トンデモ医療とか患者さん中心の医療とか

 twitterで呟いたり、別の場所で書いていたりしたもののまとめです。

【癌は放置せよというのは無責任極まりない話】

 近藤誠氏は、「そもそも癌は治らないのだから放置せよ」と言います。確かに進行癌に関しては、進行を遅らせたりはできるものの、根治は難しいものもあります。しかしながら早期癌の多くは、早期発見、早期治療でかなり高い確率での治癒が見込まれます。彼はそれをそもそも癌ではなく「がんもどき」だと言います。治ったものは「がんもどき」、癌は治らない、手術や抗癌剤は病院や製薬会社の「金儲け」だから、治療を受けるべきではなく、放置すべきだと言って「金儲け」しています。

 彼を擁護する立場からは、医療の現場では癌は治療しなくてはならないもので、治療しないという選択肢を選ばせてもらえない、治療せずに元気に一年生きるのと、副作用に苦しんで三年生きること、どちらが幸せと言えるのか、そういう意味で、「治療しなくてもいいんだ」という気づきを与えてくれる近藤氏の立場はあって良いのだ、と言います。しかし、これは全くフェアではありません。

 僕が医学生だったほんの十数年前まで、そもそも癌を本人に告知すべきか、という議論が社会問題になっていました。かつて、癌はある意味で近藤氏が言うように、見つかった時点で既に治らないものでした。そうした不治の病を告知するのはあまりにも酷だということが前提の議論でした。しかし、様々な治療法の発達で、ある種の癌は治るものになり、少なくとも進行を食い止める手段を得たことにより、告知云々の議論の時代から、告知をした上での治療法の選択という時代になりました。

 今なお、患者さんの家族から、本人への癌の告知はしないで欲しいといった要望があることがあります。しかし、あくまで病気は本人のものであり、本人が病名を知らないまま治療法を選択することは不可能です。また、癌の治療はある程度大きな病院で行われることが多く、そこへ通院や入院をした時点で、周りは似たような病名の人ばかり。「胃潰瘍の手術のための入院です」なんていう嘘がまかり通った時代ではなく、よほど鈍い人以外は、自分の病名を悟ることになります。

 ほとんど告知をしなかった時代というのは、癌に対して全く手の施し用のなかった時代であり、今は「必ず治せます」とは言えないものの、いろいろな治療の選択肢のあること。その選択のためには細かな予後とかそういう話は伏せたりするにしても、まずは病名を知ってもらわなくてはならないこと。周囲に似たような病気の人が大勢いる環境で、主治医も家族も嘘をつくことはおおむね不可能だし、かえって信頼関係を損ない、ご本人もご家族も辛い思いをするであろうこと。そういったことを丁寧に説明することによって、ほとんどの方が告知に前向きになります。

 先ほども述べましたが、「癌治療医が『抗癌剤を使わない』選択肢を説明しないから近藤誠氏のように『治療中止を後押しする』勢力もあってよい」みたいなことを言う人がいます。しかし、僕はこれには全く同意できません。癌治療医が治療の選択や緩和の話もしていないというのはいつ、どこの話なんでしょうか。癌を告知しなかった時代はいざ知らず、少なくとも癌の告知があたりまえになってきた流れの中で、治療法の選択、当然治療をしないとか緩和医療の存在などを含めた選択について、癌治療医のほとんどは丁寧に説明しているように思います。それに対して、近藤氏は治療は全て無意味だという非科学的なことしか言っていないわけで、選択肢を与えてくれないのはむしろ近藤氏などの勢力です。

 別に僕たち癌治療に携わる人間は、癌治療の押し売りはしないので、治療方法の選択や、治療をしないことそれぞれのリスクとベネフィットをなるべく患者さんに正確に理解してもらった上で、最終的には自分で選んでもらっています。医療者が「癌を治療しない自由を与えない」とか「儲けのために薬を押し売り」とかいうのは大嘘なのです。

 近藤誠氏などのトンデモ論者は、癌を治療する権利も正しい知識も与えてくれませんし、最後まで癌患者に寄り添うわけでもありません。だから真っ当な医療者が批判しているというだけの話なんです。正確に転帰を理解した上で「治療しない」選択をした人には、ほとんどの病院が可能な限りサポートしています。

【医者に言われた衝撃的な一言?】

 まことしやかに「積極的な治療をしない人は診られないといって病院を追い出された」とかいう話が語られたりもしますが、これは患者さんやその家族の脳内でかなり変換されている気もしています。かといって、大学病院や基幹病院が、手術や抗癌剤、その他の治療に関わった後、患者さんを一切手放さなかった場合、当然ながらパンクするわけです。

