やしお

ふつうの会社員の日記です。

ご奉仕チキンレースで均衡する出世水準

 出世する、より上位の管理職に上がって行くというのは、マネジャーとしての力量や適正も必要だけれど、「どこまで奉仕できるか(どこで降りるか)」によるところが大きいのだろう。その奉仕水準でどこまで行くか/どの辺で止まるか均衡するのだと、会社で仕事をしながらつくづく感じるこのごろ。


ポジション上昇の基本路線

 新人→中堅社員→係長→課長→部長→……とポジションが上がるに従って、受け取る仕事の粒度が大きくなってくる。

  • 重要度や影響度から正確にリスクを抽出して優先順位を決められる。
  • 大きな仕事を適切に分割して相互関係を理解できる。
  • 期日から逆算して分割した仕事にマイルストーンを割り当てられる。
  • 情報を整理して他者に状況を正確に説明できる。
  • 自分にない力量を持つ他者・他部門に割り振れる。アウトソースできる。

 といった管理能力がより高度に必要になってくる。
 逆に言えば、こうした技術・能力が高い人をより高いポジションに割り当てることになる。


ポジション上昇の他の要素

 上記はマネジャーとしての管理能力の話で、高いポジションに配置される力量は他にも多々考えられる。

  • リーダー:方針を示したり、メンバーを鼓舞して導いたり。トップマネジメントに近付くにつれ、より要求されていく。
  • 専門家:特定領域の技術。専門領域に特化した部門だと、その能力がそのまま管理ポジションに適するケースもある(スペシャリストとしてのコースが用意されている場合もある)
  • 人脈:人治主義的な側面が強い環境だと「どう考えてもあの人じゃないだろ」と周囲が思う奇天烈人事が頻発することもある。
  • 偶然性・運:組織の新設や、ポジションの空きで、たまたま他に人がいなくて就く場合もある。

 挙げればキリがないが、ここでは一旦話を単純化して管理能力の側面で見ている。


力量の見極め

 過大な粒度で仕事を誰かに入力して、低い質での出力がされたり期日を超過したりすれば、仕事を渡した側が巻き取ったりやり直したりする必要が生じる。かえって手間なので、その人の力量から「この人ならここまでは出来そう」と見極めた粒度で渡すことになる。
 出力の質を見ながら「この人ならこれくらい」の認識が形成されていく。
 任せられると信じられる範囲が大きくなれば、より全体を取りまとめるポジションに引き上げて、その人にメンバーを割り当てていく。力量に合わせてポジションが上昇する。


仕事の質・量

 出力される仕事の質・量は、その人の力量だけでなく、投入時間の多寡にも左右される。力量×時間(その他にもあるが)で決まってくる。力量が上がれば単位時間あたりに仕上げられる仕事の質・量も上がるとしても、時間の軛がある点には変わりない。
「この人はできそうだ」となれば、仕事がどんどんインプットされる。忙しくなり、一つの仕事に投入できる時間が不足して仕事の質・量が低下する。
 本当は、自分がやるべき仕事なので自分でやりたい、人に渡すならきちんと仕事の粒度や情報を整理してから渡したい、整理した仕事のデバッグをきちんとやりたいと思っていても、できなくなってくる。
 絶対に進めないとまずいことだけを、最低限の質でこなすだけで精一杯になる。自分の手元で止めないようにとにかく流し、喫緊のものだけをこなさざるを得なくなる。
 そうして仕事の質・量を維持できなくなくなってくる。


時間の投入

 力量があっても、時間が不足すれば質・量を維持できない。質・量が低下すると期待を下回って怒られたり呆れられたりする。ただでさえ必死でやる中で嫌気がさしてくる。「本来やるべきことを自分ができていない」と感じるのは辛い。
 質・量を保とうと時間を捻出するなら、残業や休日出勤をしたり、休憩時間に仕事をしたり、私的な時間を投入したりすることになる。家族や趣味や睡眠に費やす時間が削られる。滅私奉公の様相を呈する。
 しかしそこにも限界がある。「さすがにこの働き方は無理だ」と追従するのを止めたり、精神に不調をきたして強制的にドロップアウトしたりする。


奉仕度とポジションのリンク

 質・量が低下したり、ドロップアウトしたりすれば、「任せられない」となってポジションの引き上げが止まる。その人の技術や能力の高さより、時間投入をその人が許容する度合の高さ(仕事への奉仕)に、ポジションの高さがリンクする。
「長く働ける人が出世する」ないし「奉仕のチキンレースで早めにブレーキを踏んだ人やそのまま激突して走行不能になった人は出世できない」状況が生じる。
 そして力量の天井よりも、時間の天井の方が、「仕事をどこまで任せられるか」に対して先にぶつかってしまうケースが現実には多いのかもしれない。


