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鎮静は悪くない でもそれまでの苦痛に耐えられない 幡野広志さん、安楽死について考える(2)

幡野広志さんインタビュー2回目は、安楽死とよく比較される鎮静について考えを語ります。

昨年末、肺炎で生死の境目を経験した写真家の幡野広志さん(36)。

2017年11月に血液がんの一種、多発性骨髄腫と診断され、余命を宣告されてから安楽死を日本でもできるようにしたいと議論を仕掛けている。

終末期の苦痛から逃れるため、医師が致死量の薬を注射するか、患者が処方してもらった薬を飲んで死期を早める安楽死。それとよく並べられる緩和ケアが、薬で眠らせて苦痛を感じさせなくする「鎮静」だ。

苦痛の緩和が目的の鎮静は、安楽死とは異なるとする立場が主流だが、「社会的な死」だとして、安楽死と同じだと捉える人もいる。

幡野さんは鎮静についてはどう考えているのだろうか。

「鎮静はできる」と言われて でもそれだけでは足りない

ーー肺炎で生死の境を経験された後も、安楽死をしたいという気持ちは変わっていないのですね。鎮静についてはどうお考えですか?

確かに鎮静死というのは、手段としては悪くない。肺炎で入院した時も、お医者さんに、「これはもう本当にやばいとなった時は鎮静はできますか?」と聞いたら、「できますよ」と答えていただいたんです。

でも、がん治療においての鎮静は最後の最後だけに許されるわけです。

その前に、せん妄(意識障害)がありますよね。寝たきりにもなりますよね。おむつになったり、下の世話もあったりしますし、自分で飲むことも食べることもできなくなる。最後は鎮静かもしれないけれど、鎮静になるまでに色々ある。

QOL(生活の質)の低下をどこまで許容できるかということになると、病院で寝たきりになったら、ぼくは人生の重要性をあまり感じないんですよ。

誤解しないでほしいのですがそうなっている人を否定しているわけではないです。ぼくはいろんなところに行って、いろんな人と会って、いろんな写真を撮りたい。そういうことができないんだったら、別に生きていなくてもいいかなと思うんですよ。

ーーうーん。

がんなら1ヶ月前ぐらいから寝たきりになると思いますけれども、だったら、2ヶ月前ぐらいから、動けるうちにスイスに行って安楽死でもいいかなと思うんです。スイスの安楽死(自殺幇助)を行う団体「ライフサークル」というところに会員登録しました。

死生観は人それぞれかなと思うんです。最後まで生きたいという人はそうすればいいし、そうでないという人もやっぱりいる。僕は安楽死の権利を持っているけれども、「そうじゃない。私は最後に鎮静でいいです」という人に、「お前も安楽死しろよ」と言うつもりは全くないです。

「生きる価値」とは何か? 「本人が決めていい」

ーー生きる価値がある状態かどうかは、本人が決めていいと考えているのでしょうか?

QOLのボーダーラインをどこに定めるかということです。

ぼくは1年前にがんで下半身が動かなくなったんですよ。下半身が動かなくなったときに感じたのは、できたことができなくなる恐怖です。

先天的に下半身が動かない人と、健常者として動けていたのに下半身が動かなくなる人とは、苦しみの質が違います。

ぼくの病気は、寛解しようが、いずれ再発していつかまた骨に転移するわけです。もちろん肺炎などの合併症で亡くなる可能性もある。

一度あの恐怖を味わっちゃうと、また同じ苦しみは耐えられない。初めてがんと診断されたときよりも、治して再発した時の方がショックが大きいといいますが。あの気持ちは、ちょっとわかるんです。

1年前は放射線治療をして、さあ生きられますよとなりましたが、もうリーチがかかっている状態です。次、骨への転移が見つかっちゃったら、どうしようもないですよね。

ーーご自身が思い描くQOLを保てないと、生きる価値がなくなるということですか? QOLの基準を組み立て直すことはできないのでしょうか?

別に生きることの価値がないとは言わないけれど、自分の人間性を保てる自信はないですね。

骨へのがんの転移はすごく痛いんです。骨が溶ける痛み、もろくなる痛み。そういう病気だから仕方ないですけれども、痛みって人を変えちゃうんです。普段、僕は怒ったりはしないですが激痛があると、優しさなんて保てないです。

その状態を妻とか子どもには、見せたくない。せん妄の状態も正直そうです。

ぼくも妻も18歳のときにお互いの父親をがんで亡くなっているんですけれども、当時はせん妄というものを知らなかった。

亡くなる前に父が認知症の状態のようになったのでショックでした。自分の父親が、自分を認識できなくなる。妻も同じことを言っています。自分の親がそういう状態になるってショックなんです。

医学的には、認知症とせん妄は全く違うのかもしれませんが、素人目には全く区別はつかない。そういう状態も特に子どもには見せたくない。

家族の気持ちはどうするか?