 例えば手術をした病院で最後まで、というのは非常によくわかる心情ですが、僕の所属していた医局では、術前診断も術後フォローも内視鏡治療も手術も化学療法も外科の担当でした。外科のカルテがあると、風邪だろうが肺炎だろうが(まあ手術に起因するものもあるのだけれども)外科を受診ししばしばそのまま外科に入院となりました。

 外来も病棟もパンクしているし、急性期とそれ以外をわけている国の政策もあるし、初診の段階や、手術説明の段階から、「落ち着くまでは大学で、その後は関連病院で」といった説明を根気強く続けていても、ゴネ得というか、病院を移ることを拒否し続ける患者さんが結局大学に残ることになります。

 そうした患者さんが、術前患者さんを入院させられないくらいに大学の病棟を埋め続けたりする場合、やはり施設を移って頂くお願いはすることになります。しかしながら「勝手に探せ」とは言わないし、福祉なり保険なり、関連病院のコネなり、場合によっては外勤先を提示したりと落としどころを探っています。

 自分の外勤先に転院させた場合は、外勤時に顔を出したりもするし、なるべく「全く知らないところ」への転院のストレスを減らす努力はしているのです。できれば、術後早期から紹介病院、あるいは自宅近隣の関連施設やそれに準ずる病院へ通院して頂き、大学以外にバックアップできる施設をつくれるよう誘導しています。

 それでも転院のすすめ自体が「追い出された」みたいな話になることはよくあって、一度まとまっていた話が、会ったこともない親類が怒鳴りこんできて白紙に戻るみたいなこともよくあるのです。ソーシャルワーカーでもなんでも関与して頂ける方は総動員して調整するわけで、「勝手に転院先探して出て行け」とはまず言っていませんし、現状無理強いできません。診療報酬削られ、病院中から主治医に転院のプレッシャーを与え続けられるというのが現状です。病院個々の問題というよりは、国の施策の問題でもあり、大病院一極集中の問題でもあります。

 そうした現状からも「終末期の患者さんの自宅退院の希望を断固阻止する病院」みたいな話が大嘘だということは分かります。帰りたいといえば帰っていただきますが、在宅医療のバックアップや家族のサポートがだれでも受けられるというわけではなく、すべて整った一部の患者さんが家に帰れるという話ではあります。終末期の患者さんの覚悟の帰宅というのは、主治医が許可しても家族が反対することも多いし、退院したその日のうちに病院に舞い戻るということも多いのです。終末期の患者さんが在宅サポートが十分でないまま帰宅した場合、ほぼ間違いなく救急扱いで舞い戻ってくるので、病院側はそうしたことに対応する必要があるけれども、そうした「手間」の部分も承知した上で、大抵の医療機関が許可を出していると思うのですけれども。ただ当然、移動という負担が死期を早めたりすることに関しては「こんなはずじゃなかった」ということにもなりがちなので、覚悟の確認みたいなことは、その状況に応じて最低限ご家族には確認しています。

 金儲けのために無駄な治療を続けるという批判の一方で、病院で「もうできる治療はありません」と冷たく言われた、といった話もよく耳にします。手術にしろ抗癌剤にしろ放射線治療にしても、体に相当な負担がかかるので、全身状態が不良であれば、毒にしかならないケースというのはあります。「体力的なことなどを考えても、これ以上抗癌剤などを続けるのは、副作用など辛い思いをするだけだと思います」といった説明は、しかしながら「もうできる治療はありません」とだけ捉えられてしまうかも知れません。こうした苦悩をしている時点で、「医者は金儲けのために無駄な治療をして患者さんの死期を早めている」なんていう批判は筋違いだと思うのですけれども、時に同じ人が真逆のことで批判をしてきて、その矛盾に気づいていないということは少なくありません。

 そして、「今後緩和医療なども念頭に、ご本人にとってよりよい生活を送るための医療が望ましく、そうした施設に移って頂くことを考えて下さい」といった説明をせざるを得ないこともあります。これもまた、「治療しない方はこの病院にはいられません。緩和ケアを受けられる病院を(自分で)探して下さい」と捉えられてしまうかも知れません。

