14 1990年代、オルタナティブの始まりと終わり

カルチャー雑誌/音楽雑誌は死んだ? 雑誌天国の90年代から20年、何が変わったのか?~90年代『ロッキング・オン』編

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90年代初頭にバブル経済は崩壊したとされるが、さまざまなカルチャーの商業的ピークは90年代後半にある。音楽CDの生産枚数/金額が頂点に達したのは1998年。そして、書籍・雑誌の発行部数が最高を記録したのは1997年だ(実売金額のピークは1996年)。つまり、90年代はフィジカル・メディアの最盛期。紙のメディアに関して言えば、ネットの本格的な隆盛を目前に控えた、最後にして最大の「雑誌天国」の時代だった。

では、その「雑誌天国」から20年。カルチャー雑誌/音楽雑誌を取り巻く状況はどのように変わったのか? それにともない、作り手側の意識はどのような変化を遂げているのか? あるいは、そもそもの前提として「雑誌天国」を支えた当時の現場はどのようなものだったのか? それらを紐解くために、本企画では90年代前半にキャリアをスタートさせたふたりの編集者の対談を行なうことにした。

一人目のパネラーは稲田浩。シンコーミュージックを経てロッキング・オンで10年のキャリアを積んだ後、独立して2004年に『EYESCREAM』を創刊。12年間その編集長を務め上げた後、ライスプレスという会社を設立して、今は『RiCE』という新しいフード・カルチャー雑誌を作っている。

もう一人のパネラーは田中宗一郎。1991年にロッキング・オンに入社し、独立後の1997年に『SNOOZER』を創刊。現在は音楽ウェブ・メディア『ザ・サイン・マガジン・ドットコム』のクリエイティブ・ディレクターを務めている。

ふたりの共通点は、大手資本の出版社ではなく、独立系の出版社や完全なるDIYで編集者のキャリアを重ねてきたこと。つまり、ここで語られるのは王道の「雑誌文化の20年史」ではなく、むしろそのオルタナティブとなる「もう一つの歴史」だ。カルチャー誌やメディアの現在と未来を考えるにあたって、20年以上も独立独歩でサバイブし続けてきたふたりの言葉は何かしらのヒントを与えてくれるに違いない。

この記事は前編と後編に分かれている。前編は、主にふたりがロッキング・オンに在籍していた90年代の話。次々と雑誌を創刊して勢いに乗っていたロッキング・オンでふたりは何を考え、どのように行動していたのか。そして、同社での経験が如何に編集者としての彼らに影響を与えたのか、といったことが語られている。後編は、主に『EYESCREAM』という稀有なカルチャー誌を通して00年代を見通す。田中が語る『SNOOZER』のエピソードも、音楽業界における時代の変化を象徴しているといえるだろう。

この記事とは別に、稲田による新雑誌『RiCE』を軸としたふたりの対談記事も近日公開される。なぜ稲田は2010年代にフード・カルチャー誌を立ち上げたのか。あるいは、紙とウェブの関係をふたりはどのように考えているのか――そのようなことが語られる同記事は、この対談の前編=90年代編、後編=00年代編の「続き」とも位置付けられる。是非あわせて読んでもらいたい。

編集者としての自分の志向性を定義した雑誌は何だったか?

田中宗一郎(以下、田中):俺と稲田くんの共通点は、大資本の出版社ではなく、独立系の出版社で編集者としてキャリアを積んできたことですよね。俺は最初は広告代理店勤務だったけど、それから株式会社ロッキング・オンに中途で入って、4年半務めた。97年には『SNOOZER』を立ちあげて、今は『ザ・サイン・マガジン・ドットコム』というウェブ・メディアのクリエイティブ・ディレクターをやっている。

稲田浩(以下、稲田):はい。

田中:稲田くんはロッキング・オンに10年間勤めて、2004年に『EYESCREAM』を立ちあげた。12年間その編集長を務めあげた後、ライスプレスという会社を設立して、今は『RiCE』という新しい雑誌を作っている。

稲田:そうですね。

田中:そういった2人の立場から、カルチャー誌/音楽誌の20年の変化を出来る限り俯瞰できればと思います。でも、基本的には稲田くんの編集者としてのキャリアについて訊かせてもらうことになると思います。そこからオルタナティブな歴史観が立ちあがるような対話になれば、と。

稲田:わかりました。ただ、実は僕、株式会社ロッキング・オンの前はシンコーミュージック・エンタテイメントにいたんですよ。あそこは独立系ではなくて、音楽出版の老舗ですよね。

田中:シンコーミュージックには何年いたんですか?

稲田:とはいえ、1年間だけです。最初は販売営業だったんですよ。でも、雑誌を作りたいっていう希望があったから、中途でロッキング・オンを受験したんです。でも、ちょうどそのタイミングでシンコーミュージックの社内では、「よし、お前も営業を頑張ったから、そろそろ編集に行かせてやる」ってなって(笑)。

田中:ハハハハッ!

稲田:ダブル・バインドでした(笑)。でも、ロッキング・オンに受かる保証もないんで、「ありがとうございます!」って言って『B-PASS』の編集部に入ったんです。『B-PASS』は後に社長になった緒方庶史さんが編集長で、当時わりとブイブイいわせていて。当時のシンコーミュージックでは花形部署でした。

田中:『B-PASS』は売れていたよね。

稲田:で、その頃、緒方さんが『音楽と人』を作るために、ロッキング・オンから市川哲史さんを引き抜いたんですよ。

田中:ああ、ちょうどそのタイミングだったんだ。

稲田:なので、ほぼ同時に、市川さんがシンコーミュージックに移籍して、僕がシンコーミュージックからロッキング・オンに入ったんです。「大型 トレード (笑)」ってネタにされましたね。

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Photo: 宮本徹

田中:(笑)稲田くんの同期は誰だっけ?

稲田:大橋敏彦くんです。

田中:ああ! 一番の変わり種だった。

稲田:そう、モルガン・スタンレーからロッキング・オンに転職したっていう、すごい変わり者がいて。彼が同期ですね。彼は『Cut』編集部に入ったんですけど何年目かで辞めて、その後、公認会計士として社会復帰しました。

田中:稲田くんはシンコーミュージックには新卒で入ったの?

稲田:そうですね。

田中:シンコーミュージックを受験したのは、やっぱり編集者になりたいと思っていたから?

稲田:そうです。雑誌を作りたいっていうのが漠然とあったんですよね。だから、出版社はいくつか受けていました。シンコーミュージックは音楽系だから、レコード会社をいくつも受けていてシンコーも受けるっていうタイプと、僕みたいに出版社を受けていてシンコーを受けるタイプの2通りいて。音楽好きがすごく多い印象でしたね。

田中:そもそも雑誌編集者という志向というのは、どういった形で養われてきたんですか?

