親指がボロボロ

日常で思ったことを書いていく雑記ブログ

醜い自分を見直すとき

大切な人に縁を切られてしまった。

 

原因は自分の『やってもらって当たり前』思考。そしてあの人が自分に対して抱く感情は変わってしまったのに、こちらは前と同じ感情が残っているのではないかという期待を捨てられなかったことだ。

 

去年いま周りにあるものはいつ消えても不思議ではないと知ったのに、過ちを繰り返してしまった。

 

あの人には自分を助ける義理はもはやなかった。なのに、わざわざ自分のために時間と金を使って自分が立ち直る手伝いをしてくれた。

 

それに対して自分はお礼を言うどころか、手伝いのおかげで得られた成果を自分の手柄のように言い張り、あまつさえさらなる要求を出してしまった。絶縁されて当然である。

 

絶縁を言い渡されたあとはしばらく身動きが取れず、ただぼんやりとしていることしかできなかった。

取り返しのつかないことをしてしまった。自分があとどれくらい生きるのか分からないが、今回のことは一生忘れられず、晩年になっても悔やんでいることだろう。

 

絶縁を言い渡されたのは電話越しに、駅のホームに設置されているベンチに座っている時だった。

 

電話を切られたあと一瞬ホームから飛び降りる自分の姿をイメージしたが、思いとどまった。あの人からお前が自殺しようがどうでもいいと言われたのを思い出したからだ。

この結末を生んだのは自分だが、ここで死ぬのは癪だ。

 

そして、今自分が取るべき行動は過去を悔やむことではない。『これからどうするか』だ。

 

両親に電話をかけることにした。帰省時においしいご飯を作ってくれた母親に、空港まで送ってくれた父親に感謝の気持ちをあらためて伝えるためだ。

 

母親が料理を作ってくれるのも、父親が空港まで送ってくれるのは当たり前のことではない。

 

改めて感謝の気持を伝えると、両親は要約すると以下のようなことを言った。

 

「お前が帰ってきてくれるのが嬉しいからこれくらい当然だ。元気な顔を見せてくれてこちらこそありがとう」

 

その言葉を聞いた瞬間、申し訳なくなってきて涙が止まらなくなってしまった。なんでこんな優しい両親のもとに生まれたのに俺はこんなに醜いんだ。

 

仕事でも人間関係でも、不満ばかりつい数えてしまう。自分にも恵まれている要素があるのに自分の思い通りにいかないことがあるとそれらを無視して不幸アピールをしてしまう。クソ野郎だ。

 

気づくのが遅かったかもしれないが、これからは不満ばかり数えず、他人がしてくれた結果にではなくしてくれること自体に感謝を持つようにしようと思う。

 

しかしあの人と関わることはもうないだろう。

自分という存在が人間関係にいることを許してもらえないから。

愛想を尽かされてしまった以上もはや初対面の人よりも遠い存在になってしまったから。

 

仲が良かった頃の記憶を思い出すと、今との対比に、存在しない記憶を植え付けられていたのではないかとすら思えてくる。

 

世界のどこかに存在しているはずなのに、昔は心の内をなんでも話せる間柄だったのに、まだ続くであろう長い人生の中で関わることはない。これから死ぬまで何度も今どこでどうしてるんだろうと考えてしまうことだろう。

 

現実逃避としての読書

去年は喪失の年だった。

 

そのせいか、今日は何を失ってしまうんだろうとつい考えるようになった。なにかを失うことを過剰に恐れてしまう。

 

といっても、過去でなにかあったからといって今に影響があるわけではない。今は今だ。

 

しかし頭では分かっていても、気持ちを切り替えることができない。失ってしまったものに執着し続けて身動きが取れないままだ。

 

帰省してもそんな精神状態だったので、年末年始休暇の間は時間があればひたすら本を読んでいた。読書をしている間は他のことを考えられない。だから現実逃避としてちょうどいいのだ。

 

