â– 



★『未来』No.462、2005年3月号(未來社)

・西山達也「フランスのハイデガー主義、ひとつの終焉」
・田中純「汚れた起源——『ピラネージ建築論 対話』」【書評】
・石橋正孝「「書くこと」の革命性——大西巨人+荒井晴彦『シナリオ神聖喜劇』」【書評】
・小川直人「崩れゆく部屋と透明な建築の呼応——《ペドロ・コスタ 世界へのまなざし》」
・港千尋「ゴーヤーの心——『赤いゴーヤー 比嘉豊光写真集 1970-1972』」【写真集評】
・高橋洋「廃墟としての現在から——井土紀州『LEFT ALONE』」【映画評】

ほか


西山達也(にしやま・たつや, 1976- )氏の文章は、2004年11月30-12月05日にストラスブールで開催されたコロック「ハイデガー、危険と約束」(Heidegger: Le danger et la promesse)の報告。文中に現れる「ハイデガー主義」という言葉が業界でどのような意味を持つものなのかが、いまひとつわからないのだけれど、フランスにおけるハイデガー研究の文献についての示唆がありがたい一文だった。文中で言及されている書物を以下にひろっておきたい。


☆Catherine Malabou, Le change Heidegger: Du fantastique en philosophie (Non & Non, Léo Scheer, 2004, EUR 17.00)


☆Didier Franck, Heidegger et le christianisme: L'explication silencieuse (Epiméthée, P.U.F., 2004, EUR 19.00)


☆Hadrien France-Lanord, Paul Celan et Martin Heidegger (Fayard, 2004, EUR 20.00)


☆Dominique Janicaud, Heidegger en France, tome 1: Récit (Bibliothèque Albin Michel Idées, Albin Michel, 2001, EUR 27.40)


☆Dominique Janicaud, Heidegger en France, tome 2: Entretiens (Bibliothèque Albin Michel Idées, Albin Michel, 2001, EUR 21.30)


☆Tom Rockmore, Heidegger and French Philosophy: Humanism, Antihumanism, and Being (Routledge, 1994)


⇒Conversations à strasbourg
 http://www.conversations-strasbourg.com/0411_heidegger.htm



田中純(たなか・じゅん, 1960- )氏による「汚れた起源」は、『ピラネージ建築論 対話』(アセテート)の書評。


マンフレッド・タフーリによる「悪しき建築家——G.B.ピラネージ ヘテロトピアと旅」(『球と迷宮』、八束はじめ+鵜沢隆+石田寿一訳、PARCO PICTURE BOOKS、PARCO出版、1992/07、所収、amazon.co.jp)*1を背後に置きながら、本書に収められたあるべき建築の姿をめぐる論争をクリアに読み解いて見せてくれる。


「この論争の焦点は何を真正な「起源」として選択するかという問題だった」としたうえで、以下のように述べている。

ピラネージが過激な論争術の果てに我知らず辿り着いてしまったのは、純粋で完全無欠な起源が存在しないというこの認識ではなかったか。その意味でこの対話は文字通り「古典主義建築の脱構築」(本書の広告より、傍点〔ここでは強調——八雲註〕引用者)なのである。訳者解題には、この『対話』の前年に制作されたピラネージのデッサンが引かれている。そこに描かれたパレットのなかには「col sporcar si trova(汚すことで何かを見つける)」と書かれているという。見つけるためには、つまり創造するためには汚すしかない。そして、この決意は、純粋な起源の純粋な反復などなく、たとえ起源があるとしても、それはつねにすでに汚れて傷を負っており、ただその「患部を抱きしめ、傷を和らげよう」とすることしかできないという認識と、表裏一体のものだったように思われるのだ。

(同誌、p.24)


田中氏の書評を、同書におさめられた訳者・横手義洋(よこて・よしひろ, 1970- )氏による解題「ピラネージの『対話』について」と併読することで、『ピラネージ建築論 対話』という書物が提起する問題の現代における射程がよりよく見えてくる。書物の読みを深め、広げてくれる得がたい書評。


⇒before and after images
 http://news.before-and-afterimages.jp/index.html
 田中さんのブログ


⇒作品メモランダム > 2005/03/04 > ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ『ピラネージ建築論 対話』
 http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050304#p1



昨年、『映画の魔』を青土社から上梓した映画作家・高橋洋(たかはし・ひろし, 1959- )氏による映画『LEFT ALONE』評「廃墟としての現在から」の結語に同感。

『LEFT ALONE』が示した最大の裂け目〔作品におさまりきらない作品の外部や作品の結構の危うさを示す裂け目——八雲註〕とは、もはや右も左もない廃墟だったと言いたいのだ。与えられた思考の枠組の中で賢さを競う程度のことしか出来ず、その意味において確かに「保守化」が進行しつつある現状に対して、「外側」を突きつける廃墟。『LEFT ALONE』を見た人々は、この廃墟という現在に向き合うことから、それぞれの言葉や映像を発し始めるのだ。

(同誌、p.41)


この映画には、新左翼/全共闘運動という過去の相と、早稲田大学サークルスペース闘争という現在の相が重ね合わせられている。しかし現在における左翼的なものの貧しさをひたすら露呈した、早稲田大学サークルスペース問題とそこで活動した花咲氏のインタヴューは、むしろ、現在において LEFT であるということに大きな裂け目があることを示唆するための素材にしか見えない。


理が闘争の主体である学生側にあるように編集された映像(多くの戦争映画と同じように、そこには敵側の理は表現されていないため、無条件に同意するのでなければ第三者には判断ができない)も、部外者にはなかば意味がわからず(意味などないことを示していたのかもしれないけれど)、関係当事者たちの熱い言動は空転する。とりわけこれは書籍版の花咲氏の補注に顕著なことだが、相変わらず利害が一致する者とそうでない者のあいだに分割線を引いて敵対者にレッテルを貼り、敵を作り出そうとする運動の進め方にも多くの疑問を感じた。この点で、過去の闘争を経験してきたインタヴュアーの絓氏のほうが学生側にコミットしながらもかえって適当な距離感を維持しているように見えるのは皮肉である。


という『LEFT ALONE』を観て考えたことをまとめて記そうと思いつつまとまらないのであった。


⇒作品メモランダム > 2004/09/29 > 高橋洋『映画の魔』
 http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20040929#p1


⇒未來社
 http://www.miraisha.co.jp/mirai/mirai.html

*1:しばらく前に新古本として入手したのだが見つからない。とは自分向けのメモで失礼。