第11回斎藤環さんがみた「狂気なき天才」の時代 自分探しの終焉と承認欲求

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聞き手・細見卓司
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 野球の大谷翔平選手や将棋の藤井聡太八冠といった、常人の想像を超えた前人未到の道を切りひらいている“天才”の姿に日本中がわいている。特定の分野に愚直に向き合い、それが好きでたまらないという彼らの姿が、いっそう私たちの好感度を高めている。一方で、「天才と狂気は紙一重」という言葉で表現されるような特徴は、かつて天才に欠かせぬものだった。精神科医で批評家の斎藤環さんは「天才が持っているダークサイドに今や人々が興味を失っている」と分析する。天才像の変容について聞いた。

 ――最近の天才を描いた日本ドラマや映画をどうみていますか。

 天才植物学者・牧野富太郎をモデルにした昨年のNHK連続テレビ小説「らんまん」や、魚類学者でタレントのさかなクンの自伝的エッセーを一昨年に映画化した「さかなのこ」が象徴的ですが、とにかく何かが好きでたまらない天才的な主人公を描いていますよね。

 たとえば、19世紀の天才画家・ゴッホの人生はトラウマだらけです。他にも天才的な詩人・宮沢賢治も妹を早くに失うなど、トラウマ的な経験のなかで、激烈な創造性を発揮しています。

 彼らが経験した厳しい逆境を踏まえるなら、最近の作家や制作者たちは天才を“キレイ”に描いているなと思いますが、それはすなわち、今や人々は天才の持つダークサイドに興味がないことの裏返しだと思います。天才のダークサイドを描いても、人々に響かない時代になりつつある。

トラウマ的な経験のなかで、激烈な創造性を発揮してきたかつての天才たち。斎藤環さんは、「今の社会をみると、ダークサイドらしいものが感じられない『現代の天才たち』がいませんか」と投げかけます。斎藤さんが挙げる現代の天才たちには、ある共通する特徴があり、その特徴こそが今の社会の価値観にマッチしているといいます。

 ――どういう意味でしょうか。

 社会という観点から申し上げ…

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