まとまった休みはなかなか取れないのでたくさんの本を読もうと思ったのだが、結局とある小説の同じ部分を繰り返し読んでいた。

その部分で主人公が作中でする体験は、自分が去年までに経験したことと似ていて、始まり方、終わり方、そして主人公が抱く感情もそっくりなのだ。

 

当然すべてがまるきり同じというわけではないが、なぜかその部分を読んでいると気持ちが不思議と楽になってくる。きっと主人公に対して仲間意識のようなものを抱くからだと思う。

 

そして別の小説では、自分よりも多くのものを手にしている男が自分と同じ苦しみで精神を病んでしまっていた。

皮肉にも、彼は自分を愛してくれる女の子がいることが幸せの全てと思っていたのだが、本当に必要なのはありのままの自分を受け入れることだった、というオチだ。

 

自分も彼と同じように自己肯定感が低い。だから見た目を改善し、ナンパ本を何冊も購入して読み、愛してくれる女の子を手に入れることで自分で自分を認めさせようとしている。

 

しかしそれではだめなのである。自分の価値の基準が自分を愛してくれる女の子ならば、愛想を尽かされるたびに自己肯定感が消滅してしまう。そして毎回耐え難い苦痛を伴うだろう。

 

今自分が『本当に』必要なのは今の自分を認めることだ。きっとその状態になれれば態度にも現れる。他人の評価に怯えないから、落ち着きと余裕が出るようになり、女の子に魅力的に見えるようになるだろう。

 

現実の人間の本音を知るのは難しい。というよりそもそも話してくれない。

しかし小説の登場人物は正直に心境を読者に伝えてくれる。だからこそ、ある意味現実の人間よりも深く繋がれたような感覚を与えてくれる。だから小説を読むのは好きだ。

自己嫌悪と希死念慮の地蔵 3 日目

このままでは孤独死確定である。

 

この現状を打破するには――もう俺にはナンパしか残っていない。

 

というわけで有名な『ぼくは愛を証明しようと思う。』を読み、さらに『究極の男磨き道 ナンパ』と『ナンパが最強のソリューションである』を読む。さらにいくつか Youtube で声掛け動画を視聴して予習は完璧。

服装もきれいめにし、メガネもコンタクトへ。髪型は時間をかけてセットし、メンズメイクをする。BB クリームを塗り、眉を書いてリップも塗った。心のチャラさを上げるために普段はしない指輪を装着する。気持ちも別人のようだ。

 

今のところ 11/24 から休日はすべて街へ出撃している。11/24 は銀座、秋葉原、新宿へ。11/30 も同じく銀座、秋葉原、新宿。そして今日は表参道、原宿、渋谷だ。

しかし――今のところ 1 人にしか声をかけられていない。

 

今日は地蔵を卒業するつもりだった。けやき並木通りを歩いているとちらほら声をかけたくなる女の子がちらほらいる。

 

しかし、動けない。トークやオープナー、声を掛ける際のマインドセットを頭に入れたはずなのに、ゴチャゴチャと自分で自分に言い訳してしまい、結局女の子の前を素通りしてしまう。それを何度も繰り返す。

 

休日の表参道は当然前後左右カップルだらけである。しかも男の方は皆自慢に溢れ、当然自分よりオシャレでかっこいい。

恋愛は奪い合いである。弱けりゃ愛してもらえない。だから自分にできることは手当たり次第に女の子に声をかけて試行回数を増やし、成功体験を積んで自信をつけていくことしかないのだ。

 

なのにもかかわらず、結局けやき並木通りを 2 往復したあと原宿を散策し、渋谷にたどり着くまで一切声掛けができなかった。

そして偶然にも『ライトノベル展 2024』の前に来てしまい、他にやることがあるはずなのに自分に言い訳して結局中に入ってしまった。

 

来場者は自分の仲間みたいな人がやはり多数派ではあるものの、カップルが意外といた。それを見た瞬間、怒りが湧いてきた。

しかし、今自分がさみしく一人でいるのは自分の過去の選択の結果である。カップルに嫉妬するのはお門違いだと分かっているのだが、貴重な時間を使って出撃したのに声掛けもまともにできず、自分に言い訳して『ライトノベル展 2024』に入ってしまう自分の情けなさにイライラが最高潮に達してしまい、前をノロノロ歩くカップルに怒鳴ってしまった。

