ベルナール=アンリ・レヴィ『サルトルの世紀』(藤原書店)書評

サルトルの世紀
ベルナール=アンリ・レヴィ〔著〕 / 石崎 晴己監訳 / 沢田 直訳 / 三宅 京子訳 / 黒川 学訳
藤原書店 (2005.6)
通常2-3日以内に発送します。
『週間読書人』2005年8月12日号掲載。
                      • -

 「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉がかつてあった。この言葉に哲学部門があれば、「サルトル、大鵬、卵焼き」と言われたかもしれない時代があった。人気があれば、アンチも増える。しかし、70年代以降の思想界では、アンチ・サルトルが圧倒的な多数派となり、サルトルは、フランスでも日本でも、最も不人気な哲学者として最下位街道をひた走ることになった。アンチに叩かれるうちはまだいいが、次第にサルトルは、冷笑の対象となり、ついには思想界から「登録抹消」となる。日本では、20世紀の31人の思想家を解説した『現代思想の冒険者』シリーズの中に、サルトルの巻は……無い。つまり「無かったこと」にされてしまったのである。そして誰も読まなくなった。
 そんなサルトルを礼賛する本書をベルナール=アンリ・レヴィが2000年に出版した時、フランスのメディアはそれを「一大事件」と報じた。なぜか?それは、著者レヴィが「ヌーヴォー・フィロゾフ(新哲学派)」(68年5月革命世代から生まれ、スターリニズム的全体主義がマルクス主義そのものに根を持つとしたマルクス葬送派)の代表選手だったからである。そんな彼にとって、マルクス主義を「乗り越え不能」とまで持ち上げたサルトルは「宿敵」といってもいい存在だったはずだ。また、ロンゲにはだけたシャツでホスト風なイケメンを演出し、メディアに出まくる彼は、もともと何かと話題にことかかない人物である(ドゥルーズは彼を「思想的にはゼロ」の新哲学派の「興行主、音頭取り、ディスクジョッキー」とこき下ろした)。というわけでこの「一大事件」、いい例が思いつかないが「新庄剛志が巨人に移籍」というようなものだろうか?
 さて、サルトル「再生工場」たる本書の作戦はいかなるものなのだろうか。レヴィは、敬遠の球をヒットにした新庄ばりの、一見意表をついた作戦をとる。すなわち、レヴィは「実存主義はアンチ・ヒューマニズムである」と宣言するのである。しかし、サルトルは(彼が一躍有名人となった)1945年の講演で、逆に「実存主義はヒューマニズムである」と宣言したのではなかったのか?ところで、サルトルに関する通説というがある。それはこうである。サルトルは「主体の哲学=人間主義の哲学」として出発し、知の巨人として戦後思想界に君臨したが、その後、構造主義、ポスト構造主義などの、反人間主義、反主体主義の哲学によって完膚無きまでに打たれまくり、炎上、再起不能に陥った……。ところがレヴィは、そうした通説を完全に否定する。『嘔吐』、『存在と無』、『自我の超越』といった戦前のサルトルを読み直し、そこに、アルチュセール、ラカン、フーコー、ドゥルーズといった「68年の思想」にはるかに先駆けた反ヒューマニズム、反主体の思想を見いだしたレヴィは、ほとんど感嘆の声をあげながらそれを紹介する。さて、レヴィによると、「人間」の本性を想定し、それに向けて現実の人間たちを「よりよく」作り変えようとする着想、すなわちヒューマニズムこそが、収容所、大量虐殺に帰着する全体主義の根本にある。したがって、反ヒューマニズムとしてのサルトル哲学は「反全体主義のチャンピオン」でもあることになる。ただし、そうした反全体主義的サルトル、「よきサルトル」の他に「もう一人のサルトル」がいる、とレヴィは付け加える。捕虜収容所の中で「共同体」の思考にめざめた時に生まれたこの「悪しきサルトル」が、ソ連や毛派を支持し『弁証法的理性批判』を書いた、というのが彼の見方である。
 サルトルを擁護するべく登板したレヴィの華麗な救援投手ぶりはなかなか痛快で、本書は長いが一気に読ませる魅力と勢いを持っている。だが、自分を現代のサルトルに見立てたスタンドプレーのきらいがあること、また事実誤認や論証の荒さが見られることもあり、実はサルトル研究者の間では本書はあまり評判がよくない。しかし、サルトルやレヴィの思想界での「評判」などは実はどうでもいい。そして、過去の試合の判定を覆すことや、サルトルを「殿堂入り」させることも、どうでもいい。問題は、現在の「われわれ」にとって、レヴィの言う「抗議と抵抗の戦略」を見つけるために、「アンチの巨人」たるサルトル哲学が「使える」のかどうか、ということである。サルトルを「再生」させるとはそういうことだろう。もっとも私は、サルトルは現役バリバリだとずっと思ってきたし今も思っている。(石崎晴己監訳、澤田直・三宅京子・黒川学訳)(ながの・じゅん氏=東京都立大学等非常勤講師・哲学専攻)