平安文学を代表する「源氏物語」「枕草子」の舞台になった内裏の後宮建物跡が、京都市埋蔵文化財研究所が上京区で行った発掘調査で見つかっていたことが8日、京都新聞社の取材で分かった。建物跡や溝跡は中宮らが暮らした登華殿(とうかでん)と弘徽殿(こきでん)に関わるとみられ、平安時代の内裏殿舎遺構が見つかるのは初めて。
登華殿は平安中期、一条天皇の中宮定子が暮らした。関白の父・藤原道隆らとの語らいが、枕草子にはつづられている。また、弘徽殿は源氏物語において光源氏が朧月夜に出会う場になっている。両殿とも内裏北西部にあった。
埋文研によると、登華殿跡では794年の遷都当初とみられる建物柱穴が5基見つかった。柱はほぼ3メートルおきに立ち、この柱間や掘立柱の造りは、遷都前の長岡宮跡で見つかっている同殿の相当建物に似通う。移築されたり、構造を受け継いだりした可能性を示す。後に柱は全て抜き取られ、9~10世紀半ばに礎石建ちに変えられたという。
登華殿の南西角では、雨落溝とみられるL字形の石組溝もあった。南北(長さ11メートル以上)、東西(同2・3メートル以上)で底石や縁石を並べていたが、大半が抜き取られていた。建物の礎石建ち化に伴い、同時期の京内にはない石組みの溝が備わったとみられる。
この南側に同年代の石2基が並び、より南の弘徽殿とつながる渡り廊下の礎石の可能性がある。近くに東西溝(同1・1メートル以上)と南北溝(同3・4メートル以上)もあり、平安中後期に同殿跡を囲った溝とされる。
調査はグループホーム建設に伴い、2015年に145平方メートルを調べた。報告書がこのほどまとまった。
■従来の見方を考え直す重要な発見
龍谷大の國下多美樹教授(考古学)の話
平安宮内裏はこれまで遷都当初から礎石建ちで造営されたと理解されてきた。だが、今回の遺構は当初、長岡宮と同じように掘立柱という伝統建築様式を引き継いで築かれていたことを示している。従来の見方を考え直す重要な発見だ。