光る君へゆかりの地探訪① 紫ゆかりの館
広瀬龍神山を降りて帰宅の途中、せっかく越前市にきたのでもう1箇所寄っていこう。
紫式部公園
越前市東千福町にある総面積1.9haの近隣公園(住区基幹公園)で、かつてこの越前市に紫式部が滞在したことから、全国で唯一の寝殿造庭園を再現している。
何度か来たことがありその際は閑散としていたが、今年の大河ドラマ”光る君へ”の影響なのか、県外ナンバーの観光バスも複数台停まっていて、賑わっていた。
紫ゆかりの館(紫式部と国府資料館)
かつては藤波亭という無料休憩所だったが、観光振興を図るため情報発信の場として令和3(2021)年4月にリニューアルオープン。入館(9~17時:月休)は入場無料。
福井県などが滋慶学園に製作依頼した紫式部の新キャラ。
かなり顎が細くて、従来の式部のイメージとはかなり違うが…
たけふ(太介不・武生)は式部が生涯で、唯一都を離れて過ごした場所。
越前国府探訪 前編
源氏物語五十四帖(渡辺玉花)
川合玉堂門下の渡辺玉花(1901~1996)の代表作。玉花の父、渡辺洪基は越前市出身で、東京府知事やオーストラリア大使などを歴任。
第四十九帖 宿木(やどりぎ)
源氏物語第三部宇治十帖の第5帖で、薫(光源氏の妻から生まれた柏木の子)が、浮舟(宇治の大君の異母妹)を見て、かつて想いを馳せた亡き大君(宇治の大君)に酷似していることに驚いている場面。
紫式部の間では、御簾越しで後姿の紫式部和紙人形がお出迎え。
福井県特産の越前和紙で作られた唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)の式部。装束の襲色目(かさねいろめ)は紫をイメージした配色になっている。
紫式部の生没年には諸説あるが、ここでは973(天延元)年生まれとしている。
先週の放送(3/16)では花山天皇(本郷奏多)が退位した時(986年)なので、この説だとまひろ(=紫式部:吉高由里子)は14歳と、少しドラマ設定に無理がある(笑)
なお式部の呼称は、父藤原為時(岸谷五朗)の花山朝での官職、式部丞(しきぶのじょう)に由来するとされる。
次の一条朝で散位が続いた為時は、藤原道長(榎本佑)が執政(右大臣)になると、
長徳2(996)年に大国であった越前国の国司(従五位下・越前守)に任ぜられる。
逸話では、当初越前守を希望していた為時は下国(げこく)の淡路守に任ぜられたが、
「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」
(意味)寒い夜も苦しさに耐えて学んだのに希望が叶えられず、血のような涙が襟を濡らしています。 任官されなかった翌朝は、青い空が目に染み入ります。
という漢詩を一条天皇に奏上。これを見た天皇は嘆き悲しみ、道長の計らいで既に越前守に決まっていた源国盛に辞退させ、為時を越前守に除目(ぢもく)したとされる。
平安期の令制国は広さ、人口、国力などに応じて、大国(13)>上国(35)>中国(11)>下国(9)に分けられ、大国の越前守と下国の淡路守では国司としての収入に雲泥の差があった。
一見、美談だと思われるが、越前守を辞退させられた国盛は床に臥せってしまい、その年の秋の除目で播磨守(大国)に任じられるも、回復することなく亡くなったとされる。とばっちりをくらった国盛が不憫でならない(笑)
越前に下向する為時に式部(この説では24歳)も同行。
打出の浜(現:浜大津)から水路で琵琶湖北端の塩津湊(現:近江塩津)に到着。ここから陸路で塩津越え(深坂古道)で越前国(敦賀)入りしたとされる。
千年街道 ~深坂古道~
下向中に詠んだとされる歌の中で、深坂古道で詠んだのがこの歌。
知りぬらむ 行き来にならす塩津山 世にふる道はからきものぞと
(現代訳)お前達もわかったでしょう。歩き慣れた塩津山(=深坂峠)同様、世渡りの道も厳しいものなんですよ。
下向行列和紙人形
為時一行は多くの物資や調度品を携えて塩津越えを行なったが、為時は馬上、式部は輿(こし)と自ら歩くことはなかったとされる。
