yuhka-unoの日記

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『50歳、おしゃれ元年。』を読んで―若々しさとは何か

50歳、おしゃれ元年。

50歳、おしゃれ元年。

『50歳、おしゃれ元年。』(著者:地曳 いく子)。この著者は『服を買うなら、捨てなさい』のほうが有名かもしれないけど、私にとってはこっちが面白かった。体型が変わり、世間のおしゃれルールが変わり、「若い頃は『この世に似合わない服なんてないわ! すべての服を着こなしてやる!』と 傲慢に考えていた私が、完敗なのです。」という、プロスタイリストの著者による、50代からのおしゃれ本。私の母くらいの世代向けだけど、目次だけ見ても「うんうん」と頷いてしまう。
 
とりわけ、印象に残っている言葉がこれ。

「昔はよかった」「あの頃の自分に戻りたい」と過去にしがみついたその時点で、既に「今の時代」に後れをとっている

私は、過去記事『自分が若いときのままで時が止まっているのは、「若い」とは言わない』の中で、「自分が若いときのままで時が止まっているのは『若い』とは言わないんだよね。『若い』っていうのは今を生きることだ。」と書いて、その時は価値観の話をしたんだけど、これって、おしゃれでもそうなんだな、と思った。
 
私は、自分自身が大人顔だったので、同世代の若い女の子向けのファッションが似合わなかった。だから、魅力的だと思う年上の人を観察して参考にしようと思った。私が年長者を観察していて思ったことは、シミやシワよりも、「若作り」と「流行遅れ」が老けて見えるということだった。
実際、うちの母とかを見ていると、本人が思っているほど、シミやシワって気にならないんだよね。いや、本人は気になるんだろうし、私も、いずれ自分の顔にシミやシワを発見する時が来たら、落ち込むんだろうなって思うけど、でも、他人にとっては、その年齢の人にそのくらいのシミやシワがあるのは当たり前って思ってるから、まぁ普通だなって思うだけなんだよね。
ただ、そのシミやシワを気にして、ファンデを素肌よりずっと明るい色で塗ってしまって、ファンデが白浮きしてしまったり、厚塗りになってしまったり、さらに、あの年代の人にありがちな、濃いブルーのアイシャドウに赤色が濃い口紅みたいな、昭和の香りがするメイクだと、かえって老けて見えてしまうのね。というか「古く」見えてしまう。
結局のところ、他人から見て「若々しい」もしくは「古い」っていうのは、外見的な面においても、「今を生きている」ってことになるのかも。シミやシワは「今」のものだけど、自分が若い時から更新されていない服装やメイクや髪型は、「過去」のものだもんなぁ…
 
ただ、これってすごく難しいと思うのね。だって、シミやシワって、自分ではっきり見えるから。見たくなくても見えるもんだろうし。自分でわかるし、目に付くから、「これを何とかすれば…!」って思ってしまうもんなんだろうな。でも、自分のメイクや服装や髪型が古いっていうのは、自分では見えない。わからないよね。だから、他人に指摘されない限りは、自分で気付くしかない。
というわけで、年を重ねたら、シミやシワをなんとかする化粧品よりも、最近のトレンドのほうに意識してアンテナを立てておいたほうが良いのかもしれない。
 
それにしても、こういうおしゃれについては、よく「若い頃は失敗が許されるから、何でも試してみればいい」「でも歳を重ねてきたら、自分に合うものくらいわかっているはず。失敗とか恥ずかしい」みたいなこと言われてるけど、でも、いくつになっても、おしゃれってわからないもんなんだな、と思った。自分の容姿や体型だって変わるし、世間のおしゃれルールだって変わる。だから、もうその都度、失敗を承知で試行錯誤していくしかないのかもしれないな、なんて思った。というか、それって若者と同じだよね。だから「若々しい」んだわ。
若いうちの失敗は、挑戦して失敗することが多いけれど、ある程度の年齢以降の失敗は、新しいものに挑戦せず、今までのやり方を変えなかったことによって起こることが多い。つまり、何年も同じやり方を見直さずやっているのなら、それはもう既に失敗している可能性が高いってことだ。

 
あと、

買い物に夫の同伴、邪魔なだけ!

試着に連れて行っていいのは、口の悪い女友達か娘や息子

には笑った。夫からは「早くしろよ」オーラが出てるし、夫がダメなら友達なら良いのかというと、「どう?この服」「うん。平気、平気」みたいな会話をしてしまって、本音を言ってもらえないから、頭に「口の悪い」がつく友達か、娘や息子じゃないとダメだって(笑)。
これにも頷ける。私も、買い物は基本的に一人で行くよね。

『できれば服にお金と時間を使いたくないひとのための一生使える服選びの法則』を読んで―基礎は素人には見えない

『できれば服にお金と時間を使いたくないひとのための一生使える服選びの法則』(著者:大山旬)…タイトル長くて覚えられない(笑)。
この本は、弟にあげようかと思って買ったけど、弟自身は特に興味なさそうだったので、私の手元に置いておくことになった。一応、男女両方載っているけれど、基本的には男性服中心の本。大人世代の私服の「基本のキ」「守破離の守」について解説する内容で、たぶん、既にそこを通り過ぎてしまっている人にとっては、「もう知ってるよ」な内容だと思う。一方、ファッション初心者の男性にとっては、有用な内容かと。
前回記事“『女の子よ銃を取れ』を読んで―抑圧からの解放”で紹介した本が、おしゃれの精神面にアプローチした本ならば、こちらは実践面の解説本。初心者がファッション誌だけ見てもおしゃれになれないというのは、よく指摘されることだけれど、それって、初心者が音楽情報誌だけ見ても楽器を弾けるようになれないのと、同じなんだよね。初心者に必要なのは、こういう「ギターの弾き方」みたいな本だと思う。


