朝のウォーキングでは、しばしばスズメだのセキレイなどの野鳥が、歩む方向のすぐ先の地面で、どんなものが落ちているのかは不明だが餌を啄ばんでいる光景に出会う。
この寒い空気の中、気の毒なことだと感じ、彼らの顔の表情(?)を覗くように眼を凝らしたりする。顔の表情は判別できないまでも、その身体全体の動きや振る舞いからすれば、決して "落ち込む" 様子や "落胆" ぶりをうかがうことにはならない。むしろ、 "嬉々として" 生き放っているかのような印象を覚える。
何かにつけて "悩み、苦しむ" ことを引き受ける人間たちと、彼らとは一体何がどう違うというのだろう......、とマジに考えてしまうことがある。
落ち着く先は、きっと、彼らは "現在" のみを精一杯生きて、すぐ先にある "未来" も、すぐ前にあった "過去" をも自覚しない "術" とともに生きているために、 "快活" 以外ではないのだろう......、ということになる。
そんな彼らを "見下す" 根拠はまず無いと言うべきなのかもしれない。まあ、そんな感じ方をする大人もまずいないに違いないだろうが......。
多少彼らを買い被っていえば、要するに、彼らは "今" を、 "現在" を生きる上で必要なのは、この "現在" 以外ではなく、 "過去" や "未来" という言ってみれば "贅沢" な時間なんぞは用がない、とでも言っているかのようでもある。それらが "削ぎ落とされた" 哀れな生きものだと老婆心を抱くのは、はなはだ迷惑のようでもある。ご自分の頭の上のハエでも追いなさい、とでも言われそうであり、生きものとしての "王道" たる "コンサマトリー" な "命(いのち)の運用" を推進なさっているのかも......。
昔、「いいじゃないの幸せならば」(1969年/作詞: 岩谷時子/歌: 佐良 直美[さがら なおみ])という "センセーショナル" な歌があった。 "いいじゃないの今がよけりゃ" という正面切ってのメッセージを、当時の自分は、 "よくぞ言った!" という絶賛、エールの気分と、反面打ち消しがたく浮上してくる "退廃的!" という "罪悪感" との間で、みっともなく右往左往したような覚えがある。
包装紙なしの、まるでバルク商品のような "幸せ" と、なんたらかんたら条件づくめに雁字搦めされた "安定" との、どっちを取るの、さぁさぁさぁ、と問い詰められているような、そんな "うぶ" さが当時の自分にはあったのかと懐かしむ......。
"コンサマトリー(consummatory)" とは、その行為それ自体が目的であり、ただそれだけで欲求が充足するようなことをいう。逆に、その行為は別の目的のための手段であり、それ自体では欲求が満たされないようなことは、 "インストゥルメンタル(instrumental)" というようだ。
これをどう受けとめるかはその人の選択次第となる。ちなみに、最近、自分が "この言葉" に取り憑かれている理由は、常識的な "時間の観念" への打ち消し難い疑問に由来しているからかもしれない。
<このような感覚の取り方を基礎づけている時間感覚は、最終結果のみに意味がある(「終わりよければすべてよし」!)ということ、すなわち〈未来が現在の意味である〉という感覚(instrumentalism)である。存在の意味が、常にその後にくる時間に向かって外化されているとき、人はつぎつぎとより遠い未来の視座から現在をみるということになる。するとどのような未来のはてにもその先にはかならず死があるのだから、存在の意味も生きることの意味も総体としてむなしいということになるのは、いわば論理の必然である。
時に対する〈コンサマトリー〉(現時充足的)な、すなわちその時自体のうちに完結して充足する感覚が疎外されているとき、消滅の意識はもはやたんなる詠嘆ではなく、絶対的な虚無感となる。過去が存在したということは現在ではもはや虚無に過ぎない。そうである以上、現在もまた、やがて虚無となるものとして意識される。そして未来も、つぎつぎとそのさきにある未来によって虚無となるものとして意識される。>(真木悠介『時間の比較社会学』岩波現代文庫)
もちろん、<時に対する〈コンサマトリー〉(現時充足的)な>姿勢が、 "近現代世界" にあっては、 "非国民" 的そのものであり、 "刹那的" だ、 "自堕落" だ、 "破滅的" だ......、と。だから「いいじゃないの幸せならば」の歌の場合も、大衆各位を大いに魅了すると同時に、 "退廃的!" だとの謗りが "罪悪感" というかたちで人々のタテマエ感覚を脅かすことにもなったのかもしれない。
現に、 "コンサマトリー" という言葉を以下のように紐解くケースもあるわけだ。
<アメリカの社会学者タルコット・パーソンズの造語であり、道具やシステムが本来の目的から解放され、地道な努力をせずに自己目的的、自己完結的(ときに刹那的)にその自由を享受する姿勢もしくはそれを積極的に促す状況のこと。対義語はインスツルメンタル(化)。非経済的な享楽的消費の概念を「消尽(consumation)」と呼び、非生産的な消費を生の直接的な充溢と歓喜をもたらすもの(蕩尽)として称揚したフランスの思想家・作家ジョルジュ・バタイユの考え方とも相通ずる現象解釈といえる。>( 用語:コンサマトリー化 /「ウェブサイエンス2.0胎動 用語解説」(森田 進)/『All-in-One INTERNET magagine 2.0』 )
しかし、時代環境が恙無く "完成" し、さらに "超完成" の域へと上り詰める(深みにハマる?)ご時世にあっては、人々は "命(いのち)の運用" のあり方の視点から、<〈コンサマトリー〉(現時充足的)な>生き方を、ますます "羨望" するようになる......。
ちなみに、 "表層的な" 一例になりそうな以下の解釈が面白いと思えた。
< 短文を投稿するマイクロブログやミニブログ、テキスト、写真、引用文、リンク、チャット、動画などを共有することができるTumblr(タンブラー)ブログ、友人やフォロワーに「今していること」などの短いメッセージを一斉に送信できるTwitterなどの表現行為に見られるように、情報の内容を吟味しながら確認するというよりは、日常の出来事や意見を語り合うことじたいを楽しんだり、コミュニケーションをエンターテイメントとして楽しんでいる状態であり。コンサマトリー性の傾向が顕著といえる。
また、インターネット上のEコマース、オンラインコミュニティ、掲示板、SNSなどの利用者は、購入の動機や意思決定がなくとも、あるいは専門的な情報を対話的に得るという動機が特になくとも、商品やサービスに対するユーザーの評判を観察したり、聞き耳を立てておき、自分の関心のあるテーマに関する情報をモニターしているが、これもコンサマトリー的な状態といえる。>(同上 森田 進 用語解説より)
...... (2010.01.03)
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