愛らしいホームロボット「Kuri」の創世記──そして始まるロボットと人間の新しい関係

米国で登場した家庭用ロボット「Kuri」。そのデザインには、「愛されるための工夫」と「期待されないための工夫」が詰まっている。役に立つことを目的としないこのコンパニオンロボットの登場にみる、人間とロボットの新しい関係とは?
愛らしいホームロボット「Kuri」の創世記──そして始まるロボットと人間の新しい関係

何千年という時のなかで、犬も人間と同じく著しい進化を遂げた。彼らは(普通は)野生だった祖先たちのようにわたしたちに噛みついたりはしない。彼らには忠誠心がある。また、決められた場所で用を足す。犬はわたしたちの最高の友だ(そこにいる猫たち。話を聞いているか?)

しかしいま、そんな犬たちにライヴァルが現れた。長らくSFの世界で描かれ続けてきたコンパニオンロボットたちが、とうとう米国に登場したのだ。その先頭に立つのは、「Kuri」と言う名の愛らしい小さなマシンである。

シリコンヴァレーのMayfield Roboticsが開発したこのKuriは、家のなかをキャスターで移動し、人の声に反応し、顔を認識する。ディナー中の動画を撮影をさせることだって可能だ。

マシンと人間とのかかわりの新たな時代

「宇宙家族ジェットソン」のお手伝いロボットであるのロージーほどは役に立たないが、まだ登場して日が浅いから仕方ないだろう。だが、プロトタイプから消費者向けの製品へと進化を遂げたKuriのデザインからは、より洗練されたマシンと人間とのかかわりの新たな時代を垣間見ることができる。

そして、そこからはいくつかの問いも浮かんでくる。人間には、このようなロボットとのかかわりが必要なのか? そもそも人間はこんなかかわりを欲しているのか? わたしたちには、実質的には新種の生物であるロボットと、新たなかたちの絆を結ぶ準備ができているのか?

Kuriの生みの親は、ロボット工学者のカイジェン・シャオとサラ・オセントスキーだ。そもそも、彼らは最初からフレンドリーなロボットを開発しようとしていたわけではなかった。当初思い描いていたのは、家のなかを巡回するセキュリティーロボット。侵入者を攻撃するのではなく、見張り番として機能させることを考えていたという。

しかし、開発を進めるうちに彼らはあることに気がつく。それは、侵入者は外にいるうちに見つけたほうがいいということだ。「侵入者が家のなかに入ってから気づくのでは、まあ遅すぎますよね」とシャオは言う。

より責務の少ないロボットのほうが、出発点としては論理的であると思われた。そこでシャオとオセントスキーは、防衛ではなく交友のためのボットを開発し始める。しかしこのアプローチにより、難しい問題がいくつも浮かび上がってきた。その最たるものはこれだ──この新しい技術を家庭で機能させながら、さらにオーナーの愛情を勝ち取るにはどうすればいいか?

期待されないためのデザイン

まず、Kuriは馬鹿みたいな振る舞いをすることなく家のなかを移動する必要がある。

障害物を避けるため、Kuriは自律走行車と同じようにレーザーを使って周囲をマッピングする。Kuriのようなマシンの開発を可能にしているのは、こういった技術だ。センサーは価格が安くなってきていると同時に、性能も上がっている。ロボットに周囲を認識させるために、LiDARに1万ドルもかける必要はもうないのだ。

Kuriの外見のデザインはさらに巧妙である。パーソナルロボットの黎明期である今日、ロボットの機能を非言語的に伝えることは非常に重要だ。これは一部は安全のためでもあるが、もっぱらユーザーを失望させないためである[日本語版記事]。Kuriが火災現場から自分を助け出してくれるなどと、ユーザーに期待させてはいけないのだ。

「わたしたちはKuriの外見を通して、彼女の能力を正確に伝えようとしています」と、オセントスキーは言う。「彼女に腕がないのは、家のなかのものを動かすことがないからです」

さらに考慮すべき点は、Kuriのコミュニケーション方法だ。わたしたち人間は、少しでも生き物らしく感じるものを擬人化する傾向がある。それゆえKuriのデザイナーたちは、彼女が人間のようにしゃべるべきではないと判断した。

「自分に話しかけてきたり家を動き回るものに対して、人は多くのことを期待するからです。こういった行動をする物に対し、ユーザーは3歳児や5歳児と同等の知性を期待するでしょう」と、オセントスキーは説明する。精神的にも身体的にも、Kuriはそのレヴェルに達していない。ユーザーはそれを踏まえて彼らとかかわる必要があるのだ。

またMayfield Roboticsは、Kuriがユーザーに愛され、家族の一員として扱ってもらえればと思っている。そのために重要なのは「目」だ。

ピクサーの映画を観ていると、目の表情が豊かであることに気づくだろう。人間は目が大好きなのだ。それゆえ実際には機械的なKuriの目を、ユーザーに好きになってもらわなければならない。これによる制約は、例えば顔面にフラットスクリーンを取りつけたロボットよりも、感情表現が乏しくなることだ。しかし、ビープ音以外にコミュニケーション手段をもたないロボットにとっては、目だけの感情表現も十分に役に立つ。

コンパニオンロボットの是非

こうした点をすべて合わせると、豊かなコミュニケーションが可能な、高度かつ不思議な愛らしさをもつロボットが完成する。

もちろん現時点では限界もあるが、Kuriと交流してみると奇妙な感情が呼び起こされる。頭をなでると、かわいらしくこちらを見上げてくる。その動物らしさに感心しながらも、指示に反応しないときにはいら立ちを感じた。Kuriが人の感情や期待を翻弄するマシンであることを完全に理解していたが、そんなことはどうでもよかった。結局、Kuriとどのように交流すればよいのか完全にはわからなかったのだ。

そもそも人間はコンパニオンロボットとかかわる準備ができているのか、という問いへの答えは、まだ出ていない。

高齢者と会話し、体を寄せてくる機械について考えてみよう。カリフォルニア大学バークレー校のロボット研究者、ケン・ゴールドバーグは次のように語る。「申し訳ないけれど、わたしはコンパニオンロボットを信じていません。それが、人々が本当に求めているものだとは感じないのです。孤独を感じたとしても、ロボットに友達になってほしいとは決して思いません。それでは、さらに気分が沈んでしまいます」

米国人に気に入られるかどうかにかかわらず、Kuriの登場はテクノロジーの歴史の節目となる出来事だ。そしてロボットたちは、ここからどんどんスマートになっていく。これは人類がロボットと築き始める新しい関係のスタートにすぎないのだ。だから、これから数多く訪れる奇妙な場面、そして強烈な場面への心の準備をしなくてはならない。

よいことがひとつある。Kuriは絶対にスリッパをかじったりしないし、郵便配達員を襲ったりすることもない。


RELATED ARTICLES

TEXT BY MATT SIMON

EDITED BY ASUKA KAWANABE