著者は、「ファッションは誰のためのものか」という章で、

大人のファッションは自分のためのものではなく、周囲の人との関係性をスムーズにするために必要不可欠なものなのです。

というスタンスを示していて、そこらへんは、過去記事『おしゃれ、したかったよね。―服が捨てられなかった私の話―』で書いたように、母親に抑圧されていた自分自身を取り戻すため、趣味であり自己開放を目的としておしゃれをしている私とは、違う考え方なんだけれど、著者は普段、主に経営者や個人事業主向けにファッションアドバイスをしているそうなので、そういう観点からのものだと考えれば、正しいと思う。
私は、身嗜みは社会性やマナーの問題、ファッションは趣味の問題と考えていて、後者は、基本的には、興味がなければしなくても良いことだと思っているけれど、ただ、二つほど例外があると思う。ひとつは、ファッションが仕事の人。これは言うまでもない。もうひとつは、経営者、営業職、芸能人、婚活中の人など、「自分を売り込む」必要がある人。こういう人にとっては、ファッションは、商品のパッケージデザインと同程度には大事だと思う。
ただ、趣味でやるにしても、パッケージデザインでやるにしても、基礎の部分は変わらないんじゃないかと思うのね。その「基礎の部分」の解説本として、近年出版された本の中では、この本はとても有用だと思う。


この本の中で、私が最も重要だと思ったのは、「『ベーシックな服装』の考え方」「服選びが苦手な人はディティールや機能にこだわりがち」「服選びの7割はサイズで決まる」の項目で書かれている内容だ。ここでは、まず二枚の異なるシャツを提示して、「どちらがおしゃれに見えますか?」と尋ねている。1つは格子柄の模様が入り、糸やボタンの色が変わっているシャツ。もう1つは真っ白で装飾性のないシンプルなシャツ。おしゃれが苦手な人は、前者のシャツがおしゃれだと感じやすいけれど、実際に着てみてシルエットがきれいに見えるのは、後者というわけだ。おしゃれが苦手な人は、ぱっと見装飾的なものに惹かれてしまうけど、本当はサイズ感とかシルエットとかが大事という話である。
尚、下のWebサイトで、この部分の内容のほとんどが掲載されているので、紹介しておく。

あなたの見た目を劇的に変える「3つの法則」|できれば服にお金と時間を使いたくないひとのための一生使える服選びの法則|ダイヤモンド・オンライン

服選びは「サイズ」が7割|できれば服にお金と時間を使いたくないひとのための一生使える服選びの法則|ダイヤモンド・オンライン


かつて、私の知人の音楽家さんが、「速弾きとかするとウケたりするのかもしれないけど」「楽器演奏の快感に浸りすぎると、『超気持ちいいーw』という段階で成長が止まってしまう」「ドラムで一番大事なのはリズムキープ」というようなことを言っていたけれど、ここで書かれていることが、その音楽家さんが言っていたことと、色々な部分が共通していて、関心してしまった。
たぶん、他の分野でも、その分野に対するリテラシーがない人は、ぱっと見の表層的なものに注目してしまうけれど、本当に大事なところはそこじゃないんだ…っていうのは、よくあることなんだろうね。絵を書くにしても、紙の上で自由になるには、デッサン力を養って、ものの形を掴んでアウトプットできるように練習をする。前衛的な抽象画を書くにしても、写実的な風景画を描くにしても、その能力があってこそという部分は同じだ。
結局、音楽でも絵でもファッションでも、基礎が大事だし、また、その分野の素養がない素人は、表面上のディティールばかりに注目してしまいがちで、なかなか基礎の部分を認識できないということなんだろう。


本の冒頭で、著者は、「服選びが苦手な人」として、「無頓着型」と「独自センス型」がいると言っているが、「超気持ちいいーw」で止まってしまう人は、ここで言うところの「独自センス型」に当たると思う。「独自センス型」って、経験が積み上がっていかないんだね。趣味でやっている分には「独自センス型」でも構わないけど、それ以上上手くなっていきたいと思うんだったら、やっぱり基礎の部分をやったほうが、「独自センス型」でやるよりも、もっと自由にできるようになるのは、どの分野でも同じだ。そういう意味では、「独自センス型」は、一見自由なようでいて、実はそれほど自由じゃないのかもしれない。
「型がある人が型を破ると『型破り』、型がない人が型を破ると『形無し』」という言葉があるけれど、ファッショナブルな人は「型破り」、そうでない人は「形無し」ということなのかもね。どの分野でも、守破離の守の段階で躓いてしまうのが、「センスがない」と言われる人たちなんだろう。よく「ファッションはセンス」と言われがちだが、音楽や描画は学校で習うことがあるけれど、ファッションは学校では習わないので、基礎の部分が多くの人にはあまり理解できず、「センス」で片付けられてしまう傾向が強いのかもしれない。

 
あと、著者は「服選びはふつうが一番」と言っていて、これもやはり、経営者や個人事業主や婚活の装いなら「ふつうが一番」という意味なんだろうけど、ただ、「ふつうを知る」のが大事なのも、色んな分野に言えることなんじゃないかと思った。これは、「全体の中で、中間(ふつう)レベルはこのくらい」という意味ではなく、「『ふつうに良い』とは、こういうこと」という意味で。要するに「基本形を知る」ということだ。
アバンギャルドな方向をやるにしても、「ふつう」とは何かを知っておく必要はあるだろうし、あえてオーバーサイズの服を着るというおしゃれをするにしても、自分の適性サイズを知っておく必要があるだろうしね。あえてのオーバーサイズと、自分の適性サイズがわからなくてダボダボ状態は、違うということで。
そう考えると、著者の言う「ふつう」は「正統派」に近い意味なのかもしれない。ただ、私自身もファッションの傾向が正統派の人間だから思うのだけれど、「正統派」って、実は「多数派」じゃなかったりするんだよね。そういう意味では、「正統派」は案外「ふつう」じゃないと思う(笑)。


この辺の話は、これとも共通しているかもしれない。

“人間、自分よりもレベルが高すぎる人のことはわからない。”
本当におしゃれな人ほど、大しておしゃれに見えないという話-おしゃれになる方法


さて、基礎と基本に関しては概ね正しいと思う『一生使える服選びの法則』だけど、女性の靴に関する記述については、不満な点がある。7cmヒールのパンプスを着こなしに取り入れるよう勧めているところだ。

高い靴はあまり履かず、ほとんどフラットシューズで過ごすという方も少なくないかと思います。しかしそれ一辺倒になってしまうのはとてももったいないことです。

7cmヒールというのは、女性の脚を美しく見せてくれる効果があります。7cmヒールですと歩きやすさも兼ね備えていますので、ぜひ積極的に取り入れていただければと思います。