稲田:僕は大阪の富田林出身なんです。南海電車に乗って難波まで30分くらいの街です。だから、大阪といってもわりと田舎のほうの大阪で、情報を得るとしたら雑誌だし、雑誌をもとにレコードや映画に触れてたんです。カルチャーに触れる窓口が雑誌だったから、それがすりこまれていたっていうのはあるかもしれないですね。

田中:その当時、今の自分に繋がる志向性やアングルを定義した雑誌を挙げることは出来ますか?

稲田:ひとつ挙げるとしたら『リュミエール』です。

田中:なるほど。蓮實重彦さんが責任編集を務められていた『リュミエール』?

稲田:高校生くらいのときに出始めて、何か引っかかったんですよね。近くの本屋だと置いてないから取り寄せて。書いてあることも難しいし、見たことない映画のことが書いてあるし、だけどそこに広がっている世界に妙に惹かれたんです。蓮實さんが自分で書きながら全権を握って雑誌を作っているのがかっこいいなっていうイメージだったのと、知らないものにドンドン触れていくきっかけのひとつだったかもしれないですね。

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photo: FUZE編集部

田中:高校生で『リュミエール』っていうのは、かなりアカデミックよりの興味ですよね。

稲田:自分の環境とあまりに違うから憧れたのかもしれないですね。たまに古本屋で『リュミエール』を見つけてパラパラ見ると、「ああ、結構影響を受けてるな」と思うんですよ。特集があって、コラム集があって、もう一回仕切り直しで後半があって、っていう雑誌のフォーマットは今の自分にも擦り込まれている気がします。隅々まで読んでいたので。

田中:当時は、もう少しカジュアルなカルチャー誌やファッション誌には興味がなかった?

稲田:買って読むというほどではなかったと思います。本屋で立ち読みはよくしていましたけど。

田中:音楽雑誌に関しては?

稲田:音楽誌でいうと、『CROSSBEAT』を読んでたんですよ。ちょうどオルタナの時期ですけど、当時の『CROSSBEAT』はアメリカよりだったんで。『rockin’on』はソニック・ユースとか、あまり取りあげなかったじゃないですか。取りあげても、わりと温度が低かった。

田中:俺、わりと頑張ったつもりなんだけどな、ソニック・ユース。

稲田:だから僕は『CROSSBEAT』だなって。もちろん『rockin’on』には『rockin’on』のテリトリーがあったんですけど。『CROSSBEAT』を結構読みつつ、ちょいちょい『rockin’on』を読む、『ミュージック・マガジン』も読んでたかもしれない、っていう感じでしたね。

田中:稲田くんは69年生まれ?

稲田:69年です。

田中:そうか、俺と6つ違うんだもんね。じゃあ、雑誌の原体験もかなり違うね(笑)。

稲田:そうでしょうね。

田中:俺は雑誌の原体験は『メンズ・クラブ』で。で、中学二年生のときに『ポパイ』が創刊されて、まだ子どもだったから「これはマンガの雑誌なのかな?」って最初は思ってたんだけど。でも、開けてみたらアメリカ西海岸のカルチャーを紹介するもので。

稲田:うん。

田中:中学二年生だから、サーフィンなんてやってないわけですよ。でも、7つ上の従兄は大学生だったので、『ポパイ』が紹介しているカルチャーをそのまま受け入れるっていうライフスタイルだった。そこを斜に見ながら、ポップ・アイっていうコラムではいろんなカルチャー、アメコミや文学が紹介されていて、そこが入り口だったんです。だから、俺のほうがもう少しカジュアルでしたね。

稲田:なるほど。でも思い出してみると、僕は『ポパイ』はそんな読んでなかったけど、『i-D JAPAN』が出てきた頃で。たぶん大学生のときかな?「こんな雑誌の世界があるんだ」っていう驚きがありました。新潮社の『03 Tokyo calling(以下、03)』もすごく焼きつきましたね。かっこいいなって。

田中:いろいろ叩かれたりもしたけどね、『03』は。

稲田:そうですね。でも、僕は「『03』行きたいです」っていって新潮社を受けてるんですよ。当時は『03』の廃刊が決まっていたらしくて、『03』希望したやつは全部落としたっていう話は後から聞きましたけど(笑)。

ロッキング・オンが「会社ごっこ」の脱却を始めた90年代初頭

田中:俺は91年に株式会社ロッキング・オンに入社して、稲田くんは93年ですよね?

稲田:そうです。たしか、宗さんの代は結構たくさん入ったんですよね?

田中:俺以外は全員新卒で、7、8人くらい入った。実は俺、一回落とされてるんですよ。でも、当時の幹部会で「いや、これだと社会人経験者がいないからマズい」という話になったらしく、いきなり渋谷さんから直電がかかってきて。「いまさら何電話してきてるんだろう?」と思ってたら、「実は入社していただきたく」って言われて、「はっ? マジっすか!?」っていう(笑)。

稲田:(笑)。

田中:当時、社内でよくいわれていたのは、ロッキング・オンは「会社ごっこ」だということ。今の株式会社ロッキング・オンとは比べ物にならないくらい、同人誌がそのまま大きくなった感じだったんですよ。だから、きちんとした会社組織を作るとっかかりとしても、新卒をたくさん取ったんだと思うんです。

稲田:なるほど。

田中:だから、渋谷さんが今に繋がる組織を作っていくことを真剣に考え始めた一年目が、俺の代。

稲田:その翌年が宮嵜(広司)さん一人、その次の年に僕と大橋くんが入ったんですよね。小田島久恵さんもどこかで入ってたかもしれませんけど。

田中:新卒プラス、広告代理店で5年のキャリアがあった俺、印刷会社で数年のキャリアがあった宮嵜、一年だけど出版社のキャリアがあった稲田くん、モルガン・スタンレーにいた大橋、っていう採用の仕方だった。

稲田:ああ、なるほど。ロッキング・オンの中で欠けている人材を一人ひとり採っていったんですね。

田中:ある種の外部性や社会性を企業の中に投入していこうっていうタイミングだったんだと思う。で、間違って、俺みたいな変人も取っちゃったっていう。

稲田:宗さんは最初どこに配属されたんですか?

