WANの緊急政党アンケートにみる、フェミニズム「理論」と「実践」の乖離

ウィメンズ・アクション・ネットワーク(WAN)のサイトに【特設:衆院選】衆院選は「女性」が争点!――緊急政党アンケートという記事が掲載された。記事には以下のように書かれている。

(8月9日付 付記:当初リンクした「【特設:衆院選】衆院選は「女性」が争点!――緊急政党アンケート」の記事、いきなり内容が変わってしまい、アンケートの本文と趣旨へのリンクという内容になったようです。私がこのエントリを書いた段階で上記でリンクし、以下議論しているのは、今現在、「緊急政党アンケート実施の趣旨」として掲載されている文章のほうです。)

緊急政党アンケート実施の趣旨

 「政権選択」が注目を集める今回の総選挙、政党のマニフェストが揃ってきましたが、「“女性”が見えない!」と思いませんか? 「子育て支援」にはどの政党も熱心ですが、それだけで女性政策は事足れりというわけにはいきません。

 WANでは、「子育て」や「景気対策」の影に隠れて見えにくくなっている、各政党の「女性政策」を明らかにするため、プロジェクトチームを立ち上げて、「衆院選緊急政党アンケート」を実施することにしました。表だって「女性政策」と謳っていなくても、女性にプラス、あるいはマイナスの効果をもつ政策は多いので、それを見きわめなくてはなりません。

 子育てや介護についてはマニフェストで扱っている政党が多いので、このアンケートでは「女性の雇用」「女性の貧困」「女性の人権」にテーマを絞って質問しました。

 政党からの回答は、届き次第、このページにて公開します。投票の参考に必見! 

 また、WANとは別に、それぞれの地域で「女性政策に関する候補者アンケート」を実施しているグループも各地にありますので、その結果も紹介していきます。

このアンケート案、某MLなどでもアイデアを募ったりしていたようなのだが、その結果がこれなのだろうか?具体的なアンケート内容が掲載されていないが、この文章だけを見ると、WAN的には「女性」が選挙の争点になるべきだ、と考えているかのようにみえる。「このアンケートでは「女性の雇用」「女性の貧困」「女性の人権」にテーマを絞って質問しました。」ってあるけれど、「女性の人権」ってあまりに大きすぎて、いったい何のことなんだか。テーマ、全然絞れてないじゃないか。

「子育てや介護についてはマニフェストで扱っている政党が多いので、このアンケートでは「女性の雇用」「女性の貧困」「女性の人権」にテーマを絞って質問しました。」と書いてあるが、これはすでに政党がだしているマニフェストに欠けているところを補う、といったスタンスである。だが、むこうの枠組みを踏襲して足りないところを補うというのは、既存のマニフェストにいわば迎合しているということにはならないのか。これでは、新たな争点も何もつくれていないことにはならないだろうか。ひどく腰がひけてしまってはいないか。

それに加え、ひじょうに気になるのが、「女」を掲げすぎ、こだわりすぎているところである。「女」って誰のことなんだ?「女」をいっしょくたに考えているような印象にもつながってくる。
ここ最近のフェミニズムは、性の二元制を批判してきたはずだ。女性学会などにいっても、論文や書籍の中でも、「性の二元制批判」が、フェミニスト学者たちによって、声高に語られている。しかし、こういう質問状というような、実践的なところになると、この「性の二元制批判」といった視点が突如として、まったく抜け落ちるのはどうしたことなのだろう?実践の現場になると、「一般受け」のようなところを狙って、学会や論文などでしているような「理論」は簡単に捨てられてしまうということなのか?たとえば、性的少数者の問題は「性的少数者の女性の人権」枠の中にいれられてしまうのだろうか。あくまでも「女性」という枠内で性的少数者の問題は扱われ、「女」カテゴリにはまらない場合は排除ということになるのだろうか?
「女」をここまで掲げる裏には、「バックラッシュに対抗」という理由づけのもとに「女の連帯」を強調するという方向にいっているためなのかもしれない。だが、そのためにひどく具体性を欠き、曖昧でありながら、同時に排除される存在もかなり出てきてしまいそうだ、という危惧を覚える。

あえて「女」を打ち出すというスタンス、昨今の「男女共同参画」的な、男も女も仲良く参画しよう、というようなスタンスへのアンチとしてのものなのかとも思われる。でも、「女性」をうちだせば男女共同参画と違うのだ、とも言い切れないように思う。結局のところ、「女性の視点から政治に参画」「女性議員をふやそう」という今までどおりの、「女性と政治」運動の路線に落ち着いてしまいそうだ。そして、従来の「女性と政治」運動(女性議員をふやそう、系の運動)は、かなり「男女共同参画」路線との親和性は高かったと思う。この「女性の視点」とか「女性をふやそう」というアプローチに拘泥してしまい、それをしっかり見つめ直せないことが、女性と政治関連の運動の限界そのものではないのか。

横浜市でつくる会の自由社版教科書が採択された。採択に賛同する趣旨の発言をした女性の教育委員が、つくる会の教科書は人物を多く扱っており、特に女性が多く扱われているのがほかの教科書よりすぐれている、という趣旨の発言をしたということを、あるMLで読んだ。「女が多いから」という理由を、つくる会教科書採択の理由のひとつとして使われた、というのに衝撃を覚えると同時に、「女を増やそう」「女性の視点」とばかり言ってきてしまった運動の方向性の限界をまた強く感じた。「女をふやそう」アプローチの限界は、小泉チルドレンとして女性が多くでた選挙でもう嫌というほどつきつけられたはずだし、このつくる会教科書の件も「女」の数とか、どれだけ目立っているとか、あるいは「女性の視点」があるとかいうことではなく、具体的な中身こそが問われていることを痛烈に示していると思う。

5月31日のWAN京都集会での基調講演の際、上野千鶴子さんは、WANサイトはあえて「フェミニズム」は(表向きには)打ち出さない、と言っていた。「フェミニズム」という言葉はネット上でかなり誤解のもとにネガティブな評価をうけていることもあり、そのためにひけてしまう人たちがいる、といった理由のようだった。「目指せ(一日あたり)100万アクセス」という上野さんの言葉からもわかるように(まあ今のアクセス数は、個々の記事のヒット数を見る限り、それからとてつもなく遠いものであり、おそらく数百程度かと思われるが)、できるだけ広い層にアピールするようなスタンスをめざすというように思われた。だが、その結果この「迎合」状態が起きているのなら、「フェミニズム隠し」はかえってマイナスに働いてはいないか。そして、「あえて女をうちだす」ストラテジーをとり続けるのだとしたら、その効果はどうなのか、「女」カテゴリーから抜け落ちてしまいかねない人たちの存在について、どう考えるのか、二元論反対という学者としてとっている理論的スタンスとの矛盾についてどう考えるのかなど、しっかり議論を提示してもらいたいと思う。