ーー息子さんの優君にはご自身の病気のことや、お父さんがもしかしたらいなくなってしまうかもしれないということは伝えているのですか?

いまはまだ2歳半なので、説明しても理解できません。あと何年生きるかわからないですけれども、合併症がなければ、ある程度の年数は見込める。

ある程度、言葉のやりとりができるようになったら、早いうちから伝えた方がいいでしょうね。

ーーそれはどうしてですか?

幼少期に親をがんで亡くした方を取材した経験からです。幼少期に親を亡くすという感覚はどういうものなんだろうとすごく知りたくて。それでいろんな方とお会いしたんです。

中学生から小学校低学年ぐらいで亡くした人が多かったですが、共通点はみんな親が死ぬということを知らされていなかったことです。

周囲の大人が子どものためと隠していたようですが、当事者の子どもは教えてもらいたかったとみんないっています。

僕も妻も父親の病状を知りませんでした。家族から戦力外通告というか蚊帳の外というか、そうされていたのを感じます。

ぼくの息子は自分の父親のことなんですから、知る権利はあるでしょう。それを第三者ではなくて、ぼくから直接伝えてあげたいなと思います。

ーーじゃあ、今はお父さんがどうなるかはわからない状態。

まあ体調悪いということはわかっているんじゃないかな。疲れてソファーでぐったりしているときに、心配そうな顔をしています。

ーー最後の姿を見せないのは、息子さんや奥さんを悲しませたくないからとおっしゃっているけれども、それは幡野さんだけの思いではないですか?

僕自身、見せたくない。そもそも痛い思いをしたくないし、苦しみたくないし、助からない延命治療に意味はないと思う。ベースはこれです。

でも家族だってそういうところを見たくないだろうと、自分を納得させるために思い込んでいるのかもしれない。

自分の大切な人や親や配偶者を苦しんだ状態で亡くした方にもたくさん会ってきて、そういう人たちの後悔の度合いは大きい感じがします。逆に、患者の希望を叶えて死なせてあげたという人は比較的納得している。

故人が納得していたから自分も納得できる、ということは感じます。

後悔する人はどうやっても後悔する

ーー先日、NHKで幡野さんのドキュメンタリーを放映した直後、自殺幇助で亡くなった評論家の西部さんのドキュメンタリーが放映されました。ご覧になりましたか?

僕、入院中で消灯時間だったので見られなかったんですよ。

ーー西部さんは希望通り亡くなったわけですが、娘さんと息子さんはなぜああいう死なせ方をしてしまったのだろうと問い続けているという内容でした。

「自裁死」という言い方をされていますが、衝撃的ですよね。

ーー安楽死をして、ご家族が後悔する可能性を考えられたことはありますか?

後悔する人はどうやっても後悔します。西部さんの亡くなり方は、手法や自殺を手伝った人が捕まってしまったことも含めて衝撃的。でも、体が動かない状態であのままずっと生かし続けたとしても、たぶんご家族は後悔するでしょうね。

何をやっても後悔するのですが、それならば、多少納得できる後悔の形を残してあげたほうがいい。西部さんは、どこまで家族と話していたのですか?

ーー「死にたい」と、子どもたちに話している最中でした。でも子どもたちは反対していました。

話して、ある程度納得させることは必要でしょうね。人生会議とかアドバンスケアプランニング(ACP)と言われていますが、話すことは大事ですよ。

ーー幡野さんは、奥さん自身のお気持ちはお聞きになったことはありますか?

妻は、たぶん健康になってほしい、死なないでほしいと思っているでしょう。だけど、ないものねだりをしてもしょうがないです。

ーー奥さんのことを話す時は、たぶん、とか、でしょうという言葉が多くなります。

妻の本音はわからないですよ。他人ですから。夫婦かもしれないですけれど、本当のところはわかんない。逆に言えば、わかったつもりになっちゃうのはおこがましい。

妻だって同じことが言えます。ぼくのことを本当に理解しているのはぼくだけです。

「人生会議」できているのか?

