やしお

ふつうの会社員の日記です。

さよなら品質神話

 日本製品の品質神話って、たしかに昔はあったのかもしれない。でも今は貯金を切り崩しているというか、その残り香が漂っている程度に過ぎない。そんな実感を、メーカーの中で働いていて持っている。ところが今でも「日本製品は品質がいい」と信じている人が少なくなく、同じようにメーカーの中で働いている人でも曖昧にまだ信じている人がいたりもする。
 そんな品質神話がどうやって生まれて、どうやって消えつつある(消えた)のか、今の時点で思うところをメモ。

昔は暇だった

 周りのおじさん(50代以上)の話を聞くと、今の方がだんぜん製品サイクルも早いし忙しいという。昔はあそこの部署なんて仕事ない日が結構あって勉強してたんだよ、等々。企画、開発、設計、製造、リリース。この流れに余裕があれば、それぞれのフェーズで検証したりブラッシュアップしたりできる。
 ある目的を達成するための方法がA、B、C……とあって、真っ先に思いつくのがA、目的以外の面も含めてトータルで品質が高いのがCだとする。時間に余裕があればA、B、C……を比較検討して意識的にCを選択できても、時間に追われていればAに飛びつかざるを得ない。そしてAで進めた以上後戻りができなくなる。そんなことが起きているみたいだ。
 ただ、経験的な蓄積があって、短時間でA、B、Cの方法を思いついて、すぐにCを選択できる人はいるだろう。これが品質神話の残り香だと思う。ただそうしたおじさんたちはもう延長雇用、再雇用だったりするし、若手は時間に追われて吸収してる暇がないので、どんどん消えていくしかないような気がする。
 あるいは製品リリースまでの時間が短いため、試作品を作らなくなった、など。

今は暇じゃない

 どんどん忙しくなるというのは、資本主義のフェーズの問題であって、不可避だし不可逆だと思う。資本主義が価値の差をお金に変えていくとき、地理的な価値の差も、労働力の価値の差も減ってしまった今、あとは未来と現在の価値の差に頼らざるを得なくなってきている=どんどん新製品を生み出して未来の先取りをせざるを得なくなる。
 この辺の話は以前、「価値の先取りが極まる世界」にメモを書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Yashio/20140403/1396530380

こだわりが過剰になる社会

 昔は暇だったというのは別に日本に限った話じゃなかったはずだ。暇だから「じゃあお空でも見上げてましょう」じゃなく、「もっとこだわろう」になってしまうところに、「日本製品の品質神話」が生まれたんじゃないかと思っている。それはpixivでアマチュアのレベルがどんどこ高まっていったり、マナーの類がどんどこ厳しくなっていくのと、精神の様態を共有している。
 そのあたりの話は「世間力試論」で書いたからいいや。これは「日本は受信側負担システムを基盤とした社会であるという仮定に立つ時、日本/日本人の傾向として俗に語られるあれこれをその視野に収め得るのではないか。」という話。
http://d.hatena.ne.jp/Yashio/20140317/1395059844


 たとえば製造にしても、図面の材質や寸法の指定を満たしていれば仕事としてはクリアなのに、ここはダウンカットで削ろうとか、ここの部品はこう使われるところだから、このレベルで仕上げておこう、みたいに考えて勝手に気を利かしてくれてるところがあったりした。組み立て調整などでも指示がないのに作業者がよりよく作ってくれていたりした。もちろん製品が流れている間の話ではなく、それ以前や途中での検討の話だ。
 そんな、こだわりが過剰に進行する精神は変わっていなくても、暇じゃなくなってくるとこだわってる余裕がなくなる。こだわる性向+時間的な余裕が両方そろってはじめて、あの神話が生まれたんだろうと考える。

日本の「会社」組織

 そんなこだわりを勝手に実践できてしまう環境も必要だ。それは横方向にも縦方向にも職務の境界があいまいになるような、独特な「会社」組織によって実現されている。上司が管理者ではなく調整者として振る舞い、それが上へと進んで社長にまで行きついても同断であるような世界。
 これも「世間力試論」で触れたが、むしろ岩井克人の『会社はこれからどうなるのか』をきちんと読み返した方がいい気がする。この本は多くの紙数を株式会社という存在の性質を語ることに割いているが、そこを明らかにした上で、日本的な企業がどのような存在であるのかを語っていた。あらためて読み直して整理しないと。


