やしお

ふつうの会社員の日記です。

読書メモ

市川寛『ナリ検』

https://bookmeter.com/reviews/132020002
検事をやめて弁護士になった著者の自伝『検事失格』と併せて読むと、この創作は一種の「救い」に見える。小規模地検を舞台に、非常に「優秀」で検察の意思や価値観、「正義」を正確に内面化した三席検事・平戸と、元弁護士で検察のやり方に強い違和感を持った視点人物の次席検事・牧原の対立が、最終的にはどちらの立場にも全面的に寄らずに調和される。「こうであってほしい」という著者の願いが込められているようなお話。検事、検察事務官など検察実務がリアルに描出されて面白い。

 

久保正行『警察官という生き方』

https://bookmeter.com/reviews/129626864
著者はノンキャリとして最高の階級である警視長まで昇進し、キャリアの多くを刑事畑、警視長刑事部捜査第一課で過ごした人物で、刑事事件捜査やマスコミ対策などの警察官の仕事について本書で説明してくれる。例えば管理官という職責がどういう働きをしているのかなども知られて面白かった。ところで「第62代警視庁捜査第一課長」と役職名に代目をわざわざ付けるのは、私企業に勤めている感覚からはあまりに隔絶していて(異常としか思えず)興味深い。階級社会かつ地位へのプライドが垣間見える。

 

仲道祐樹『刑法的思考のすすめ』

https://bookmeter.com/reviews/132166428
素朴な処罰感情や善悪の倫理観から、罪の認定や量刑に納得できずに、(いつもなぜか検察官にではなく)裁判官を糾弾する光景をSNSでたびたび目にする。本書ではそうした素朴な感情から出発して、それだとどこで他の要素と衝突を起こしたり、不都合が生じたりするのか、そして刑法的な考え方だとそれをどのように処理しているのかを順を追って辿っていく。実は完全な正解には辿り着かずに、国によってもバラつきがある、バランスの中で成り立っている面がとても多いことに、その過程で気付くことができる。

 

冲方丁『冲方丁のこち留』

https://bookmeter.com/reviews/129620388
本書を読むまで、「冲方丁が以前逮捕された」と漠然と覚えていても、それが冤罪・無罪だったとは全く知らなかった。やはり逮捕の事実だけを大々的に報道して、その後のフォローをしない報道はアンフェアだと感じた。ただそれは報道だけが悪いというより、そのセンセーショナルな点だけを消費したい俗情との結託の問題だ。本書は、当時の渋谷署の留置場の様子や、検察官送致などの様子も細かく記載されて貴重な記録となっている。あまりにも不必要・不合理な身体拘束が続く異常な世界だ。

 

西愛礼『冤罪』

https://bookmeter.com/reviews/129628893
どんなシステムであっても「人は間違える」を前提として、フールプルーフやフェイルセーフなどの対策が施されるべきだが、日本の刑事事件を処理するシステムでは、捜査機関によって事件が認知されてから、最終的に有罪判決を受けるまでの全体のプロセスの中で、こうした対策が非常に薄いという実態が本書によってよく分かる。冤罪は極めて特殊な事例と世間的には思われていても、実はもっと気軽に発生していて、ただ冤罪被害者もダメージコントロールのため大事にせず暗数になっているだけなのだろうと、実例を知れば知るほど感じる。

 

村木厚子『私は負けない』

https://bookmeter.com/reviews/129643695
同著者の『日本型組織の病を考える』と内容的に被るが、本書は冤罪の作られ方や、拘置所での生活など郵便不正事件により特化している。とりわけ貴重なのが、証明書を偽造した元係長のインタビューが収録されている点。元係長が上司である村木氏(当時課長)の関与を供述したことで、村木氏は冤罪事件に巻き込まれる。なぜ虚偽の供述をしてしまうのか、全く身に覚えのない人が冤罪と戦うより、スネに傷を持つ人の方が捜査機関の強引な見立てに抗うのが難しい心理状況が本書には詳細に記録されている点で貴重だ。

 

メン獄『コンサルティング会社完全サバイバルマニュアル』

https://bookmeter.com/reviews/129627446
私は製造業に勤めていて、コンサル業がどんな風に働いていているのかはまるで知らない世界で興味深かった。例えば製造業でも新製品などプロジェクト単位で各課から人を出し合っても、あくまでメンバーは所属の課の役割(専門領域)を担うが、コンサルは極めて非定型的なのでプロジェクトで集められた人達には職責はあっても「元の役割」がない。以前、広告代理店の業務に関する本を読んだ際に、仕事の質の上限やラインがないので質の追求のため際限なく労働時間が増える構造が見られたが、コンサル業もそれに近しいものがあるようだ。

 

市川寛『検事失格』

https://bookmeter.com/reviews/129666146
読んでいると胃が痛くなりそうな実体験。検事として当初は人権に配慮した「正しい」仕事をしたいと望んでいた著者が、組織(検察庁)の強いプレッシャーに長年さらされた末に、取調べで被疑者を大声で恫喝するという、人権侵害そのものの行為に至る。民間企業のように倒産することもなく、取って代わられることもない組織はガバナンスが効き辛いとしても、ほとんどカルトのようなマインドコントロールを強いる。著者は自分自身を許されないと認識できたおかげで、本書に貴重な記録を残すことができたが、順応してしまう検事も大勢いるのだろう。

 

R・ミルン、R・ブル『取調べの心理学』

https://bookmeter.com/reviews/131334904
人間の記憶は壊れやすく、それを壊さないように、変質させないように取調べによって上手く取り出すにはどうしたら良いのかという技術について書かれている。この逆が、記憶を改竄してこちらの望む言動をさせるマインドコントロールで、取調べにおいては「自白させることがゴール」と捉えてしまうと、取調官自身も無自覚なままこれが生じて冤罪を生み出す素地になってしまう。各種報道で見聞きする限り、日本の捜査機関ではまだ自白偏重の取調べが多いように見える。

 

山岸忍『負けへんで!』

https://bookmeter.com/reviews/131351872
著者はプレサンスコーポレーションの創業社長として業務上横領で逮捕起訴されたが無罪判決を勝ち取った人。取調べ担当の検事が懐柔的なタイプで、山岸氏は当初、弁護人のアドバイスよりも検察官の意見の方を聞いてしまったと後悔している。強圧的・威迫的なタイプの取調官が問題視される事例が多いが、こうして取り込まれてしまう例が記録されているのは貴重だと思う。ただ山岸氏は検察の事実と違うストーリーを最後まで否定し続けており、その点では迎合していない。

 

高野隆『人質司法』

https://bookmeter.com/reviews/132166453
弁護団の一人を勤めたゴーン氏について、時系列で日本の刑事司法への不信感を徐々に深めていった様子が詳述されてリアルだった。真実がどうだったかは不明でも、「この国で全力を尽くして戦ったところで、フェアな判断はしてもらえないだろう」と見切りをつけられてしまうのも無理はない状況だったと感じられる。立法過程や他国の実状を交えて、日本での刑事司法の現状をかなり丁寧に語る本。

 

フジワラヨシト『コネ、スキル貯金ナシから「好き」を仕事にするまでにやってきたこと』

https://bookmeter.com/reviews/131334656
著者は勤め先をやむなく辞めて、背水の陣でイラストレーターとして生計を立てた人。「SNSの運用を通じて仕事を受注する」には、「何をしている/何ができる人なのか」を分かりやすくする必要がある。そのために、作風の一貫性、作品の一覧性、仕事の連絡先の表示などがあって、それは旧来の営業とは違う「型」の構築で、イラストレーターに限らずフリーランス全般にとっても応用の効く型なのだろうと思う。大学中退後、全国を転々として似顔絵描きをしていたエピソードがなかなかすごい。

 

畑村洋太郎『失敗学のすすめ』

https://bookmeter.com/reviews/132166489
黎明期・発展期は、試行錯誤や失敗を繰り返しながらやり方が確立されていく。それを経験した人達はノウハウが溜まるし柔軟な対応ができる。一方で成熟期には確立されたやり方の護持が主になり、その時代の人たちは例えベテランになっても対応力が足りない。そんな話はあらゆる分野でのあるあるだと思った。出てくる事例がちょうど子供の頃にテレビで連日見てたなと懐かしくなった。組織をガラガラポンするのは、非効率なようで、効率化の中でなあなあにやってる部分を見直す意味では利点があるのかもしれない、と読みながらふと思った。

