西村進一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/06 00:11 UTC 版)
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府京都市 |
生年月日 | 1919年12月30日 |
没年月日 | 2006年11月13日(86歳没) |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1939年 |
初出場 | 1939年 |
最終出場 | 1942年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督歴 | |
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この表について |
西村 進一(にしむら しんいち、1919年12月30日 - 2006年11月13日[1])は、京都府京都市[2]出身のプロ野球選手。ポジションは内野手。旧姓は木村(きむら)。
来歴・人物
平安中学校では遊撃手として、1936年の第13回選抜中等学校野球大会から1938年の第24回全国中等学校優勝野球大会まで6季連続で甲子園に出場した。
中学卒業後に立命館大学へ進み、1939年に大学を中退して名古屋軍へ入団[2]。実働は4年ながら1941年と1942年は内野手の準レギュラーとして活躍した。
1942年10月に召集され、戦地であるラバウルに渡った[2]。1945年に誤って砲弾を逆に持ったため暴発し、右手首を失い選手生命を絶たれた[2]。
1948年から指導者として母校である平安高校の監督に就任[2]。義手にボールを乗せて、左手1本でノックするなどの熱血指導で有名だった[1]。1951年には第33回高校野球選手権で優勝を果たした[2]。1951年、西村に改名。
平安高校退任後は、扇町高校、岸和田高校の監督を経て、龍谷大学硬式野球部監督に就任[2]。関西六大学野球連盟昇格や初のリーグ優勝へと導く。1971年には金沢市の社会人野球チーム・西川物産の監督に就任[2]し、第42回都市対抗野球大会及び第44回都市対抗野球大会に出場。1975年、大阪産業大学監督に就任し[2]、1982年まで務めた。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1939 | 名古屋 | 4 | 7 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 1 | -- | 0 | 0 | 3 | .000 | .143 | .000 | .143 |
1940 | 45 | 57 | 48 | 8 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | 3 | -- | 2 | 0 | 7 | -- | 0 | 10 | 4 | .104 | .218 | .104 | .322 | |
1941 | 66 | 255 | 205 | 17 | 36 | 2 | 0 | 0 | 38 | 8 | 6 | -- | 10 | -- | 40 | -- | 0 | 24 | 1 | .176 | .310 | .185 | .496 | |
1942 | 71 | 297 | 246 | 18 | 41 | 4 | 0 | 1 | 48 | 16 | 8 | 7 | 16 | -- | 34 | -- | 1 | 29 | 3 | .167 | .270 | .195 | .466 | |
通算:4年 | 186 | 616 | 505 | 43 | 82 | 6 | 0 | 1 | 91 | 25 | 17 | 7 | 28 | 0 | 82 | -- | 1 | 63 | 11 | .162 | .281 | .180 | .461 |
背番号
- 21 (1939年 - 1942年)
脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 木村進一 - NPB.jp 日本野球機構
固有名詞の分類
- 西村進一のページへのリンク