ーー人生会議の必要性が言われていますが、十分できていると思いますか?

僕が治療に何か望みをかけたら、そっちの方に妻も引っ張られるでしょうし。結局は、僕がやりたいことを引っ張っているんだと思いますよ。僕がやりたいことを支援して、反対しない。

がんになってから自分の母親や親族と会っていないんです。できれば死ぬまで会いたくない。妻の親族も、ああしなさい、こうしなさいと押し付けてくることが多いので会いたくない。みんなぼくのためといいつつ、ぼくのやりたいことを否定してベッドに寝かせようとする人ばかり。

親族に苦しめられたのを妻も見ているので、そういうのを避けたいという気持ちもあるんじゃないですか?

ーー「人生会議」は患者の意思を中心に、最終段階にどういう医療やケアを受けたいか、家族や医療者も含めて話し合うわけですが、そういう意味では幡野さんの意思が通っていますね。

人生会議やACPは何の効力もないし、正直なにを言ってるんだという気はしてしまいます。まず、できている人がいないし、医療者は基本的に死ぬ話はしたくない人ばかりだから本質的にできないんですよ。人生会議なんて。

ほとんどの人は病気になって死ぬときの話なんて聞きたくない。配偶者だって子どもだって縁起でもないといい避ける。むしろぼくが家族と食事中に死ぬときの話や安楽死の話をしてますよっていうと、よく驚かれるんです。うちは、家族との人生会議ができています。

それに意識がはっきりしている段階で、人工呼吸器どうしますか? 心臓マッサージどうしますか?という話が医療者とできていることも、ぼくの場合、患者を中心に話し合いはできているんじゃないかと思っています。

医師は「安楽死」について話したがらない

ーー今回、肺炎での入院で、最終的な段階の延命治療は希望しないことや、鎮静ができるということを担当医に確認できたわけですね。安楽死についての希望は、主治医と話しているのですか?

いまは血液腫瘍内科で、化学療法を中心に治療している。それは当然、頑張ってやるべきだとぼくは思います。その先生に安楽死のことはいうことではないと思っています。

緩和ケア医とか看護師さんにはいってもいいかなと思います。

安楽死のことを議論していて、ぼくが心配なのは、医師のやる気がなくなることです。この1年でいろんな医師と話してわかったのですが、みんな優しい人ばかりだし、休日や時間が空いたら勉強しているし、意識が高いですよね。

そういう人たちはみんな、患者さんに治ってほしいと願っています。そこで安楽死を患者さんが望んでいたら、やる気がなくなっちゃうでしょう。それは心配ですね。

ーーSNSでは話せるのに、自分が急変したときの運命を握っているかもしれない医師には安楽死についてなかなか話し合えないものなのですね。

ぼくはお医者さんって安楽死の話は向いていないと思うんですよ。

医師は日常的に職務で死と向き合っていますから、大量のインプットはあるのでしょう。だけど、その死について、昼飯を食っているときに同僚の医者と議論しない。インプットだけでアウトプットがない。

確かにたくさん見ているのだろうけれども、死について考えている人はすごく少ないという印象があります。自分の担当医とは治療のことを話したい。時間も限られていますから。

(続く)

「死を目の前にして、苦しんで死にたくないと思った」 幡野広志さん、安楽死について考える(1)

誰のための、何のための安楽死? 反論や批判にどう答えるか 幡野広志さん、安楽死について考える(3)

「医者たちを焦らせたい」 安楽死なんてしなくてもいい社会に 幡野広志さん、安楽死について考える(4)

生きることも死ぬことも悪いことではない 幡野広志さん、安楽死について考える(5)

幡野広志 写真集の写真展。」が3月10日まで、TOBICHI東京とTOBICHI京都で開かれている。会場では、写真集購入特典「小さい優くんの写真集」も。

【幡野広志(はたの・ひろし)】写真家

1983年、東京生まれ。2004年、日本写真芸術専門学校中退。2010年から広告写真家・高崎勉氏に師事、「海上遺跡」で「Nikon Juna21」受賞。 2011年、独立し結婚する。2012年、エプソンフォトグランプリ入賞。2016年に長男が誕生。2017年多発性骨髄腫を発病し、現在に至る。著書に『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』(PHP研究所 )、初の写真集『写真集』(ほぼ日)。公式ブログ

訂正

西部邁さんのお名前を訂正しました。