これに関しては、正直な感想を言うと、「いっぺん7cmヒールのパンプス履いて1日過ごしてみろやああああ!!」だね(笑)。いや、「7cmヒールですと歩きやすさも兼ね備えていますので〜」と書いてあるからには、もしかしたら、著者は実際に履いてみたことがあるのかもしれない。ただ、その場合は、著者が、男性にしては足が小さく、普通に展開されている女性用パンプスでも問題なく履けました、というのではない限り、自分のサイズに合った、履いていて疲れないパンプスを探す過程で、足のサイズ的に「規格外」な女性たちと同様の、色々な工夫が必要だったはずだから、そこのところが書いてあれば、私にとっても、大いに参考になったんだけどなぁ…


あと、女性の場合、「いつも選んでいるサイズを疑ってほしい」は、ブラジャーに関しても言えると思う。自分のブラジャーのサイズを間違えている人って多いらしいし。体型が変わると胸のサイズも変わるしね。

Cカップの土偶女が突然Fカップになった時の話 - bswbp0916's diary


そもそも、「大人のファッション」って何なんだろう。私が考える「大人のファッション」は、「自分に向き合えていること」かな。自分の外面、つまり、容姿や体型を過剰に卑下したりすることなく、冷静に見つめられるということと、自分の内面、つまり、自分は何を着たいのか、その服を着ることで何を得たいのか、その服を着ると自分と周囲はどう変わるのかを、冷静に見つめられるということ。完璧にはできなくても、そうしようとすること。その結果が、万人受けする格好になろうと、多くの人には理解されない格好になろうと、それはどちらでも良いんだと思う。というか、これ人生全般そうだよね。
そして、私自身の考えとしては、やっぱり、ファッションはまず自分のためのものだと思う。というか、そうであって欲しいという願いもあるのだけれど。なぜなら、女性にとっては、自分の体が自分のものではなかった歴史が長くあることから(黒人もそういう歴史があるよね。)、「私の体は私のもの」と言うことは、とても大切なことだからだ。いくら、自分の体が自分で直接見ることができないものだとしても、自分の身体は自分自身のものであり、他人のためにあるものではない。
でも、自分のために服を着ることと、他人を思いやることは、矛盾しないんじゃないかと思う。例えば、(親などの)誰かにとって都合のいい人を演じさせられ、嫌われまいと他人に対して気を遣い、心を閉ざしている人と、「嫌われてもいい。全ての人に好かれるのは無理だ」と自己開放し、自分の人生を生きている人とでは、本当の意味で他人を思いやれるのは、後者の人だからだ。


なお、著者の大山旬氏は、最近新しい著作を出されたそうだ。私はまだ読んでないけど、男性向けファッション指南本としては、もしかしたらこっちのほうが良いかもしれない。タイトルも短めだし(笑)。

おしゃれが苦手でもセンスよく見せる 最強の「服選び」

おしゃれが苦手でもセンスよく見せる 最強の「服選び」

『女の子よ銃を取れ』を読んで―抑圧からの解放

女の子よ銃を取れ

女の子よ銃を取れ

『女の子よ銃を取れ』(著者:雨宮まみ)。この本は、過去記事『おしゃれ、したかったよね。―服が捨てられなかった私の話―』で書いたように、「おしゃれに興味のない、流行に疎い子でいて欲しい(金がかかるから)」という母親の願望を内面化していた私が、「私、本当はおしゃれしたかった!」となって、押さえつけられていた欲望を解放していく過程で読んだ。この本の冒頭部分に、“「美しくなりたい」と思う気持ちは、私の中では「自由になりたい」と、同義です。”と書いてあるけれど、私にとっておしゃれをすることは、まさに、母親や世間の抑圧から逃れて自由になることだったのだ。

特に共感したのは、「かわいくない女の子」の項。著者は、ドバイに旅行に行って、「なんとも言えない開放感」を味わった後、新宿駅まで戻ってきた時に、ファッションビルのショーウィンドウを見て、打ちのめされたような気持ちになり、「ああ、私はまた、日本の『かわいい』至上主義の中で暮らしていかなきゃいけないんだ」と思ったという。
私は、過去記事『可愛くない私の自分探し』で書いた通り、20歳の頃から、父と一緒にいると「奥さんですか?」と聞かれるくらい、大人っぽい落ち着いた容姿だった。同世代の女の子たちがしている「かわいい系」なメイクや服装や髪型が、自分に似合うとは思えなかった。この「かわいい至上主義」の日本の中で、自分がロールモデルにできる女性像が、ものすごく少ないと感じていた。
著者は、日本の水着売り場には、若い女性向けの水着しか置いていないと言っているけれど、私は、その「若い女性」の年齢の時から、日本の店頭で売られている水着のほとんどは自分には似合わず、海外インポートの上品なワンピース型の水着のほうが似合うと思っていた。


以前の私は、美容院に行くのがあまり好きではなかった。完成した髪型に満足感を得られることは滅多になく、逆に「こんなふうにされるくらいなら、切らないほうがマシだった!」と思って帰ってくることのほうが、少なからずあったからだ。
美容院に行った若くてかわいくない女の子にの目の前には、「この性別のこの年齢の人にはこの雑誌」と判断されるのか、若くてかわいい女の子向けの雑誌が置かれた。到底私に似合うとは思えないファッションのモデルが載った表紙。それはまぁ読まなければ良い話ではあるのだけれど、自分が何かに当てはめられて決めつけられているような感じがして、なんとなく嫌だった。
それだけでなく、美容師に注文をほとんど無視されて、勝手にかわいい髪型にされてしまうこともあった。もしかしたら、美容師も、所詮はこの「かわいい至上主義」の日本の中で、その価値観を内面化しており、若い女の子に対して「かわいい髪型にしてあげなくっちゃ」と思ってしまう人が、少なくないのかもしれない。私はその美容室には二度と行かなかった。服や化粧品は自分で選べるけれど、髪型は他人の手を借りないといけないので、「ファッションマイノリティ」にとっては、なかなか難しい部分だと思う。