 

藤沢周平『義民が駆ける』

https://bookmeter.com/reviews/129643398
読み始めて、国政の為政者(幕閣)、地方領主(藩主・重臣)、農民の3者視点で上下軸から描くのかと思いきや、藩への帰属意識が薄い地域の住民とか、学者とかどんどん視点人物が増えていく。キャラを立てて感情的な関係性を描いたり、伏線をしっかり回収したりといった現在の物語の作り方で重視されそうなポイントが薄くてかえって新鮮な感じがする。主役は人物ではなく「三方国替え」で、各プレイヤーの都合や利害で幕命の撤回という前代未聞の顛末へ至る様を描くのが主眼な以上、この書かれ方が適切だろう。読むとやはりわくわくするし面白い。

 

飯田一史『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』

https://bookmeter.com/reviews/128347657
すごい力作。個別の町の本屋の盛衰ではなく、出版業界のいびつな構造がどのように成立してきたのか、その歴史的背景を実証的にまとめている。読み辛いが、この資料的価値の高さの前でそんなことはどうでもいいことかもしれない。消費者の利便性を阻害する形で、目先の既得権を死守しようとする振る舞いは、その瞬間は機能しても、必ず将来的には手痛いしっぺ返しになって破綻する、という教訓を教訓とせずに積み重ねてきてきていることがよく分かる。結局、その轍を踏まずに小売の夢見てきた理想を体現したのがAmazonだったという。


 書籍が商品として自立しておらず、雑誌や外商、文具、レンタルCD、カフェなどとのバーターによってかろうじて商材として成り立っている。それはやはり健全な姿ではないのだろう。
 海外の事例で、耐久性の高い装丁の高価な本は図書館向け、ペーパーバックは一般向けと分けて製造されるという話は、なるほどと思った。四六判と文庫をいずれも一般向けに販売しているのは奇妙といえば奇妙ではある。

 

野田聖子、辻元清美『女性議員は「変な女」なのか』

https://bookmeter.com/reviews/128543199
野田聖子と辻元清美という国政のベテラン政治家が仲が良いということも知らなかった。二人の対談で、目の覚めるような認識が示されるとか、深い議論が展開されるわけではないが、政治家という特殊な職業を選択した女性、人生を生きている普通の人間としての実状をとても率直に語り合っている。自民党で造反4回、公認取り消しもあり、選択的夫婦別姓制の賛成派という異端のポジションにいる野田聖子の、党に頼らないこの中選挙区的なマインドは党に依存しなくても選挙に勝てる地盤の固さにあるのだろう。


 野田聖子が国会議員になった直後に、中曽根康弘から「総理を目指すようでないと、学ばなくなるからダメだ」と言われたエピソードを見て、つい最近、伊勢ヶ濱部屋YouTubeチャンネルで前伊勢ヶ濱親方(旭富士)が「力士である以上、横綱を目指してやらないとダメ」といったことを言っていたのを思い出して同じだなと思った。確かに上を目指すことで技能や技術が引き上がっていくというのはある。

 

根本知『10の法則で読むくずし字入門』

https://bookmeter.com/reviews/128741774
読んでいると例えば斉藤と齋藤を間違えると失礼みたいな感覚が霧消していく。漢字の偏と旁の位置関係も固定的ではないし、仮名は現在の平仮名の字形よりさらに簡略化された先もあれば、元の漢字に近い形も、みな「同じ字」として認識されている。英語の発音がリエゾンによって単語間の境界が曖昧になったり、hやtの音が省略されたり、thがfに転じたりして、リラックスした会話や特定の地域の発音ではそれらが激しく生じてほとんど聞き取りが困難になるが、よくその音の動きを見つめると、元の言葉や発音の名残があるのと似ていると思った。

 

大津広一『ビジネススクールで身につける会計×戦略思考』

https://bookmeter.com/reviews/129614988
まず読み物として面白い。現実の同業種の別会社を決算資料で比較し、会社の戦略の違いが「どこにお金がかかっているのか」の違いとなって現れてくる様子をいくつも見せてくれる。分類すれば「財務諸表の読み方の本」だが、単なる定義の説明ではなく、血肉の通った経済活動の一断片としての見方を講義する。エピローグにあるように、本書を読むだけで自力で分析できるようには当然ならない。興味を持って習慣的に決算資料を読むうちに、その会社の姿勢や戦略を類推できるようになっていく。そんなレベルで読めたら楽しいだろうなと思わせてくれる本。

 

東直子・穂村弘『しびれる短歌』

https://bookmeter.com/reviews/130939285
短歌が、普段見えている世界を異化する営みとして、制約された(しかし俳句ほど制約されていない)音数の中で、言葉の意味や、音や、語順や、文字の組み合わせを駆使していく。その営みが高度になればなるほど、「その一段階前」を知らないと理解が難しい。本書は取り上げた短歌がどういう点で面白いのかを実作者が語るから、素人もその素晴らしさに触れることができる。歌人・個人間の差というより、世代間で何に違和感を見出しているのかの差が主眼になっている。

 

朝日新聞「志布志事件」取材班『虚罪 ドキュメント志布志事件』

https://bookmeter.com/reviews/131002870
あまりにもむごい。高齢者を含む多数の無実の住人が、警察がでっち上げた選挙違反で逮捕され、最終的に全員無罪判決を勝ち取るが、不可逆的に人生を破壊される。捜査機関による取調べは、一般人からすると「やってないなら否認すればいい」と思えるが、仕事や財産、健康や家族を盾にして、「お前以外は認めている」と嘘を吹き込まれると耐えきるのは非常に難しい。何が犠牲になっても構わない、ただ嘘の供述だけはできない、と割り切りきった人だけが耐えきれても代償があまりにも大きい。

 

柳宗悦『民藝とは何か』

https://bookmeter.com/reviews/132020053
洗練や作為はダメ、実用を離れた装飾は美しくない、非凡なものを尊ぶのは平凡、作家性でなくギルド的なものが美しいという。その美は直感により感得されるというが、これは「概念を排して見ろ」という要求で、もし「用の美」という概念すら排して見ろ、だとするとものすごく困難なことを要求されている。考え方にちょっとバウハウスみもあるけど、必ずしも装飾性が排除されておらず、用としての装飾は美と判断されている。湯呑や木像など柳宗悦が美としたものの写真とコメントがあってヒントが提示されている。


 廉価な大量生産品に美があるとの展開で、「じゃあ百均の皿は美しいのだろうか」と思っていたら途中で、機械工業製品は用のためではなく利のために作られるから安くても良いものにはなり得ない、もし競争がなければ高く売るはずだから安価であっても廉価ではない、という話が出てきて、そういうことではなかった。
 そうなるともはや産業資本主義そのものの批判になってきて、現代では両立しなさそう、と思っていたら、ギルドの話が出てきた。


 途中で日本民藝館設立の話の中で、アクセスの仕方も書かれていて、タクシーに乗った時に「駒場と駒沢を間違える運転手がいるから注意」とわざわざ書いてあってちょっと面白かった。

 

高野隆・河津博史『刑事法廷弁護技術 第2版』

https://bookmeter.com/reviews/130939697
「異議あり」はゲームなどでは、弁護人が証人や検察官に向かって矛盾を指摘する決め台詞(?)のイメージが強いが、当たり前だが現実の法廷では全く違う。刑訴法や刑訴規則に反して、相手方が法廷に有害な情報をもたらそうとした時に、裁判長に対して異議を申し立てて阻止する行為で、一瞬で何のルールに反しているか、阻止すべきかを判断するのはかなりの訓練が必要そうだ。このルールは、欧米で長期にわたって構築され、さらに日本でも独自進化したもので、直感的になぜそれが禁じられているのかは分かりづらい。専門性の高い領域だ。

 

小山竜央『【超完全版】YouTube大全』

https://bookmeter.com/reviews/131002902
結局は出演者と企画が魅力的であることが第一、という話をされると、YouTubeの評価式がしっかりしてるんだなと感心する。一般的に人気チャンネルの指標として登録者数がまず注目されがちだが、内部的な評価ではむしろ、どれほどアクティブに見続けられているかの方が重要だという。本書は楽しくYouTuberになろうという話でも、YouTuberとして稼ごうという話でもなく、マーケティングの一貫としてYouTubeをどう活用するのかという観点での話が展開されている。

