大本営発表はなぜ「ウソの宣伝」に成り果てたか

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海軍報道部の発表の様子。写真中央は軍の報道部長
海軍報道部の発表の様子。写真中央は軍の報道部長

 8月15日は終戦の日。先の大戦での軍部の独善・ 欺瞞(ぎまん) の象徴として語り継がれるのが「大本営発表」だ。当時、最高レベルのエリート集団だった大本営はなぜ、繰り返しウソの戦果を並べるに至ったのか。真相を探ると、現代の日本社会にも通じる病理が浮かび上がってくる。

組織の欠陥が生んだ「ウソとでたらめ」

 終戦の日が来るたびに「日本はなぜ無謀な戦争に突き進んだのか」という反省が繰り返される。特に罪深いとされるのが、国民を (だま) し続けた大本営発表だ。

 ウソとでたらめに満ちた発表は、今でも「あてにならない当局に都合のいい発表」の代名詞として使われる。「戦果のごまかしはどこの国でもやっている」というのはその通りとしても、大本営のでたらめぶりは常軌を逸しており、「国民の士気を鼓舞するためだった」では片付けられない。そもそも大本営は天皇に直属する最高の統帥機関で、陸海軍のエリートが集められていた。発表は幾重ものチェックを経ていたし、ウソがばれれば国民の信頼を失い、戦争遂行が難しくなることも分かっていたはずではないか。

 近現代史研究者の 辻田(つじた)真佐憲(まさのり) さんは、でたらめ発表が行われた背景には、「情報軽視」と「内部対立」という二つの構造的な欠陥があったと分析している。

情報軽視の悪癖、現場の報告を鵜呑みに

真珠湾攻撃
真珠湾攻撃

 大本営発表が最初からでたらめだったわけではない。真珠湾攻撃の戦果は、航空写真を綿密に確認するなどした上で、3度も修正されている。戦闘機から見た艦船は点のようなもので、本当に沈んだのか、沈んだ艦は戦艦なのか、駆逐艦なのかを判別するのは、熟練度が高い搭乗員でも簡単ではないのだ。

 戦線が拡大し、熟練度が低い搭乗員が増えるにつれ、戦果の誤認が急増した。誤認は米軍にもあったが、大本営には情報を精査したり、複数の情報を突き合わせたりする仕組みがなかった。特に作戦部には、現場からの情報を軽視する悪癖があった。根拠もなく報告を疑えば、「現場の労苦を過小評価するのか」と現場に突き上げられる。誤った報告は鵜呑うのみにされ、そのまま発表されていった。

「敵空母11隻、戦艦2隻撃沈…」幻の大戦果

 誤報の極みとされるのが、昭和19年(1944年)10月の台湾沖航空戦に関する大本営発表だ。5日間の航空攻撃の戦果をまとめた発表は、「敵空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻を (ごう) 撃沈、空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻を撃破」。米機動部隊を壊滅させる大勝利に、昭和天皇(1901~89)からは戦果を賞する勅語が出された。だが、実際には米空母や戦艦は1隻も沈んでおらず、日本の惨敗だった。

 熟練度の高い搭乗員はすでに戦死し、作戦に参加したのは初陣を含む未熟な兵卒が大半だった。多くは米軍の反撃で撃墜され、 鹿屋(かのや) 基地(鹿児島県)に帰還した搭乗員の報告は「火柱が見えた」「艦種は不明」といったあいまいな内容ばかりだった。だが、基地司令部は「それは撃沈だ」「空母に違いない」と断定し、大本営の海軍軍令部に打電した。翌日に飛んだ偵察機が「前日は同じ海域に5隻いた空母が3隻しか発見できない」との報告が「敵空母2隻撃沈」の根拠とされ、さらに戦果に上乗せされた。

 さすがに疑問を感じた海軍軍令部は内部で戦果を再検討し、「大戦果は幻だった」ことをつかんだが、それを陸軍の参謀本部に告げなかった。陸軍は大本営発表の戦果をもとにフィリピン防衛作戦を変更し、レイテ島に進出して米軍を迎え撃ったが、台湾沖で壊滅させたはずの米空母艦載機の餌食となり、壊滅した。各部署は大本営発表から戦果を差し引いた独自の内部帳簿を持っていたが、その数字は共有されず、共有しても相手は参考にしなかったという。

水増しと隠蔽をさらに歪めた内部対立

辻田真佐憲『大本営発表』より
辻田真佐憲『大本営発表』より

 情報の軽視によって水増しされた戦果は、公表範囲を決める幹部会議に持ち込まれ、「軍事上の機密」を理由に都合の悪い部分が隠ぺいされた。報道部が大本営発表の文書を起案する時点で、すでに戦果の水増しと隠ぺいが実施済みだったわけだが、ここからは「内部対立」でさらに戦果は歪められていく。