その輿を担いだ人夫たちが、「やはりここは難儀(ツラい)な道だなぁ」と少し愚痴をこぼしただけなのに、この言い様はまさに”上から式部”
大河でのまひろもこんな小生意気な姫君に変貌するのかな?(笑)
敦賀には古くから渤海使(ぼっかいし)を迎える迎賓館の松原客館(まつばらきゃっかん)が設置され、渤海滅亡(926年)後も大陸(宋)からの使者が来訪していたことから、漢文の才がある為時が交渉役(外交官)として越前守に選ばれたとする説も。
敦賀から国府までの道中は、山中峠越えから鹿蒜道(かひるみち)経由で今庄、もしくは木の芽峠越えから鹿蒜新道(北陸道)経由で今庄のいずれかと考えられているが、判明していない。
万葉の道 鹿蒜道探訪① 五幡山(428m)
千年街道 ~木ノ芽峠・鉢伏山~
式部が越前に滞在したのは僅か1年半ほどだが、多くの歌を残している。
ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる
(現代訳)
この地(越前府中)の日野岳(=日野山)では、杉林が雪に深く埋れんばかりだ。
都(京都)でも小塩山の松に、雪がちらちらと散り乱れて降っているであろうか。
ふるさとに かへるの山路の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし
(現代訳)
都に帰るときに見える鹿蒜山(かひるやま=木の芽山地)のそれ(=雪)なら、気も晴れようかと雪も見もしましょうけど…(早く都に戻りたい)
名に高き 越の白山 ゆきなれて 伊吹の嶽を なにとこそ見ね
(現代訳)
評判高い越前の白山の雪を見慣れてしまったから、伊吹山がどんなに白くても大したものとは思わない。
特に雪を歌ったものが多く、雪深い越前からその後の創作にも大きな影響を受けたとされる。
館内の一画にあったこの機械。
4つの質問に答えて、該当する姫君タイプを占うようだ。
野郎だけどやってみると、私は紫の上タイプ。
該当する姫君短冊を引いてタイプ診断ができる。
お金(100円)を取るのね(笑)
かこつべき ゆゑを知らねば おぼつかな
いかなる草の ゆかりなるらむ
第一部第五帖の若紫の和歌で、紫の上(紫の君)が光源氏に、
「お兄様(=光源氏)が私に縁続きの方(藤壺)のことを恨めしいとおっしゃる理由を知りませんので、何の事だか分りません。私はどんな草(恨めしい方=藤壺)と縁があるのでしょうか?」といぶかしんで歌った場面。
紫の上タイプの私は、無邪気で素直なんだそうだ(笑)
百人一首蒔絵札
越前漆器蒔絵作家の高島政治郎氏が制作した雅な蒔絵札。
源氏物語の名場面をあしらった貝合わせ。
平安貴族の女性たちの間で楽しまれた遊戯で、1つのハマグリに左右同じ絵を描き、女房役が出桶から取り出した出貝1個を伏せて置き、同じく伏せて360個並べられた地貝の中から合致する地貝を選び、正解した数を競う。
紫きぶ御膳(しきぶおもの)
式部たちが味わったと思われる晩餐宴での料理を、越前市の老舗料亭鎌仁(かまに)別荘が監修。
メインの膳には生物は鰤、鮪、甘海老の刺身。
羹物(あつもの)は鰹の煮汁で仕上げた越前真鯛、追物(おいつもの)は越前地鶏と焼き松茸など高級食材が並ぶ。
また古代のチーズの蘇(そ)や赤ずいきの酢漬けの寿江(すこ)など、珍しい料理もある。
包焼は、御紫(おむらさき=鰯)の奉書焼。
赤米と姫米(白米)の2種類の飯(いい)や、醤(ひしお)や天塩(あまじお)、玄米酢などの調味料など多種多彩。
デザートには木菓子(きがし)や唐菓子(からかし)、餅飯(もちいい)
私の夕食と良い勝負だな(大ウソ)
一方、こちらは同じく鎌仁別荘監修の平安時代庶民料理。
飯こそ麦・稗粥だが、主菜の鮎の塩焼きを含む一汁三菜。
平安時代の庶民って、意外とちゃんとした食事をしていたんだ。
紫ゆかりの館(紫式部と国府資料館)
光る君へゆかりの地探訪② 紫式部公園に続く…
