内田洋行の歴史
1910年(明治43年)中国の大連で創業した内田洋行。『洋行』とは、中国語で“外国人の店”という意味をもちますが、それと同時に、当時は多くの人々の挑戦意欲をかきたて、未知の領域に挑む、“フロンティアの気概”がイメージされることばでした。
- 内田洋行の創業(1910)
- 技術者必携と称された「ヘンミ式計算尺」と国産化の推進(1925)
- 学校教育振興のために(1946)
- 業界に先駆け「ビジネスショウ」を開催(1953)
- カシオ小型リレー式計算機の総代理店に(1957)
- “事務能率の向上支援”に純国産初のオフィスコンピュータ「USAC」(1962)
- 事務作業の効率化のためにスチールデスク「システムデスク」(1963)
- 東京証券取引所へ上場(1964〜)
- SEIKO卓上式電子計算機の総代理店(1968)
- 教育の情報化推進(1981)
- 知的生産性研究所、内田洋行教育総合研究所 設置(1989〜)
- 100校プロジェクト参画 NewEducationEXPO第1回(1995~)
- ITビジネスの推進(1995〜)
- ICT時代に事業転換を推進(2000〜)
- 111周年特別事業 文化、社会貢献活動を実施(2021〜)
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創業者・内田小太郎(宗主)は、1871年(明治1年)、多久藩(現在の佐賀県・多久市)の柔術師範の次男として生を受けます。明治維新で武士階級は崩壊、一家存亡の危機となり、内田小太郎はパイオニア精神をもって数々の挑戦を企てます。「富国強兵」「殖産興業」が叫ばれた明治26年に単身上京、逓信省・横浜郵便局に就くと、明治33年には日清戦争直後の台北郵便局に転勤して、台湾土地調査局の測量隊員となり台湾全土をめぐりました。帰国して日露戦争が勃発すると、戦地の鉄道野戦隊に志願して満州に向かいます。終戦とともに隊は南満州鉄道株式会社に引き継がれ、明治39年、満鉄社員となりました。
しかし内田小太郎は、内田家再興を目指して満鉄を退職。測量技師として身につけた技術を活かして、1910年(明治43年)、満鉄の事業拡大に不可欠であった測量・製図器械を取り扱う販売会社として大連市常陸町に「翠苔号(すいたいごう)」(後の内田洋行)を設立して独立しました。
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1910年(明治43年)、測量技師の技術を活かして、満鉄の事業拡大に不可欠であった測量・製図器械を取り扱う満鉄御用商「翠苔号」(後の内田洋行)を、中国・大連で創業します。その後、1914年に青島支店を設立以降、満州を中心として、最盛期には支店・出張所が20箇所を数えました。当初は、欧米から「L.Cスミス・タイプライター」「ベイツ自動番号器」等、著名な輸入品を取り扱いました。
測量器械
GILLOTTS社製図用丸ペン
L.C.Smithタイプライター
ベイツ自動番號器械
連鎖街の大連支店
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国内では、技術者必携とされた当時の先端的計算器「ヘンミ式計算尺」の国内総代理店となり、事業を拡大します。この展開により、“計算尺といえば内田洋行”と、国内で高い知名度を得ました。
その一方、世界金融恐慌を契機に、1927年、事務機器の輸入禁止措置による国産奨励が高まると、国産初の「トーホー自動番号器」、国産最高級「パイク高級鉛筆」「ミレー洋画材」等、本物志向の高級オリジナル商品を、独自にPR誌を発刊して展開しました。
ヘンミ式計算尺
内田洋行時報
内田洋行総合型録 第1版
トーホー自動番号器
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戦後の復興期には、普及につとめた「計算尺」が学習指導要領に採用されたことから、全国規模で代理店を募集し学校への提供を開始しました。しかし新学制で突如として計算尺が不採用となると、“科学教育に資するもの”として顕微鏡等の科学教材販売に転換。学校教員に理科実験の方法をとく「内田科学教材実験説明会」を全国の教育委員会と協力して開催する等により、学校現場の科学教育の普及に努めました。
その後、学校教育の復興とともに、施設設備や教育情報化等の事業を、業界に先駆けて取り組みました。
1948年『内田科学教材型録』
内田科学教材実験説明会
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パイオニア精神を引き継いだ内田憲民(初代社長)は、1953年、米国から持ち帰って製品化した「マジックインキ」、さらに当時製図器械で高度とされたドイツ式で開発した「ケントKD型製図器械」を次々に発表。さらに、1955年には、国産の手動計算機「タイヨー計算機」の販売を開始。業界初の実物展示会「ビジネスショウ」を考案する等、新たな事業開発に努めました。
ケント製図器械
ビジネスショウ
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1957年、世界初の小型リレー式計算機「カシオ14-A」を完成させたカシオ計算機と総代理店契約を締結しました。
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国内では未知の世界であった電子計算機分野に取り組むべく、1962年、電子計算機の開発に成功していたウノケ電子工業(石川県)に経営参加。純国産初の超小型電子計算機「USAC(ユーザック)」を発表します。その後もIC搭載機等を次々に開発したほか、業界で初めて、ハード・ソフト・保守サービス等のアンバンドリング(分離提供方式)やリース販売を進め、オフィスコンピュータの普及を図りました。