 大本営発表は軍の最高の発表文で、起案された文書は主要な部署すべてのハンコがなくては発表できない。陸軍を例にとると、参謀本部に参謀総長、参謀次長、作戦部長、作戦課長、情報部長、主務参謀などがいて、陸軍省に陸相、次官、軍務局長、軍務課長らがいた。特に、作戦部にはエリート中のエリートが集まり、他の部署を下に見ていたという。他の部署は作戦部を快く思わず、何かにつけていがみあっていたから、すべてのハンコをそろえるのは大変な作業だった。

 それでも勝っているうちはよかったが、日本が負け始めると、どの部署もハンコをなかなか押さなくなった。「そのまま発表すれば国民の士気が下がる」というのは建前にすぎず、「敗北を認めると、その責任を負わされかねない」というのが本音だった。発表が遅れれば、報道部の責任が問われる。報道部はハンコが早くもらえるように、戦果をさらに水増しし、味方の損害を減らした発表文を起案するようになった。

予期せぬ敗北で損害隠し「日本の勝ち」

ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を回避しようとする日本海軍の空母「赤城」(1942年)
ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を回避しようとする日本海軍の空母「赤城」(1942年)

 軍内部の対立で大本営発表が歪められるきっかけとなったのが、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦の大本営発表だ。霞が関の海軍省では祝杯の準備をして戦勝報告を待っていたが、飛び込んできたのは空母4隻を失うという予想外の知らせだった。開戦以来初めてとなる大敗に直面し、これをどう発表するかをめぐる調整は難航を極めたという。

 報道部は「空母2隻沈没、1隻大破、1隻小破」とする発表文を起案したが、作戦部が猛反対した。3日後に発表された味方の損害は「空母1隻喪失、1隻大破、巡洋艦1隻大破」に減らされた。一方で、敵の損害は「空母1隻の大破」が「2隻撃沈」に水増しされ、「沈めた空母の数で日本の勝ち」と発表された。

 報道部の担当者は戦後、ミッドウェー海戦の大本営発表のなりゆきについて、「真相発表とか被害秘匿とかそんなものを飛び越えた自然の成り行きであった。理屈も何もない」と述懐している。誰かの決定も指示もなく、あうんの呼吸で部署間のバランスに配慮した結論が出された。情報軽視と軍内部の対立という欠陥は放置されたまま、空気を読んで戦果を 忖度(そんたく) し、でたらめを発表する仕組みができ上がった。

辻田真佐憲『大本営発表』より
辻田真佐憲『大本営発表』より

 良心の 呵責(かしゃく) もあったのか、ミッドウェー海戦以降、いったん大本営発表の回数は激減する。しかし、しばらくして再び増え始めた大本営発表には、当たり前のようにウソが混じるようになる。辻田さんは「ウソをつくことを覚えたのだろう」と分析する。海軍はミッドウェーでのごまかしは、すぐに勝って帳尻を合わせればよいと思っていたようだが、戦いの主導権は二度と戻らなかった。

 一部の海戦については後から戦果を訂正する発表もあったが、これは誤りが判明したからでなく、過去のウソから生じた矛盾を取り繕うためだった。しかし、同時に新たなウソをついていたから、実際の戦果との開きは拡大するばかりだった。

「撤退」を「転進」に言い換え責任不問に

 昭和18年(1943年)には、ごまかしが戦果以外にも及ぶようになる。ガダルカナル島からの撤退は「転進」に、アッツ島の守備隊全滅は「玉砕」に言い換えられ、大本営の作戦や補給の失敗は不問とされた。

 昭和19年(1944年)以降、本土が空襲にさらされ、戦いの前線が迫ってきても、大本営はウソを発表し続けた。ごまかしや帳尻あわせが破綻した後は、神風特別攻撃隊の攻撃が発表の目玉に据えられた。特攻隊の戦果は大幅に水増しされたが、国に身を (ささ) げて得た戦果を疑うことは許されない。大本営は特攻隊まで戦果の取り繕いに利用したのだ。

「魚雷を浴びて大火災を起こし、断末魔のあがきを見せつつ遁走を続けるサラトガ」とされる旧日本軍の提供写真(1942年5月撮影、読売新聞社刊「大東亜戦争報道写真録』より)
「魚雷を浴びて大火災を起こし、断末魔のあがきを見せつつ遁走を続けるサラトガ」とされる旧日本軍の提供写真(1942年5月撮影、読売新聞社刊「大東亜戦争報道写真録』より)

 辻田さんの集計によると、大本営発表では太平洋戦争中に敵の空母は84隻、戦艦は43隻が撃沈されているが、実際には空母は11隻、戦艦は4隻しか沈んでいなかった。でたらめな戦果は昭和天皇にも奏上され、天皇は戦争末期に「(米空母)サラトガが沈んだのは、今度で確か4回目だったと思うが」と苦言を呈したといわれる。