田中:市川さんが部長だった広告部。当時、中本浩二さんが経理担当だったんだけど、経理といっても、領収書を渡したらその金額をジャリ銭で渡す、みたいな感じで。

稲田:そうそう。

田中:入社当初は「本当にこれは会社ごっこだな、こんなに楽な仕事はないな」と思ったんですよ。だって、広告営業部だから、いろんなレーベルに請求書を出すわけじゃないですか。中本さんに質問に行ったんですよ。「うちの請求書は、それぞれのレーベルの支払いサイトに合わせるんですか? それとも、うちの支払いサイトに合わせてもらうんですか?」って。そしたら、「支払いサイトって何?」ときかれて。

稲田:おおー、すごい(笑)。

田中:「いやいや、請求したものがいつ入金されるか、確認が必要じゃないですか」と説明したんです。そしたら、「田中くん、ダメだよ」って言われて。「普通は請求書を出されたら、お金は払うものだよ」って。

稲田:ハハハッ。

田中:いやいやいや!って話だったんだけど(笑)。そしたら、入社して2年目だったのかな? 渋谷さんに呼ばれて、「広告費の不良債権が何千万円もあるから、お前が全部回収してこい」って。普段の仕事以外にも不良債権を回収する仕事やる羽目になったり。

稲田:うわー、大変だ。ドブさらいですね。

田中:そう。楽しかったけど。で、メジャー・レーベルに行くと、期がまたいでいるどころか、5年前の請求とかがあったりするわけ。もう担当者が残っていませんっていうセクションにいって、課長部長クラスの人に「ふざけるな!」って怒鳴られて。

稲田:(笑)。

田中:どうにもならなくなると、渋谷さんの名前をちらつかせたりして。あと、あの頃のロッキング・オンはブートレグのレコード屋さんからも広告をもらっていたんですよね。

稲田:ああ、ありましたね。

田中:そこだけでも多額の不良債権があったの。そこに対しては完璧にヤクザの取り立てでしたね。「ここはヤクザでやろう、そうじゃないと絶対に回収なんて無理だ」って。

稲田:なるほど。

田中:電話しても、「オーナーがいない」って居留守を使われるんですよ。だからもう、アポなしで直撃して、机の上に足をドンッて乗せて「払え!」って怒鳴る。そんなことまでやった。その隣で、当時一年生だった宮嵜がかしこまって、「はい!」と相槌を打つみたいな(笑)。

稲田:舎弟役ですね(笑)。

田中:最初の2年間、ずっとそういうことをやってたんです。でも、それで俺は幹部にしてもらえたっぽい。

稲田:いきなり何千万も回収したらそうですよね。

田中:でも、最初の2年間はひたすら音楽業界の仕組みを学んでた感じです。当時のスタッフは本作りに興味はあっても、音楽ビジネスがどんな風になっているか?についてはホント興味がなさそうだったから。

廃刊寸前の『ROCKIN’ON JAPAN』が打った、起死回生の賭け

田中:初は『ROCKIN’ON JAPAN(以下、JAPAN)』に配属ですよね?

稲田:そうですね。まだ『JAPAN』が大きいサイズのときで。

田中:一番大変だった時期だよね。

稲田:そうです。最初の編集会議で、「何の議題ですか?」って山崎洋一郎さんにきいたら、「『JAPAN』廃刊」って言われて(笑)。

田中:ハハハッ!

稲田:「マジすか? 入ったばかりじゃないですか」って(笑)。その編集会議では、『JAPAN』はもう廃刊にするか、賭けに出るか、どっちかだなと。根本的な話をずっとしていましたね。当時は『PATi PATi』とか『B-PASS』がイケイケだったので、「何でこういうものをやらないのか?」っていう話とか。「『JAPAN』にはどんな意味があるんだ?」とか。当時の『JAPAN』はブルーハーツ、忌野清志郎、麗蘭とか、そういうのをやっていたわけですよ。

田中:まず売上でいうと、当時は『PATi PATi』が一番売れてて、その次が『B-PASS』。ビクターがやってた『R&R NEWSMAKER』もあった時代?

稲田:そうですね。そういった雑誌が何十万部っていう時期があって。

田中:で、『JAPAN』があの時、3~5万部もなかったくらい?

稲田:たぶんそうですよね。

田中:『JAPAN』の創刊コンセプトについて説明すると、あれは渋谷陽一さんのアイデアから始まったものです。坂本龍一、佐野元春、忌野清志郎、あの世代がシリアスな形で自分自身や自分の音楽を語れるメディアがないんだと。その受け皿を作るんだ、っていう発想だったわけですよ。おそらくロール・モデルはアメリカの『ローリング・ストーン』。

稲田:ええ。

田中:ただ、これは渋谷さんも言っていたはずなんですけど、創刊からしばらく経って、自分自身の音楽について語ることでバリューのある後続のアーティストたちが生まれてこなかった。じゃあ、最初の世代のアーティストたちをずっとサポートしていくのか? ということになるわけですよ。

稲田:そうでしたね。

田中:そこに、自ら「外様」と称していた市川さんが入ってきて、それまで扱ってこなかったV系をやるんだとか、当時まだ誰も判断できなかったブランキー・ジェット・シティをやるんだとか、それまでのアイデンティティを揺るがすようなことをやり始めた。そういった諸々の変化の中で歪みが生まれて、それが噴出したのが93年だったんだと思います。

稲田:そういうのはなんとなく感じていましたね。だからこそ、市川さんはシンコーミュージックで『音楽と人』を立ちあげることになったんでしょうし。市川さんのカラーのアーティストは、そちらで扱われるようになりましたよね。

田中:市川さんはよく「日本人のアーティストは話さえ面白けりゃいいんだよ」みたいなことも仰ってたから、いろいろと納得でした。

稲田:で、結局『JAPAN』は廃刊ではなく、賭けに出ることになって――。

田中:サイズを変えた。

稲田:そう。「これで駄目なら辞めればいいじゃん、どうせやるなら捨て身でやってみよう」ということで小さくなったんですよね。

田中:1994年のことですね。

稲田:判型を小さくする前の最後のほうで、小山田圭吾、小沢健二っていうのがあったんですよね。ソロ・デビューした彼らが続けざまに表紙になったんですけど、あれが売れて。

田中:そこに何かしらの糸口が見えた?

