ブラックバード、ブラックベリー、私は私。


エテロ(エカ・チャヴレイシュヴィリ)が断る親友宅での女達の「コーヒーとウエハース」の集まりの画が私には何とも「ジョージア映画」に映った。どこか幻想的で寓話的。しかし彼女が別の女性の息子無しでの息子の誕生日祝いの集まりに出る時…尤もものを食べる時は一人の彼女は席にも着かないが…それは消え失せている。死んだ者の声を聞こうが彼女の人生は現実的だ。「男と暮らすと不幸になる」から一人で、「美しいものは何でもここにある」から村に暮らす。その態度が場の空気を変える。

登場時から印象的な村の女達の色とりどりの髪は、物言うことの代わりに思われた。彼女達が意地悪なのは男との暮らしゆえの不幸による。「結婚が女の幸せなら、女達はなぜ幸せじゃないのか」と明言するエテロはそのことを分かっており、相手にもよるが「私のバカンスは脚を組んでのんびり過ごすこと、何の心配もなくね(この「心配」とはおおかた男にまつわる世話や面倒のことだろう、日本でも同じだよね)」と堂々と語る。またこの理屈に従い、彼女がトリビシの病院とホテルについて聞きに行く女性二人はレズビアンであるゆえに優しい。

エテロが持ち掛けてセックスするようになったムルマン(テミコ・チチナゼ)が一緒に暮らそうなどと当初口にしない、言ってみれば彼女が希望しなくとも都合のいい関係が持てるのは彼が「家族」社会に属しているからだというのが複雑で面白い。エテロがムルマンに、電話越しでも裸の胸に頭をもたせかけてでも話すのは自分自身のいわば歴史とその時々に抱いた強い気持ちだが、彼は彼女への思いを自身しか見ない手帳に詩としてしたため、今考えている大事なことは「理解してもらえると思えなかったから」とぎりぎりまで話さない。この差には男の呑気さを思った。ラストシーンのエテロの慟哭ももう、彼には関係ない。