 

髙比良くるま『漫才過剰考察』

https://bookmeter.com/reviews/132099142
大阪弁は音的に短く済む分スピード感の面で漫才に向く一方、ボケの前にフリが不要な点で標準語はボケ単体のパワーが出し易いとか、漫才中のコントは漫才師のキャラが前提にして入る点で、コントの方が不条理な世界を展開できるとかの話は、「のような」を入れる直喩は暗喩より冗長なようで、実は一般的に連想されない要素を強制的に繋げてより無茶ができる話と似てると思って面白かった。そういう整理の仕方、構造化をするのが好きで、かつそれに基づいて現実の方を変えるというのは異常な人だ。

 

林真理子『着物の悦び』

https://bookmeter.com/reviews/131334257
着物にも、例えばスーツと同じく厳密なコードがある。さらにその中でセンスが要求される。センスの領域は独立して遊離したものではなく、歴史的な経緯や意味を踏まえて美醜の判断がされる。このエッセイは著者が3年ほどで着物を大量に買いまくって、失敗しながらもそうした内在的なロジックを身に着けていった過程を語ったもので、(業界的な慣習については批判しても)この価値観自体はかなり保守的に肯定している。一度ロジックを内面化するとその論理で導かれるものは「正解」としてしか認識しようがなくなるこの感じが味わえるようなエッセイ。

 

一力遼『AI時代の最善手』

https://bookmeter.com/reviews/131334301
中国や韓国では囲碁がスポーツ、棋士がアスリートの扱いで、対局時間も短く、開始時間も夜遅くに設定され、ファンがエンタメとして楽しめる工夫がされているという話が面白かった。日本は文化や芸事としての側面が強く、それが悪いことではないが、世界的な大会で中韓の後塵を拝する要因になっている。台湾は子供の成長に良いからと塾で習わせる形で普及しているというまた違いがあるのが面白い。一力遼という人の思考そのものを知るというより、あくまで碁を知らない一般読者向けに囲碁の状況を紹介するような本。


 ちょうど最近、日本棋院が29年度にも運転資金確保が困難になるというニュースを見た。かつて日本では全人口に対する囲碁の競技人口が10%ほどもあったというのは驚きだが、これだけ興味関心が多様化している時代で維持していくのはどこも厳しい。
 世界大会を制した一力遼だが、藤井聡太と比較して世間の知名度がどれほどかを考えると、囲碁のプレゼンスの低さが際立ってしまう。

 

祥見知生『うつわを愛する』

https://bookmeter.com/reviews/132166526
著者のギャラリーが鎌倉にあり、器を買ったことがある。そこで本を出していることを知って読んでみた。コレクションとしてではなく、本来の用途に供するように、陶器との暮らし方がたくさん書かれている。この用の美を尊ぶ姿勢は、途中で日本民藝館への言及もあるように、柳宗悦精神なのだろう。現代の生活では電子レンジや食洗機を回避できないのだからと、実際に自分で使ってみた結果まで書かれているのを見て、「暮らしで使わなければいけない」の本気度を感じた。

 

松浦理英子『ヒカリ文集』

https://bookmeter.com/reviews/132038371
例えばメルヴィルのビリー・バッドみたいな愚かさが醸す聖性とは全然違うけど、異様な他者への与え方を示して、みんなが好きになっていくような人物ヒカリを、それぞれ違うタイプの人々がどう惹かれて関係を持ったのか、惹かれた側の視点で描いていく。それでヒカリという人間が像を結ぶかというと皆にとって「結局よくわからない」だとしても、ヒカリが簡単に空虚とかお話の真ん中の穴とかで処理できるようにもなってないし、サークラや寝取られの枠に収まらないところが豊か。

 

和仁かや『江戸の刑事司法』

https://bookmeter.com/reviews/131832641
江戸時代後期の、刑事事件の量刑判断のロジックやプロセスを実例で解説していて面白い。時代劇などでは奉行や代官の個人的な判断で処理されているイメージだが、特に重罪については慎重な検討が加えられている様子がわかる。「法令・判例との論理的整合性を重視するが、個別具体的な事実関係も見る」「(科学捜査に限界はあっても)供述証拠以外の証拠も集める」「重い事案は評定所→老中と判断を上げて現場のみで判断しない」「評定所も老中の意見に反駁するし、老中がその反論を受け入れることもある」という。

 

泉二啓太『人生を豊かにするあたらしい着物』

https://bookmeter.com/reviews/131833223
先日、林真理子『着物の悦び』を読んだ際に、着物関連のワードを理解できず、基本的なところを知りたいと思って読んでみた。基本用語、各アイテム、格の差、着方、合わせ方など男女ともに網羅的に書かれていて入門書として良かった。TPOは押さえて適切に着てほしいという気持ちと、いわゆる「着物警察」みたいなことになってハードルを上げるようなことをせずに入口は気軽に楽しんでほしいという気持ちと、著者のバランス感覚が感じられて良かった。「布そのもののシンプルな美しさ」の快楽がある世界なのかもしれない。

 

働かせホーダイのサンプル私

 高市首相が就任早々に、労働時間規制緩和の検討を指示したという報道がしばらく前にあった。「ワークライフバランスを捨てて働く」という総裁選勝利直後の発言や、深夜3時の勉強会なども報道された。
 枠を緩和すれば苦しいことになるのは容易に想像できる。それは私自身が中間管理職になって、労働時間の規制の枠外になってどうなったかを見つめると、やっぱり「枠」は厳しめ設定しないとダメなのだろうとつくづく思う。
 規制緩和の素案や指示の内容を細かくは追えていないけれどサンプル数1の実感を残しておこうと思って。


会社で課長になって

 詳しくは↓の記事に書いたけど、今年度から会社で課長になった。
  課長になって中間管理職みを味わう愉悦 - やしお

 労働基準法上の管理監督者に(本当に該当するのか? という疑問はありつつ)なったことで、時間外労働をどれだけしても残業代は払われなくなった。「金が払われないなら、短い時間で帰るぜ!」とはならなかった。
 その逆で、労務費が発生しなくなるというタガが外れたことで、平日も19時半で「今日は早かったな」という感覚、忙しいと21時半や22時手前くらいの退社になった。休日も半日くらいは自宅で仕事をしている。
 月でいうと40~60時間くらいの時間外勤務(残業)になっている。昔は多い月でも30時間くらいだった。


普通に体に悪い

 60時間になると、かなり仕事に圧迫されている感覚がある。
 就寝の2時間以内で頭を働かせていると、交感神経優位になるというのか、眠りが浅くなってしまう。「ずっと考えてる」みたいになってしまう。食事について「夕食から就寝まで2時間を空けた方がいい、消化していて睡眠が浅くなる」と似た話だと思う。
 あと軽く蕁麻疹が出ることがある。
 連日退社が21時過ぎや22時近くになった週は、土曜日に半日仕事するつもりでいたけれど気力がどうしても湧かなくて、(あ、これ無理してやるとヤバいやつかも)と思って一日出掛けもせず、家事や他の作業もできず、ただゲームやネットをだらだらして過ごしたら翌日は回復した。危ない。ヤバいと感じたら無理せず回復に専念する。


 睡眠を削ると早死するので、7時間確保は維持している。あと映画館で映画を観ると、その間は仕事やその他を忘れて映画に集中できて精神にいい気がしているので、映画館に行く習慣を維持している。
 60時間は超えないように、なんとか40時間未満を目指そうとしている。


長時間労働したくないのに「自発的に」してしまう機序

 もともと「仕事が趣味です! 許されるならずっと働いてたいです!」というタイプでは全く無い。入社した時は「8時間だけはしっかり働こう、それ以上は別のやりたいことをやる」と心に誓っていた。実際、30歳くらいの時は「月の」残業時間が平均0.5hくらいで調整していた時もあった。サービス残業で時間をつけてなかったなどではなく、本当にしていない。
 それから一昨年に、KADOKAWAから書籍(小説・短編集)が出版され、作家業もしている。今は書籍の企画が3冊ある。しっかり執筆の時間も取って、早く書き上げたいと心の底から思っている。「少しずつでも書けばいつかは終わる」と信じて、平均2,000字/週という激遅ペースで執筆を続けている。来年前半には1つ目の企画が形になって出版されるはず。