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紫式部公園
越前市東千福町にある総面積1.9haの近隣公園(住区基幹公園)で、かつてこの越前市に紫式部が滞在したことから、全国で唯一の寝殿造庭園を再現している。
何度か来たことがありその際は閑散としていたが、今年の大河ドラマ”光る君へ”の影響なのか、県外ナンバーの観光バスも複数台停まっていて、賑わっていた。
紫ゆかりの館(紫式部と国府資料館)
かつては藤波亭という無料休憩所だったが、観光振興を図るため情報発信の場として令和3(2021)年4月にリニューアルオープン。入館(9~17時:月休)は入場無料。
福井県などが滋慶学園に製作依頼した紫式部の新キャラ。
かなり顎が細くて、従来の式部のイメージとはかなり違うが…
たけふ(太介不・武生)は式部が生涯で、唯一都を離れて過ごした場所。
越前国府探訪 前編
源氏物語五十四帖(渡辺玉花)
川合玉堂門下の渡辺玉花(1901~1996)の代表作。玉花の父、渡辺洪基は越前市出身で、東京府知事やオーストラリア大使などを歴任。
第四十九帖 宿木(やどりぎ)
源氏物語第三部宇治十帖の第5帖で、薫(光源氏の妻から生まれた柏木の子)が、浮舟(宇治の大君の異母妹)を見て、かつて想いを馳せた亡き大君(宇治の大君)に酷似していることに驚いている場面。
紫式部の間では、御簾越しで後姿の紫式部和紙人形がお出迎え。
福井県特産の越前和紙で作られた唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)の式部。装束の襲色目(かさねいろめ)は紫をイメージした配色になっている。
紫式部の生没年には諸説あるが、ここでは973(天延元)年生まれとしている。
先週の放送(3/16)では花山天皇(本郷奏多)が退位した時(986年)なので、この説だとまひろ(=紫式部:吉高由里子)は14歳と、少しドラマ設定に無理がある(笑)
なお式部の呼称は、父藤原為時(岸谷五朗)の花山朝での官職、式部丞(しきぶのじょう)に由来するとされる。
次の一条朝で散位が続いた為時は、藤原道長(榎本佑)が執政(右大臣)になると、
長徳2(996)年に大国であった越前国の国司(従五位下・越前守)に任ぜられる。
逸話では、当初越前守を希望していた為時は下国(げこく)の淡路守に任ぜられたが、
「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」
(意味)寒い夜も苦しさに耐えて学んだのに希望が叶えられず、血のような涙が襟を濡らしています。 任官されなかった翌朝は、青い空が目に染み入ります。
という漢詩を一条天皇に奏上。これを見た天皇は嘆き悲しみ、道長の計らいで既に越前守に決まっていた源国盛に辞退させ、為時を越前守に除目(ぢもく)したとされる。
平安期の令制国は広さ、人口、国力などに応じて、大国(13)>上国(35)>中国(11)>下国(9)に分けられ、大国の越前守と下国の淡路守では国司としての収入に雲泥の差があった。
一見、美談だと思われるが、越前守を辞退させられた国盛は床に臥せってしまい、その年の秋の除目で播磨守(大国)に任じられるも、回復することなく亡くなったとされる。とばっちりをくらった国盛が不憫でならない(笑)
越前に下向する為時に式部(この説では24歳)も同行。
打出の浜(現:浜大津)から水路で琵琶湖北端の塩津湊(現:近江塩津)に到着。ここから陸路で塩津越え(深坂古道)で越前国(敦賀)入りしたとされる。
千年街道 ~深坂古道~
下向中に詠んだとされる歌の中で、深坂古道で詠んだのがこの歌。
知りぬらむ 行き来にならす塩津山 世にふる道はからきものぞと
(現代訳)お前達もわかったでしょう。歩き慣れた塩津山(=深坂峠)同様、世渡りの道も厳しいものなんですよ。
下向行列和紙人形
為時一行は多くの物資や調度品を携えて塩津越えを行なったが、為時は馬上、式部は輿(こし)と自ら歩くことはなかったとされる。