 これらの、僕は恐らく患者さん側で脳内変換された「医者に言われた衝撃的な一言」だと思っている言質について、別の「患者さんの立場に寄り添う」医師が無責任に批判してしまうことは問題だと思っています。患者さんやその家族が言う前医の言葉、それを傾聴することは必要です。しかしながら、本当にそういった「衝撃的」な意味合いで発言されたものかどうか分からないのに、後医が同意した時点で、前医が「ひどいことを言った」ことが既成事実化してしまいます。もちろん、患者さんの側に誤解を招かせたり、不信を感じさせたのだとしたら、その言葉を発した医師は反省する必要はあります。ただ、本当に悪意があったのかを確認しないまま、条件反射的に批判することは、医療への無用な批判と不信を抱かせる原因になってしまうだけの話だと思っています。もちろん、本当にひどいことを言ってたのであれば、その医師は批判されるべきで、医師の発言は間違いなく、絶対に批判してはいけないなどということを言っているのではありません。

 僕は患者さんが前医批判をするような場合、「そうですか。大変でしたね。私が直接おききしたわけではないので真意はわからないのですが、それはこうこう、こういう意味で、決してあなたを追い出そうとか、そういうことではなかったのかも知れませんね」といった返答をするように心がけています。繰り返しになりますが、前医の真意がどこにあったにせよ、患者さんやその家族が「見捨てられた、追い出された」と感じている現状はもちろん問題なのだけれども、誤解や曲解が少なからずあると思うので、前医の真意を探ることもせずに患者さんの言葉に同意してしまうというのは、あまりうまいやり方じゃないように思うのです。

【トンデモ医療は「表現の自由」では無い】

 例えば、近藤誠氏の一連の活動や著作は、「表現の自由」などというものではなく、医師免許を剥奪すべき害悪だと思っています。はじめの頃はどうだったのか知りませんが、少なくとも昨今の主張は科学的プロセスを全く踏んでいません。主流からはずれる医療を主張するから批判するのではなくて、医師を名乗りながら、科学的プロセスを経ずに、現時点できちんとした手順を経て標準的となった医療を否定し、自身の狂信的思考を、高いお金をとってまで市井に広めるというのは、僕には罪としか思えません。

 当然、標準的医療のおかれた現況と限界を知った上で、辛い治療を避け、自分らしい生き方をした上で、結果として死を受け容れる、というようなことは当然知られるべきです。手術や抗癌剤治療に関わる多くの医師は、昔はいざ知らず、少なくとも現在では、治療をしない選択肢というのもきちんと提示していると思います。僕も慎重に言葉を選びながら、科学的根拠も添えて、求められれば自分や家族がその状況の時どれを選ぶかということについても答えたりもしています。

 パターナリズムの押し売りは良くありませんが、ただ選択肢を並べるだけではなく、時に自分の良心に基づいた指針は示されるべきです。現況では、近藤氏のようなトンデモ勢力の方々こそ、一つの道しか示さない強いパターナリズムを推し進めています。だからこそ弱い立場の患者さん達が惹かれて行くのかもしれませんが。

 トンデモ科学を信じ込んでいる人、あるいはそれをなんらかの理由で強く主張し続けている人に真っ当な科学を説いても通じないことが多いのは確かです。説得というのが目標になってしまうと、そうした闘い方は間違っている、というのはなんとなく分かります。害のないトンデモならいいんですが、影響力のある人間や、有資格者が主張し、悪影響が懸念されるトンデモには、専門家や有資格者がきちんと反論をしておく、ということが重要だとも思っています。

 しかしながら、トンデモ論者に対して、罵詈雑言で応じたり、逃げ場が無いくらい追い込んだりというのは、「専門家や資格者がきちんと反論をしておく」という目的からは大きく逸脱するので、望ましくないと思っています。「正しい」意見が最終的に「間違った」意見を説得できるなんていうのはやっぱり幻想に近いところがあって、「正しい」結論に達するためには何やってもいいんだ、というのもやっぱり幻想だと思います。そして、「正しさ」に基づいて、逃げ場がないくらいに相手を追い込むというのはあんまりいいやり方じゃないと思っています。

 だいたいにおいて自分が信じる「正しさ」が、ただ自分が「好き」な考えにすぎないことも多い、というのは僕が常々思ってることです。

 ただ医学医療のように、科学的手法のルールが決められていてそれに基づいた免許資格が与えられるような職業についている人間が、そのルールを無視して、しかし免許を返上するでも無くトンデモ論をとなえるというのは許容し難いですし、市民の代表的立場(議員など)、社会的影響が大きく、概してその発信内容が「正しい」情報として扱われがちな機関(マスコミ)など、ただの好き嫌いだけで物言っちゃいけないだろう、と思うんですが、突然おかしな文脈で「表現の自由」が持ちだされたりするんですよね。