「会社で働くことが大好きで、めちゃくちゃ働きたい!」とは全く思っていない。そして直接的に誰か(上司など)から「もっと働け!」などとも言われていない。
 にもかかわらず、上限枠が外れるとこうなってしまっている。
 これは人に「ちゃんとしてる」と思われていたい、がっかりされたくないという恐怖から来ているのだろうと思う。
 自分の中で思う「課長だったらこれくらいやってほしい」という水準を維持しようとするとこんな労働時間になってしまう。それを下回って「全然できてない自分」を認めることになって自尊心が崩れるストレスと、長時間労働によるストレスと、その拮抗する点まで行ってしまうイメージ。「悪を悪だと思ってやれる悪人は少ない(良いことをしていると思っている、あるいは認知の歪みで自分を被害者だと思いこむ)」というのとちょっと似てるかもしれない。「周りに嫌われても落胆されても構わない」と思ってだだくさにやれる「心の強さ」を持てる人はたぶん少ない。
 明示的に「やれ」と強制されていないし、本人は「長時間働きたくない」と思っているのに、「自発的に」働いてしまう。そんな機序があるから、枠は必要だとつくづく思う。


課内に枠を設定する

 課のメンバーに対しては、費用抑制を全社的に強く言われているので、月の時間外労働時間を年度平均で○○時間以下に抑えてほしい、しかしサービス残業は絶対にダメなので、「出張中にホテルに帰って仕事した」みたいな時間も必ずつけてほしい、と伝えている。それに合わせて、緊急ではない(重要ではある)改善系の業務目標は日程も緩めた。
 今年度の途中(第2四半期)から設定したところ第1四半期よりぐっと時間が減った。なかなか多い人少ない人のバラつきもあるし、トラブル対応などで多い月少ない月のバラつきもあるけれど、良かったかなと思っている。


 ちゃんと外側から枠を設定すると、「自分はもっとやりたいしやれるんだけど、枠が強制されてるから仕方ない」と思えて、自尊心を損なわずに労働時間を抑えられる。


法的な枠の羨ましさ

 以前、ドイツの調達先とやり取りしていた時に、つくづく法律で守られてるのは羨ましいなと思った。「担当者がバケーションに入ったので対応不可」「時間外は法律で禁じられているから対応不可」とあっさり答えられる。
 大きいトラブルがあった時に、当時の上司から「いいから念のためできるか聞け」と言われて(やだなあ)と思いつつも、休日でのトラブル解決の対応をお願いしたら「いや、法律で決まってるんで……」と当然の回答で、たぶん相手は(なにいってんだこいつら)という感じだったのだろう。
 実はこの会社だけがそうでドイツ全般じゃない可能性もある。
 また「残業規制が厳しい欧州でも、エグゼクティブははちゃめちゃに働いている、管理職も家に帰ってから仕事してる。この世界に楽園はないんだ」という話を見かけたこともある。


 ただそれでも「法律で許されてないから」で答えられると何もどうしようもないので強い。
 日本だとそもそも現状でも上限が高すぎると常々感じていた。


仕事の強度が上がっている

 昔に比べると要求される業務の質・量・速さが上がっていると感じる。テクノロジーの進歩で、「打合せのためだけに遠方へ移動する時間」「大雪で電車が止まったので会社を休みにする」などの「余白」がなくなり、「会議に出席せず後から倍速で見たり生成AIの要訳でチェックする」「出社できなければ在宅で業務をするし、移動中の新幹線内でノートPCで仕事をする」といったことが業務全般で幅広く起こって、密度がぎゅんぎゅんになってきてる。
 30分、1時間刻みで6時間連続で全然案件が違う打合せが入っている日は、頭がおかしくなりそうになる。メールや承認も溜まると後が大変なので、会議の一瞬の隙をついて処理して、RTAをプレイしてるみたい。


 テクノロジーが進歩したら、そのぶん労働時間が短くなる、なんてことは起こらない。ただただぎゅんぎゅんに働かないといけなくなるだけだ。
 産業資本主義が価値体系の差分を取り出すことで駆動しているのだとして、地理的な差や、賃金水準の差から取り出す余地が枯渇して、時間的な差、未来を先取りすることで差を取り出すしかなくなってくる。その時に人間の限界があっても、AIなどテクノロジーの進歩で無理やりその限界を後ろ倒しにされて苦しくなってくる。
※参考:業務効率化で苦しくなるという話
  業務効率化の苦しみでもとの濁りの田沼恋しき的な気持ち - やしお


 これも明示的に誰かが「強度を上げろ」と指示しているというより、「できる」ようになっていると「そのレベルでやるのが当たり前」になっていってしまう。
 そうして業務の強度が上がっていると、ますます心が苦しくなる。休まる時がない。強度・密度が上がった分、人間が耐えられる時間は短くなるのだから、本当はその分、労働時間を短くしないといけないはずだとしても、そうはならない。




 政府トップのあり方、行動様式って、案外世の中の雰囲気に与える影響が大きいのだろうと思う。例えば「間違ったことを言っても、認めずに無理やりそれに事実を捻じ曲げればいい、どうせ時間が過ぎれば世間も忘れるから謝らなくてもいい」といった行動様式を政権が取ると、じわじわと下位へもその価値観が浸透して、世の中全体にも広がっていくような機序があるのではないかと想像している。
 首相自身がワークライフバランス無視で働く宣言をして、「なんかそういう方向性」に全体の価値観も向いていって、労基法の改訂も進んでいってしまうんだろうか。


 しかし枠は厳し目に設定しないとダメだと思う。自分自身が枠がなくなってこうなっているのを見つめると切実にそう感じる。みんな「勝手に」働き始めて壊れていってしまうんだから。こわいよ。
 冒頭に書いた「素案や指示の内容について細かくは追えていないけれど」も、もっと労働時間が短い頃なら、ちゃんと調べてエントリを書いていた。せめて実感だけでも忘れないうちに一旦書き残しておきたくて。



 これは宣伝。
 KADOKAWAから出てる短編集。今年「北上次郎『面白小説』大賞」を受賞しました! 選考会・選評で書下ろしの「命はダイヤより重い」を特に褒めてもらえていて嬉しかった。


 健康第一で頑張ってるから応援して~。



 これはいつも投げ銭がわりに置いてるやつ。お礼しか書いてない。

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課長になって中間管理職みを味わう愉悦

 日本の大手メーカー、いわゆるJTCで課長になって4ヶ月が過ぎた。世の中でよく言われる中間管理職みは確かにあるって実感と、それを生じさせる要素や機序も少しは見えてきて面白いなって気持ちもあり、忘れないようにメモしておこうと思って。


基本情報

 新卒で入社(22歳)→品質管理系の部署で係長クラス(33歳)→別の生産管理系の部署で係長クラス(37歳)→前の部署に戻って課長(39歳)、という流れ。
 課の人数は自分を含めず20名いる。課には機能別ではなく、担当製品で分けた2つのグループがある。


巷間で言われる中間管理職み

 よく世の中で語られる中間管理職のつらさは以下のようなものがあるだろうか。

  • 板挟みの立場:経営層と現場の間での板挟み、裁量が小さい割に責任が大きい。
  • 心身への負担:労働時間の長さや業務負荷の高さ、プレッシャーの大きさ。
  • 報酬面での不満:残業代のなさ、業務量や責任に対する報酬の低さ。
  • 人間関係上のストレス:メンバーのモチベーション維持。組織内・組織間のコンフリクトの調整。

 それぞれ実際にそういう面はあるなと実際なってみて感じた。


労働時間

 労働時間はかなり増えている。9年前から毎月の時間外労働と、6ヶ月移動平均の推移を記録していた↓



※課長になるちょっと前に60h超の月があったのは突発的なビッグトラブル対応のためでイレギュラーだった。


「月に40~50時間の時間外労働」だと「月に5~6日余計に働いている」のと同じで、日々のプライベートの可処分時間がかなり減っている。
 昨年に小説が出版され、プロの作家業も始めた。次の本の企画と、さらにその次の企画と2冊が待ち行列に入っているのに、執筆ペースがめちゃくちゃ遅くなっている。このブログやカクヨムにも書きたいことがあっても全然書けていない。この課長になったよ記事も、当初は2ヶ月目くらいに書こうとしていたのに、もう4ヶ月が経ってしまった。10年ほど前、30歳くらいの時はほぼゼロに抑えていた時期があった。あの頃はブログ記事を2日おきに結構な長さで書いていてびっくりする。
 絶対に睡眠時間を削りたくない(早死にしたくない)。帰ったら夕食→洗い物→入浴→歯磨きを「途中でうだうだする時間」を挟まずにすみやかにして23時くらいに寝て、朝6時~6時半に起きて、朝に会議が入っていない日は9時くらいに家を出て、その朝の時間に書き物をしている。
 夕食の用意がいつも妻側の作業になってしまって申し訳ない。
 通勤中にホームの待ち時間や電車内、昼休みの一部なんかの数分~5分のこま切れの時間を読書に充てている。


