その起訴から刑の確定にまではなんと21年もかかっています。
それに比べれば、この裁判は目も当てられないずさんな拙速裁判だった恐れがあります。
裁判員の都合のためにさっさと終わらせる裁判を、憲法が要求している「迅速な裁判(憲法37条1項)」とは断じて言いません。そんなものは憲法が要求する公正な裁判からほど遠い拙速裁判、欠陥裁判でしかありません。
これは実施前から危惧されていたことですが、それが的中してしまいました。
先日ふなぼりすたさんから考えさせられるコメントをいただきました。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-577.html#comment2181
先日の「耳かき裁判」で考えさせられた事がありました。
私はあの判決を受けて、「素人が永山基準をたった数日の話し合いで乗り越えるというのは無理だし、そもそもやってはいけないこと」と裁判員は考えたんだろうなあ、などと推測しました。しかし、ある人に言わせると、あの判決は「耳かき店=ふうぞくてん勤務の女性は殺されてもしょうがない、よって加害者は罪一等を減じる、という市民感覚が反映された」女性差別的判決なのだそうです。(>http://legal-economic.blog.ocn.ne.jp/umemura/2010/11/post_8bb6.html(←私注:是非ご一読を))
(引用ここまで・太字は私)
なるほど、このような偏見、女性差別も今の日本では健全な「市民感覚」として通用してしまう可能性は十分にありますね。
世間は少年法の趣旨に対し反発すら感じている赴きがあります。「少年だからってそれを盾にしやがって許せない」という市民感情。光市事件でそのくすぶった市民感情は一気に爆発し、市民権を得ました。
少年であればこそ死刑を選択する、などと本来あってはならない「市民感覚」が、司法が耳を傾けるべき健全な「市民感覚」だとして堂々と主張されかねない世の中なのです。
ビバ!市民感覚!ビバ!裁判員制度!(やけくそ)
前回の死刑判決と同様、やはり今回も裁判員にのしかかった重圧は半端ではありませんでした。
「一生悩み続けると思う」「判決を出すのが怖かった。どんな判決でも誰かの恨みや思いは受けるんだなと考え、泣いてしまった」「どうしていいかわからなくなった」
しかし一種の責任感なのでしょうか、やはりまたこうも付け加えるのです
「裁判員に選ばれた以上、きちんと世間へのメッセージを出さないといけないと思っていた。今はやって本当によかった」
またしても書きますけど・・・だからなんで「やってよかった」になるんですかorz
こんな苦しみを背負わされながら、なお、こんな制度はおかしいと声を上げない裁判員経験者達。どうしてだれも、こんな制度は理不尽だ、3年も待たず1日も早くやめるべきだと記者会見で言わないのでしょう。
「辛いが、その辛い事を誰かがやらなければならない」
・・って、こんな辛いことは裁判員の誰もやらせれるべきではないどうして言わないのでしょう。
なんと権力に従順な国民性なんだろうとつくづく思い知らされます。
こういう国民性だからこそ、統治主体意識にやすやすと絡め取られてしまうのだと、前回の記事に続いて、再びしつこく指摘しておきたいです。
「現代思想10月号より、裁判員制度を考える」シリーズでの危惧がどんどん順調に、着実に実現されていってしまってることに、私は非常に強い危機感を覚えます。「最後の砦」である司法が、市民自身の手で崩されていくような気がしてなりません。
【追記】裁判員制度に反対だと記者会見で表明した裁判員も少ないようですがいることを教えて頂きました。ありがとうございます。転載します。
河北新報
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/11/20101123t23027.htm
2010年11月23日火曜日
青森地裁で22日に無期懲役の判決が言い渡された強盗殺人事件の裁判員裁判の判決後にあった裁判員らの記者会見で、補充裁判員を務めた青森県の南部地方に住む60代の男性が「裁判員を二度とやりたくないと思った。裁判員制度には反対だ」と発言した。
男性は制度反対の理由を「普段、法律に触れていない素人が裁判に参加し、判断していいのかとずっと思っていた」と強調。「すべての事件で裁判員裁判はやるべきではない」と述べた。
結審から判決言い渡しまで2日間の休日を挟んだことも精神面で重圧を感じたという。男性は「寝る時も『被告はなぜあんなことをしたのか』と事件のことを考えてしまい、ゆっくり休めなかった」と振り返った。
裁判員制度では、裁判員と同時に選任される補充裁判員は公判に同席し、裁判官が認めれば評議で意見を述べることもできるが、判決の決定にはかかわらない。
(引用ここまで)
そ-だそ-だ!みんなでもっとみんなで声を上げましょう!
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