その輿を担いだ人夫たちが、「やはりここは難儀(ツラい)な道だなぁ」と少し愚痴をこぼしただけなのに、この言い様はまさに”上から式部”
大河でのまひろもこんな小生意気な姫君に変貌するのかな?(笑)
敦賀には古くから渤海使(ぼっかいし)を迎える迎賓館の松原客館(まつばらきゃっかん)が設置され、渤海滅亡(926年)後も大陸(宋)からの使者が来訪していたことから、漢文の才がある為時が交渉役(外交官)として越前守に選ばれたとする説も。
敦賀から国府までの道中は、山中峠越えから鹿蒜道(かひるみち)経由で今庄、もしくは木の芽峠越えから鹿蒜新道(北陸道)経由で今庄のいずれかと考えられているが、判明していない。
万葉の道 鹿蒜道探訪① 五幡山(428m)
千年街道 ~木ノ芽峠・鉢伏山~
式部が越前に滞在したのは僅か1年半ほどだが、多くの歌を残している。
ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる
(現代訳)
この地(越前府中)の日野岳(=日野山)では、杉林が雪に深く埋れんばかりだ。
都(京都)でも小塩山の松に、雪がちらちらと散り乱れて降っているであろうか。
ふるさとに かへるの山路の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし
(現代訳)
都に帰るときに見える鹿蒜山(かひるやま=木の芽山地)のそれ(=雪)なら、気も晴れようかと雪も見もしましょうけど…(早く都に戻りたい)
名に高き 越の白山 ゆきなれて 伊吹の嶽を なにとこそ見ね
(現代訳)
評判高い越前の白山の雪を見慣れてしまったから、伊吹山がどんなに白くても大したものとは思わない。
特に雪を歌ったものが多く、雪深い越前からその後の創作にも大きな影響を受けたとされる。
館内の一画にあったこの機械。
4つの質問に答えて、該当する姫君タイプを占うようだ。
野郎だけどやってみると、私は紫の上タイプ。
該当する姫君短冊を引いてタイプ診断ができる。
お金(100円)を取るのね(笑)
かこつべき ゆゑを知らねば おぼつかな
いかなる草の ゆかりなるらむ
第一部第五帖の若紫の和歌で、紫の上(紫の君)が光源氏に、
「お兄様(=光源氏)が私に縁続きの方(藤壺)のことを恨めしいとおっしゃる理由を知りませんので、何の事だか分りません。私はどんな草(恨めしい方=藤壺)と縁があるのでしょうか?」といぶかしんで歌った場面。
紫の上タイプの私は、無邪気で素直なんだそうだ(笑)
百人一首蒔絵札
越前漆器蒔絵作家の高島政治郎氏が制作した雅な蒔絵札。
源氏物語の名場面をあしらった貝合わせ。
平安貴族の女性たちの間で楽しまれた遊戯で、1つのハマグリに左右同じ絵を描き、女房役が出桶から取り出した出貝1個を伏せて置き、同じく伏せて360個並べられた地貝の中から合致する地貝を選び、正解した数を競う。
紫きぶ御膳(しきぶおもの)
式部たちが味わったと思われる晩餐宴での料理を、越前市の老舗料亭鎌仁(かまに)別荘が監修。
メインの膳には生物は鰤、鮪、甘海老の刺身。
羹物(あつもの)は鰹の煮汁で仕上げた越前真鯛、追物(おいつもの)は越前地鶏と焼き松茸など高級食材が並ぶ。
また古代のチーズの蘇(そ)や赤ずいきの酢漬けの寿江(すこ)など、珍しい料理もある。
包焼は、御紫(おむらさき=鰯)の奉書焼。
赤米と姫米(白米)の2種類の飯(いい)や、醤(ひしお)や天塩(あまじお)、玄米酢などの調味料など多種多彩。
デザートには木菓子(きがし)や唐菓子(からかし)、餅飯(もちいい)
私の夕食と良い勝負だな(大ウソ)
一方、こちらは同じく鎌仁別荘監修の平安時代庶民料理。
飯こそ麦・稗粥だが、主菜の鮎の塩焼きを含む一汁三菜。
平安時代の庶民って、意外とちゃんとした食事をしていたんだ。
紫ゆかりの館(紫式部と国府資料館)
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