 科学的な主張を無視して、科学的な手段を放棄しつつ、一見科学的であるようなフリをしたトンデモを無批判に信じこんじゃうっていうのはなぜなんですかね。害のないトンデモならまだしも、医療トンデモは被害者が出るから許せません。職業倫理としてこまめに反対の声をあげておく必要があると思います。そうした反論も、トンデモ信者からは「(トンデモ論者の信ずる)正しいことを広められると困る勢力からの圧力」だとか言われるんですけどね。

 医師免許を持っているとか、公職についている人とか、影響力の大きいマスコミなどがこういうことを拡散するのは罪だと思います。言論の自由とかそういうこととは本質的に異なる話です。僕がトンデモ医学を否定するのは、別に金儲けでも誰かの陰謀でも無くて、先述の通りの職業倫理です。そして、彼らが批判されるのは主流じゃ無いからじゃ無くて、科学的手法を無視しているからです。主流では無くても、科学的プロセスに基づいて検証され、学会等の場できちんと発信したものは尊重されます。

 現代標準医療を否定してトンデモ医療を紹介している人って「ガンがほぼ全て消える治療法があるのに、抗癌剤で儲けている医者や製薬会社の陰謀で圧力をかけられている」とか言っていますけど、もしそんな夢の治療法があるなら、むしろそっちで金儲けしますよ、僕なら。

【患者さん中心の医療に関する誤解】

 ある程度まともな癌治療に携わる病院では、「キャンサーボード」というカンファレンスの機会を設けて、個々の患者さんの治療方針について話し合いをしています。癌治療に関しては、「手術」、「抗癌剤治療」、「放射線治療」の三本柱を単独あるいは複合的に使う「集学的治療」と呼ばれる治療が必要です。しかしながら、癌の種類や発生場所、その進行状況、患者さんの全身状態によって、いくら医師や患者が望んでも選択が不可能な治療方法もあるのです。外科、腫瘍内科、放射線科といったそれぞれの専門家達が、可能な治療法の選択肢や、ベストと思われる治療法について議論するのです。

 ある医師が、患者さんのための治療方針の会議なのに、なぜキャンサーボードにその患者さんが参加していないのだ、という意見を述べて、ネット上ではそれに対して賛意が結構集まっていたんです。しかし僕は、これに関して全く同意できませんでした。

参考:「患者不在のキャンサーボード」 http://apital.asahi.com/article/nagao/014102100004.html

 誤解かも知れない前医の「衝撃的な一言」を、脊髄反射的に批判するのが好ましくないのと同様に、こういう論調の話が出る時に、すぐに「患者無視」とか言うのが、本当に真剣に治療方針を突き合わせている医師たちに失礼だとも思います。

 これは例えるなら、一流シェフがメニューを検討する会議に客も参加させろ、という話と同様だと思うんですよね。レストランを訪れる客が、厨房にまで入って細かな調理法に口をだす機会が無いにしても、好きな食材をリクエストしたり、メニューを選ぶ権利があるように、患者さんには外来や入院中の治療説明の時間に、きちんと治療を検討する機会を用意されていると思います。その前段階としての専門家同士の意見の整理としてのキャンサーボードに患者さんが入ってくることが別に「患者さん本位」でも無いし、そこに患者さんがいないことが「患者さん不在」でも無い。ちなみに「一流」は別に思い上がりではなく、「専門家」を例えて表現するのに使っただけです。念のため。

 放射線治療は、抗癌剤治療は、手術は…と患者さんに対してわかりやすく説明する場と、脊髄を外す角度で照射をどうこう、サルベージ手術に耐えられるか云々の話をする場は当然全く違うのです。別に患者さんがそこに参加したいならしてもらってもいいのですが、そこに何の意味があるのでしょうか。キャンサーボードで治療の選択肢と可能性の話をした上で、可能性のある治療法の中から患者さんに選んでもらうわけで、患者さんが「いや、60Gyまであてられるでしょ」とか言わないでしょ、という話です。何かキャンサーボードというものをきちんと理解していない気がするんですよね。キャンサーボードが、患者抜きで治療方針を決定する場、という表現がそもそもミスリードで不正確です。

 何度も繰り返しているように、少なくとも今のご時世で医者が勝手に治療法決めて押し売りするとかいうことは無いです。

(2014/12/15 誤字を訂正、意味のわかりにくいところを一部修正、補足しました。大きく改変したところはありません)