そして直後自己嫌悪し、自分が世界で一番醜い生き物に思えてきて死にたくなってきてしまった。そこで完全に心が折れ、もうナンパなんでできる気がせず帰ることにした。

 

来週の土日も出撃するつもりだが……正直家に引きこもっていたい。黒髪ロングストレートでしっかりしているようで抜けてるところがあって、平気なように見えて俺としばらく会わないと寂しがるような女の子どこかいませんか?

やはり負けヒロインって言葉が好きじゃない

2018 年頃から小説を書き始め、2019 年からライトノベル新人賞に応募するようになった。

 

残念ながら二次以上に行ったのが過去一度だけという才能なしワナビではあるが、キャラクター――特にヒロインの設定は時間をかけて考えているし、むしろ最初にキャラクターを考えてその後にストーリーを決めていくこともある。小説で一番重要なのはやはりキャラクターだ。

 

新作を書き始めたばかりの頃は、名前とキャラクターが合ってないような、もっとふさわしい名前があるのではないかという感覚の中進めていく。

設定に時間をかけても、いざプロットを書き始めるとキャラクターのことをよく分かっていないことに気づく。

 

しかし工程が進んでいくうちに最初はしっくり来なかったキャラクターの名前も自分が決める以前からその名前だったかのように思えてくるし、キャラクター自身のことも分かってきて、新しくできた友達のことを知っていくのに似たような感覚が湧いてくる。小説を書いていて楽しい瞬間である。

 

自分が普段書いているのは(一応)ライトノベルだが、ジャンルの性質上やはり恋愛要素は必要だ。そして主人公とくっつけるヒロインを誰にするかは最初の方で決めてしまう。

 

基本的に自分は一作書くのに最低半年、長くて一年かけている。それだけ長くいると、キャラクターたちが、特にヒロインたちは活字上の存在以上のものに思えてくる。だからヒロインが恋敗れるシーンは楽しいと同時に申し訳ない気持ちになってくるので、「主人公とくっつけてあげられなくてごめん」と心の中で謝りながら書き進めていく。

 

たしかに恋敗れてしまったヒロインは男をめぐる戦いには負けている。

作者という神に運命を操作されているわけだが、本人視点としては主人公に選んでもらうために全力を尽くしてきたはずだ。

 

アニメ、マンガ、ゲームなどの、いわゆる二次元のキャラクターは実在しない。しかし彼女たちが作中において全力で生きる姿に、現実の人間は心を打たれる。実在はしないが、確かに彼女たちは存在しているのだ。

 

いわゆる「敗北フラグ」が立ちそうな設定だったり、行動をしてしまうことはあっても彼女たちは誰一人同一存在ではない。なのにも関わらず『負けヒロイン』などと一緒くたにして消費してしまう。

 

彼女たちの魅力はいくらでもあるはずだ。なのに、主人公に選んでもらえないというシチュエーションしか見ていないようで、別にそのキャラ自体は好きではないかのように思えてくるのでやはり負けヒロインって言葉が好きじゃない。

理想の幸せを手放すまで「死にたい」と言い続ける

今の気持ちを率直に言葉にするならば「死にたい」だ。

 

年末年始休暇も終盤を迎え、新年序盤に待ち構えている『苦難』という名の自分へ突きつけられた刃の切っ先が向かってきている事実が、希死念慮を強くしてくる。

 

もちろん、このまま黙って串刺しにはなりたくない。しかし苦難を取り除くためには苦労をしなければならず、自分という苦労ができる機械を動かすための燃料がどう考えても足りないのだ。

 

だからもう苦難に立ち向かうなんて面倒なことは諦めて死んでしまうことで「楽になりたい」と思ってしまう。

つまり『死』は手段であって目的ではない。

 

そこでふと思ったのだが、そもそも『楽になる』とは一体どういうことなのだろうか?