稲田:希望が見えましたね。これが未来の動きだし、そこに読者がいるし、リスナーがいるというのが見えたんです。で、判型を小さくすることになったんですけど、小さくした最初の号の表紙がコーネリアス。

田中:ああ、そうだったね。

稲田:その頃、小山田、小沢を太鼓を叩くようにドンドンとプッシュしていたのが勢いになって、移行期の『JAPAN』が盛りあがった。そうした流れもあって、渋谷系と総称されるオリジナル・ラヴ、ラヴ・タンバリンズといったアーティストたちが新生『JAPAN』とシンクロしていったんです。

田中:うん。

稲田:ただ全体的な方針として、判型を小さくすることで印刷代を下げ、人件費も減らして、ロー・コストにするということだったので、僕と井村純平さんは判型が小さくなる全面リニューアルのタイミングで編集部から外れたんですよ。だから、そういった『JAPAN』の動きは社内にいながら外側から見ていた感じでしたね。

田中:なるほど。じゃあ、『JAPAN』編集部にいたのは一年くらい?

稲田:ひょっとしたら半年くらいかもしれないです。短かったんですよね。でも、濃い半年ですよ。今でも記憶に焼き付いてますから。

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Photo: 宮本徹

インターネット前夜、「個人」の時代を先駆けていた『BRIDGE』と『H』

田中:『JAPAN』の次に配属されたのはどこだったんですか?

稲田:渋谷社長の新雑誌準備室です。そこでは、社長が新しい雑誌を2つ作るのと、作りたい単行本を作るということで。社長、斎藤まことさん、井村さん、僕、あとは契約社員の人、っていう部署ができたんです。

田中:その新雑誌準備室から生まれたのが『BRIDGE』『H』ですよね?

稲田:そうです。創刊が早かったのは『BRIDGE』でした(創刊:1994年2月号)。『BRIDGE』が作られた必然は、ひとつにはさっき宗さんが話してくれた『JAPAN』の話と似ていて。社長案件の人たち、浜田省吾、佐野元春、米米CLUBといった、新しくなった『JAPAN』にはそぐわないけど、しっかりと読者がいるアーティストの受け皿となる雑誌が必要だということでした。

田中:もうひとつは?

稲田:個人誌というアイデアですね。これからは個人誌の時代だ、個人情報の時代だ、っていう2つのベクトルがあったんです。『BRIDGE』は個人誌だということで、最初は仮で『月刊 渋谷陽一』と謳っていたんですけど、『季刊 渋谷陽一 BRIDGE』という正式名になりました。

田中:インタビューをすべて渋谷さんがやるのはもちろん、写真も渋谷さんが撮るというスタイルですよね。

稲田:そういう過激な雑誌が始まったんです。創刊号はカールスモーキー石井と清志郎さんの対談。そこはお金を掛けて撮影して、半沢克夫さんが撮ったのかな? 渋谷のビックカメラに買いにいったのを憶えてます。

田中:当時、渋谷さんが写真を撮っている様子も見ていました?

稲田:というか、「稲田、カメラ買ってこい」って社長に言われて。社長が平間至さんに勧められたから、コンタックスのT2にしたのかな? 渋谷のビックカメラに買いにいったのを憶えてます。「社長、買ってきました」って渡したら、「よし、これか」って箱から出して、「うん、撮れそうだな。行くぞ」って(笑)。試し撮りもせず、いきなりですよ。

田中:目に浮かぶわ(笑)。

稲田:でも、ちゃんと撮れてて。やっぱり渋谷さんとアーティストの関係性があるから、いい雰囲気で写真を撮ることが出来たんだなと。

田中:初めて会ったカメラマンとの緊張した距離感で撮るよりは、カメラマンに技術がなくても、関係性ができあがっているほうがいい空気感の写真が撮れる、そういう発想だった。

稲田:90年代の写真ブームやHIROMIXを先駆けていたんですかね?(笑)

田中:多分、発想としては初期『rockin’on』の原稿と同じで、擦れたプロフェッショナルの技術よりも、アマチュアの意欲や行動に対する必然性のほうがクリエイティブに繋がるってことだったのかも。でも、もちろんそういう気運に対する嗅覚も渋谷さんにはあったんだと思う。

稲田:そうですよね。で、これからは個人誌の時代だということで創刊されたのが『BRIDGE』。そして、これからは個人情報の時代だということで創刊されたのが『H』でした(創刊:1994年5月号)。こちらは、今年廃刊になったVillage Voice(ヴィレッジ・ヴォイス)がロールモデル。インターネット前夜だったこともあって、パートナー募集とかを誌面に載せていたんです。

田中:そうそう。

稲田:『H』に関しては、後半に個人情報が載っているけど、それ以外のモチーフは何を扱ってもよかった。だから、どういった特集で、何をどう扱うのか?というのを一から考えていましたね。で、「エッチだけどかっこいい、っていう雑誌ないよね?」というアイデアが出てきて。もしかしたら、大類信(『rockin’on』のデザイナー)さんの影響もあったのかもしれないですね。

田中:『H』の最初のデザイナーは大類さんだったんだっけ?

稲田:いや、中島英樹さんです。でも、近くに大類さんがいたことは大きかったんじゃないかな。あの人は本物のアンダーグラウンドの人ですから。

田中:大類さんはボンデージっていうカルチャーを、雑誌や実際の場所を作ってきちんと紹介した最初の人ですよね。

稲田:そう、クラブみたいなものもやっていましたよね。そんな特殊な方が、なぜか『rockin’on』のデザインをずっとやっていた。それが、あの会社のカルト性の源泉のひとつだったような気がするんですよ。いろんな個性的なライターがいたにしろ、ビジュアル面ではそうだった。

田中:間違いなくそうですね。

稲田:『H』は創刊号の特集がラス・メイヤー。で、二号目がロリータ、三号目がSM。大類さんはラス・メイヤーの大家ですから、大類さんからいっぱい吸収して作ったのが創刊号だったと思います。

田中:黎明期のロッキング・オン的なるものを定義した重要人物として、大類さんは絶対に欠かせない方だと思います。

稲田:ただ、その最初の三号がそんなに売れなかったんですよ。それで方向を変えなきゃ、ということになって。渋谷系に勢いがあった頃でしたから、リニューアル号のタイトルはオザケンにあやかって「LOVELY!」。表紙はスチャダラパーのBOSEさんと当時トップ・アイドルだった渡辺満里奈の2ショットで、ホンマタカシさんに撮ってもらいました。まさにホンマ・ワールド全開で、いろんなオモチャを置いたようなビジュアルで作ったんですよ。

田中:ああ、諸々の理由で公にならなかった、その辺りの秘蔵写真をホンマくんに見せてもらったことがあったあった。

稲田:その後、そういうイメージは氾濫したと思うんですけど、当時は「あっ、これは新しいな」と感じたのを覚えていますね。

田中:あの時代、カルチャー雑誌全体におけるホンマくんの存在は本当に大きかったよね。もちろん、今も変わらず偉大な仕事を続けてる人だけど。

稲田:大きいですね。思い出しましたけど、その号の巻頭コラムでHIROMIXを取材したんですよ。本当にHIROMIXが出始めで、『SCHOOL DAYS』っていう小さなzineを作っていた頃です。取材第一号くらいだったのかな? もうセーラー服は着ていなかったと思いますけど、「わぁ~、嬉しいですぅ!」みたいな、そんなノリで(笑)。