奉仕度とのリンクの強さ

 奉仕度とポジションのリンクが強くなってしまうのは、上位の管理職が意図的にそうしているというより、(その構造に無自覚なら)仕方なくそうなってしまう。
 人手が足りない中で誰かに仕事を振らないといけない。その時に力量が低いと説明やタスクの分解やサポートする手間がかえって増えるので渡せない。渡せる人が限られてくる。力量と奉仕度(時間投入の許容度)の双方が高い人へ業務が集中していってしまう。
 力量より奉仕度に出世水準がより強くリンクする状況は、リソース(組織の人員×力量×時間の総量)に対して業務量が過大な環境によってもたらされる。人の意図ではなく、構造的に発生する。
※この場合、下位メンバーに業務をどんどん押し付けて、あたかも「自分で全部やりました」という顔をできる人=時間を他者から窃取する人が出世する、といった状況も発生し得る。


リソース-業務量バランス

 リソースに対する業務量が大きくなるほど、出世水準は力量より奉仕度にリンクしていく。このリソースvs業務量のバランスを端から端まで変化させると、以下のようなグラデーションになるのだろうか。

  • 業務量>>リソース →ほぼ出世水準=奉仕度に近くなる。ブラック企業で、プライベートゼロで働いても精神を病まずに生き残った人だけが出世する世界。
  • 業務量>リソース →ブラック企業ほどではないが業務過多でみんな多忙。出世は力量も考慮されるが、長く働ける人がより評価される状態。
  • 業務量=リソース →力量と奉仕度の両者でポジションが引き上げられていく。
  • 業務量<リソース →奉仕度より力量で評価される。育児や介護や病気などで長時間就業できない(時短勤務などの)人でも、管理職に割り当てが可能。
  • 業務量<<リソース →時間投入の度合いと関係なくポジションが設定される。名誉職とか相談役とか?(全く働いていない社長の家族を名目的に役員にする=時間投入ゼロ、とかだともう力量も関係なくなってくる)

 

奉仕度とリンクしない環境

 奉仕度が小さくても出世を許容するかは、そのコミュニティの価値観にも左右される。「やっぱり滅私奉公/自己犠牲した人が評価されないのはひどい」とみんなが思う状況だと、力量のみで評価してポジションを引き上げるのは難しい。この価値観は、リソース-業務量バランスの調整ができて、誰も滅私奉公をしていない環境ができた後に、変化が生じるのであって、人為的に価値観だけを変化させることはできない。


 出世水準が奉仕度(時間投入の許容度)に強くリンクする状態だと、せっかく力量があっても高いポジションに就けられない。力量の獲得(人材育成)にも時間と手間がかかるが、奉仕度によってポジションの自由度が制約されるのは、組織にとっても不利になり得る。「女性は出産・育児・家事があるから出世させられない」と同じになってしまう。
 一方で、リソース-業務量バランスの調整をしたくてもできないケースが現実には多い。人員を増やす、アウトソースや設備導入等によって業務量を減らす余裕がなく、出世水準に対する奉仕度の寄与レベルを下げられない、というのが実情かとも思う。
 リソース不足状態だと、業務の標準化や改善の必要性は現場側でより強く感じられるようになるが、他方で「必要最低限の量を、必要最低限の質でこなすだけで精一杯」の状態なので、改善は進みにくい。


出世のコスパ

 出世にはおよそ以下のような利点と欠点がある。

  • 【利点】
    • 金銭:給与が(退職金や老齢年金も)上がる。
    • やりがい:より大きな粒度の仕事を差配できる。
    • 名誉:自尊心が満たされる。
  • 【欠点】
    • プレッシャー:上・横・下からの「ここまでやって当然」という要求水準が上昇する。
    • プライベートな時間の減少:要求水準を満たそうと残業や休日業務が増加する。
    • 意思決定によるストレス:多種多様な意思決定を迫られるが、判断すること自体が人間にとってストレスになる。

 

 利点が欠点を上回ると信じられれば「やってみたい」「なりたい」という人も増えるし、逆なら「コスパが悪い」と忌避される。
 出世を忌避する人が多い職場だと、そのポジションのなり手が減り、力量によって選べなくなる。組織の持続可能性が低くなる。


力量と奉仕度の依存関係

 ここまであたかも力量と奉仕度が相互に独立しているように扱っていた。しかし現実には、力量が経験によって伸長し、時間投入の多寡に力量も左右される側面がある。
 力量が高い人は、そこそこ奉仕度が高い人になっているケースが多い。


