19年前の夏、新聞記者はコミケに出展した…2000年代の「オタク」とは何だったのか (福)に捧ぐ
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同人誌というテーマを扱うにあたり、まずは記者の個人的な思い出から入ることをお許し願いたい。2005年の夏、私はコミックマーケットに初めてサークル参加した。文化部の同僚、福田
コミケで味わった高揚感
きっかけは、2人で作った「POPカルチャー」というサブカル紙面だ。04年1月から06年3月まで月1回、オタク文化の最先端をルポ形式で紹介した。メイド喫茶やボーイズラブ、人形愛、着ぐるみコスプレなど、新聞では取り上げにくい題材ばかりに挑戦した。私も福田記者も若かった。
こういう企画をやる以上、コミケにサークル参加することは当初からの目標だった。04年夏は落ちたが、05年夏は当選した。2人だけでは作れないので、社内のオタク記者たちに声をかけ寄稿をお願いした。28ページのコピー誌が何とか完成し、8月14日の夏コミで300部を完売した。それでも印刷費、諸経費を差し引くとわずかな赤字だった。
その後も、私たちは数年間にわたり私的にサークル参加し続けた。コミケで味わった高揚感には、それほど大きなものがあった。あの気持ちは何だったのか、19年たった今もうまく説明できない。私がこの連載を始めたのは、あの体験をもう一度深く掘り下げてみたいと思ったからだ。
オタク趣味=小宇宙への没入
歌人の黒瀬
キラ、君のいる戦場へ
「あの頃、『サブカルチャー短歌』と歌壇では呼ばれていましたね」と黒瀬さん。「キャラクターを偏愛するオタク文化が広まった時代でした。そんな2次元や2・5次元への新しい感覚と、短歌のような古い定型が、思ったよりおいしく合うなって思いました。両者のギャップの激しさが、逆にポエジーを強化する。短歌とオタク文化って、やっぱり近いものなんだなっていう発見がありました」
この「短歌魔宮」を、私たちは黒瀬さんと投稿者の許可を得て同人誌にしたが、あまり注目されなかった。しかし黒瀬さんによると、オタク短歌の流れは、その後も脈々と続いているという。
「榊原
黒瀬さん自身、当時はそこまで未来を見通せていなかったと語る。「あの頃は、ハイカルチャーと、ただ消費されていくだけのサブカルチャーの間に優劣はなく、全ては等価だと思っていた。しかし今振り返ると、オタク文化には時を超越する力があったのかもしれない。オタク趣味とは自分だけの小宇宙に深く没入すること。従来の短歌とは違う、新たな創作の力学が生まれていたのかもしれませんね」
「電車男」が変えたもの
「POPカルチャー」をやっていた2000年代半ばは、オタク文化が奇妙に持ち上げられた時代だった。「2900億円」とか「888億円」とか、各シンクタンクによるオタク市場規模推計値が次々と発表された。「クールジャパン」という新語が登場したのもこの頃だ。時はバブル崩壊後の「失われた20年」の真っ最中。経済で自信喪失した日本が、漫画、アニメ、ゲームなどのオタク文化が国の新たな活力になり得ると“再認識”し始めていた。
それを象徴するベストセラーとして、04年の「電車男」(中野
新潮社執行役員で、同書を手がけた郡司裕子さんは、「まだインターネットが怪しげなメディアと思われていた時代に、ネットの善意が結晶すれば、こんなにすごいことができるという希望を示したと思う」と振り返る。
翻って、今の殺伐とした巨大SNSからは「電車男」はもう生まれないのでは?
「そんなことありません。SNSの中にも、小さいけれどよい話は日々たくさんある。みんながニュースとして注目しないだけですよ」
もういない君へ
11月に冬コミの当選通知が届いた。再び「直言兄弟」を作る時がやってきた。
相棒の福田記者はもういない。彼は21年に49歳で急逝した。その代わり、一回りも二回りも若い記者たちが力を貸してくれている。黒瀬さんの「短歌魔宮」にも復活してもらおう。こんな仲間たちと同人誌が作れることを幸せに思う。
福田君、この「 取材帳 」は君に読ませたくて書いた。
さあお祭りだ。東京ビッグサイトで会いましょう。
(本稿は読売新聞夕刊の連載「取材帳 同人誌を作ろう」に収録された記事です。過去回は こちら からお読みください。)
電車男とは…
あるオタク青年が、電車の中で酔漢に絡まれた女性を救い恋に落ちる。奥手な彼は独身男性が集うインターネット掲示板に助けを求め、デートを成就させるための様々なアドバイスを受ける。「電車男」の恋の行方にネット民は一喜一憂し、励ましは大きなうねりとなっていく。掲示板の書き込みを再現した単行本は105万部に達し、映画、ドラマ化されて社会現象となった。一部でフィクション説も流れたが郡司さんはきっぱり否定。「電車男」さんとは今でも連絡を取り合っているそうだ。