年月を経て、かつて取材した話の輪郭がはっきりしてくることがある。当時は価値が分からなかったことが、後に取材を重ねたことで理解できる瞬間がある。「ああ、そうだったのか~時を経て知るあのプレー、あの言葉 シーズン2~」と題し、記者が取材ノートをひもといていく。

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篠塚和典さん(67)の評論家担当となり、春の宮崎・巨人キャンプへ向かう朝の車の中だった。

記者 篠塚さん、昔の話なんて聞かれても、もう思い出せないものですか。小学生の頃とか?

篠塚さん 小学生? そうだなあ、もう何年前だ? 50年以上も前だろう、フフフ、無理だよ、思い出せないよ!

そんなお願いを何度かキャンプ取材中にしていた。忘れたと思っていても、ふとよみがえることもある。名選手のはるかかなたの生活の中に、どんなことがあったのか興味があった。

大抵の人は忘れたよ、で終わってしまうが、何度も繰り返して聞いていれば、何かの拍子に、という淡い期待があった。その朝も、懲りずに聞き方を変えつつ、切り出していた。

午前9時前、朝日の中、フェニックスが並ぶ宮崎南バイパスを快調に走る。2月の宮崎の朝日は本当に浴びていて気持ちがいい。すると、お日さまがちょっとした奇跡を呼んでくれた。

篠塚さん あっ、そんなことを言うから、今、思い出したよ。あっ、思い出した。そんなことがあったな。

昭和40年代の千葉・銚子で、篠塚さんは元気な野球少年として毎日を送っていた。その日、3年生の篠塚少年が学校から戻ると、玄関の前に何か落ちている。近寄って見ると、それは5000円札だった。当時の5000円札の肖像は聖徳太子。昭和40年頃の大卒初任給が2万ほど。大金だった。

「お母さん!」と叫びながら玄関に駆け込み、母親に5000円札を手渡した。落とした人はさぞや困って探しているだろうと、すぐに母とともに近くの交番に届けた。

76年7月、2軍練習に参加した巨人のルーキー篠塚
76年7月、2軍練習に参加した巨人のルーキー篠塚

それから3カ月がたち、篠塚少年はそんなことは忘れていた。そんな時、交番から連絡が来て、再び交番を訪れた。すると、警察官は丁寧に説明してくれた。「このお金は、決められた期間に落とし主が現れなかったから、これは拾ってすぐに届けてくれた君のものだよ」。

まさか、自分のものになるとは思わなかったと、篠塚さんは当時を思い出しながら回想した。記者は食い気味に聞く。「で、ご、5000円はどうなりました?」。

母親と相談した篠塚少年は、すぐに市内のスポーツ用品店に行って、迷わずグラブを買った。それが、篠塚和典にとっての初グラブになった。やがて、篠塚少年は左の好打者としてプロ球界で名をはせていくが、名二塁手として、ゴールデングラブ賞を4度受賞した。

記者 そ、そのグラブは今はどこに? しゃ、写真を、撮らせて…もらえませんか!

篠塚さん ええっ! あのグラブ? そんなのもうないよ!

せっかくいい話をしてもらったのに、なんともあさましい記者のさが。すぐにそれ以上の何かを得ようとする。嫌だ嫌だ。ただ、篠塚さんはそう言ったが、なんだか楽しそう。

そういう記者も、決して裕福ではなかった篠塚少年が、そんな幸運によって人生初めてのグラブを手に入れたことを聞けて、朝から幸せな気持ちになった。【井上真】