別に自分は寝て暮らしたいわけではないし、勉強することは好きで努力も嫌いじゃない。

 

すると再び疑問が生じる。なぜ人は勉強し、努力をするのか。答えは勉強や努力をした先に『幸せ』が待っていると思うからだ。

 

つまり今自分は「楽になりたい」のではなく「楽になろうとしたい」――つまり幸せになりたいと思っている。

 

なのにも関わらず、努力も勉強も放棄して死を選びたいと思ってしまっているのはなぜだろう。

 

おそらく努力の先に幸せがあると思えないのと、幸せへの道が険しいからだと思う。

 

幸せになるのは楽ではない。

ボーっとしていても誰かから与えてもらえるわけではないし、これをすれば、この状態になれば間違いなく幸せになるというものは存在しない。

悩みや不安は生きている限り消えないので、完璧な幸せというのは存在しない。

つまり、「妥協もあったし不安もあるけど今の状態は幸せで、そして今に至るまでに下した決断はベストだった」と信じる意思が必要だ。

 

「俺は不幸せだ〜」とふてくされている状態は楽で、『かわいそうな自分』になれる。ある意味幸せなのかもしれないが、真の幸せではない。

 

自分はこれからどうすればいいのだろう。

少なくとも『かわいそうな自分』はやめなければいけない。そして理想通りではなかったけど、今幸せなんだなと思える状態に至らなければならない。

 

一応は「こうなったら幸せになれるんじゃないかな」というイメージはある。しかし、本当に幸せなのかはわからないし、そこまでの道は徒歩で月に行くまでのように険しい。

つまり幸せになっている自分が想像できない。

 

だから今自分が取れる手段はふたつ。

ひとつめは本当に幸せになれるかはわからないけど、イメージを実現できるよう動くこと。

ふたつめは別の幸せのイメージを考えてみること。

 

ついふたつめを選びたくなる。

しかしそれは課題の先送りでしかないし、それに時間をかけたところで今よりいいイメージが思い浮かぶとは思えない。

だから今の精神状態で理想だと思う幸せのカタチを求めるのが幸せなんだと自分に言い聞かせるしかない。でなければ、ずっと過去に囚われたままだ。

🎅

今日はクリスマス。

 

しかし『当然』何も予定はないので仕事を終えたらまっすぐ帰宅する。今日は普段に増してカップルを意識してしまう。どいつもこいつも幸せそうで癪だ。

 

スーパーに行ったらケーキやチキンが普段に増して陳列されていたが、いつも通り購入したのは野菜とサラダチキンだけだ。負けた気がするのでクリスマスっぽいものは買ったりしない。

 

帰宅したら筋トレして風呂に入って夕飯を食べる。いつも通りの平日だ。

 

食後 X(旧 Twitter)を開いたら入籍した的なポストが流れてきて舌打ちしつつ即ログアウトする。

 

最近昔に戻りたいとばかり考えてしまう。2025 年がやってくることが憂鬱だ。未来に楽しみと思えることがない。

 

前よりアニメも楽しめなくなってしまったし、仕事も来年からめんどくさそうなのが待っている。もうこれ以上年を取りたくない。

 

とりあえず、来年最高の女の子と出会えることを期待して、声掛けしまくろう。

日記 2024/12/21

外出中に公衆トイレに入ったら、外国人のお兄さんが蛇口から水が出なくて困っていた。

多分手をもっと近くに近づければ出るのだろうなと思い、横から蛇口に手を伸ばし、蛇口に手をくっつけたら水が出始めた。

 

お兄さんから thanks so much!! と眩しい笑顔で感謝されたが、お礼を言われるとは思ってなかったので、「お、オッケー」と視線をそらしながら応えることしかできなかった。日頃からアルファオスになりたいなりたい言っているのに、これでは前途多難である。

 

最近は休日も出かけていることがほとんどだ。少し前までは自分の城のように思えていた自宅が、今では牢獄のように思えてくる。一緒にインドアライフを過ごしてくれる女の子がいれば、牢獄ではなくスイートルームになるんだろうなぁ。はあ。