サルトル哲学における自由とは

やねごんさんの、「自由」にかんするたいへんわかりやすい記事
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20080706#p1
に かんれんする かしょを『図解雑学サルトル』(ナツメ社)

図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)

図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)

から いんようしてみる。
ちょしゃの りょうかいのもとに漢字をへらして かきなおした。

■(90ページ)自由と不安(1)
●がけの上のわたしには、「がけからおちる可能性(かのうせい)」がある
 サルトルは、にんげんの自由(じゆう)と不安(ふあん)のかんけいについて、つぎのような せつめいをする。
 わたしが、たかい断崖絶壁(だんがいぜっぺき)に そった道をひとりで あるいているとしよう。そのみちには手すりもなにもない。わたしは、恐怖(きょうふ)をかんじるだろう。わたしは足をすべらせるかもしれない。あるいは がけが きゅうに くずれるかもしれない。そうなれば、わたしは がけからおちて死んでしまうだろう。わたしは、その「可能性(かのうせい)」に恐怖するわけである。しかし、その可能性(=わたしの身体ががけからおちる可能性)は、モノの可能性とおなじ しゅるいの可能性である。たとえば、がけのうえに石(いし)があったとして、この石も、さまざまな じょうけんがかさなれば、物理法則(ぶつりほうそく)に したがって下におちていく。おなじように、わたしの身体(しんたい)も、物理法則にしたがう たんなるモノにすぎない。がけのうえの石が「おちる可能性」をもっているのと おなじように、がけの上のわたしの身体も「おちる可能性」をもっている。
●わたしの行動の「くわだて」は、「がけからおちない可能性」を生む
 だからこそ、わたしは「おちないように」ちゅういする。わたしは小石(こいし)にちゅういし、みちのはしから できるだけはなれているようにするだろう。わたしは危険回避(きけんかいひ)の行動を「くわだてる」のである。とうぜんながら、石にはこういうことはできない。「おちそうな石」も「おちそうなわたし」もどちらも「おちる可能性」をもっているが、わたしは、「おちないようにくわだてる」ことができる。そのことによって、おちそうなわたしに、「おちない可能性」が生まれるのである。
 このように、わたし(=わたしの身体)の「おちる可能性」は、ぶつりほうそくによって わたしの外からやってくる可能性であるのにたいして、わたしの「おちない可能性」は、わたしが行動によってつくり出した、わたしの内(うち)からやってきた可能性である。これを、サルトルは「わたしの可能性」と よぶ。

■(92ページ)自由と不安(2)
●わたしがおちないのは自由であるから
 さて、がけからおちないようにちゅういし、くわだてることによって、わたしの「恐怖(きょうふ)」は消えるかもしれない。だが、わたしの「おちる可能性」がわたしの外のさまざまなモノによって作られているのに たいして、わたしの「おちない可能性」は、わたし自身が作っているものに すぎない。石ががけからおちるかどうかは、さまざまなじょうけんと物理法則(ぶつりほうそく)によって すでに きまっているということもできる*。それにたいして、わたしが おちないようにくわだてるか、あるいはくわだてないか、ということは、わたししだい なのであり、けっていされていない。これが、わたしが石のようなモノとちがって「自由」である、ということの いみである。しかし、にんげんが自由であるということは、いちめんで じつにやっかいなことである。
●自由と不安の関係とは?
 たとえば、わたしは、ちゅういして まっすぐあるこう とすることも できるわけだが、それができるということは、ぎゃくに言うと、わたしは ちゅういせずに あるくこともできるし、はしることもできるし、ほかのことを かんがえながら あるくこともできる、ということである。そして、きょくたんに言えば、わたしは だんがいから みをなげようとすることだって できるのである。それをふせぐものは わたしいがい なにもない。このとき、わたしは、恐怖ではなく「不安」をかんじるのである。わたしは「おちるかもしれない」と恐怖していたが、いまは「みをなげるかもしれない」と不安をかんじている。しかし、にんげんは自由だからこそ不安をかんじるのであり、ぎゃくにいうと不安とはにんげんが自由であることを しょうめいするもの なのである。
 恐怖は、がけや石、おちそうなわたしの身体、という モノに たいする恐怖である。それにたいして、不安は、どんな行動を作ることもできる「わたし」じしんに たいする不安なのであり、それはわたしの「自由」に たいする不安なのである。
*こうしたかんがえかたを「けっていろん」と言う。

■(96ページ)にちじょうてき道徳(どうとく)と くそまじめの精神(せいしん)

●あさ目ざましどけいがなると、起きて会社に行くのはなぜ?
 サルトルは、「不安」とは、にんげんが じぶんじしんの自由をいしきすることである、と言う。しかし、にんげんはつねに不安を かんじているわけでは ない。にんげんは「つねに自由である」からといって、その自由を「つねにいしきしている」とはかぎらない。むしろ、にんげんは、にちじょう生活(せいかつ)においては、不安から めをそらしながら生きているのである。たとえば、わたしたちは、まい朝 目ざましどけいが なると起床(きしょう)し、食事(しょくじ)や みじたくをして学校(がっこう)や会社(かいしゃ)に行く、というようなにちじょう生活を送(おく)っている。しかし、「がけくずれが がけの上の石の落下(らっか)を ひきおこす」というのと同じように「目ざましどけいが わたしの起床(きしょう)を ひきおこす」と言うことはできない。目ざましどけいの 音がなったとき、きしょうするという可能性をつくり出すのはわたしたち自身(じしん)だからである。つまり、がけのうえのわたしに、がけから みをなげる可能性があったのとおなじように、目ざまし時計の音を聞いたわたしにも、起きずにそのまま寝(ね)つづけるという可能性があるのである(かいしゃは くびになるかもしれないが)。
●くそまじめの精神(せいしん)の ひはん
 わたしたちの にちじょうせいかつは「芝生(しばふ)にはいるな」とか、「税金(ぜいきん)を はらいなさい」といったものをはじめとした さまざまなきそくに かこまれている(これをサルトルは「にちじょうてき道徳(どうとく)」と言う)。しかし、そうしたきそくは、ちょくせつわたしたちの行動を「けってい」しているわけではない。じっさいは「きそくに したがう」とじぶんで きめたからこそ、きそくが いみをもつのである。だが、きそくをなりたたせているのが じぶんじしんである、ということを みとめることは、わたしたちに不安をひきおこす*。だから、わたしたちは まるで きそくが わたしたちの行動を外がわから けっていしている かのように思いこむ ことによって、あんしんしようと するのである。そのような精神(せいしん)をサルトルは くそまじめの精神(せいしん)と よぶ。

*きそくにかんする こうした不安をサルトルは「倫理(りんり)てき不安」とよぶ。