日々の働き方

 平均的には1日あたり、

  • 会議・打合せ:3〜5時間
  • メール:80~100通=2~3時間
  • 承認関係:30分~1時間
  • 打合せではない課員との会話や進捗確認:1~2時間
  • 自分でやらないといけない作業:1~2時間

くらいのイメージ。
 夕方になると会議やメール受信も減ってきて、その日に溜まった仕事を片付けていき、だいたい2〜3時間/日の残業、日々でやりきれない分、土日のどっちか半日に在宅で業務、というパターン。
 イレギュラーに大きなトラブルが発生したら、担当者と一緒に入って軌道に乗るまで/十分に担当者のみで対応可能な粒度になるまで伴走するので、突発的にはそうした業務が発生するが、その突発がそれなりの頻度である。


 前の部署で係長クラスをやっていた時は、平均で会議6時間、メール120通くらいだったので、その点はむしろ減っている。以前にそれを一度体験しているので「大量に情報が流入してきて、どんどん判断して人に振る」のに慣れたことで耐えられている気もする。
※なお前の部署で結構きつかった時の記事↓
  中年会社員が部署異動してつらかった話 - やしお

 一方で「最終的に課のケツ持ちは自分」があると、今まではざっと横目で見ておけばよかったのが、しっかり「これって大丈夫だっけ?」と見ることになるので時間がかかる。


「自分でやらないといけない作業」というのが、目標管理や予算管理だったり、業務やプロジェクトの(途中で誰かに引き渡すとしても)端緒で自分自身がまとめたり、といった誰かに振るわけではない業務が一定程度ある。


組織規模

 20名という課の組織規模が少し大きいことも、労働量が増える要因にはなっている。「一通りの課のインプット/アウトプットを課長が知ろうとする」、「課員と一定のコミュニケーションを取ろうとする」と残業が非常に増えてしまう。
 課を分けて規模感としては半分ぐらいの方が良いのかもという気がする一方で、課で分けてしまえるほど業務内容が分離しておらず、横串の活動も多いし、両グループのメンバーで対応している製品群もあって一体的・機動的に動けた方が良い気もしていて悩ましい。
 管理職向けの研修で、外部の講師からも「一般的にはせいぜい10名程度が良いとされています」という話もあった。実際、課員が3~5名しかいない課もあり、「それで同じ給料か~」という気持ちもあるはある。20人もいると四半期ごとの課員の評価や面接だけでも大変。
 ただ人数が少ないと課長がプレイヤー寄りになったり、課員間での複線化が困難だったり、また別の忙しさもあって、実は労働時間自体はそう減りもしなかったりするのかな? とも思う。


給与

 課長になると労働基準法上の「管理監督者」となることで、残業代(時間外給与)がなくなる。なので時間外労働が増えていくと、どこかのポイントで課長より課員だった頃の月給が高くなる逆転が発生する。その分水嶺をざっくり計算して、課長になる前の水準で今の時間外労働だと、課長就任前ととんとんか逆転してるのが実状。これは「しっかり自分自身の業務もマネジメントして課長の時間外を減らせ」という意味合いでもあるのかと思う。
 今の給与体系だと「課長でも係長クラスでもなく一般社員として働く」のが「コスパ」としては一番いい気もする。
 ただし賞与を含めて年収で考えれば逆転は起きていない。


 (それが事実かは不明だが)「日産がホンダとの統合(子会社化)を拒んだのは、日産の役員報酬が高く、その報酬の維持を望む判断が役員に働いた結果」といった噂を思い出すと、「報酬が高過ぎると、組織の利益よりも自己の利益の確保を優先してしまう」ような機序があり得る。その意味では、むやみに課員と課長の報酬差を広げる弊害もありそう。
 課長の給与水準をぐんと高くすると、「課長の座」を無理やり維持しようとする人が出てきたり、また人事権者の側も生活影響やモチベーション維持を考えて交代に躊躇してしまったりする。課長側も後継者育成のインセンティブが働きにくくなったり、カジュアルな交代が起きにくくなったりする。組織の健全化という意味では、ある程度、管理職が循環していく方が良かったとしても、給与の大きな差がそれを阻害するような方向に働き得る。


 あまり報酬面での旨味がないと課長を目指す人が少なくなるし、あまり旨味を増やし過ぎると課長にしがみつく人が増えて適正な循環や後継者育成が起きなくなる、というバランスでの設定があるのかもしれない。
 管理職の流動性をもっと高めている会社だと、ほぼ報酬差をなくして、課としての単位も緩めて、「ただの役割分担」としての管理職で都度都度変わっていくみたいな人事制度・組織体制を取っている事例をテレビでしばらく前に見た気がする。
 従来の大企業らしい会社組織と、そうしたフラットな組織体制とのあわいにいるのだろうか。


 ただもっと俯瞰して見ると、肉体的・精神的にはるかに大変なのに薄給な仕事は世の中にたくさんあって、今の会社は給与水準がそもそも高いので、文句を言う筋合いにはない気もしている。会社の中だけで見ると相対的にコスパが良い/悪いみたいに見えたとしても、そもそもお前ら恵まれてる側じゃん、というのを忘れるとおかしくなってくる。


業務①:人事評価・成績評価

 この領域は課長になって初めて発生して、かつ最も中間管理職みのある業務だと感じた。
 自分でコントロールできる範囲がかなり限定されているのに、あたかも自分が決めたかのような言い方をしないといけない、というところに「中間管理職み」を強く感じている。


 被評価者(課員)に対して、毎半期ごとに人事評価(成績)を伝える。この時、「自分は決めてない」「上が決めたから」といった言い方は禁じられている。自分が課員の立場で上司からそんな言われ方されても納得できないし困るし意欲は下がるから、そんな説明が許されないのは当然だ。
 他方で、現実には課長が決められる領域は限られる。労務費の総量がコントロールされる以上、課長たちが好き放題に課員の評価を上げて給与が上がっていくのを、そのまま認められるはずはない。そのため部門間の調整が入る。課長としてはマネジメントとリーダシップを通じて課全体/課員個々のアウトプットをしっかり高めて、それで部門間調整でパイをしっかり取ってくるようにしなさい、という話ではある。自分を売り込んだりアピールする行動様式に慣れていないのでちょっとつらい。


 さらに、たとえ課長本人の中で課員の評価が低かったとしても、簡単に下げることはできない。本人のモチベーションへの影響、給与減による生活影響を考慮すると、部門間調整の中でも頑張ってアピールして維持または上げられるようにしていかないといけない。
 というわけで、好きに上げることも、好きに下げることもできないが、あくまで「私があなたを評価して決めた」と納得性の高い理由を示した説明が求められる。


 そうした制約の中で、課長は以下のような作業を通じて、評価者/被評価者の納得感を醸成していく。

  • 課の半期ごとの活動とその目標を具体的に設定する。
  • 職責(役割)の領域とレベルのマトリクス(評価軸)を、具体的に納得のある形で設定する。
  • それらと課員個人のアウトプットをきちんと繋げて、客観性のある「だからあなたの成績がこうなる」を作る。

 これをしっかりやれば、「自分が決めたわけじゃないけど、自分が決めたみたいな言い方をしないといけない」という課長の内部で心が分裂する状況も低減され、課長と課員の双方にとって苦痛な状態はかなり避けられる。
 まだそれを融通無碍にやれるレベルに自分は至っていない。技術を上げる必要がある。


 その昔(10~15年前)は、ほとんど年功序列的な賃金体系で、成績評価と給与の紐付きが薄い仕組みだった。若手もベテランも業務量ないし価値創出の水準の差分以上に、ベテラン側に賃金が傾斜配分されていた。それだと「長くいた方が得」となり、終身雇用制と表裏一体の仕組みだった。
 それと比較すると、納得感という点で今の人事制度の方が健全だとも感じる。
 ただその納得感の構築が課長に大きく依存していて、作業負担がかなり大きいのも事実ではある。(こういうのこそ生成AIがそれらしい叩き台を作ってサポートするのが得意な領域だとも思う。)


