bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

河野龍太郎著『日本経済の死角-収奪的システムを解き明かすー』を読む

日本がバブル景気に沸き立っていたのは、今から約40年前である。当時はエズラ・ボーゲルが1979年に著した『Japan as Number One』が現実になったかのような高揚感が社会を覆っていた。しかし、脆弱な基盤の上に築かれたバブルは、1990年代半ばにはもろくも崩れ去った。当初は「失われた10年」と呼ばれ、停滞は一時的なものとして、比較的短期間での回復が期待されていた。だが状況は改善せず、20年を経ても停滞は続き、いまや「失われた30年」と言われるに至っている。

この失われた30年をそれぞれの人たちはどのように実感しているのだろう。我々の孫の世代はバブルの時代を知らず、生まれたときから「失われた時代」の中にいる。そのため、社会全体が浮かれた空気に包まれていた時代を体験していない。一方で彼らは、スマートフォンの普及や生成AIの登場に象徴されるように、生活が急速に便利になっていく社会を当たり前のものとして享受している世代でもある。

では、バブル期を知る我々の世代は、この30年をどのように経験してきたのだろうか。孫世代とは異なる時間感覚や価値観の中で、何を「失われた」と感じてきたのか。私は2015年に退職した。失われた時代が始まったのが1995年頃だとすると、20年間は失われた時代の中で働いていたことになる。しかし、「この期間に何を失った」と問われると、答えに窮する。物価は安定していて、失われた期間の間ほとんど変わることはなかった。給与についても、定期昇給によって名目的には安定的に増加しており、当時は大きな不満を抱くことはなかった。ただ、親の世代から「今はいくらくらいもらっているのか」と尋ねられたとき、同じ役職での給料は同じかあるいは減少しているようだとは感じていた。親の世代を超えて豊かになれないようだと思っていた。退職後は年金生活に入ったが、支給される年金額はほぼ一定である。ここ1〜2年を除けば物価変動は小さく、生活の見通しは立てやすかったというのが実感である。ただ、さまざまな優遇措置を享受できた親の世代と比べると、より厳しい条件のもとで年金生活を送っているという認識もある。

このように、日常生活の範囲では「失われたもの」を実感しにくい。だが、海外との比較に目を向けると、その変化は途端に鮮明になる。失われた時代が始まろうとしていた1995年当時、日本円は依然として高い水準にあった。この年は私はオーストラリアに滞在していたが、この国の物価はとても安く、現地の人にとっては高級品で手が届きにくいワインでも、円に換算すれば負担は小さく、驚くほど美味しい一本を気軽に楽しむことができた。しかし、コロナ禍の頃、メキシコに滞在している息子を訪ねてみようと計画したところ、交通費・宿泊費のあまりの高さに驚かされた。妻に用事が入って実現しなかったが、もしこの旅行が実施されていたならば、多額の費用を払って、魅力的なメキシコの遺跡を前にしながら、日本の経済的地位の低下を否応なく意識させられたに違いない。

「失われた30年」を振り返ると、国内では収入も支出も比較的安定し、不確実性の少ない時代であったように思える。一方で、海外との比較に目を向けると、日本は確実に貧しくなったという実感もある。こうした感覚を、専門家はどのように分析しているのかを知りたくなり、エコノミストの河野龍太郎さんが上梓した『日本経済の死角』を手に取った。「失われた30年」をどのように評価するかは、経済学者の理論的立場によって大きく異なる。そのため、本書がどのような視座に立って議論を展開しているのかを意識して読む必要がある。河野さんは、著書の中でも述べているように、アセモグルとロビンソンの制度的アプローチを手がかりにこの時期を分析している。両者は、新制度派経済学の代表的論者として、経済発展の根本要因を「制度」に求める立場をとる。市場の自律的調整を重視するシカゴ派のミルトン・フリードマンとは異なり、アセモグルは権力構造・国家能力・エリートの利害を分析の中心に置き、制度の質を重視するのが特徴である。

河野さんはこうした制度論の視点から、日本経済を単なる景気循環や政策失敗としてではなく、より深層の構造問題として捉え直そうとする。そこで、この本の内容をまとめると次のようになる。

日本の「失われた30年」は、単なる景気低迷ではなく、生産性の伸びと賃金の停滞が長期にわたり乖離した結果として生じた現象である。これは先進国の中でも例を見ない特徴をもつ。まず事実として、過去四半世紀の間に日本の時間当たり労働生産性は約3割上昇している。これは決して低い伸びではなく、国際比較をしても一定の改善を示す。しかし、この生産性向上が労働者の実質賃金に反映されていない点に、日本経済の深刻な構造問題が凝縮している。

時間当たり実質賃金は、生産性とは対照的に全く増えていない。むしろ近年の円安インフレによって明確に低下している。生産性が伸びているにもかかわらず、労働者の購買力が減少するという現象は、ドイツやフランスのように日本より生産性の伸びが低い国でも実質賃金が上昇していることを考えれば、極めて異例である。こうした事実は、「貧しくなった日本」という表現が、感情的な誇張ではなく、統計的裏付けをもつことを示している。

