映画『メアリと魔女の花』はニセモノなのか(後編)

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(前編から続く)

タイトル戦線へ、藤井聡太七段が突破すべき壁

「魔女、ふたたび。」の宣伝コピー

(c)2017「メアリと魔女の花」製作委員会
(c)2017「メアリと魔女の花」製作委員会

 ――アニメ映画『メアリと魔女の花』では、魔女を描いている。ジブリの鈴木敏夫プロデューサーは宣伝がすごく上手で、西村さんはその人の下で勉強してきた人ですね。今回、宣伝コピーで「魔女、ふたたび。」と付けていますが、あれは気に入らなかった。魔女といえば、『魔女の宅急便』がピンとくるわけで、第三者的に見ると、どうしてもジブリ人気にあやかって、ジブリ風のものを作っていると誤解されがちなコピーですよ。

 逆に、そういう意識が僕の中で弱かったからかもしれませんね。つまり、状況として裸一貫でやっているし、必死にやっているわけだけど、自分たちがジブリで作ってきたものを信じてやっているというところに違和感がないから、かえって問題なんでしょうね。

 ――違和感はなかったんですね。

 米林監督もクリエイターたちも、この作品の雰囲気とかキャラクターに対してまったく違和感を持っていません。ジブリとは違う世界を作りたくて始めたわけではないからです。「これじゃ、ジブリと間違えられちゃう」と仮に言われても、「間違えられて何がいけないの」としか、感じなかったと思います。僕らはジブリの志を継いでいくとしか思っていないわけですから。

「魔女の宅急便」に挑む

「『魔女』に挑戦していることを強く印象付けたかった」
「『魔女』に挑戦していることを強く印象付けたかった」

 ――それはいいと思うんです。おそらく、この映画をジブリ作品として公開しても、違和感はなかったと思うんです。観客は「今度のジブリも面白かったね」という感想で終わったと思う。ただ宣伝というのは、外からどう見られるのかというところを意識してやるものです。クリエイターは「ジブリの志を継ぐ」で良いが、「ジブリの真似(まね)をしている人たちがジブリ風のものでやっている」と誤解されるかもしれないことに、もっと慎重であるべきではなかったでしょうか。

 ただ一方で、どうしても「魔女」という宮崎監督と同じモチーフに挑戦しているというのは強く印象付けたかった。企画の段階で「魔女をやろう」と提案したときに、これは米林監督の挑戦になるだろうと思ったんです。そして、だからこそ宮崎監督とまったく違う魔女の物語ができたんだろうとも思った。

「魔女、ふたたび。」と言うことがすなわち何かジブリ的なものに見えるとしたら、「魔女の宅急便」が日本人に魔女像として植え付けられているからですよね。その日本人の中にある魔女像に米林監督が挑戦した格好になるんです。「魔女、ふたたび。」というコピーは、別の理由もありますが、「魔女」に果敢に挑戦するという強い意思表明でもありました。

 ――コピーがどうあれ、魔女に挑戦するとなると、当然、『魔女の宅急便』と比較される。だから、逃げずにコピーで宣言したということですか。

 色々な言葉を費やしても、年間約1200本もの上映作品があると、どのキャッチコピーがどの映画のものかなんて、誰も覚えていない時代ですよ。だから、コピーの役割を一点に特化して、特異性で勝負した。ジブリを出た米林監督が、退社後1作目で師匠と同じ魔女を描くという困難へ挑戦したのです。そこからは監督自身の勝負ですよ。

 ――この作品は、ジブリそのものだと言いましたが、過去のジブリ作品をそのままトレースしているわけではありません。米林監督の今のエネルギーや情熱が反映していた、新しい表現もたくさんある。ジブリならではの表現もあるし、過去のジブリキャラクターに近いようなものもあるが、新しいキャラクター造形もある。「善と悪を単純に分けない」といったプロットはジブリ映画の、いわば伝統でしょうが、その伝統は生かしつつも、現代を映し出す物語として再構築している。新しい発見はたくさんあるわけで、その挑戦も「魔女、ふたたび。」という言葉で表しているのかもしれませんね。

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