廃車の山 (イメージ)
水彩+色鉛筆+ガッシュ 125ⅹ320 ㎜
以下はまったく私個人の感想になるのだけれど、私は葬儀万般がきらいである。好きな人は無かろうと思うものの、とむらいとなると変にいきいき楽しそうになる人もあるので困却する。生まれた時は訳がわからないのでお宮まいりに連れて行かれようが、七五三の珍なる衣装を着せられようが仕方がないが、生涯のしめくくりは「このようにする」と言い残すことはできるのである。(中略)
日々の出会いを雑に扱いながら、永訣の儀式には最高の哀しみで立ち会おうとする人間とはいったい何だろうか?席を変えてお酒などのむ時もしみじみ故人をしのぶでもなく、仕事の話、人々の噂で呵呵大笑、あっけにとられるばかりである。好きな人であればあっただけ行きたくなくなってくる。
行かないことは、また来てもらわないことでもある。(1979.5)
永訣は日々のなかにある。
◆後藤正治「清冽 茨木のり子の肖像」より
※茨木のり子(1926~2006)詩人
〇以前訃報をニュースで知ったその夜に、酒を飲みながら友達に詩集を進めたことがあり、その相方も今は亡く、遺灰を海にまかれたと聞いてます。
好きな詩は「自分の感受性くらい」「倚りかからず」「時代遅れ」「落ちこぼれ」「一人は賑やか」「波の音」……
「自分の感受性くらい」茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを暮しのせいにはするな
そもそもがひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい自分で守れ
ばかものよ
〇 よいお年を