マジョリティとマイノリティの間でよく起こることとして、マイノリティはマイノリティ特性のままで生きていきたいのに、マジョリティのほうは、良かれと思って、あるいは、マイノリティの世界への無知から、マイノリティの特性を押さえ込んで、自分たちの社会に適応させようとする現象がある。
これはあくまで私の仮説というか持論なんだけれど、これと同じことが、おしゃれにおいても起きていると思う。つまり、たまたま今の流行りの格好が似合ってしまうタイプの容貌を持った人が、流行りの格好があまり似合わないタイプの容貌を持った人の外見を扱う場合、その人本来の容貌に似合うかどうかをあまり考えずに、流行りの格好をさせてしまうということが、けっこうあるんじゃないかと。
例えば、落ち着いた大人っぽい容貌の人がいたとして、本当なら、落ち着いた大人っぽい格好をすれば、その人が本来持っている魅力が引き立つのに、若い女子だからといって、「なんとか、流行りのかわいい格好が似合うように近づける」という方向に持って行ってしまって、結果全然似合っていないとかね。


ちなみに、今では、パーソナルデザインの診断を受けたことによって、自分に似合う髪型がわかり、美容院に行くのが苦ではなくなった。(ちなみに、私のタイプはこちら。)今の私の髪型は、自分の髪質と顔立ちに合わせたものになっている。切るたびに良い気分になれるし、満足できる。気持ちよくお金を払えるようになったのは、すごく大きい。
以前は、注文とは違う勝手なアレンジを加えられて、しかもそれが全然似合っていないので、「金返せ!」という気分になったこともあった。それは、髪のプロである美容師に対して、自分の感覚に自信が持てなかったからでもある。おかしいと思っていても、文句が言えなかったのだ。今では、「あまり見かけない髪型かもしれないけれど、私はこれにしたいんです」と、明確な意思を持って言えるようになった。
自分に似合う格好がわかるというのは、例えるなら、自分の身体に合う椅子が見つかるのに似ていると思う。それまで合わない椅子ですごく違和感があって、そこに意識が持って行かれてたのが、快適な椅子に出会って、あまり椅子を意識せずに済むようになった。そんな感じがする。


おしゃれコンプレックスから解放されていく過程では、特におしゃれについて書かれた本というわけではないけれど、『叶恭子の知のジュエリー12ヵ月』という本も役に立った。

叶恭子の知のジュエリー12ヵ月 (よりみちパン!セ)

叶恭子の知のジュエリー12ヵ月 (よりみちパン!セ)

“「鏡」とは、うぬぼれのためだけに存在しているものではありません。自分を知るためのツールとして、徹底して使いこなすためのものです。”
―叶恭子の知のジュエリー12ヵ月―

以前の私は、髪型やメイクを変えた時、鏡をまじまじと見て自分の顔を観察したいという思いがあった反面、そうやって一生懸命鏡を見るのが恥ずかしいという思いを持っていた。この思いは、私のおしゃれ心を押さえつけてきた母に、「あんた、何でそんなに鏡ばっかり見てんの?(笑)」と言われるんじゃないかという不安から来ていた。
でも、音楽家は自分の音楽を録音して聴き直すし、絵描きは自分の描いた作品を見直すし、文筆家は自分の書いた文章を読み直す。上手くなりたいなら、当然そうする。おしゃれになりたい人にとっての鏡を見る行為は、それと同じなのだ。鏡はチェックするためのツールなんだよね。

「オシャレ=チャラ男&キラキラ女子=バカ」という偏見、あるいはオタクとファッションについて

「オシャレ=チャラ男&キラキラ女子=バカ」という偏見は、一般人のオタクに対する偏見と同じ

自分で言う、勉強熱心な方だから興味があればやってた。しかし、
ファッション誌を見ることもかっこ悪いし、
チャラいやつと会話するのもかっこ悪いし、
服とワックスとノリの良さキラキラ女子はバカっぽく見えるし、
…と、完全にバカにしてた。


「そんなの、偏見だ」
と言われるかもしれない。
だが、人間は往々にして「かっこいいと思ってるもの」「他を圧倒する何かしらのカリスマの意見」しか自分の中に響かないようにできている。


だが、僕の中で「僕よりもオタクで、僕よりもオシャレでモテて、好感が持てる人」が現れたのは、つい最近のこと。
それまでは、10年ほど「何がすごいかわからないし、そもそもバカだからああいうことでしか楽しめないんでしょ?」ぐらいには斜に構えていた。
オシャレに無関心な男に、母親や彼女が服を買い与えても無意味!!

あー、こういう偏見あるよねぇ… でも、ファッションもたいがい趣味でオタクな世界なので、「オシャレ=チャラ男&キラキラ女子=バカ」という偏見は、一般人のオタクに対する偏見や、年長者の若者フォビアと同じなんだよなぁ…
これ読んで、たぶん、オタクについてよくわからない一般人も、たまにテレビで見かける典型的なオタク像とかを見て、 「何がすごいかわからないし、そもそもバカだからああいうことでしか楽しめないんでしょ?」ぐらいに思ってるんだろうなぁ…と思った。人って、自分にとって理解できないことに夢中になっている人を「バカ」と決めつけたくなりがち、ということなんだよね。
「オシャレ=チャラ男&キラキラ女子」だと思うのは、「音楽=最近のCD売上上位のJ-POP」だと思うようなもの。音楽もファッションも、それこそ無限にジャンルがある。そういうことがわかってない人ほど、「結局、女のオシャレって、男にモテるためなんでしょ?」とか「日本人には黒髪が一番!わざわざ茶色に染めるなんて、西洋人に笑われるぞ」とか言うよね。西洋人だって染めてるんだけど。
ちなみに、「結局、女のオシャレって、男にモテるためなんでしょ?」って思ってる人のことを、「クジャク系男子」と言うらしいですよ。