業務②:承認行為

 課長になると担う承認行為がたくさんあり、これも中間管理職っぽい。担当者や係長の時は触れていなかった予算や勤怠管理に関するものも多い。通常業務の技術書類等々への承認も含めると日々かなりの量になる。自分でなくてもいいような承認を下位者へ代行するよう振り分けて、少し自分の負荷を分散させようとしている。


 明示的な承認行為でない、暗黙の承認もたくさんある。
 担当者間のメールのCCに課長が入っていて、特に容喙されずに進行している場合、それは「暗黙的に課長が承認している」と見なされる。なので目を通して、「ん?」と思ったことはきちんと確認を入れていく必要が生じる。


 明示的/暗黙のどちらも、中身を見てチェックする作業を丁寧にやるほど膨大な時間がかかる。現実問題としてやり切れないし、マイクロマネジメント的になる。一方でいざという時に「お前がケツモチだろう」にはなるので無視もできない。というバランスの中でやっている。これも管理職によって「ほぼ見てなくて担当者任せ」の人から、「ほぼ全部自分で入り込んでる」人までバランスのとり方は人それぞれになっている。


業務③:予算管理

 これも担当者~係長の頃は全体像を知らなかった領域なので新鮮だった。
 正社員の時間外給与、派遣社員の給与、出張の宿泊費・交通費、備品など少額の物品購入、設備の取得やメンテ費用など、四半期ごとの予算を年度で立てて、実績を管理して、必要に応じて増減などのコントロールして、といった作業が発生する。これは会社によっては「そんなことまで課長がしてるの?」かもしれない。
 例えば時間外勤務も、昨年度の実績がこれくらい、管理部門からの削減要求がこれくらい、みんなの業務がこれくらい、なので○時間を目安に抑えてね、みたいな感じでやってる。
 とりあえず自分が何も知らないのは気持ち悪いなと思って、勉強のために自分で中身の精査などはやってみたものの、今後は標準化してそれぞれ担当を決めてやってもらうように仕組み化していこうと思っている。(正直、チェックは課長がやった方が良いが、細かい調整まで自分の手でやる必然性は薄いとも感じる。)


業務④:環境整備

 職場環境に関して課員からのクレームはまずは課長に来るんだなと改めて思った。例えば職場レイアウト上の文句や、他のメンバーに対する疑問が投げかけられると一瞬「よろしく周りで解決してくれ~」と思うんだけど(態度には一切出さずに真剣に受け止めるけど)、よく考えると言う相手は課長しかいないな、担当者間で対立するより一旦上げてクッションにしてもらった方が何十倍もありがたいかと思い直す。
 自分で対応すると停滞するので、きちんと必要性と方向性を伝えつつ粒度を落としてパッケージングして、課のメンバーに作業を渡してやってもらう。そこまでの業務負荷も無視できない程度は発生するけど、それくらいは必要かと今のところ思っている。


 よく世の中の中間管理職が、「部下に仕事を渡したくても拒否されるので上司が自分でやっていて疲弊する」という話を聞く。そういうことがあまりないので、本当に恵まれている。
 こちらも「やる意味がそもそもない」ということならお願いしない(し、やる意味ないと言われて納得すれば取り下げる)けれど、「いや、それ私の仕事じゃないんで嫌です」みたいなことはあまり言われないのでありがたい。


 環境整備を広く捉えれば、課内の人間関係を良好に保つこともその一つになる。
 これも本当にありがたいことに、課の中で感情的な対立があって業務を一緒にできない人がいる、といった特殊対応がない。社会人なんだから好き嫌いは別にして仕事するのは当たり前だろ、と言われればそうだけど、現実にはそれが難しい人もいるだろうし、そうしたメンバー間の対立を抱えてかじ取りする課長だと非常に気苦労が多いだろうとも思う。
 課長になる以前に担当者~係長として過ごしていた部署で、ほぼ全員お互い知っている人なので、一から人間関係を構築していく必要がなかったのもありがたかった。あぐらをかかないように、雑談がてらでもなるべく課員の話を聞くようにしている。自分が担当者だった時は「自分が何やってるかを課長が理解してくれている」と感じられるだけでも気持ちが楽だったのを思い出しながら。


 課員が業務をむやみに拒否しない、課内の人間関係が良好であるのは、会社が長年構築してきた雰囲気だったり、一定以上の給与水準によってそうした人材を確保してきたおかげで享受できているベースの環境なので、それはイージーモードでやらせてもらっているんだと思う。
 世の中には、そもそも社員が時間通りに出社してくれない、黙っていなくなる、備品を盗むといった水準で苦労している職場もたくさんあるのだろうし。


機械みたいな感じ

 よく日本の会社だと「学生時代や若手社員時代に専門分野で活躍していたのに出世したら非創造的な雑務で使い潰している」みたいな話がされることがある。ここまでの中間管理職みのある業務を並べてみると、確かにって感じではある。


 日々大きな戦略を考えている、などということはなく、ほぼメールや打合せで「反応」しているだけに過ぎないとも感じる。自分が言っているというより、立場と状況が自動的にそう言っているみたいな時もあって、それは担当者や係長でもそういう時はあるけど、課長の方がよりそういう範囲が大きくなっている。生成AIが喋ってるみたいだなと自分で自分の発言に感じる時もある。人間というより一種の機械というか機関とも感じる。


 ただ、結局「反応の癖」みたいなものはにじみ出ていて、それが無視できない程度に組織の雰囲気や価値観の形成に効いているんだろうとも思う。管理職の仕事は判断することともよく言われるけれど、判断を通じて組織に価値観を浸透させる機能の方が重要なのだろう。
 課長からツッコミや否決、修正要望が来ると、担当者にとっては手間なので、「あの人だとこの辺に引っかかるだろう」と先回りして最初からアクションを取るようになる。上司の価値判断が部下に内面化されていく。
 ただしこの価値観の浸透が起こるためには以下の条件が必要になる。

  • 決定権者の判断に予見性がある。考え方、理屈、判断のベースが一貫していて説明可能である。(結論に固執するという意味ではない)
  • 下位者の側に決定権者の判断を内面化できる能力がある。「あの人だったらこう言うだろうな」をある程度正確に考えられる。

 その意味ではころころ課長が変わると大変。
 そう考えると「反応してるだけで虚しい」ともあまり思わない。


 私自身は「専門領域で卓越した創造性を発揮していた」とは言い難いのと、こういう仕事を嫌いではないと感じているので良いけれど、それが苦痛な人/専門領域で活躍させないといけない人に対しては、課長人事の流動性と、マネジメントとは別にプロフェッショナルとしてのキャリアパス(給与水準)を用意することで、人事制度としてはカバーされている仕組みになっている。


人員の流動性

 ここまで所々で人事的な面での流動性が高くなっているといった話を書いていた。
 入社した16年前の時点では、年功序列的な性格が強い賃金体系だった。それは「早く退職すると損」を意味するので終身雇用とセットになる。
 管理職に至るまでに職層がいくつか分かれていて、職層が上がるには昇格試験に合格する必要があった。年数の経過によって貯まるポイントがあり、一つの職層の中でもそのポイントの多寡によって給与が増加するため年功序列的な賃金体系となっていて、また昇格試験の受験資格として一定のポイントが必要な仕組みだった。ポイントの溜まり方に若干の速度差があっても、おおよその年齢に至らないと受験資格が得られない。
 普段の評価が高く、ポイントの配点が多かったり、途中の昇格試験に一発で合格し続けたりすることで、よほど早いと40代前半で管理職になり、多くは40代中盤~50歳前後で昇格といった感じだったと記憶している。その差にやや実力主義が存在していても、大きくは年功序列となっていた。
 試験の合格と、管理職としての適正は必ずしもイコールではない一方で、管理職試験合格者でなければ課長には就けられない制約があり、「若くて適性があっても管理職には就けられない」「周囲から見て(あの人は課長はちょっと難しくないか)と思われていても他に有資格者がいなければ課長になる」という状況だった。もちろん部長や課長として優秀で相応しい人もいっぱいいたけれど。