製造現場が遠くなる

 よくある話に、社内から製造現場がなくなったというものがある。
 中国や東南アジアに製造拠点を移管した。以前は設計者が変な図面を書くと製造現場に呼び出されて怒られて、その中でいい図面を書けるようになっていった。今はそうした学習環境が失われている。云々。
 これも資本主義社会の中で、労働力の価格差をもう一度見出そうという試みの結果だ。かつては国内の農村に低価格な労働力がプールされていたためにこれを利用すれば自然と高い成長率を確保できた(高度成長期)。その後そうした国内での差は消えて、一方で物流コストが低くなっていったために、国外の低価格な労働力の利用が現実化してきた。
 ところがその労働の価格差も失われつつある。高度成長期と比べてはるかに早いスピードで解消される。実際もう既に中国で製造するコスト的なメリットはほとんどなくなってきている。そうは言っても簡単に工場を引き上げたり立ち上げたりできるわけではないため製造現場が戻ってくるまでには時間がかかる。その間にあの品質神話の残り香も消えていく。


 ところで、将来的に発展途上国の労働価格が先進国と変わりなくなったときに、製造現場がまた社内に戻ってくるというハッピーストーリーがあり得るかというと、それも難しいのではないかと思う。ますます資本主義の延命措置に必死になっていく中で、ほんの少しでも価値の差異を見出だそうとしていくのだから、むしろ無理やりにでも国内に労働力の価格差を生み出そうとするだろう。安価な労働力を構造的に生み出す、「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざり」な人々を社会の仕組みで生み出していく、これが俺たちが夢見た21世紀なの? という悲惨な光景のほうが、どちらかというと想像しやすい。

さよなら品質神話

 日本製はなんだか壊れにくい、なんだか長く使える。日本製品は品質が高い……
 それは、個人や組織が勝手に、求められている以上のこだわりを尽くしていたから生まれていた。暇だったのと、こだわりたい性質を持っていたために、そうした高い品質が保たれていた。しかしそれを許していた土台がもう、自然には成立しなくなってきている。
 本来メーカー側の視点で見れば、保証期間+マージンの分だけ、所定の機能や性能が満たされていることが品質であって、それ以上は過剰品質、という言い方ができる。この本来の姿に戻ってきているだけだとも言える。


 別に古きよき時代を懐かしみたいってわけじゃない。(そもそも古き良き時代を知らずにその残滓を見てるだけだし。)
 ただ、そうした神話に期待するのはもうやめよう。そんなものはもうないんだって前提で、じゃあどうしようか考えるための認識でしかない。時間への感覚がよりシビアになる中で、「1ヶ月かけて9割のレベルの仕事をします」なのか、「10日で7割の仕事をします」のどちらかを意識的に選ばなきゃいけなくなってくる。あの過剰品質を手に入れたければもう、スピードを意識的に犠牲にする態度が要求される。それでもあえてこの過剰品質を売りにして、他との差異化として機能させていこうという意志があるのかどうか、という選択というか覚悟が必要とされてくるのであって、それを視界から遠ざけて、「10日で9割の仕事をするよう個人のスキルを上げていきます」と都合のいいことを言うのはやめようよ、って。


 そんなこと言ったって、ふつうにサラリーマンとしてほどほどに折り合いつけて仕事してくってだけなんだけどね。





※その後、60年代末に自動車メーカーへ入社したという方からのメールで、昔も暇だったわけではない、「多くの設計技術者は150時間/月以上の残業時間ではなかったかと思います」との指摘を受けました。今も昔も忙しかった(投入される時間に違いがない)とすれば、これは、どの作業に時間が投入されたかが異なるというように理解できます。上述の通り、方法A、B、C……と多面的に検討してCを選択できるか、あるいは目先のAを選択するという振舞いを繰り返すか、という違い、つまり腰を据えて考えることが許されるかどうかという違いとなって現れてくると考えます。指摘を受けて改めて考えてみたところ、ここで私が言う「暇」は、「差異化の反復の強迫度が低い」と限定された意味で捉えていることがわかり、そのように理解することでこの指摘との整合が取られます。