「男心わかってないな〜w」なクジャク系男子が苦手 - 引きこもり女子の上京ブログ


初心者は「ギターの弾き方」みたいな本を買おう

とはいえ、良い服だけ持ってても無意味というのはわかる。いい楽器持ってても演奏できないのと同じ。よく、「ファッション初心者はファッション誌を読んでも、どうしたら良いのかわからない」と言うけれど、音楽情報誌を読んでも楽器を演奏できるようになれないのと同じなんだよね。初心者は「ギターの弾き方」みたいな本買いましょ。
今現在、男性向け「ギターの弾き方」本といえば、MB氏の『最速でおしゃれに見せる方法』が有名だけど、1冊、私が個人的に良いんじゃないかと思っているファッション指南書を挙げるとすれば、こちら。年齢層的には、アラサー以上か、あるいは、私みたいに、20歳の頃から父と一緒にいると「奥さんですか?」と言われていたくらい大人顔な人向けかな。とはいえ、全世代に共通するファッションの「基本のキ」「守破離の守」が書かれているので、若い世代にとっても十分参考になると思う。どうせ若者も数年経ったらアラサーだしね。
この本で提示されているスタイルは、人によっては物足りなさや地味な印象を受けるかもしれないけど、まぁ、何をやるにしても、基本・土台といったものは地味なもんだと思う。「チャラい格好はしたくないけど、オシャレに見られたい」という人にはオススメ。
尚、この本に書かれている内容の一部は、こちらのサイトから読めるようです。

できれば服にお金と時間を使いたくないひとのための一生使える服選びの法則


男性服の基本はスーツだと思う

多くのおしゃれオンチな人にとっては、「おしゃれな男性=チャラ男」というイメージなのかもしれないけど、思春期にジェレミー・ブレット演じるシャーロック・ホームズを、その後にフレッド・アステアを見てしまった私にとっては、「おしゃれな男性=スーツ系の服を格好よく着れる人」というイメージだった。
それから、弟が就職活動でスーツが必要になった時、うちは母子家庭で、父親もスーツを着る職業ではなかったため、誰一人としてスーツの着方がわからないという事態になり、私がスーツについて色々調べてみたという出来事があった。その時、ジャケットの一番下のボタンは外しておくとか、ビジネススタイルの時に履く革靴とカジュアルスタイルの時に履く革靴の違いとか、ワイシャツはもともと下着で、ジャケットを汚さないように、襟や袖をジャケットから1cm〜1.5cm出しておくとか、スネ毛が見えない長さの靴下を履くとか、ネクタイの結び目の下には窪み(ディンプル)を作っておくとか、そういうスーツのルールを初めて知った。
また、スーツのジャケットには、背中に一つ切り込みが入っているもの(センターベント)と、両サイドに二つ入っているもの(サイドベンツ)とがあるけど、これは、昔の西洋の紳士たちが、馬に乗ったり腰に剣を吊ったりしていた時代の名残だとわかって、「ああ、スーツも、着物と同じで、西洋の衣服の歴史の延長線上にあるものなんだなぁ」と思ったりして、面白かった。

で、こういうスーツの着方って、実は案外知らない人多いよね。バンクーバー五輪の時、国母選手の腰パンが問題になったけど、彼を叩いていた人のうち、一体どれだけの人が、ちゃんとしたスーツの着方を知ってるんだろうな、と思った。私の観測範囲だと、おしゃれな人ほど、こういったスーツのルールをわかっているんだよね。一方、「近頃の若者はこんな格好しやがって!けしからん!」みたいな人ほど、サイズの合ってないダボダボのスーツを着ていたり、足首から上はビジネススーツなのに、履いている靴はギョーザ靴とか、おかしな着方になってたりするよ。こういう人が言いがちな「茶髪禁止」は、普通に人種差別だからね。学校の校則とドレスコードは別物だから。


洋服の場合、男性服のおしゃれって、ファッション誌に載ってるチャラ男よりも、スーツを格好よく着るのが基本って気がするんだけど、どうなんでしょうね? スーツを着るとおかしなことになるチャラ男はけっこういるけど、スーツを格好良く着れる人で私服がダサい人は、あんまりいないと思う。よく「お父さんの休日の私服がダサい」って言うけど、そういうお父さんは、大抵スーツ姿もイマイチなんじゃないかな。私はモテについてはよくわからないけど、モテを目的にするにしても、チャラ男が嫌だという女性はよくいるけど、スーツ姿が格好いい男性が嫌だという女性の声は、あまり聞いたことがない。
あと、「スーツ=制服・堅苦しい」みたいなイメージ持ってる人は、「ツイードラン」「サプール」あたりで検索してみてね。スーツもかなり幅の広いジャンルだから。


創作系オタクに必要な、資料・考察としてのファッション

オタクにオシャレ知識は必要ないのかって言うと、そうでもないと思う。特に、イラストや漫画を自分で描くタイプのオタクの場合は。

id:whkr エロ漫画家の田中ユタカも、「漫画家の隠れ必修科目は、ファッションと建築だ」と言っていた。
はてなブックマーク - 男性漫画家の描く

これは本当にそうだと思う。建築は背景描くのに必要だし、ファッションは人物描くのに必要。例えば、昔読んだ漫画で、「某国からお忍びで来たお姫様」という設定なのに、着ている服が庶民レベルで安っぽいので、全然高貴な感じがしないぞ…と思ったことがあった。
赤松健氏も、『ラブひな』の頃は、女性キャラのファッションがイマイチだったけど、『ネギま!』になった時に、女生徒たちの私服描写が格段に向上したので、「おおっ!」と思った。ちゃんと、その時代の女の子が着ていそうな服になっていた。そのキャラがどういう系統のファッションが好きなのか、あるいは、どの程度ファッションに興味を持っているのかは、キャラクターを掘り下げる上でも重要だと思う。
こういう場合、ファッションについて調べるのは、ニューヨークの町並みを描こうと思ったら、ニューヨークの町並みを調べたり、江戸時代が舞台のものを描こうと思ったら、江戸時代の風俗を調べたりするのと、同じなんだよね。


それにしても、ネットが普及した現代は、資料が探しやすくなったよね。私が中高生の頃は、ネット環境なんてなかったし、資料も高くてなかなか買えなかったから、図書館で借りてきた本のコピーを取ったり、新聞の折り込みチラシについてくる家具の広告を背景の参考にしたり、タダで手に入る通販のカタログ誌を資料にしたりしながら、漫画描いてたよ…