田中:ヒロミちゃんが発見されるに至るまでには何人かキーマンがいるでしょ。当時、資生堂の『花椿』にいた林央子、YMOの散開をプロデュースした後藤繁雄さん、そしてホンマタカシくん。

稲田:ええ。

田中:俺、ヒロミちゃんが出てきた頃にはロッキング・オンをもう退社してたから、ホンマくんとか、彼の周りの編集者がガーッと連絡をくれたんですよね。「『SWITCH』でページ取るから、何かやろうよ」って。だから、彼らがどうやってHIROMIXをエスタブリッシュしていくのかを、脇からずっと見ていたんです。

稲田:ああー、なるほど。凄かったですよね、あの時期。

田中:当時の『STUDIO VOICE』の編集者が、とにかくHIROMIXに入れあげていた。

稲田:特集号まで作っちゃいましたよね。

田中:その裏でのいろんな政治を見ながら、「いやー大変だなー、一つ才能が発見されると」っていうのを気楽な立場で眺めてました(笑)。

稲田:この間まで東京都現代美術館で写真展をやっていましたけど、長島有里枝さんも初期に『H』で連載していたんですよ。HIROMIXの前に長島有里枝がいて。

田中:HIROMIXより彼女のほうが先だったね。

稲田:長島有里枝さんが出てきて、HIROMIXが出てきて、ホンマさんもブレイクして、当時の写真ブームの流れが出来た感じですよね。それと同時くらいに高橋恭司さん、平間さん、藤代冥砂さんがいて。少し遅れて、佐内正史さん、笠井爾示さん、そして蜷川実花さんとドンドン出てきた。

田中:大森克己くんとか。俺はホンマくんや大森くんには本当にいろいろと助けてもらったし、刺激をもらいました。広告代理店時代に業界面した港区系のフォトグラファーといろいろと仕事をしたせいで、完全にフォトグラファー・アレルギーだったのが、彼らの存在でそれがすべて払拭されたのを覚えてます。

稲田:『JAPAN』は小さくなってページ数が増えたんで、バンバン写真が使えるようになったんですよ。それで新しいカメラマンが押し寄せて、面白い人をドンドン使うっていう流れがあったんです。一時期、『JAPAN』は写真誌みたいになっていましたね。

田中:その流れを牽引したのは当時の編集長の山崎洋一郎? それともデザイナーの中島さん?

稲田:わからないですけど、僕の印象では山崎さんが大きかった気がします。僕が入った頃には中島さんがもうハウス・デザイナーでしたけど、『JAPAN』のデザイン担当は山本知香子さんだったんじゃないかな? 各雑誌をいろんなデザイナーに振ってて、それを中島さんが見るという感じでしたから。山本さんも若いし、若いカメラマンをドンドン使おうとしていたと思うんで、それと山崎さんの志向が合っていたんじゃないですかね。

2人が渋谷陽一から受け継いだものは何か?

稲田:新雑誌準備室には3年くらいいたんですけど、それからまた人事異動があって、『Cut』(創刊:1990年1月号)編集部に移籍しました。

田中:稲田くんが93年に入社した時点では、『Cut』編集部は全員社内の人間でした?

稲田:そうです。でも、『Cut』立ちあげのときは、高田秀之さん、菅付雅信さん、『DUNE』の林文浩さん。この人たちが傭兵部隊みたいな感じで『Cut』に呼ばれたんですよね。それでうまくいったので、社員を入れることになった。その段階で入ったのが佐藤健さんだと思います。この辺りは全部伝聞ですけど。

田中:『Cut』の創刊当時に渋谷さんがいっていたのは、「港区的なカルチャー誌ではないもの」ということだったと思うんだけど、ただ実際にそれを作るのは当時の社員には到底無理だった。だからこそ、文浩が呼ばれたし、菅付くん、高田さんが呼ばれたんだと思うんです。渋谷さんはそこでノウハウを吸収したんですよ。

稲田:そうですよね、きっと。

田中:株式会社ロッキング・オンは北海道のWESSと二人三脚で〈ライジング・サン〉を立ち上げて、スマッシュに協力してもらう形で1年目の〈ロック・イン・ジャパン〉を開催してる。そんな風にノウハウが溜まったら、今度は自分たち独力でやるっていうことをしたじゃないですか。その発想と相似形なんですよね。

稲田:同じことが繰り返されているわけですね(笑)。だからこそ経営者として非常に優れていると今は思いますけど。

田中:まあね(笑)。ただ、雑誌においても、興業においても、システムをどうやって中長期で組み立てていくか?っていう渋谷さんの発想に関しては、俺は明らかに影響を受けてるんです。影響なんていうとくちはばったいけど(笑)。要するに、DIYの独立採算に徹底してこだわって、なおかつ、アマチュアの発想をどんな風に活かし、硬直化したプロが作りあげたスタイルを凌駕していくのか、という発想が彼にはある。

稲田:なるほど。 ロッキング・オンというか渋谷さんの根本にある発想ってそこですよね。

田中:渋谷さんは覚えてないと思うけど、『BRIDGE』創刊号の色刷りがあがってきたときに、「タナソウ、これ見てみろ、バッチリだろ?」って見せられたんですよ。で、「いいと思いますけど、『月刊 渋谷陽一』って続かないですよね? 2年くらいで廃刊ですか?」って言ったら、「どういうことだ、お前! 説明しろ!」って言われて。

稲田:宗さん、凄いこといいますね(笑)。

田中:「発想としてはわかります。渋谷さんと同世代の受け皿になる媒体を作る。しかも、距離の近い渋谷さん自身がやる、だからこそできるものがある。でも、どちらも10年経ったら歳を取るわけじゃないですか。リスナーも歳を取る。続かないですよね?」って言ったら、「お前、ちょっとよく聞け」って言われて(笑)。

稲田:(笑)。

田中:「でもな、これは必要なんだ」って言われて。たとえば、渋谷さんがNHKからもらっているラジオの仕事はいつ切れてもおかしくない。で、渋谷さんは、当時からツェッペリンのレーベルの名前をパクってきたスワン・ソングっていうラジオやTVの制作会社をやってたでしょ? 「でも本音をいえば、スワン・ソングなんていつ潰れてもいいんだ。結局は、受注仕事をやる会社なんだから」みたいなことを仰るわけ。「俺たちはDIYのメディアを作らなくちゃいけないんだ。何の資本の影響も受けない、独立したメディアをやることが何よりも大事なんだ」と。

