「怖い話」は、3つのパターンに分けられるのではないか。
この記事では、そんな話をしてみたいと思います。なお、ここでいう「怖い話」とは、幽霊やオカルト的なものを指します。チンピラに絡まれたとか、鬼嫁にいびられるとか、そういう系統の怖い話ではないです。
霊的なもの、何らかの非現実的な存在が関わってくる話というですね。チンピラや鬼嫁は怖いですけど、普通に実在しますからね。むしろ実在するからこそ怖い。幽霊とちがい、チンピラは手でさわれます(不用意にさわれば殴られますが)。
怖い話の三段階
さて、私は怖い話が好きでして、昔から色々と見てきました。ネットで短いものを読むのも楽しいし、ホラー映画も面白い。漫画や小説でも、ホラー系のものがあれば、ちょっと読んでみようかとなる。すると話のパターンも見えてくるわけですね。もちろん、パターンを知った上で楽しむのが娯楽ってもんですが。
ということで、便宜的に怖い話を3つのパターンに分けてみました。
パターン1:非日常的な場所で幽霊を見る
パターン2:日常に幽霊が侵入してくる
パターン3:自分自身が幽霊のようになる
ひとつずつ具体的に説明していきます。
パターン1
パターン1:非日常的な場所で幽霊を見る
定番のパターンです。いわくつきの旅館やホテル、廃校や廃病院、山奥の村などなど、普段は行かないような場所で、幽霊を見てしまい、逃げるように帰ってくる。それを報告するという形式も多いです。
肝試しなんかもこのパターンですね。友達同士で心霊スポットに行く。それで何かを見て逃げ帰ったり、あるいは、とくに何も見ずに拍子抜けして帰ってきたりするわけです。このパターンでは、普段は行かない場所で幽霊を見るんで、しっかりと「逃げ帰る」ことができます。
しかし次は、そうはいかない。
パターン2
パターン2:日常に未知のものが侵入してくる
自分の家に不気味なものが侵入してくるパターンです。
たとえばホラー映画の『呪怨』では、自分の住んでいる家に幽霊があらわれる。すこし前に小野不由美の『残穢』というホラー小説を読んだんですが、この作品も「家」がテーマでした。
個人的には、パターン1よりもパターン2のほうがずっと怖いです。自分の家に幽霊が出ちゃうと、もうどうしようもないですからね。あわてて逃げ帰ることもできない。もう帰っている。日常そのものが侵食されてしまう。
この恐怖に支配されると自宅で怯える間抜けな人間が誕生するわけです。あなたのその部屋には、本当にあなたしかいないのか? たとえば押入の中、あるいは風呂場には、本当に誰もいないのか? 部屋に一人でいるはずなのに、肩ごしに視線を感じないか?
自分で書きながら後悔しはじめましたが(しばらく後ろを向けない)、これがパターン2です。
映画版ドラえもんにおける事例
パターン2のバリエーションとして、自分の住んでいる街や、自分の家族・友人が変わってしまうものもあります。これに関して、私が覚えているのは『のび太のパラレル西遊記』です。ご存知ドラえもんの映画ですが、この映画の序盤が最高に不気味なんですよ。
あることをきっかけに、のび太たちは気づかないうちに過去の世界に化け物たちを解き放ってしまうんですね。そして現代に戻ってみると、どうも見慣れたはずの街の様子がおかしい。街の中心に見慣れない建物がある。家に帰ってみると、パパとママの様子もどうもおかしい。
じつは化け物の支配する世界に変わっており、のび太の両親も化け物になっているんですが、このへんの描写がものすごく怖くて、私なんかは完全にトラウマになってます。とくにドラえもんはレギュラー放送でさんざん日常を見てますんで、それが侵食されているのを見るのはキツい。
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さて、しかしここでは、のび太とドラえもんは正常なままなわけですね。ジャイアン、スネ夫、しずかちゃんというレギュラーメンバーも正常なままだったはず。「僕たち以外、みんなおかしい」という状況なわけです。
ということで、最後はパターン3です。
パターン3
パターン3:自分自身が幽霊のようになる
ここがこの記事のキモなんですが、やや分かりにくい話でもあります。ひとまず個人的なエピソードを書いてみますが、むかし、肝試しをしたことがあるんですよ。そのときは大勢で行くんじゃなく、仲のいい友達と二人で山にある墓地に行ったんですね。
で、最初は二人で怖い怖いと盛り上がってんですが、途中で、フッと意識の状態が変わり、恐怖のレベルが上がったんですよ。隣にいる友達の存在が疑わしくなってくるんです。
あれ……
隣で歩いてるの、
ちゃんとアイツだよな‥‥?