服飾史の視点から見たファッション

この地球上の人類の服装が、どのように変化しどのように今の形になったのか、という視点からファッションを捉えてみるのも、これはこれでとても面白い。
例えば、日本と朝鮮半島の民族衣装の変遷を見てみると、古墳時代頃まで遡れば、上流階級の女性たちの格好がとてもよく似ていることがわかる。そして、その後の服装の変化を辿ってみると、まるでひとつの生物が枝分かれして進化していくように、一方はチョゴリ、もう一方はキモノになっていく様子を見ることができる。
Twitterにある「民族衣装bot」とか、見てると面白いよ。

民族衣装bot

で、こういう視点からファッションを捉えてみると、一番最初に述べた「オシャレ=チャラ男&キラキラ女子=バカ」「結局、女のオシャレって、男にモテるためなんでしょ?」などといった認識が、実に狭い世界のものだということがわかると思う。地球上には、それ自体で学問のジャンルとして成り立つくらい、本当に多様な服飾文化があるんだからね。


明治初期〜2010年代前半までの日本のファッションの変遷についての本。イラストを眺めているだけでも楽しい。プラス、この手の本の良いところは、流行を客観的に眺める視点が持てることでもある。

ファションは所詮趣味(ただし例外あり)

服屋のそれもセレクトショップの店員なんてものは本当におしゃれが好きで、ファッションが好きな人だ
そういう人は他の人のファッションを馬鹿にしたりなんかしない


「おしゃれは自己満足」ということがわかっているからだ


自分のファッションが優れていることを示すために他のファッションを馬鹿にするような奴は勘違いファッションオタクか、勘違いおしゃれ気取り大学生くらいのものだ
おしゃれな服屋に入りずらいって人へ - 今日はヒトデ祭りだぞ!

これは本当。私の考えでは、「身だしなみ」は社会性やマナーの範疇だけど、「オシャレ」「ファッション」は趣味の問題。音楽や漫画と同じで、興味がなければやらなくても良いし、興味が沸いたら何歳からやっても良い。
ただし、二つほど例外があると思う。一つは、ファッションが仕事の人。これは言うまでもない。もう一つは、経営者、個人事業主、芸能人、婚活中の人など、他人に自分を売り込む必要がある人。こういう人にとっては、ファッションは商品のパッケージデザインと同程度には重要だと思う。
まぁ、確かにファッションマウンティングする人って多いけど、そこは、オタクの中にもオタク知識でマウンティングする人がいるのと同じなので、結局、こういう人はどこにでもいるってことなのかな。


おまけ

映画『コンチネンタル(The Gay Divorcee)』より『A Needle In a Haystack』。
フレッド・アステアが着替えながら踊ってみた。
D

【関連記事】
おしゃれ、したかったよね。―服が捨てられなかった私の話―
こんな記事を書いている私だけど、ほんの数年前まではこうだったのさ…

「残したらもったいないから」―他人の胃袋をゴミ箱にする人たち

外食で、最初に注文する時に頼みすぎる、あるいは、料理を作る時に作りすぎてしまって、後で「残したらもったいないから」と言って、無理矢理食べてしまう人。本人だけが食べるのなら、どうぞご勝手にだけれど、同席している他人にまで食べることを強要して、一緒に行った人に多大な苦痛を与えてしまう人がいる。私だって、残すのはもったいないと思うし、食べ物を無駄にするのは嫌いだけれど、こういう人たちは、食べ物を無駄にしているとしか思えない。


そもそも、なぜ食事をするのかというと、健康に生きるためだ。だから、食べ過ぎて健康を害していたのでは、食べる目的としては本末転倒なはずである。食べ物を食べ物として活かすことができるのは、胃袋の許容範囲内に止めているところまでだ。それまでなら、食べ物は美味しく、楽しみをもたらし、栄養になる。しかし、許容量を超えた食べ物は、苦しく、十分に栄養として吸収されないまま、下痢や吐瀉物となって排出され、体調不良を招き、生活習慣病を招き、体にとって害でしかなくなる。食べ物を害にしてしまうということは、結局、食べ物を無駄にしているということだ。
「残したらもったいない」という義務感で食べる料理は、本当においしくないし楽しくないし、苦しいだけなんだよね。食べ物とお金と料理人の手間を無駄にしているとしか思えない。食べ残しを、ゴミ箱に捨てるか、人の腹に捨てるかの違いでしかないと思う。


たぶん、こういう人たちは、「自分が頼みすぎて・作りすぎて、食べ物を無駄にしてしまったのだ」という現実に直面するのを避けるために、他人に食べさせたがるのだと思う。とりあえず食べたという事実を作り出してしまえば、残して廃棄されてしまう食べ残しを直視しないで済む。そのためには、他人に多大な苦痛を与えようとも、知ったことではない、ということだ。「食べ物を無駄にしてしまった」という現実を無視するために、「自分のせいで、相手に苦痛を与えている」という現実も無視するのが、こういう人たちである。
この人たちのやっている行為をはっきり書くと、「相手の胃袋をゴミ箱にして、自分が発生させた食べ残しを捨てる」だ。そして、現実を直視することから逃げ続けているから、また同じ行為を繰り返してしまう。


依存症治療の世界には「イネーブリング」という言葉がある。

ネガティブな文脈では、個人のある種の問題の解決を手助けすることで、実際には当人の問題行動を継続させ悪化させるという、問題行動を指している 。第三者の責任感、義務感によって、結果的に当人の問題行動を維持させている。イネーブリングはアディクションの環境要因の中心である。
典型的パターンは、アルコール依存症患者とその共依存配偶者のペアである。イネーブラーはアルコール依存者の問題行動を「尻拭い」するような行動をとってしまう。例えば職場に病欠連絡を代わって行う、散乱した酒瓶を隠す、患者の言い訳作りに協力したりする。イネーブリングはアルコール患者の心理的成長を妨害し、また共依存者の陰性感情を増大させる。こういった共依存者は、アルコール依存患者の被害者ではあるが、同時に加害者ともみなしえる。
イネーブリング - Wikipedia