稲田:なるほど。

田中:だから、〈ロック・イン・ジャパン〉みたいな興業も同じなんだよね。彼にとっては〈ロック・イン・ジャパン〉もメディアなんですよ。しかも、独立系の。俺が雑誌『SNOOZER』を始める前にクラブ・スヌーザーっていうイべントを先に始めたのも同じ発想だった。ほら、渋谷さんが『rockin’ on』を創刊するまでに、音楽業界から干された時期があるでしょ。たぶんその体験が影響していると思うんだけど。とにかく組織を作ること、それがメディアであること、それが独立したものであること、それが重要なんだってことなんだと思うの。『BRIDGE』もその発想で作られている。

稲田:うん。

田中:なおかつ、『BRIDGE』を作ることで、自分たちがやっている制作会社であるスワン・ソングの仕事も生まれる。『BRIDGE』によって坂本龍一とかとのパイプが確実に太くなって、NHKや民放のラジオの仕事にも繋がるんだと。そういう風に説明されて、「凄くよくわかりました!」っていう。

稲田:ハハハッ。

田中:あん時の渋谷さんの話は自分にとっても目から鱗でした。なによりも独立したメディアを持つのが大事だという発想と、それを成立させるために何が必要かを俯瞰的かつ構造的かつ段階的に見ること。「あっ、そういうことか」と思って、それ以降、自分が組織と関わったり、組織を作る時の指針は、そこがベースになっているんです。

稲田:なるほどなあ。

田中:稲田くんは渋谷陽一という人から受けた刺激があるとすれば、どういったものを挙げることができますか?

稲田:やっぱり今宗さんが話したようなメディアに対する考え方はベースになってる気がしますし、社長自身が何でもできるマルチプレイヤーでしたからね。大手出版社みたいな分業制じゃなくて、編集もライターも広告営業も同時にこなしながら全体を統括していくスタイルは、完全にロッキング・オンで学びました。当時、月一くらいで全社員を集めて朝から全体会議をやっていましたよね。ひょっとしたら今もやってるかもしれないですけど、社長が毎回テーマを決めていろんなことを話してた時期があって。

田中:あったっけ? よく覚えてないや。

稲田:でも、それは社長なりに自分が考えていることや、今向かっている方向、もしかしたら雑誌作りのイズムみたいなものも含めて、全員で共有させようという意図だったと思うんです。人も増えてきたところでしたし。それぞれに思うところはあったと思うんですけど、僕はピュアだったから(笑)、面白がって吸収していた記憶がありますね。

田中:具体的にどういう話を彼がしていたか、覚えていますか?

稲田:株式会社ロッキング・オンってライター集団じゃないですか。当時は特にひしめき合っていたと思うんですよね。

田中:そうだね。それぞれのアイデンティティが編集者とか、会社の経営に関わる社員というよりも、俺は物書きなんだ!という人が本当に多かった時代ですよね。

稲田:そうそう。すごく変わった会社だったと思います。原稿さえ書けたらいいだろう、みたいなところがあって。

田中:社員のヒエラルキーが決まるパラメータが2つあって、ひとつは社内で評価される原稿を書くこと、もうひとつは読者から支持をえられる原稿が書けること。それ以外のことは全然評価されない、という土壌があった。

稲田:でも、たぶん社長はそれに対して、そうじゃないんだっていうことを一生懸命説いていたのかな、っていう気がしますね。『Cut』や『JAPAN』のように、今までの日本にはなかったクオリティの高い雑誌を作れるのがロッキング・オンの価値であると。もちろん社長は書き手としても凄いんですけど、「もしかしたら、自分よりいい原稿、ウケる原稿を書ける人間はいるかもしれない。でも、ちゃんとクオリティの高い雑誌を一から作れる人間はこのなかに一人もいない」ということを言っていたと記憶しています。

田中:なるほど。苦労してたんですね、社長も。とかいったら、怒られるな。

稲田: で、自分の話をすると、僕は全然原稿に自信がなかったから、ロッキング・オン的なヒエラルキーのパラメータに当てはめると、落ちこぼれっていう自覚があったんですよ。『JAPAN』に入って早々、本文原稿、これは長い書き原稿に対する、あの会社の独特の言い回しですけど。

田中:うん、インタビューとか、アーティストの発言を引用することなく書く、いわゆる論考ね。

稲田:「本文を書きなさい」っていわれても、あんまり出てこないな、っていう自覚がありましたから。出てこないのが普通の人だと思うんですけど、ロッキング・オンという会社では、「出てこないなんてありえない、お前は人じゃない!」くらいの感じだったんですよ(笑)。

田中:いや、当時は完全にそうだったよね。俺も入社当日に「これは困ったな。面倒臭いな」と思った記憶があります。

稲田:自分はライターとしてはほかの人たちに全然勝てない。会社内では落ちこぼれの自覚があった。でも、雑誌を一から立ちあげる経験を積ませてもらえた。渋谷さんは「お前たちには雑誌を作れない」と言っていたけど、それこそが自分の目指すべき方向なのかなっていうのは、その時に自分の中に芽生えたものでしたね。

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Photo: 宮本徹

株式会社ロッキング・オンの「構造改革」

田中:いい原稿、ウケる原稿が書けるのが偉いという社内ヒエラルキーに関しては、俺が入った91年はもっとひどかったんですよ。たとえば、広告部が広告収益を前月比を大幅に上回った結果を出したとしても、まったく評価されない。それを唯一評価してくれるのが渋谷さんだった。だから、同じ飯を食ったのは1年だけだったけど、広告部の部長だった市川さんが自分のことを「外様」と言い続けたのもそういうところもあったんだろうなって。

稲田:なるほどね。

田中:何をやろうが、社内で評価される原稿、読者にウケる原稿を書かないと、この組織では上にあがっていけないっていう空気が凄かった。

稲田:そうですよね。

田中:当時の俺は、そういうのは勘弁だと思っていて。だから、原稿以外のところで社員としていかに立ち回るかを、最初の2年はひたすら考えたんです。俺は2年間、広告部をやっていたけど、稲田くんが入社したときは広告部って存在しなかったでしょ?