 現在は、実際に割り当てられた職責に応じて職層が定まり、その職層に就くには試験が必要ではない、といった人事体系になっている。管理職人事もそこに縛られずに、課長も比較的若い人がなるケースもあれば、50代のベテランがなるケースもあり、年齢のファクターに左右されなくなってきた。現実的には30代後半でかなり若いという感じで、まだ20代後半で課長という事例は近辺で見かけないが、仕組み上は可能なのでそのうち出てくるのかも。
 以前は5年、10年と課長を続ける人もざらにいて、若いうちに辞めると不適格の烙印っぽさもあった気がする。今は数年で課長を辞めて担当者に戻ってまた別の部署の課長になって、といった事例も普通に見られるようになってきて、「降格人事」ではなく「役割分担」という雰囲気になっている。
 管理職人事の流動性が上がっていると感じる。


 管理職の流動性だけでなく、全体としての流動性も上がっている。事業部間の人事異動も中途入社も昔は珍しかったのが今はとても増えている。自分の課のメンバーも4割が他の事業部の出身、1割がキャリア入社。5割が生え抜きは多いようにも見えるが、そのほとんどが若手社員という構成。


 これは外部要因としての少子化影響や、会社自体の業績影響、要求スキルの流動性上昇(リスキリング要求の高まり)などが起因しているのかもと想像している。社会全体の労働市場の流動性が上がる中で、新卒を大量に確保して終身雇用を維持するという昔の大企業ムーブがもう不可能になっている。
 キャリアに魅力を持ってもらえるように、社内でも違う業務にチャレンジできるようにするし、社外に出ていく人もいれば入ってくる人もいる。


 個人的には選択肢が増えて良いかなと感じている。
 昔のように「ゆっくり一つの仕事を極めていって40年を過ごす」スタイルが許されづらくなっているのは、人によっては苦しいかもしれない。ただ流動性が低くて閉塞感が強い組織よりは過ごしやすくなったなと感じている。
 それでいて「会社側が簡単に労働者のクビを切れない」という安心感が一定程度はあるのもありがたい。(会社側が人員を縮小させたい時は早期退職の優遇策を出す。)


 これも別の大手メーカー、JTCの事例を報道などで見ると、今も昇格試験に縛られていたり、流動性の低さによるつらさがまだまだ大きい会社もあるようだ。今いる会社は国内では大手とは言え、世界的に見れば中小企業といった規模感なので、そうせざるを得ずにいるということかもしれない。


やりがい

 これが結構楽しい。
 最初はひょっとして何かテンションが上がっていて後から嫌だ嫌だになったりするのかなと思っていたけれど、4ヶ月経った現在でも面白い、楽しいと感じている。

  • 一つポジションが上がってアクセスできる情報が増えたり、「そうなってたのね」と仕組みが知られて面白い。
  • 課の単位でやるべきこと・やりたいことの方向性を自分で(完全に自由ではなく制約はあっても)決められる。
  • 課内の業務の改善ができる。改善が進む気持ちよさがある。
  • 変な案件をしっかり整理してパッケージングして人に渡す繰り返しの快楽がある。(作業パズルゲームみたいな)
  • 相談を受けて頼ってもらえている感がある。(頼りがいがあるかは不明だがそういうポジションなので)

 

 たぶんそもそも、ある程度指示を出せる相手がいて、どんどん指示を出していく作業そのものに、一定の中毒性があるんだろうと感じている。
 そういえばゼルダ無双を遊んだ時に「最初は大量のザコ敵をばんばん倒せて楽しい」だけだったのが、だんだん「あっちはこいつに担当させて、その間に自分はこれをやって、終わったら今度は自分がそっち行って、あいつにはこれを指示して……」みたいになってかなり忙しかった。これでゲームとして成立する=楽しいと思わせられるんだから、指示出しにはゲーム性があるのかもしれない。


 ゲームでも自分のレベルに対して「簡単にやれること」ばかりだと飽きてくるので、「少しチャレンジングだけどやればクリアできること」だとちょうど楽しめるのと同じで、今の自分にとってこの部署の課長業がそのレベル感で合っているんだと思う。
 これが前の部署だと、そもそも担当者として経験のない分野で係長レベルで精一杯だったし、グリップ感が十分に得られなかったし、課長やれと言われても絶対に無理って断ってた(しそもそも任せられるわけない)から、「この部署だったから」はある。


 期初に、課の方針・ミッション・注力領域などの説明をした。過去こうで、この数年で内外の環境変化がこうで、将来こうある必要があって、だから今期はこの領域に注力したい、それで今期の課の目標はあれやこれや、という話をした。「ちゃんと未来に向かって進んでる」感がないと仕事しててもつらいよねとも思って。
 もともとこういう改善をしたいと思っていたこともあって充実感を覚えた。


 一方で、課を超えたプロジェクトを企画したり主導したりしないといけないと、やや気が重くなるのも分かった。あるいは組織の役割そのものを変えていくような議論を進めるような時にも少し気の重さを感じた。
 こうした領域は今まで体験していなかったので、「まあだいたい自分ならできるだろ」という成功体験の積み重ねで生じる安心感がまだないので、ちょっとナーバスになるんだなと思う。
 20代前半の時に、品質問題で客先へ訪問して原因や対策の説明しないといけなくなると、前日にはもう本当に食事がしんどいくらいに気が重かった。今ならもちろん緊張はしても、「これくらいしっかり準備をしていけば、後は何とかなる」という気持ちで大丈夫なので、そうやって慣れていくのだろう。


中間管理職み

 課長になってから、残業がすごく増えて、責任も増えて、専門領域と関係ない管理業務も増えて、それでいて給与面がものすごく上回っているわけではない、という状況を見ると、世の中で言われる「中間管理職のつらさ」そのものになっている。ただその中身、どう発生しているのかを見てみると、ある種のバランスで成立してるんだなとも思った。


 ここまで書いたように、この記事で最初に上げていた中間管理職のつらさについて、「そうそう」という面と「そうでもない」という面がそれぞれある。

  • 板挟みの立場
    • そうそうの面:自分で決めていない・決める裁量のないことを、あたかも自分が決めたかのように言わないといけない。特に人事評価で感じる。
    • そうでもない面:そこを調和させて納得感のあるストーリーを建築する営みの余地は案外あって、面白みややりがいを感じる。
  • 心身への負担
    • そうそうの面:労働時間がかなり伸びている。より上位への説明責任や課のケツモチ責任が課せられるプレッシャーはある。
    • そうでもない面:プライベートの可処分時間は0ではない。40時間超という時間外水準は業種によっては大した事ないかもしれない。(私は週休3日・1æ—¥6時間労働くらいにしてほしいと望んでいるので週休2日+1æ—¥8時間+月40時間超の時間外の労働は長過ぎると感じるが……)
  • 報酬面での不満
    • そうそうの面:残業代がなくなる+労働時間が伸びることで課長になる前と月収で逆転が起きる。大変さとのバランスだと一般社員の方が「コスパ」が良いと感じる。
    • そうでもない面:そもそも年収で考えればいい収入を貰っている。一般社員と管理職の給与差も大き過ぎると管理職のしがみつきを生んで不都合もある。
  • 人間関係上のストレス
    • そうそうの面:メンバーのモチベーションの維持や不満の解消を気に掛ける必要がある。
    • そうでもない面:ある程度みんな自分でコントロールしてくれている。

 

 古い大企業ではありながらさほど大きくもないため、旧態依然とし過ぎずに(古さを維持できるほどの余裕はなく)、かつ人や給与面の水準が高く維持できているおかげで、この環境が享受できているのだと思う。この「そうでもない面」がなくて「そうそうの面」しかなければ、かなり苦しみに満ちた中間管理職を過ごすことになったのだろう。


 1年でころころ課長が変わると課員としてはやりづらいので、せめて2年、業務改善の効果などもある程度見えてくるところまでだと3年くらいはやった方が良さそう。5年は長過ぎる。
 もちろん私の能力が不十分と見なされて1年で降格だってあり得るかもしれないし、先のことは分からないけれど、2~3年くらいで、できれば内部昇格で課長を誰かに引き渡したいといった気持ちがある。「そうそうの面」しかないと辛過ぎるが、「そうでもない面」もあるし、一定の楽しさもあるので、その辺をちゃんと伝えていきたい。