つまりは、「相手の問題行動を継続させ、後押ししてしまう行為」のことである。


こういう人に付き合って、無理に食べてしまうのは、この「イネーブリング」に当たる行為だと思う。なぜ付き合って食べてしまうのかというと、相手のほうが立場的・権力的に強くて断れないという、パワハラ的な要素が原因になっているケースの他に、食べさせられるほうも「残したらもったいない」と思っているから、というケースが、けっこう多いと思う。
だが、私は思う。自分の許容量以上の料理は、摂取しないほうが良い。こういう人相手には、断れるのなら断ったほうが良い、と。確かに、その時には、多くの食べ物が無駄になるだろう。だが、「自分のせいで、食べ物を無駄にしてしまった」という現実を直視してもらわないことには、この手の人たちは、同じ行為を繰り返して、被害者を増やし、食べ物を無駄にし続けることになる。この人たちの「尻拭い」をしてあげる必要はない。むしろ、一度、しっかり現実を直視してもらったほうが良い。


私の父は、過去記事『甘やかされているようで全然甘えられていない子供たち』『「もったいないお化け」の世代間連鎖』で書いたように、他人とシェアする前提の料理を注文し過ぎて、家族にしんどい思いをさせていた。父は、私たちの胃袋をゴミ箱にして、自分が発生させた食べ残しを捨てていたんだな、と思って、ああ、これってイネーブラーだと気がついた。私たちは、いつも父の悪癖の尻拭いをさせられていたのだ。父のせいで、私は外食恐怖症になった。
父は、口では「多かったら残してもええで」と言うのだが、内心ではそうは思っていないということが、ひしひしと伝わってきたので、私たちは残すことができなかった。父自身が、多かったら残すということを実行していないと、一緒に食事をしている子どもたちも、心からそうは思えないのだ。これは私にも言える話で、私自身が残すということを自分に許していなかったら、それは、口で言っていることと思っていることとが違うということになるだろう。


相手の許容量を超えて酒を飲ませることが「アルハラ」なら、相手の許容量を超えて料理を食べさせることも、ハラスメントになるだろう。「フード・ハラスメント」とでも言うのだろうか。食物アレルギーを持っている人にアレルゲンとなる食品を摂取させようとするのも、「フード・ハラスメント」に当たると思う。
「ご飯は残さず食べましょう」「食べ物を無駄にしてはいけません」は、いついかなる時も正しいわけではないのだ。

口癖は「良いビジネスマンとは、よく食う奴だ」。一緒に食事に行くと、ずっと「食え、食え。もっと食え」などと言われるのだという。B男さんは、期待に応えようと、昼間のステーキから、深夜のラーメンまで残さず食べ続けた。その結果、1年で8キロも体重が増えてしまった。お腹を壊して、体調のすぐれない日も多い。
「食え。食え。もっと食え」体育会系上司による「大食い」強要・・・パワハラになる?|弁護士ドットコムニュース

健康被害が出ているんだから、立派にパワハラだと思う。

比べるのは嫌だけれど、私の祖母も私の話を聞かない。
一緒に料理店に行くと、いくら私が要らない、食べられないと泣きそうになりながら断っても、自分が子供時代のひもじい思いをした辛さから良かれとどんどん料理を注文し、挙句自分が食べられなかった分を私に「食べれるでしょう」と差し出す。
今はもう必死に粘ることを覚えたが、中学生のころはガチ泣きをしながらご飯を食べたことも、何度かある。祖母は私が泣いていても、見えていないのか全く悪気が無く「食べれるって」と言う。
手芸屋さんで洗脳されそうになった話。

はっきり言う。これは暴力で、虐待だ。本人にその自覚はないだろうけれど。相手の話を聞かない・意思を尊重しないのは、ハラスメント加害者の特徴。

ごはんはちゃんと残しましょう。 - COPYWRITERSBLOG

おしゃれ、したかったよね。―服が捨てられなかった私の話―

過去記事『「もったいないお化け」の世代間連鎖』で、物を捨てることについて書いたけれど、私にはどうにも捨てられない物があった。それは服だ。数年前、自室の大掃除をして、要らないものをあらかた処分して、その時に不要な服も選別したのだけれど、他の物は捨てられても、服だけはどうにも捨てられずに、長いこと部屋の隅の大きな袋の中に入れたままでいた。穴が空いたりボロくなったりした服は捨てられるけど、物としてまだ十分着れるけれど要らなくなったものが捨てられない。リサイクルショップに持っていけば良いのだけれど、私は車を持っていない上に出不精なので、結局持って行けずに、部屋の隅を占領されたままだった。


そんな時、娘を育てるシングルファザーの人が、授業参観に行った時、他の女の子はおしゃれな格好をしているのに、自分の娘の格好が地味だったことに気づいて、服を買ってあげたエピソードについていた、このコメントを見た。

4. 楽しいことないかなぁ...の名無しさん 2013年11月26日 15:51
女の子が着飾ることを覚えて楽しんで何が悪いの?
生活脅かすほど散財するならそれは叱られないといけないけど。

自分はデブであんまり洋服も買ってもらえず、母親もいるのに
なぜかパッツンのおかっぱでおしゃれさせてもらえない子だった
(訴えたら、ブスだから似合わないよpgrという反応)
そんなだから、自分が稼いで洋服を買えるようになるまで
スカート2枚と夏のTシャツ2枚、冬のセーター・トレーナー2枚
みたいな状態で、大人になっておしゃれしようにも、どういう服を
着たらよいのか、今の流行から外れてないか、それが自分に似合うのか、
ほんとうにまったくわからなくて苦労した。

試行錯誤してる間に友人から笑われたことも何度もある。
女の子は(男の子もだけど)子供の頃からある程度は流行りに
あわせたおしゃれはさせて慣れさせるべき。
大人になってからの10数年を試行錯誤ですごすとか、時間の無駄使い


楽しいことないかな : 事故で妻と両親が死亡。男手一つで娘を育ててきたが、授業参観で『やばい』と思った。


「わかる」と思った。本人がおしゃれに興味がないのなら、別にしなくても構わないけれど、本人に興味があってしたいのに、全くさせないというのは、酷いよね。それはおしゃれ以外のことだって何だってそうだけど。
私は、長らく自分のことを、「おしゃれに興味の薄い、流行に疎い子」だと思って生きてきた。特に学生時代はそうだった。でも本当は、10代の頃の私も、それなりにおしゃれがしたかったんじゃないかと思う。だが、母親がブラジャーすらまともに買ってくれないほどケチだったし、子供がおしゃれするなんて考えてくれない人だったから、最初から諦めていた。おしゃれに興味がない子のふりをしていたのだ。
「いい子」と一緒だ。母親の望む「面倒見の良いお姉ちゃん」を内面化して、本当の私は抑圧されていたのと同じ。本当の私は、おしゃれに全然興味がなかったわけじゃない。それなりにしたかった。私の「おしゃれに興味のない、流行に疎い子」というのは、当時、母親が望んだ私の姿だったのかもしれない。