もっとも、長期雇用制の枠内にいる正社員に限れば、定期昇給によって名目的な賃金は着実に上昇してきた。たとえば、毎年2%程度の昇給が続いた場合、25年間で賃金は約1.7倍になる。しかし、これはあくまで「同じ人の賃金カーブ」であり、職位ごとの賃金水準は低下している。1990年代の課長・部長と比較すると、現在の同職位の賃金は名目でも実質でも多くの場合で減少している。企業が人件費総額を抑制する中で、若年層の賃金を低く抑えつつ、昇進してもかつての水準には届かないという「薄いピラミッド構造」が形成されたのである。

この賃金抑制の背景には、企業の内部留保偏重がある。生産性が上昇し収益が増加しても、その増益分は賃金に回されず、内部留保として積み上げられた。バブル崩壊後、企業の財務状況が悪化したため内部留保を重視したこと自体は理解できる。しかし、財務が改善した後も内部留保偏重は止まらず、結果として労働者への分配が削られ続けた。さらに、バブル崩壊後にメインバンク制が機能不全に陥り、企業が資金繰りを銀行に頼れなくなったことも、企業がリスク回避的に内部留保を積み増す行動を強化させた。

労働市場の制度変化も賃金停滞を加速させた。週48時間労働から40時間労働への移行により、長期雇用者の残業による柔軟な労働時間調整が難しくなった。従来は景気変動に応じて残業で対応していたが、労働時間規制の強化によりその弾力性が失われ、企業は短期雇用者を大量に採用することで労働力を調整するようになった。短期雇用者は定期昇給がなく、低賃金で雇用されるため、長期雇用者との間に大きな格差が生じた。

一方で、長期雇用制の外にいる人々がこれまで何とか生活できていたのは、ゼロインフレが続き、消費者余剰が大きい社会だったからである。価格が上がらないため、低賃金でも生活が成立した。しかし、2022年以降の急激な円安インフレによってこの前提は崩れた。物価が上昇する一方で賃金が追いつかず、実質賃金は急速に目減りし、生活困窮に直面する人々が増加しつつある。

こうした複合的な要因が重なり、日本の財・サービスの価格は国際的に見て極めて割安になった。外国人観光客が日本を「安い国」と評価する背景には、為替だけでなく、長期的な賃金停滞がある。生産性が上昇しても賃金に反映されず、企業は内部留保を積み上げ、労働市場は二極化し、物価は長期にわたり停滞した。これらの制度的・構造的要因が絡み合い、日本は先進国の中でも特異な「賃金が上がらない社会」へと変容していった。

総じて、日本の「失われた30年」は、生産性と賃金の連動が断ち切られた結果として生じた。これは単なる経済指標の問題ではなく、社会の持続可能性、生活の安定、国際競争力に直結する深刻な課題である。生産性の成果を適切に分配し、労働市場の二極化を是正し、企業の内部留保偏重を改めること――それこそが、日本の豊かさを取り戻すために避けて通れない核心的課題なのである。

このように河野さんは、私が日々の生活の中で実感してきた現象を、アセモグルの制度理論を用いて、きわめて説得力のある形で理論化している。

アセモグルとロビンソンは、「収奪的な社会制度の下では国家は衰退し、包摂的な制度でなければ繁栄は持続しない」と述べている。この視点から日本の状況を捉え直すと、日本の「失われた30年」は、制度の硬直化と政治的均衡の歪み*1によって生産性と賃金の連動が断ち切られた結果と理解できる。企業はバブル崩壊後の財務不安とメインバンク制の崩壊を背景に内部留保を優先し、既得権的な長期雇用制度は労働市場の二極化を拡大させた。労働市場の柔軟性は失われ、非正規の低賃金構造が固定化した。制度が技術進歩や分配の方向性を偏らせた結果、成長の果実が広く共有されない「非包摂的均衡」が形成された。そして、その均衡こそが、日本の長期停滞を自己強化的に固定化したのである。

日本という国が衰退局面に入りつつあるように見える以上、そうした状況を避けるためには「包摂的」な制度への転換が不可欠である。そのためにはイノベーションを促す環境が必要だとしている。しかし、イノベーションは本来、既存の秩序を破壊しかねない野生的で収奪的な側面をもつが、それを否定するのではなく、社会が飼いならすための包摂的な制度作りが必要であると河野さんは本の最後で述べている。素晴らしい視点であり、この問題提起を出発点として、今後、より具体的な包摂的制度の提案が示されることを強く期待したい。

*1:政治的均衡の歪みとは、特定の利害関係者が政治・経済制度を自分たちに有利な形で固定し、社会全体の利益につながる改革を阻む状態を指す。