周囲は暗闇で、最低限の街灯があるだけ。相手の顔はちゃんとは見えないし、自分の身体だってちゃんとは見えていない。歩きながら自分たちの会話だけが耳に入ってくる。しかし暗闇で聞いたとき、友人の笑い声が、なんだか聞き慣れないものに思えてくる。ここまで来れば、次が最後の一歩です。
今喋っているこれは俺の声だよな……?
つまり、自分の声すら、なにか別の人間の声のように聞こえはじめる。パターン1と2では、「自分」というものが安定した状態で「幽霊」を見るわけですが、ここでは、自分という存在そのものが未知の何かになっているように感じられるということです。
文学作品における事例
これも作品で例示してみますが、パターン3は、ジャンルとしてのホラーには該当するものが見つかりにくくなるんですね。どちらかというと、文学作品の一部に見つかる。たとえばフランツ・カフカの『アメリカ』という小説。あるいは、夏目漱石の『坑夫』という小説。
この二つは話の構造が似てまして、どちらも主人公が若い男で、恋愛がらみの問題で家を追い出されて、知らない土地を放浪することになるんですね。しかし、この主人公がどちらも不気味で、いまいち人間らしくない。同時に、放浪しながら出会う人々も、どうも人間らしく描かれていない。結果的に、全編を通して、ずっとぎこちない。
サミュエル・ベケットという作家の『モロイ』という小説は、さらに露骨にこの感覚を扱っています。もはや自分が誰なのか分からない、世界が何なのかも分からない、その状態でほとんど改行もなしに文章が続いていく。
そういえば、夢野久作の『ドグラマグラ』も、「自分が誰なのか分からない」という状態で主人公が目覚めるところで物語が始まりますね。あれも怖い小説だと思いますが、「ホラー小説」としては紹介されないと思います。どちらかといえば「奇書」でしょうか。たぶん、自分自身の根拠まで崩れてくる話になると、ホラーとすら呼びがたい何かになってしまうんですね。
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矢部嵩のホラー小説
古典ばかりになってしまったんで、ひとつ現代の小説を挙げておくと、矢部嵩という作家の『紗央里ちゃんの家』。これは一応、ジャンルとしてのホラー小説に属していると言えます。というのは、日本ホラー小説大賞を取った作品なんですね。
しかし、これがかなり変な小説でして、出来事のレベルで奇妙なことが起こるのと同時に、文章のレベルで非常にギクシャクしているんですね。明らかな悪文ではないんですが、普通の文とは微妙にズレていて、そのぎこちなさによって恐怖を生み出している。
矢部嵩は他の作品でも似た手法を取っており、そこがすごく面白いんですが、普通のホラーを期待すると、ちょっと裏切られるかもしれません。ツッコミ不在のコントみたいなもので、わりと受け手を選ぶんですね。
離人症と幽霊
最後に、前回の内容と絡めて終わります。
前回、「鏡をジーッと見つめていると、自分の顔がゲシュタルト崩壊する」という話を書いたんですが、これなんかも、まさに怖い話のパターン3だと言えます。「自分そのものが未知と化す」という現象です。私が何度か連載で出した「離人症」という言葉も、この状態に関わっています。
面白いのは、離人症の状態に入りこむと、幽霊がとくに怖くなくなるんですよ。どうも、幽霊を怖がるためには、確固とした自己が必要なんじゃないか。日常や常識があるからこそ、非日常や非常識に強く反応できるようなもので。幽霊というのは、世界そのものが未知と化すことを防ぐために、神秘を特定の場所に閉じこめる仕組みなのかもしれません。
ということで、今回は怖い話の三つのパターンについてでした。
それでは、また次回。