おしゃれ、したかったよね。


考えてみれば、小さい頃は、将来ファッションデザイナーになりたい、なんて言っていた時期もあった。着せ替え人形で遊ぶのが好きで、人形の服を自分で手作りしたり、雑誌のキャラクターの服を考える企画に投稿したり、自分で考えた服を描いた紙束をテープで綴じてまとめた本みたいなものを作ったりしていた。そんな私が、おしゃれに興味がないわけがなかったのに。


母は、私の胸が膨らみかけた頃、その時期の女の子がするようなスポーツブラタイプのブラジャーは、三枚ほど買ってくれたと思う。しかし、もっと胸が成長して、大人用のブラジャーが必要になった時、母にそれを言うと、母は、自分のお下がりのおばちゃんベージュブラを一枚よこしただけだった。当然、圧倒的に枚数が足りなかったので、追加でもう一枚くらいもらったような気もするが、10代後半の女の子がするような、きれいでかわいいブラジャーは、とうとう全く買ってもらえなかった(そのことを話した友達に、お古のブラジャーを貰ったりはした)。
肌着も、男の子が着ているような白のタンクトップを与えられ、それも縁が穴だらけでレースみたいになっていた。当然美容院にも行ったことがなかった。
当時は、不思議と「こんなおばちゃんが着るようなブラジャーで恥ずかしい」とも「かわいいブラジャーが欲しい」とも思わなかった。「とにかくブラとしての機能を果たすものが欲しい」と思っていた。飢えていると、「おいしいものが食べたい」と思うよりも、「とにかく腹を満たせるものが欲しい」と思うようなものだろうか。


眼鏡も、小学生の頃に初めて買ったものを、ずっと買い換えてもらえずに、高校生になってもそのまま使っていた。ダサいというのもあったが、それ以前に、買った時より視力の低下が進んでいたので、ものがよく見えなくて困った。席替えの時は、いつも前の席にしてもらっていた。
当時、「宇野さんは、なんでいつも前の席にしてもらっているの?」と訪ねてきたクラスメイトがいた。私は、事実そのまま「視力が悪いから」と答えていた。今から思えば、あのクラスメイトたちにとっては、親に眼鏡が合わないと言えば買い換えてもらえるのは、空気が存在するように当たり前のことで、なぜ買い換えないのかと問うていたのだろう。
一方で、私自身は、ブラジャーのことを含め、生まれた時からそういう環境で育ってきたので、特に自分の母親がおかしいとは思っておらず、むしろ、うちは少し厳しいだけで、他の子は甘やかされている、うちは良い教育をしていると思っていた(後に、これは典型的な虐待家庭の子供の感覚だと知った)。
結局、私の二代目眼鏡は、高校三年生になってから、私自身が自分のお年玉で購入した。


とにかく、おしゃれ以前の問題だった。母親の無意識の「あまり変わった職業に就かず、安定した普通の人生を歩んで欲しい」「面倒見の良いしっかり者のお姉ちゃんでいて欲しい」「おしゃれに興味のない子でいて欲しい(金がかかるから)」という願望を内面化していた、そんな高校時代だった。


まぁ、うちの経済状況は、決して良いとは言えなかったことは確かだ(とはいえ、必要な分の下着や眼鏡が買えないほど困窮していたとは思えないが)。でも、「おしゃれしたいけど、うち貧乏だから仕方ないね」と思っているのと、「おしゃれに興味のない子」を内面化させられるのは、やっぱり違うと思う。前者の場合は、お金がないならないで、自分なりに妥協するなり納得するなりするし、自分で稼げるようになったら、自分の願望を叶える行動が取れるけど、後者の場合は、それが実行可能な状況になっても、心理的に親の支配を受け続けるからだ。
「欲しい」と思うこと自体は、別に悪いことではない。「欲しいけど、お金ないからしょうがないね」と思っていればいいだけのことだし、それはごく当たり前のことだから。大多数の人は、自分の願望をほどほどに満たしつつ、適当なところで妥協しているものだ。問題は、「欲しい」と思う気持ち自体が抑圧されていることだった。「欲しい」と思う気持ち自体が抑圧されるということは、自分は何が好きなのか、何をしたいのか…つまり、「自分が何者なのか」ということが、わからないようにさせられることだから。
子供は、金がないことそのものでは、あまり親を恨まないが、自分の気持ちを尊重してもらえなかったことでは、親を恨むものだと思う。


田房栄子著『呪詛抜きダイエット』は、「親からいじめられていた」ということを認めたくなくて、無意識のうちに、あえて太るような行動をして、みじめな自分になるという親の「呪い」についての話があったけれど、片付けられない、物が捨てられないというのも、けっこう親の「呪い」が影響している部分があるんじゃないかと、自分自身を振り返ってみても思う。
私の、他の物は捨てられても服がなかなか捨てられない、穴が開いたとかそういう服は捨てられるけれど、まだ十分に着れてそこそこオシャレでもあって、でも自分は着ないなぁ…という服が処分できなかったのは、親から「おしゃれしたい」という気持ちが抑圧されていたからだと思う。
たぶん、その捨てられない服は、私の執着みたいなものの表れだったんだろう。自分のことを「おしゃれに興味の薄い、流行に疎い子」だと思い込まされていた私にとっては、心の奥底では、おしゃれな服というのは、憧れだったし、ずっと欲しいものだったんだろうね。私が服を処分するためには、自分の中の「おしゃれしたい」という欲求を満たしてあげる必要があるんだろう、と思った。


当時流行っていたコギャルな格好がしたかったとは、別に今でも思わないけれど、17歳の自分に、それぐらいの年齢の子が着るような、きれいなブラジャーと肌着を買ってあげて、小学生の頃に初めて買った時のままの眼鏡を買い替えてあげて、美容院に連れて行ってあげたいな。