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OA化に伴い、働く場に専門的で高度な処理能力を持つ事務機器が求められるようになりました。スチールデスクは、木製デスクに変わって、官公庁・民間のオフィスに広く採用されるようになり、ニューモデル「システムデスク」が製品化され、その後、トータルシステムの思想を取り入れた製品を次々と市場に展開していきました。
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1964年1月 東京証券取引所、大阪証券取引所の市場第二部に上場。
1969年12月 東京証券取引所、大阪証券取引所の市場第一部銘柄に指定。 -
1967年4月、日本で初めてオールICの電子式卓上計算機「USAC10B」を独自に開発。1968年、服部時計店との間で「SEIKO卓上式電子計算機S-300」の日本国内総発売元となりました。「S-300」は、日本で初めてのダイオード・トランジスタ理論回路を用いた科学技術用計算機で、大手企業の技術開発部門や大学、官庁の研究所部門で好評を博しました。
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教育現場のコンピュータ化に際してコンピュータ教育システム「TES(Total Educational System) 」を発表。1984年、コンピュータと教育工学機器を融合したパソコン教育システム「CAI-ACE」の発売を開始しました。Visual & Voice communication をキーワードに、5つの領域(パソコン・語学・ワープロ・CAD・視聴覚)に分けてシステムを開発した、「CAI-ACE」は国産唯一のハード・ソフト一貫開発のパソコン教育システムでした。
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1989年(平成元年)、知の創造を実現するための調査・研究・啓蒙を目的とする企業内研究所「知的生産性研究所」を設置、設立当初から一貫して働き方を調査・研究しています。また、1998年(平成10年)には、教育現場における長年の事業活動や、行政機関、研究機関との連携で培った知見をもとに、次世代教育のグランドデザインを描く「内田洋行教育総合研究所」を設置しました。
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1995年経済産業省にて、日本初の全国100校の小中校でインターネットの教育利用を目的とする「100校プロジェクト」に参画。この現場の先生達の実践知を伝えるために、未来の教育を考える場として翌年の1996年に成果発表とし開催されたのが、第1回「NewEducationEXPO」。
現在は東京・大阪で約1.5万人が来場する教育ICTイベントに成長しました。 -
Windows95が発売された1995年米国最大手のソフトウェアリセラーやマイクロソフト・ソリューションズ・プロバイダーなど主要ソフトウェアベンダーの認可を受けて後のウチダスペクトラム社を設立。また、1997年にはERP/基幹業務ソフトウェア「スーパーカクテル」を発売したほか、1998年にはITデバイスのマルチベンダーのシステムサポートを推進するウチダエスコが株式店頭公開を果たし、業界に先駆けてIT、ソフトウェアの普及促進を図りました。
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2000年代のインターネット普及に対応して、2002年には総務省「EduMart実証実験」に参画し、2004年、その知見をもとに教育用コンテンツ配信サービス「EduMall」をスタート。ネットワークを通じて学校へのコンテンツ提供を本格化しました。
その後、ネットワークと空間の融合をコンセプトに、全社でユビキタス志向の情報空間構築を目指し、独自のノウハウで自在にICTを活用できる場として「ユビキタス協創広場CANVAS」(2008年)を開設し、その中で学校市場の知見から産官学協同研究をもとにアクティブ・ラーニングを実践する「フューチャークラスルーム」(2010年)を設置しました。
また、強靭で柔軟な組織風土を生み出す働き方変革コンサルティング「ChangeWorking コンサルティング・サービス」を業界に先駆けて2010年よりスタートすると、2012年には、その仮説の実証を目的として新川第2オフィスで自社実践「チェンジ・ワーキング」プロジェクトを推進しました。「情報の価値化と知の協創をデザインする」企業へと事業転換をすすめています。
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東京国立博物館 聖徳太子1400年
遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」開催
協力/内田洋行内田洋行創業111周年記念
クラシックスペシャル
日本フィルハーモニー交響楽団開催
東京国立博物館 聖徳太子1400年 遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」開催 協力/内田洋行
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