死者2千人超の三河地震から80年、江戸から昭和の震災記録で備えを

前島慶太郎
[PR]

 太平洋戦争末期、1945年1月13日に愛知県東部を震源に起きたマグニチュード6.8の「三河地震」から間もなく80年になる。昭和東南海地震から約1カ月後に起きたこの地震で、三河地域を中心に2300人を超える死者が出た。この地震までの200年余の震災を振り返り、歴史をつなぐ企画展が、愛知県の安城市歴史博物館で開かれている。

 「地震と災難―宝永地震から三河地震まで―」は、江戸時代から昭和にかけて東海地方に影響を及ぼした地震を題材に、東海をはじめ関東や近畿の自治体などから集めた約100点に及ぶ古文書や立て札、錦絵、写真などの現物を展示し、当時の被害の実相や、救援や復興の取り組みなどを紹介している。

 取り上げているのは宝永(1707年)、文政京都(1830年)、善光寺(1847年)、安政東海(1854年)、安政南海(同)、安政江戸(1855年)、濃尾(1891年)の各地震や関東大震災(1923年)など。

 大阪の都市部が甚大な被害を受けた宝永地震(1707年)については、大地震があれば必ず津波が襲来することを伝える和歌山県に残る警告板などを展示している。東海地方からも当時多くの参拝客が訪れていた善光寺地震(1847年)に関しては、現在の長野市信更町にある虚空蔵山(現・岩倉山)で大規模な地滑りがあり、近くの犀川の水をせき止めて土砂ダムができて、やがて崩壊して下流に甚大な被害を及ぼした様子を描いた絵などが展示されている。

 また、行政機関などの近代的な災害対応が本格的に始まったとされる濃尾地震(1891年)については、後に首相になる桂太郎が名古屋の陸軍第3師団長として独断で兵を出動させた記録や、発生当時に愛知、岐阜両県の知事が東京での会議で出張中で、遠隔で指示を出していた記録などが展示されている。

 さらに、昭和東南海地震に続いて1945年1月13日に現在の幸田町西尾市などにまたがる深溝断層や横須賀断層で発生した三河地震は、特に幡豆、宝飯、碧海の各郡で大きな被害があり、午前3時半ごろの発生だったために寝ていて家屋の倒壊によって被害に遭う人が多かったという。

 三河地震は戦時下の情報統制で詳細な記録が伏せられた地震の一つとされるが、展示に中心的に携わった同館の三島一信学芸員(61)は「必ずしもそればかりではない。戦争末期の要員不足で記録を残したくても残せなかったり、その年の敗戦や戦後の復興の混乱で忘れ去られたりした面も否めない」と話す。

 三島学芸員は20年前にも三河地震を題材に企画展を開催した。「災害の記録はその地域には伝わっていても、よその地域の人が詳しく知る機会は少ない。また、新たな災害が起きると記憶が上書きされて忘れ去られることが今も昔も多い」と話す。こうした認識を踏まえて「今回はより多くの地震について、発生から復興にいたる経緯を当時の生の資料から知ってもらい、自分たちの備えをどうするか考えるきっかけになれば」と話している。19日まで。

有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません