サルトルだったらこう考える

的場昭弘氏の『マルクスだったらこう考える』(2004年)を読みました。

この本で著者は「二一世紀の現在について、マルクスならどう考えるかということを、彼の理論を使いながら、かつそれを現代の諸理論で読み替えながら分析することに焦点を当て」て書かれています。
「マルクス、二一世紀の東京に現わる」と題された序章では、著者は、もし現在の日本にマルクスが現れたらどのような感想をもつか、ということを想像しています。その中に、91年のソ連崩壊以後、マルクス研究がいかに落ちぶれたか、ということについての記述があります。

大学を何校か訪れた後、マルクスは愕然とします。一九八九年の東西ベルリンの壁崩壊、九一年のソ連崩壊後、彼の名前がクズ同然になったこと、マルクスおよびマルクス主義を信奉しているなどと人前で口にするのは、今でははばかられる行為であることを知ったからです。
マルクス経済学という講座は、かつてはどこの大学の経済学部にもあったのですが、今ではマクロ経済学ミクロ経済学が主流になっていること(……)マルクスの研究者もテーマを変え、彼の名前さえ論文の中に引用しなくなっています。
書店に行くと、マルクスはさらに大きなショックを受けます。経済学のコーナーには、申し訳程度にしか彼に関係する書籍が置かれていません。哲学思想のコーナーでも、ミシェル・フーコーの半分程度、それも大きな書店での話で、小さな書店では一冊も置かれていません。せいぜい『マルクスがわかる。』(朝日新聞社、一九八九)があるぐらいです。
マルクス自身の著書にしても同じです。全集はとっくの昔に消えていますし、『資本論』ですらあまり見かけません。かつてはどの文庫にもあった『共産党宣言』も、ほとんどなくなってしまいました。
そこでマルクスは、紀伊国屋書店の書籍検索で「カール・マルクス」と入力してみます。そして実際に二〇年前に比べて、恐ろしく数が減っていることに気づきます。
驚いたマルクスは、街を歩く大学生らしき若者に、自分の名前を知っているかどうか尋ねてみます。
「それってサッカーの選手?」
「世界史か倫理社会で習った人? でも”赤”なんだよね。やばいよ」
これらはまだいいほうで、なかには「マルクス主義は、日本人を拉致した国の思想だ。許せねえよ」と凄む人もいます。(……)
いや、ここまで落ちぶれてしまった自分の名前をふたたび世に知らしめるために、積極的に自己紹介をするかもしれません。かつては、マルクスがドイツ人で、ロンドンで亡くなったということぐらい、たいていの学生なら知っていましたが、今ではほとんど誰も関心を持っていません。(p.13-15)

私も、サルトルの同じような「落ちぶれ」ぶりについてこのブログなどで何度も書いてきました。
(たとえばここhttp://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050925/p2や、ここhttp://d.hatena.ne.jp/zarudora/20070501/1177971564)
いやー、というわけでこれ、非常によくわかります。ていうか、上の文章、「マルクス」を「サルトル」に置き換えてもまったくそのまま使えそうです。特に、二人とも、同名のサッカー選手がいて、そっちの方が有名になってしまっている、というところまで一致しているというのは、おもしろいです(ちなみに、浦和レッズに田中マルクス闘莉王という選手が、そしてイタリア出身のルイジ・サルトルという選手がいます)。


というわけで、同じくもし二一世紀の東京にサルトルが現われたら、「ご同輩!いやー、お互いつらいですなあ……」とか何とかいいながら、マルクスと一緒に「赤」ちょうちんに飲みに行こうとするかもしれません。ところが、どこに行ってもオサレなバーばかりで、赤ちょうちんもどこにもなくなっていた、なんてオチもつきそうです。まあそんなくだらないことを考えながら本を読み進めていくと、真ん中へんで、サルトルが出てきました。ふむふむ、どう書かれているのかな、と思ったらなんと!……というわけでそこのところをちょっと引用します。

サルトルは人間という主体がもつ優位性を、世界をとらえる中心におき、人間の解放を説きます。このサルトルのいう人間の原型は西欧的な人間、いわゆる人間中心主義における人間です。そしてこの人間中心主義思想こそ普遍的思想として世界に広まりました。サルトルは、自分の思想をマルクス主義の中に読み込み、マルクス主義として世界の啓蒙を行います。(……)
ところが、レヴィ=ストロースが提唱した構造主義の波は、そうした議論を吹き飛ばすほどの衝撃をもっていました。(……)
サルトルの実存主義が、実際に”死”に追いやられるのは一九六〇年代のことでした。サルトルの名前が本国以外で絶頂期にあったころ、フランスではミシェル・フーコー、ルイ・アルチュセール、ジャック・ラカン、ロラン・バルトといった構造主義者からなる”刺客”が、サルトルのもとに次々に送り込まれていたのです。彼らは、実存主義およびマルクス主義がよりどころにしていた西欧的フレームワークに対して、次々に批判の矛先を向けて言ったのです。
こうして、サルトルの名前は、次に挙げるような三つの批判とともに衰退してしまいました。第一に一九五六年のソ連のフルシチョフ首相によるスターリン批判、第二にアルジェリアなどの民族独立運動の動きと西欧的価値観への批判、第三に構造主義者によるヒューマニズムへの批判です。これらの批判は、それぞれ、サルトル流マルクス主義、実存主義、ヒューマニズムをこなごなにしてしまったのです。(p.131-3)