暴走を誰も止められず…メディアの責任も

東条英機(国立国会図書館蔵)
東条英機(国立国会図書館蔵)
辻田真佐憲『大本営発表』より
辻田真佐憲『大本営発表』より

 太平洋戦争を首相として主導した東条英機(1884~1948)は、大本営発表の内容については電話で数回要望を伝えてきただけで、「敗北を隠せ」といった指示はしていない。

 東条については、日米開戦前日に昭和天皇が開戦を決意したことに安堵し、「すでに勝った」と高揚していた様子を記すメモの存在が明らかになった。東条は人に弱みを見せることも多く、軍内部すら完全に掌握できていなかったという。辻田さんも「形式上は天皇が最高指揮官だったが、実際にはトップ不在のまま手足が勝手に動いていたのが大本営の実態。誰もコントロールしないからウソがまかり通り、それを誰も止めなかった」と見ている。

 評論家の山本七平(1921~91)は『「空気」の研究』のなかで、戦争末期の戦艦大和の出撃について「全般の空気よりして、特攻出撃は当然と思う」という軍令部幹部の証言を紹介している。出撃が無謀なことを示す論理やデータはそろっていたが、「全般の空気」がそれに勝ってしまったのだ。

 でたらめな大本営発表には、記者発表で仕上げの尾ひれがつけられた。発表後に軍の担当者が「この発表の意図はこうだ」「ここはこう書いてくれ」とオフレコでレクチャーし、記者たちは軍の意向に寄り添った記事を書いた。軍の意向に逆らわず、むしろ積極的に「空気」を読んで戦争の片棒を担いだメディアの責任も大きい。

「空気を読む」公権力には歯止めを

 森友学園問題では、役人の忖度が公文書の改ざんにまで発展した。辻田さんは「今の政治を戦時中と同一視するつもりは全くない。だが、だから歴史から学ぶことなどない、というのも間違っている」という。

 書類の電子化が進んでいる今でも、役所や会社の中を回る決裁文書にはハンコを押す欄がずらりと並ぶ。権力がトップに集中する組織ほど、「上はこう望んでいるだろう」と忖度した文書が回る。ハンコは起案者が読んだ空気に同意した証し。正しく空気を読んだ文書ほどハンコがそろいやすく、効率的に仕事が進み、起案者は上の覚えもめでたくなって出世できるわけだ。

 物事がうまくいっているうちはいいのだが、ひとたび問題が起きた時は、上が指示をした証拠はなく、たくさんのハンコもかえって責任の所在を不明確にしてしまう。辻田さんは「空気を読むことがすべて悪いわけではないが、日本には他国以上に空気を読む文化がある。だからこそ、特に公権力を持つ組織では、他国以上に権力集中に歯止めを設ける仕組みが必要ではないか」と指摘している。

余話 ナチスドイツにもあった忖度の暴走

 「忖度」は外国語に訳しにくい日本駐在の外国特派員泣かせの言葉というが、組織内を忖度が支配し、誰も責任をとらないまま組織が暴走してしまう例は外国にもある。ドイツには「先回り服従(フォラウスアイレンダー・ゲホルザム)」という言葉があり、この言葉がホロコーストの大量虐殺が起きた一因とされている。

 ナチスドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー(1889~1945)は、すべてに具体的な指示を出していたわけではなく、気にいられようとした部下たちがヒトラーの意向を忖度して動くことが多かった。ヒトラーは具体的な指示をしていないので、失敗しても自らの責任ではないし、成功すれば自らの手柄にできる。部下も面倒な根回しや手続きを省いて仕事を進めやすく、上司を巻き込んで責任を不明確にしておけば、失敗してもひとりで責任をかぶらなくていい。

 忖度や先回り服従は、上の意向に異議を唱えず、波風を立てない「事なかれ主義」に通じる。摩擦や対立を恐れずに多様な意見や価値を尊重する社会にするには、誰が指示したのか、指示された方は異議を唱えなかったのかといった経緯を明確に残し、検証できる仕組みをつくることが重要だ。公文書が民主主義の根幹とされるのは、このためだ。


主要参考文献
辻田真佐憲『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(2016、幻冬舎新書)
山本七平『「空気」の研究』(1983、文春文庫)
辻泰明・NHK取材班『幻の大戦果 大本営発表の真相』(2002、NHK出版)


辻田真佐憲さん(左)と筆者
辻田真佐憲さん(左)と筆者
プロフィル
丸山 淳一( まるやま・じゅんいち
 読売新聞調査研究本部総務。経済部、論説委員、経済部長、熊本県民テレビ報道局長、BS日テレ「深層NEWS」キャスター、読売新聞編集委員などを経て2020年6月より現職。経済部では金融、通商、自動車業界などを担当。東日本大震災と熊本地震で災害報道の最前線も経験した。1962年5月生まれ。小学5年生で大河ドラマ「国盗り物語」で高橋英樹さん演じる織田信長を見て大好きになり、城や寺社、古戦場巡りや歴史書を読みあさり続けている。

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