力量と奉仕度の混同

「時間の投入量で仕事の質が左右される」という考えれば当たり前のことが、内側からは明確に意識されるが、外側からはよく見えないという非対称さがあるのではないか。
 ポジションを引き上げる側も、アウトプットの質が高いからこの人を引上げた、それはこの人の力量が高いからだ、と漠然と思っていても、実際には背後で時間投入が他者よりも大きかったりする。
 アウトプットの質だけしか見ていないと、この力量と奉仕度の混同が起きる。単に「優秀な人」としか見ず、力量と奉仕度を弁別できていない人は多い。
 例えば「家事や育児を全て家族に依存している人」と「全て仕事と両立させざるを得ない人」と時間投入の許容度が異なる人がいて、仕事の量や質に差が生じた時に、そのアウトプットの結果だけしか見ないと、前者の奉仕度が高い人を「優秀」と判断することになる。


奉仕度の天井を決める

 奉仕度がポジションにリンクする状況を解消するには、リソース-業務量バランスの適正化が必要になる。しかし奉仕ができてしまう状況だと、リソースに対して業務量が過大だとそもそも認識できない。内部にいる人は肌感覚で「仕事がやりきれていない、本来の質が担保できていない」と分かっているが、外側からは分からない。
 結局は、強制的に奉仕度の天井を決めるしかないのかもしれない。

  • フレックス勤務とし1ヶ月あたりの時間外勤務は5時間以内
  • 有給休暇の8割以上の取得強制(こうしないと「休暇取得せずフレックスで1時間だけ出勤して調整」が発生する)
  • 「サービス残業」の厳格な禁止(PC起動時間の監視等。こうしないと「休暇取得しながら業務」が発生する)

 とかだろうか。
 強制的に奉仕の程度が制約されれば、コミュニティの価値観として「やっぱり滅私奉公した人が評価されないのはひどい」も消えていく。


奉仕度を最大化したい人

 奉仕度の天井を設定した場合、本当にその仕事が好きでたまらなく、奉仕度を最大化したいと考えている人は不満を抱く。「仕事は金銭を得る手段」の人もいれば、「仕事が趣味」の人もいる。奉仕度と力量は独立変数ではなく、時間投入の大きさによって力量は左右される。アーティストや職人でなく会社員であっても、人生をかけてこの仕事をやりたいと考える人にとって、奉仕度の制約は耐え難いものかもしれない。
 ただ例えば労働基準法によって奉仕度の制約がそもそもあり、最低限過労死はしないように、健康に生きられるようにという天井がある。ちょうど今年度(2024年4月)から運送業・建設業・医師の時間外労働の上限規制が始まっている(正確には2019年からの5年間の適用猶予期間が終わった)。
 法的な天井(過労死防止の天井)から、どこまで下げるか(あるいは複数の天井を設定するのか)は、その組織の方針による。


組織単位の管掌範囲の粒度を揃える

 リソースを適正化するには、組織ごとの管掌範囲の粒度を揃える必要もある。会社の中で「一つの課はこれくらいの人数」というイメージが共有されていると、管掌範囲が広過ぎる課は、業務が過多になっていても人数を増やせない。リソース-業務量バランスの適正化ができない。
 組織を適切に分割・デザインする必要もある。


合理性の範囲

 職場単位で、組織の持続可能性や、力量を中心とした評価、人員の意欲といった側面からは、リソース-業務量バランスをある程度リソース十分に振る方が適切だと思われる。
 しかし固定費(人件費)を増やすのは現実には簡単ではない。長期的な視点/短期的な視点、経済的な視点、意欲や満足度の視点等々が変われば何が「合理的」かは当然変わってくる。あるいは同じ側面で見ていても、課→部→事業部門→会社→業界→社会全体、と粒度が大きくなれば何が「合理的」かは変わってくる。


ファーストステップ

 リソース-業務量バランスを、リソース十分側に振ることが絶対的な正義かは不明だとしても、業務量過多の状況だと、人員の力量より奉仕度がより高く評価されてしまい、組織の自由度は減る。
 この関係を正しく把握するには、まず「あの人は優秀だ」と漠然と見るのではなく、優秀さが力量と奉仕度の両者で成り立っていると認識する必要がある。




 

個人的な気持ち

 以下は個人的な話。こっちが自分自身にとっては本題なのかもしれない。


 1年ちょっと前に未経験の職種に社内で異動となり、忙しくなった。新卒で入社した大企業のメーカーに勤めている。前の職場も今の職場も、係長クラスでポジションの高さは変わりないが、急に苦しくなった。その苦しさを↓に書いていた。
  中年会社員が部署異動してつらかった話 - やしお