稲田:なくなった直後だったんじゃないですかね。

田中:うん、それには理由があって。たとえば、当時の『JAPAN』編集部にレーベルからプロモーターが来るじゃないですか。大体、佐藤さんが泣かせて帰すんですよ。で、その泣いて帰った人を訪ねて、俺が広告の相談をしにレーベルまで行くと、「ふざけるな!」って言われるという。

稲田:ハハハッ。

田中:でも、まあ、そうだよね。でも、こんなことをやっていても仕方ないと思って、自分が広告部の部長になった2年目は『JAPAN』の広告営業を一切しなかった。申し訳ないけど、結果なんて出ないから。編集部から「このアーティスト、広告対応だから、広告部の誰か取材してよ」とかいわれるのもありえないと思ってたし。アーティストに対してもひどいじゃん。で、洋楽を集中的にやったんですよ。

稲田:なるほど。

田中:で、きちんと結果を出した。不良債権もそこそこ回収したし、一気に広告収入をあげたことで渋谷さんから社長室に呼び出されて。「お前は今年の一年、本当によくやった。一つだけ何でもいうこと聞いてやるから、好きなこと言え」って言われたんです。

稲田:何て言ったんですか?

田中:それで出したアイデアが、広告部の廃止。今の社内でのヒエラルキーは、編集部にとっても広告部にとっても、とにかく精神衛生上よろしくない。むしろ効率を悪くしているだけだと。

稲田:うん。

田中:その代わりに、編集部の人間が広告営業もしたほうが効率があがりますよと。実際、俺がその一年間やったのは、『rockin’on』の編集長だった増井さんと密に連携を取ることだったんです。増井さんって誰よりも個性的な人だったでしょ? 俺はホントに世話になったから言いにくいんだけど、レーベルにも増井さんが苦手な人がすっごくたくさんいた。だから、そういう人に対しては増井さんには徹底的にグッド・コップをやってもらって、俺はバッド・コップに徹した。その逆もしかり。それを集中的にやったの。

稲田:なるほど。

田中:すると、レーベルからも「最近の『rockin’on』は仕事がしやすくなった」って話にもなって。だから、「それと同じことを『JAPAN』編集部内部でもやらせりゃいいんですよ、そうじゃないと組織全体が腐っていきますよ」っていう話をしたら、「なるほど、わかった!」っていう話になって、その春から広告部がなくなったんですよ。

稲田:ああ、そういうことだったんですね。

田中:でも、その後、何年かしてそれがシステマティックになりすぎて、バーターみたいなことになってっちゃったのは残念なんだけど。でも、最初のアイデアは、2年間、渋谷さんの経営的なアイデアや編集的なアイデアを構造的に分析した結果なんですよ。渋谷さんだったらこう考えるだろう、という動き方を全部した。だから、広告部の廃止を提案したときも話がすごく早かったんです。

稲田:なるほどなあ。そういえば、宗さんが会社を辞めるときに、ふたりで飲んだの覚えてます?

田中:ああ、飲んだ! 何をしゃべったっけ?

稲田:ライブ帰りだったと思うんですけど、新宿のお店で飲んだんですよね。宗さんが言ったことでなんとなく覚えているのは、「俺はライターとしての意識が強いと思われてるけど、実は逆で編集者としての意識のほうが強いんだ。でも、それよりも強いのは権力者の意識なんだ」って(笑)。

田中:(笑)何それ、権力志向ってこと?

稲田:一番が権力、二番目が編集者、三番目がライター、って。「ああ、そうなんだ。権力欲しいんだ、この人……」って(笑)。

田中:いやいや、それはたぶん、自分の人生においてという意味ではなくて(笑)。社内でのモチべーションがそこだったという話ですよ。

稲田:そうかもしれないですね。

田中:とにかく当時の「文章が書ける人が偉い」っていう価値観が本当に嫌だったから。それまでの文芸批評や映画批評の文脈でよいとされている文章がまったく受け入れられない体質だったでしょ?

稲田:そうですね。

田中:最初の頃に書いた原稿は、誰に見せても、「お前の原稿は広告代理店の企画書みたいに、ただ理路整然としていてパッションがない」といわれて、「えっ、パッション?!」って(笑)。

稲田:(笑)。

田中:「音楽批評にパッションが必要なんですか?」って感じだったんだけど。増井修さんとかにすごく怒られて、「原稿はパッションなんだよ! 筆圧なんだよ! 岩見吉朗を見習え!」って。こんな価値観、ついていけないと思った。でも、そこは「わかりました、印象批評をやればいいんですね。パッションがあればいいんですね」と割り切った。

稲田:なるほど。

田中:でも、それも癪だから、戦略的に立ち回ることにしたんです。それで、その時々に人気があって、自分が興味のないバンドをとにかくけなしまくるのを始めたの。

稲田:ああ、そうだったんですか。

田中:フリッパーズ・ギター需用のおかげでプライマル・スクリームが盛りあがれば、プライマル・スクリームをけなし、ガンズ&ローゼスが東京ドームで3日間をやったときにガンズが表紙になった号でガンズのことをクソミソに書いたり。それで俺宛にカミソリとか、血で書いた抗議文とかがバンバン送られてくるっていう。

稲田:(笑)。

田中:ガンズのときは、当時のレーベルの担当者に正座させられて(笑)。でも、「タナソー、お前がガンズが嫌いなのはわかった。でも、増井さんがとにかくソニック・ユースのこと毛嫌いしてるから、お前、誌面で何とかしろ」っていってもらって。で、「ソニック・ユースは『バッド・ムーン・ライジング』の頃から大好きなんで、俺が頑張ります」って、おかげで自分が好きなバンドの取材ができるようになったりして。だから、二十代の頃はそんな風に社外のレーベルの人たちと切ったり貼ったりしながら、そこで育ててもらったという実感がすごくあって、今も感謝してるんだけど。そういうことをして、どうにかやり過ごしたんですよ。

稲田:そうだったんですね。

田中:普通の社員として評価されない磁場にほとほと嫌気が差していて。俺はそれに乗りたくなかったけど、乗った。でも、稲田くんは乗りたくなかったし、乗らなかった。そこのシンパシーはあったんだと思う。「だって、俺たち、編集者じゃん! 雑誌作るのが楽しいんじゃん!」っていう。自分で書くときもあるけど、誰かに書いてもらったのが面白いとか、そういうのにエキサイトするんだよ、って。

稲田:そこはまったくそうかも。

『Cut』を通して発見した、カルチャーのクロスオーバーというアイデンティティ

田中:話を戻しましょう(笑)。稲田くんは『H』『BRIDGE』の創刊に携わった後に、『Cut』編集部に入るわけですよね?