いろいろ他に思ったこと

 ここまでが、主に「世の中で言われる中間管理職みと、実体験の話」で、他にも色々課長になってみて面白かったことのメモ。

  • 【内示】てっきり「課長になってほしいが、どうか」と打診されるのかと思ったら、組織変更+部課長人事を示されて「こうなっているのでよろしく」という説明で意外だった。
    • 「はあ、わかりました」みたいな返事になってしまった。
    • 確かに各種の調整が済んだ状態でないと本人に開示できないから、そういう言い方になるのかも。
  • 【開示前】内示(2月末)から全体への開示(3月中旬)まで2週間ほどのタイムラグがあった。
    • 現+新任の課長以上には先に共有されていたが、一般の社員への公開との間にタイムラグがあった。
    • 別の部署の課長がすっと寄ってきて小声で「がんばってね」と言われたり、すれ違いざまににやにやしていたり、なんとなく「こっち側へようこそ」みたいな感じがあった。少し面映ゆかった。
  • 【全体開示後】祝賀ムード感があって面白かった。
    • 課内外の人から「おめでとうございます」とにこにこ言って貰えて、なんか恥ずかしかったけど嬉しかった。
    • 組織変更と部課長人事が割と大きかったからか「決起集会」が開催された。新任部課長の決意表明? コーナーで観客が囃し立てたりしていて「祝ってる」感があって良かった。
  • 【引継ぎ】ポジションが上がると引継ぎ完了ポイントが後ろに倒れていく構造があるのかもしれない。
    • 昔、担当者として異動した時は、早々に引継ぎを済ませて、異動前はむしろ暇になっていた。
    • 今回、係長クラスで異動した時は、自分で最後まで係長業もしつつ、いなくなる前に完結させたい業務に取り組んで、新任課長になる前準備もして、とやっていたらかなり土日出勤もしつつ最後まで多忙だった。
    • 前任の課長は、前下半期の課員の成績評価業務があって、退任後も前職の業務をする形になっていた。
    • 異動日をゼロとすると、引き継ぎ完了ポイントが担当者はマイナスだったのが、ポジションが上がるにつれてゼロに近付き、課長になるとプラスになる、みたいなシフトしていく構造があったりするのかも。
    • 引継ぎの難易度が高く伴走が必要な業務が増えていくからだろうか。
  • 【1ヶ月目】いきなり突入した感があり多忙だった。
    • ルールやシステムを理解して処理する繰り返しを、やってもやっても終わらないと思いながらこなした。
    • 年度始めの行事:目標管理(期初の課の目標設定、課員の目標設定の面接など)、予算編成(設備費や労務費などの今期の編成)、人事評価(職責に応じた課員のランク付け)、新卒配属者の対応(教育の準備、各種事務手続き)
    • 組織変更・人事異動に伴う対応:各種システムの承認者変更、組織名称の変更(名刺手配、業務手順書・帳票類の変更)
    • 課長の平常業務:日々の承認行為(勤怠や設備等の購入、技術文書など)、業務の進行管理(進め方の相談や担当のアサインなど)
  • 【研修】課長は経営層の入口になっているのだと研修の内容を通じて改めて感じた。
    • 3ヶ月目から管理職向けの必須研修がいくつか始まった。最初は「なる前に教えてよ」と思ったが、一定程度経験して苦しんでからの方が「これがあれか」と実感を持って受けられる面はあるのかもしれない。
    • 実務的な研修だけでなく、会計やコーポレートガバナンスなど教養的な研修もあった。
    • 経営層からの発信を咀嚼して課員に伝える役目だから、課長に身に着けさせる意図があるのだろう。
    • それ以外に、プロ経営者ではなく内部昇格で社長が交代していく日本的大企業だと、課長が経営層への入口になっていて、一部の人はさらに上に行くからこの時点で身につけさせる必要があるという意図があるのかもしれない。
    • こういう研修プログラムにそれが垣間見えるのは面白いなと思った。

 

課長の技能

 自分が抜群に何か優れているのか? と自問すると特にない。過去の上司や他の部課長を思い返してみても、色々な領域で自分よりもはるかに優れている人がたくさんいる。

  • 技術・専門領域に長けた人
  • 組織特殊的な知識に長けた人(人を知っている、組織独自の事務やルールに詳しい、過去の経緯を知っているなど)
  • ロジックの構築力に長けた人
  • QCDにこだわり切れる人
  • 根性がある人(時間的な奉仕度が高い)
  • 課員のエンゲージメントを高めるのに長けた人
  • 人の感情の機微を把握して話の通し方や手順の組み立て方が上手い人
  • 部下を叱るのが上手い人
  • 口八丁で身を躱すのが上手い人

 

 その一方で自分がそこそこできているかなと思うところもある。

  • 他人の優れた領域を認識できる。プライドに阻害されて妙な嫉妬心で受け入れないなどがあまりない。
  • 人のことを「すごいな」「あれはいいな」と思ったら少し近付けるように時々頑張る。
  • その結果で上記のそれぞれで苦手すぎるものがない。どれもそこそこはできる。昔は不得手だったのが、むしろ人から「よくできている」と言われて驚くこともあるし、そこまで達していなくても昔より改善されていると思う領域もある。
  • 全然怒らない、優しいと言われて「そう見えるのか」と思った。昔はすぐ苛立つのが自分の欠点だと悩んでいた。相手の立場考える、罪を憎んで人を憎まずを続けたらそうなった。
  • ストレス耐性がないと思って頑張り過ぎないようにしてきた。業務量やプレッシャーの増大に十数年かけて慣れていった結果、無理せず耐えられる範囲(時間)が増えた。(過信しないように気をつけ続けないといけない)
    • トラブルが起こると「ああいやだ」というより「よっしゃ」となるのも、この品質管理系の部署には合ってるのかもしれない。
  • あまり人に興味のないタイプだと思っていた。メンバーのエンゲージメント向上というか、話を聞いてもらって「分かってもらえている」と思えるだけで救われることも実体験として分かったので話を聞くようになった。
  • 一般的にはリーダーシップとマネジメントの両輪と言われる。係長の時はマネジメント、特にリスクマネジメントを重要視して考え方をまとめつつやってある程度身についたと感じる。
    • 4年前に「考え方をまとめてた」もの→リスクの洗い出しと判断のコツ - やしお
    • 一方のリーダーシップ側も必要性を感じて、あれこれしている。内外の環境変化がこうあって、ゴールとしてここを目指して、現状がこうで、なので今これをやっていくといった課の方針の話や、それがメンバーのおかげで着実に進んでいるのを可視化して定期的に伝えていくようにしている。進んでいる感じがないと苦しくなるし。

 

 そんな感じで、すごいなと思う人達もたくさんいて、自分ができてないなと思うことも多々ありつつ、見習いながら自分を改善させていきもするけれど、結局のところ人間なので「やれるようにしかやれない」と割り切っている。
 愚直にやるしか結局はないよねと思って愚直にやっている。


気持ち的な部分

  • 工業高専出身で、学校では「お前らはエンジニアになるんだ」という教育を受けていたけど、だいぶエンジニアではなくなっちゃったという気持ちもある。自分がそういう方向での努力はしていないから残念とは思わないけれど、学生の時の自分は自分がこうなってくとは想像もしなかったなって。
  • 執筆業、作家業との両立にはちょっと悩むところもある。ただ少なくとも2年は(降格にならなければ)続けたい。きちんとメンバーが「より良い方向に進んだ」と実感が持てるように、また実際に組織全体が無理なく成果が出せる状態にしたいが、それには一定の時間が必要だろうし。
  • ポジションが上がることでの名誉欲の満足は実際にある。自分の能力や技術が一定程度は評価されて、それが他者から見える形で認められると自己顕示欲が満たされる。ただこれは役割分担で、とりわけ自分が優れているわけでもないと考える。
  • 両親はいずれもだいぶ前に死んだけれど、生きていて私の昇進を知ったら、彼らの喜びにもなっただろうかと思う時はある。

 




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 拙著、八潮久道『生命活動として極めて正常』が、第1回 北上次郎「面白小説」大賞を受賞しました(2025年8月8日)。
 KADOKAWAからのお知らせ↓
  【デビュー作で文学賞受賞!】 第1回北上次郎「面白小説」大賞を八潮久道『生命活動として極めて正常』が受賞! 著者よりコメント到着 | カドブン
 本当に嬉しいしありがたいことです。
 まじめにふざけた楽しい短編集なので読んどくれ〜。



↓は投げ銭代わりの設置。お礼しか書いてない。

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