おやおや……。肩を組もうと伸ばしたサルトルの手を、マルクスは荒々しく払いのけたようです。「おいおい!お前みたいな小物とオレを一緒にするなよ!お前なんざなあ、オレと違って落ちぶれて当然なんだよ!あっちいってろ!しっしっ!バカがうつる!」
まあ、それはともかく、この的場氏によるサルトルの解説、ちょっとあんまりですね。サルトル=人間中心主義=西欧中心主義=普遍主義=啓蒙主義、などというあまりなステレオタイプな形容もどうかと思いますが、第一ここではサルトルの著作名ひとつあげられておらず、いったいこれがサルトルのいつごろのどんな思想についての話かわからないし、なんというか、倫理の教科書レベルの漠然とした説明だけをもとに、サルトルは「”死”に追いやられた」て言われても……と思わなくもないです。
また、フーコー、アルチュセール、ラカン、バルトが「刺客」として「サルトルのもとに送り込まれた」なんていう書き方では、まるで彼らがサルトルのまったくの外部からやってきたかのようですが、ここで名前を挙げられている人々はみな、多かれ少なかれサルトルの影響を受けて、あるいはサルトルを強く意識しながらその思想をつくりあげた人ばかりではないでしょうか*1。こちらで紹介したレヴィなんかは、それどころか、サルトル思想は、アルチュセール、ラカン、フーコー、ドゥルーズといった「68年の思想」にはるかに先駆けた反ヒューマニズム、反主体の思想である、と言うわけです(『サルトルの世紀』*2)
新書で紙数が限られている、というのもあると思います。ただ、それなら、なぜこのような形で、単にけなすためだけ(にしか見えない)という形でサルトルを引き合いに出すのか、よくわかりません(まあよくある話なのですが)。
一番気になるのは、サルトルが「三つの批判」によって「こなごなになった」というくだりです。どれも異論がありますが、特に2番目。「アルジェリアなどの民族独立運動の動きと西欧的価値観への批判」というのは、それがサルトルをこなごなにした、どころか、それにもっとも早く反応したフランスの知識人がサルトルだった、とでも言うべきではないでしょうか?
的場氏は、サルトルのいう人間の原型が「西欧的な人間」であり、サルトルは「人間中心主義思想」を「普遍的思想」として世界に広めた、というように言うのですが……じゃあいったい、1961年、フランツ・ファノンの本への序文でこう書いたサルトルは、何だったというのでしょうか?

何という饒舌だろう――自由、平等、友愛、愛情、名誉、祖国、その他なにやかやだ。だがそれも、われわれが同時に、黒んぼめ、ユダヤ人め、アルジェリアのねずみめ、と人種差別的言辞を弄するのを妨げはしなかった。リベラルで親切な良識ある人びと――要するに新植民地主義者――は、こうした矛盾にショックを受けたと公言していた。だがこんな言葉は、錯誤でなければ自己欺瞞である。われわれヨーロッパ人にとって、人種差別的ヒューマニズム以上に筋道の通った話はない。なぜならヨーロッパ人は、奴隷と怪物を拵えあげることによってしか、自分を人間にすることができなかったからだ。原住民が存在する限り、この偽善は仮面をかぶっていた。われわれは人類という名で抽象的な普遍性を主張したのだが、この主張は現実的な人種差別を覆いかくすのに役立っていた。つまり海の向こうには半人間の種族がいて、われわれのおかげで、多分千年もたてば人間になるだろう、というのである。ひと口に言えば、人類とエリートを混同していたのだ。
(ジャン=ポール・サルトル、1961年*3)

もっとも、的場氏は、「アルジェリアなどの民族独立運動の動きと西欧的価値観への批判」を単純に「イイ者」にしているわけではありません。民族主義を夢見る後進国の革命運動は、しばしば後進国内部での差別を生み出してしまうのであり、単に民族主義的レベルにとどまる限りでは「オリエンタリズム批判」は限界を持っている、と指摘しています。また、マルクスを全面擁護しているわけでもありません。氏は、(マルクスがイギリスによるインド支配を肯定しているように見える文章を引用しつつ行われた)サイードによるマルクス批判を紹介し、マルクス主義が持っていた近代主義・西欧中心主義としての側面について指摘しています。
とはいえ、同時に的場氏は、サイードが引用しなかったマルクスの論説を紹介して、そこでマルクスはインドの民衆の力を肯定的に描いていて、単に上からの啓蒙目線でインドを見ていたわけではなく、「マルクスは東欧やアジアを、西欧の「他者」として扱ったのではない」とマルクスを擁護しています。また、「〔人間主義的・西欧主義的な〕初期マルクス主義に帰れ、といった反スターリン主義は実は間違っている、人間のみを特権化する人間主義そのものが、実はスターリン的生産力主義を生んだ」というアルチュセール派の議論を紹介していて、つまりサルトルは、どう考えても「ワル者」である、という感じなのです。
しかし、的場氏が『マルクスだったらこう考える』で、マルクス主義の可能性の一つとしてあげている新しい形での共同体思想についてですが、私見では、それはまさしくサルトルの思想の中にも見られるものだと思います。次回はそれについて書きます。
……と言いましたが、これまでこのブログで、「つづく」と書いて本当に続きを書いたためしが、ほぼない……。というわけで、新しい年を迎えて、決意も新たに、ここに宣言します。これからは、決してそのようなことがないようにします!


……というわけで、今後は「つづく」ではなく、「つづくかもしれない」と書くことにします!

(つづくかもしれない)

*1:それとも、「刺客」を送る側も送られる側も実は大して変わらない、ていう2005年郵政選挙のあれを皮肉っているんでしょうか(と思ったらこの本は2004年発行でした)

*2:邦訳は2005年

*3:フランツ・ファノン『地に呪われたる者』への序文 邦訳27頁