稲田:そうですね。『Cut』があの会社にいた10年の中でも一番長くて、5年半いました。で、最後の2年間が『rockin’ on』。 その頃は洋楽需要が激減していて、入った当時の『JAPAN』とちょうどヒエラルキーが逆転してましたね。

田中:『H』『BRIDGE』での経験が、自分のアイデンティティが編集者であり、しかもカルチャー全般を対象にするっていうことを規定したとしたら、『Cut』におけるキャリアはどういう風に自分に影響を及ぼしたと思いますか?

稲田:『Cut』は当時、あの会社の中で一番外部に開かれていたと思うんですよ。ロッキング・オンという特殊な会社の中で、ずっと自分も閉じた環境にいたと思うんですけど、それが開かれていったように感じますね。電通みたいなところにネクタイを締めていくっていう普通に雑誌を作っていたらすることも、それまでしたことがなかったですから。そういうこともいろいろとやって、社会常識を学んだというのはあります(笑)。

田中:なるほど(笑)。

稲田:僕が『Cut』に入った時期は、ちょうどカルチャー誌ブームみたいな感じで盛りあがっていたんですよね。ジョニー・デップ、ブラッド・ピット、レオナルド・ディカプリオとかの洋画ブームがあって、どんどん売れていった。日本では豊川悦司、渡部篤郎、山口智子みたいな新世代の役者が出てきて、岩井俊二みたいな監督が新しく出てきたタイミングでもあったんです。その両方を『Cut』で取りあげていたんですよ。

田中:そうだったね。

稲田:入ってすぐにジョニー・デップが『デッドマン』(1995年)のプロモーションで来日して、表紙巻頭の撮影をしたんです。今でこそ彼は大スターですけど、当時はまだ気鋭のスターといった感じで。撮影は平間至さん、スタイリングは熊谷隆志くんで、20~30ページくらい写真でやりました。青山の洋館で撮影してたんですけど、そこに豊川悦司さんも来て、一緒にビリヤードをやってて。突然、閉じた世界からそんな世界に行ってしまったんで、ちょっと舞いあがる気持ちもあったんですけど(笑)。

田中:はいはい(笑)。

稲田:でも、それはどちらかと言えば、スター主義的な側面で。もう一つは、いろんなカルチャーが交配していく当時の空気感に刺激を受けて、それを誌面にも反映させていったんです。

田中:具体的には?

稲田:たとえば当時、今は亡きシネマライズで記録的な大ヒットを飛ばした『トレインスポッティング』で音楽と映画がシンクロしたり。映画と音楽と文学、そしてファッション性がクロスオーバーしたまさに『Cut』のためのような映画で、かなりページを割いて盛り上げた記憶がありますね。僕にとってはラリー・クラークの『KIDS』という映画も大きかったですね。『KIDS』は、ファイン・アート寄りのラリー・クラークという写真家が撮った作品。しかも、その内容がニューヨークでスケーターをドキュメントしたものだった。当時は95年だから、シュプリームが出てきた走りだったと思うんですけど、ストリート・カルチャーが浸透していくブレイク・ポイントみたいな感じでもあったので。そういう風にいろんなものがクロスオーバーしていくプロセスが、自分が『Cut』でやっていくモチべーションだったんです。

田中:なるほどね。

稲田:ビースティ・ボーイズもそうですよね。『イル・コミュニケーション』は94年でしたっけ?

田中:そう。ただ、日本でビースティーズだけじゃなくて、彼らのレーベル〈グランド・ロイヤル〉とか、今では映画監督をやっているマイク・ミルズのアートワークとか、その周辺のカルチャーが一気に盛りあがりを見せたのが、たぶん95年から96年にかけてじゃないかな?

稲田:そうですよね。あの辺が自分としても盛りあがりましたね。ビースティ・ボーイズが自分の中で大きな存在だったんですけど、それは彼らがカルチャーを全部ひっくるめて体現していたところがあったからで。もちろんミュージシャンであることがベースなんだけど、『グランド・ロイヤル・マガジン』という雑誌を作ったり、レーベルも運営していて、スタジオもあって、X-LARGEっていうファッション・ブランドとも関わっていて、チベタン・フリーダム・コンサートを主宰するなど社会的なコミットメントもしていた。

田中:いろんなカルチャーを飲み込んでいたんだよね。

稲田:そう。いろんなジャンルを全部取り込んでひとつの世界観を作っていて、彼ら自身が雑誌みたいなところがあったんですよ。彼ら自身がメディア化していた。だから、自分の中でヒーロー 視したところもあって。

田中:実際、あの動きはすごくエキサイティングだったと思う。

稲田:〈グランド・ロイヤル〉の取材でLAのG-SONスタジオに行ったことがあるんですよ。アポなしでマイクDを直撃取材したんですけど、なぜか上手くいって(笑)。

田中:(笑)。

稲田。で、そのときにソフィア・コッポラのホームパーティに行ったら、当時つきあってたスパイク・ジョーンズが夜中にPVを撮り終わって帰ってきたり。そこになぜか若木信吾くんがいて、林文浩さんもいて、HKプロダクションの川崎博子さんもいて、ビーズ・インターナショナル(X-LARGEのディストリビューター)の細井さんもいて。いろんなことが全部一緒になっている感じがしたというか、すごく面白い空間だったんですよね。

田中:うん。

稲田:それで、日本に帰ってきて作った特集が「オルタナティブ’96」。ラリー・クラークの『KIDS』の特集があって、例のマイクDの直撃取材とか、ソフィア・コッポラまわり、スパイク・ジョーンズまわりも載せて。来日したビョークをホンマさんに撮ってもらったりもしました。

田中:なるほど。

稲田:ビョーク、ビースティ・ボーイズ、ラリー・クラークの3つで「ALTERNATIVE ‘95」って、今考えると強引なんですけど(笑)。でも、全部同じ時期にひとつの流れとしてキテたことは間違いない。当時、その3つをまとめられる雑誌はほかになかったと思うんですよ。だからそのときに、「この雑誌、今、面白いんじゃないかな?」と感じたのを覚えていますね。

田中:じゃあ、『H』『BRIDGE』を作っていたときにカルチャーを編集していくのが自分のアイデンティティだと感じていたのと同じように、『Cut』を作っていたことで、こういったカルチャーのクロスオーバーこそが、自分が扱うモチーフの中心なんだと定義されたところはありますか?

稲田:そうだと思います。あの会社にいてしばらく自分のテリトリーが見えなかったんですけど、「あ、このクロスオーバーは自分のドメインだな」と感じた気がしますね。

カルチャー雑誌/音楽雑誌は死んだ? 雑誌天国の90年代から20年、何が変わったのか?~00年代『EYESCREAM』『SNOOZER』編 につづく

1990年代、オルタナティブの始まりと終わり