 課の中にA、B、C、Dと大きく4種類の業務があり、異動当初はABCを管掌する係長となっていた(メンバー25人)。半年後に、Cが別の係に独立してABが管掌範囲(メンバー20人)、さらに1年後にBも独立してAだけを管掌するようになった(メンバー10人)。非常にありがたい一方で、それでも異動前と比較しても忙しい。
 異動前の感覚と比較すると、A機能で課として独立して、課員があと5人いて、その中で係が2つに分かれて、その一つの係長をやるくらいで、ちょうど異動前の係長をしていた時と忙しさのレベルが近くなりそう。


 1日で平均的に打合せが6時間くらい入って、メールが120通くらい入ると、会議中か夜になってようやくメールを見て、作業をする時間がほとんど取れない。深夜残業や休日出勤を繰返すほどではないが、時間外勤務は1.5~2倍ほどに増えている。
 もう少しメンバーのフォローをしたい、改善業務に時間を割きたいと思ってもやる余裕がない。管理業務や作業の質も落ちる。(ABC管掌時代に比べればAのみ管掌の今は、かなりマシにはなった。)
 係長でこうなので、課長は輪をかけて忙しい。


 業務の質が下がって、ある時部長に何かで自分がまとめた資料に不備があって、メールで「ちゃんとやってほしい」と指摘されて、発作的に「係長としての力量が不足していると自分でも思うので、降ろしていただくことも含めて課長に相談したいと思います」みたいに返事してしまった。直後に対面で部長からは謝られてしまい、何か自分自身を人質に取るみたいな言い方をしたと自分でも嫌になった。
 前の職場だと「よくこの短時間でここまで」と言ってもらえることも多く、自信もそれなりにはあったけれど、あれは時間的な余裕があってできたことで、職場環境がありがたいだけだったのね~と今は思う。


 前の職場で係長だった時は、「一つ上のポジションを担当できる力量が備わるように準備をするのが良い」と思っていて、もし課長をやれと言われても断らずに引き受けられるように準備しようとやっていた。
 管理技術、リスクマネジメントの技術について、自分なりにまとめてみたいと↓を3年前に書いたりもした。
  リスクの洗い出しと判断のコツ - やしお
 もはや懐かしい。
 今は課長どころか係長ももういいかなみたいな気持ちに傾いている。一方でそうは言ってもみたいな気持ちもある。心がふたつある~。

  • 【もういいやの気持ち】
    • 課長になった人達の働き方を自分が望むかというと違うと感じる。※入社時は「8時間/日だけはしっかり頑張る、時間外労働は極力しない」と誓っていたのに、「失望されるのが怖い」「褒められたい」でここまで来てしまった。もともと出世したいという気持ちがあったわけでもない。
    • 30代前半で係長になってもう5年超になるし、「これ以上はもういいかなあ」と思っている人より、若い人にポジションを譲った方がいいはず。
    • 以前の業務の方が自身の興味の度合いとしては高かった。※入社以来15年いた製品の品質管理系の職種から、生産管理部門へ(本人の希望というわけではなく)異動となった。
    • 会社の仕事外だと、せっかく小説を商業出版する機会を得て、もう少し色々書いたり読んだりする方に時間を使いたいという気持ちがある。※八潮久道『生命活動として極めて正常』がKADOKAWAから先々月発売された。
  • 【そうは言ってもまだの気持ち】
    • 30代後半で「もういい」と思ってるのも健全ではないのかもしれない。
    • 管掌範囲を狭めてもらって異動当初よりかなりマシにしてもらった。だいぶ業務の感覚も身についてきた。
    • ここで「降ります」と言われても課長は苦しいだろうなあ。
    • 上のポジションを体験してみたい気持ちもゼロじゃない。※恐らく一度自分から降りたら、もう上がることもなさそう。

 

 他人からは「じゃあやめればいい」と(もちろん自分の人生ではなく責任もないので)気軽に言われて終わりの話だろう。過去を振り返ると、仕事に限らず何につけても「やめる勇気もなく曖昧に続ける」「極端に振らない」スタイルで案外いろいろ身について満足してる面もあるなと思う。どっちつかずいいじゃない論。せいぜい課長との面談で率直にこころが二つある~を伝えた上で、曖昧にずるずるやってこうかしら。


 これは中年会社員の倦みあるあるなだけで、割と気分の問題なのでは、という気もする。
 ただその気分を出発点にして、「組織が人員の力量と奉仕度のどちらを重視するかは、リソースと業務量のバランスという環境に依存する」といった構造の話が出てきたら、ちょっと面白いかもと思って。





↓は投げ銭代わりの設置。お礼しか書いてない。

この続きはcodocで購入